夫と妻の距離

@daichishizuko

第1話

携帯電話の着信振動が、ズボンのポケットから微かな音と共に、腿に伝わって来る。職務中の私用電話は禁止されていたが、茂には電源を切れない理由があった。

今朝、一歳三ヶ月になる娘の良美がベッドで「ママ、ママ」と愚図っている。妻の芙紗子が、覗きに行った。すぐに戻ると、

「良美は眠かったのね、おねんねしましょうと言ったら、また寝てしまったわ」

 そう言って何時ものように自分の役割分担の朝食作りを始めると、また愚図りだした。茂は芙紗子の背中に視線を向けるが、聞こえないのか何の反応もない。何時も寝起きのいい良美なのだ。何となく違和感を持ち、良美を覗きに行くと手を翳した。抱きあげると、熱っぽかった。茂も身体がかったるく、九月に入ったというのに、夏日と何ら変わらぬ蒸し暑い湿った空気が漂っている。そのせいだろうと思って、深くは考えなかった。リビングに連れて来ると、良美は身体を反らせ、幾つかの言葉を話せるようになった一つに「ママ、ママ」とはっきり言って芙紗子にしがみ付く。そのママから離れない良美を、芙紗子が、

「今日はパパと一緒にね。おりこうさんだから、良美ちゃんは!」

と言うと、茂の腕に渡された。

状況把握も出来ぬまま、茂は良美を抱きかかえていた。すると、芙紗子は傍らにある保育園に持って行く着替えが入った手提げ袋を持ち上げ「忘れずに持っていってね」と念を押しながら、茂の指に絡ませる。なにが始まるのだ、茂はただ戸惑っていた。

袋が良美のお尻の下で茂と同じ様に戸惑っているのか、ぶらぶら揺れている。

勿論共働きだから、役割分担はある。朝食の後片付けと、真夜中、洗濯機の中で撹拌された洗濯物を畳むのが茂。保育園の送り迎えは芙紗子。この日程表は芙紗子が二人の許容時間の中で行動出来得ることを念頭に置いて作成したものだと言う。

同じサクラデパートに勤める五歳姉さん女房の芙紗子は、第二外商部課長。茂は同じ課の係長だった。結婚と同時に人事課から転属の辞令が下りた。第二外商部に属するが、地下の食品売り場のチーフになった。辞令を幾度も眺め、読み返しながら、これは降格に等しいと思うと、耐え難い屈辱に気力がぷっつりと切れた。気持の整理がつかず、宙をさ迷うようにぽぉっと遠くを眺めていると、茂の胸中を察した芙紗子が、それとなく部下を誘導する様に外商部から室外に連れ出されて、

「自棄は起こさないで。そのうち移動があるわ。茂の能力は誰もが認めているから、その時期は直ぐに来ると思うの」と言った。

自棄を起こすなということは、降格されたことを芙紗子も認めているのだ。女房に言われることほど屈辱を味わうものがあるだろうか。ますます腹立たしさを感じると腕の筋肉がわなわなとしてくる。拳を作り芙紗子を投げ飛ばしたい衝動に駆られ、芙紗子を見詰めると、甘えるような顔をつくってそれとなく指を絡ませギュッと握りしめてきた。

茂は、その冷静な芙紗子を見て、その腹の据わり方に気持ちが萎えてくる。一件落着と矛を収められたようだった。

その諸々のギャプを埋めようと考えた茂は、出勤時、保育園に良美を送っていく芙紗子との別々の時間帯を、意識しながら調整し、芙紗子と駅のホームでかち合うようにする。  

東京の西に当るベッドタウンの街K市から快速で十分ほどの中都市にある勤務地までの数十分が、二人の安らぎの時間になるように心掛けたのだ。朝の通勤帯はすしづめ状態の電車だが、デパートの始業時間は一般企業とちょっと違っている。開店は十時だが、地下営業部は、第一グループが八時、第二グルーフルは十時十五分前と定められている。茂は芙紗子と同じ第二グループだ。まれにだが途中駅から座れることがある。茂と芙紗子は休日も異なり、唯一一緒にいられる貴重な時間なのだ。特別に話すこともないが、茂はその時間を大切にしている。取り留めのない話が、夫婦の絆を育んでいると茂は思っている。芙紗子も何となく若々しさをかもし出しているのは、この時が俺だけの彼女でいようとしているからに違いない。その芙紗子が、一方的に、

「今日は早朝会議があって抜けられないのよ。食品イベンの秋の行事、毎年のように駅弁だけの催しでは頭打ちなの。何かひとつ加えようと思って、今から計画しても遅いぐらいなの。お歳暮前の催しは大変なのを知っているでしょう。だから手を抜けないわ。何かあったら貴方、お願いね。保育園の保母先生には貴方の携帯電話を教えておいて…」

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