明日僕らは大人になるから

春木ミツキ

第1話 青春のやり直し

 私、大学卒業したら、カズ君と結婚するんだ。

 2月の終わり、昼下がりのイタリアンレストランは混み合っていて、他の客の話し声が会話の邪魔だった。それでも、ハルのその一言だけは、不思議なほどはっきりと頭の中に響いた。

 すっと前から、いつかはそうなるだろう、と予想していたのに、いざその報告を受けてみると、どうも感情の整理がつかない。どんな反応をしたらいいのかも分からなくて、僕はとりあえず「おめでとう、ずいぶん早いね」とだけ返した。

「ありがとう」テーブルの向いに座るハルとカズが同時にそう言った。タイミングが重なって照れ臭かったのか、二人はお互いに顔を見合わせて、はにかんで笑った。

「私もカズ君も就職が決まって、将来を考えた時に、早めに結婚しておいた方がお互いのためになるかな、と思ったんだよね」

「運良く、どっちも東京勤務だし」ピザを口に運びながら、カズが付け加えた。「最初は二人とも金がないじゃん?だったら早いとこ結婚して、生活費を浮かしちゃおうかなって」

 そう言いながら、カズはピザから垂れ落ちるチーズを食べようとして悪戦苦闘している。

「あちっ!マジで熱いよこれ!今ぜってー舌が火傷になったよ」

 いつものオーバーリアクションで痛がるカズに、隣でハルが「何やってんの」と笑いながら声を掛ける。大学1年生の頃から何度も見てきた何気ない光景だが、そんなことにさえいちいち嫉妬している自分が、心の中に確かにいる。

「こんなこと言うのはちょっと恥ずかしいんだけど」ハルは前置きした。「ヒノッチは私とカズ君の親友だからさ、真っ先に報告することにしたんだ」

「そうそう、俺に親友認定されるなんて光栄なことだぜ?ヒノッチ」カズが芝居がかった口調で言う。カズは時々、こんな風にあからさまな上から目線で発言して笑いをとるのだが、演劇サークルで主演を務めていたカズは小芝居もやたらと上手くて、それがちょっと腹立たしい。

「ありがとう、親友って言われると嬉しいよ」

 そう言いながら僕は苦笑いした。

 苦笑いの原因は二つある。

 一つ目の原因は、カズのいつもの小芝居があまりにも馬鹿馬鹿しかったこと。

 二つ目の原因は、僕はハルの「親友」でしかない、ということだ。

 高山晴たかやまはる本城和人ほんじょうかずと日野原陽一ひのはらよういち。僕ら3人は、自他共に認める親友同士だ。それは間違いない。ハルとカズとは、大学に入学してすぐ、フランス語の授業で一緒になって以来の付き合いだ。4年間の大学生活の中で、僕らは何度もこの店に来たし、何度も僕の家で飲み会をやったし、何度もくだらない話で盛り上がった。3人で好きなバンドのライブに行ったこともあるし、一緒に旅行したことだってある。

 人付き合いが苦手で、友達もあまり多くない僕だけど、ハルとカズはそんな僕の数少ない親友だと、本気で思っている。

 同時に、ハルとカズの関係が、心の底から羨ましく、時には恨めしく感じる。

 ストライクゾーンど真ん中、160キロのストレート。それが初めてハルに出会ったときの印象だ。思春期真っ只中の中学生みたいに、恥ずかしいくらいに一目惚れしてしまった。あの日から、何気ない帰り道がやけにきらきらして見えた。大して興味のない授業も、ハルがいるというだけで楽しく感じた。

 僕ら3人は親友同士だ。それは否定しようがない事実だ。

 でも、僕はハルの親友以上の存在になりたかった。そして、その座を射止めたのが僕ではなくカズであるという現実を、僕は未だに受け止めきれない。

 あと1ヶ月で大学生活が終わる。

 出会ってからの4年間、僕は「いい人」の枠から抜け出せなかったんだな。

 そう考えると、もうどうしようもないほど胸が苦しくて、じっとしていることすら難しくなって、しまいには涙が出そうになる。


 ハル・カズと別れた後、僕は一人、高円寺の街をぶらついた。

 この街に引っ越してきたのは大学3年生の時だ。バンド活動をやっているうちに、この近辺のスタジオやライブハウスによく通うようになった。この街を歩いていると、僕の同類がたくさん歩いていて、何だか落ち着く。現実とうまく折り合いをつけられないまま、夢ばかり追ってふらついている、自分みたいな人間が集まっている。

 古着屋を何軒か覗いた後、ふと時計を見ると、夜7時になっていた。

 一人で馬鹿みたいに酒を飲みたいな、と思った。

 おしゃれとは無縁の、安さが売りの飲み屋に入る。カウンターに通されて、おしぼりとお通しをもらう。一杯目はとりあえず生ビールの中ジョッキにしよう。

 今夜の酒は、ヤケ酒以外の何物でもなかった。親友の結婚なんだから素直に祝えばいいのに、と頭では分かっているのだが、ここへ来てもなお、ハルへの未練がなかなか引っ込んでくれない。

 どうして、俺じゃなくてカズが選ばれたんだ?

 本の趣味だって、好きなバンドだって、服装や食べ物の好みだって、カズより俺の方が一致しているじゃないか。

 大学2年の頃、一緒に金沢に旅行した時、ハルは本当に楽しそうで、いつも以上に輝いていた。あの時俺が組んだプランは、ハルの好みにぴったりだったじゃないか。

 花火大会の帰り道、ハルは「ヒノッチみたいな人、結構タイプなんだよね」って言ってくれたよな?あれは一体、何だったっていうんだ?

 頭の中で次から次へと疑問が浮かんでくる。感情がほとばしるのを止められない。もう酒でごまかさないとやっていられなくて、気付けば既に5杯以上も飲んでいた。

 もう一度、最初からやり直したい。ハルを振り返らせるためなら、何だってする。

「『もう一度、やり直したい』って顔してるね。辛いことでもあったのかい?」

 突然話しかけられて、びくっとした。いつの間にか隣の席に知らない男が座っていた。ジーンズに革ジャン姿で、男の割に長めの髪はパーマがかかっている。おっさんのようにも学生のようにも見える、年齢不詳の顔立ちだった。もう相当飲んでいるのか顔が赤い。さっきの声は、どうやら彼のものらしかった。

「何で分かるんですか」誰だか知らないその男に、僕は訊き返した。この際もう、相手がどんな人なのかはどうでもよかった。胸の内を全部吐き出せればそれでいい。

「多いんだよね、君みたいな人。高円寺の飲み屋では特に」男は煙草をふかしながら言った。「君も一本吸う?」

「あ、どうも」僕は煙草とライターを借りた。最近は禁煙していたが、今日ぐらいは吸ったって許されるだろう。

「生まれつきの体質なのかな、人生を後悔してる奴ってのは見たら分かるんだ。そういう人の話を、気が済むまで聴いてあげるのが俺の日課」

「何ですかそれ」俺は苦笑いした。「確かにありがたいんですけど、ちょっとこう、悪趣味ですね」

「悪趣味かあ。そんなこと言われると、おじさん、ちょっと凹んじゃうなあ」

 ま、ここで出会ったのも何かの縁だ、今夜は飲もうぜ。そう言って彼は焼酎ロックを2杯注文した。

「ろくでもない人生に乾杯!」

 ろくでなしにしか見えない彼とグラスを交わし、癖の強い焼酎を喉に流し込む。頭がぐわんぐわんしてきたが、気分はすっかりハイになっていた。

 ろくでなし同士、何でも話せる気がしてきた。ハルとカズのこと、出会い、これまでの学生生活、大学2年の終わりに二人が付き合い始めたこと、それを側で眺め続けるだけだった自分のこと、そして二人が結婚すること。僕は洗いざらい喋った。

 男は――彼は時生ときおと名乗った――、時にうなずきながら、時に励ましながら、飽きもせずに最後まで聴いてくれた。時生さんと飲む酒が、いつしかしょっぱい味に変わっていることに気付いた。僕の涙の味だった。

「あんまりだよなあ。お前は偉いよ、よく頑張ったよ」そう励ます時生さんの目も潤んでいた。

「何もかも一からやり直せたら、自分があの子の隣にいられるかもしれない、って考えちゃうんですよ。無理なのは分かってるんですけど」

 こんなこと、言っても仕方ないよな、と思いながら、僕は本音を吐き出した。

 ただのないものねだり。そう思っていた。

 だから、その直後に時生さんが言ったことも、その時は本気にしていなかった。

「じゃあ、ほんとにやり直してみる?」

「やり直すって、そんな、もうどうしようもないじゃないですか」

「そんなことはないよ。君みたいな人にチャンスをあげるのが、おじさんの仕事なんだから」

「仕事?」

「そう、仕事」さっきまで泣きそうだった時生さんは、急に誇らしげな顔になった。「俺が時を巻き戻すんだよ。時生だけにね」

「あなた正気ですか」

「まあ、信じるかどうかは君次第だよ。酔っ払いのうわ言だと思って聞き流して貰っても構わない」

 時生さんは何本目かの煙草を吹かした後、まっすぐに僕の目を見た。

「ただ、一つ言わせてくれ。俺は本気で君を救いたい」

 そこから先のことは思い出せない。僕が飲みすぎて酔いつぶれてしまったからだ。


 気が付いたのは朝の9時だった。二日酔いで最悪の目覚めだ。ぼうっとしたままの頭が回り始めて数分後、ここがいつもの自宅でないことに気付く。

 時生さんの部屋に泊めてもらったんだろうか、申し訳ないことをしたな、と思って起き上がり、その数秒後に血の気が引くほど驚いた。

 この部屋には見覚えがある。当然だ。1

 まさか、と思い、壁を見渡す。僕がかつて掛けていたのとまったく同じ場所に、カレンダーが掛かっていた。

 これは夢なのか?そう疑わずにはいられなかった。古典的な漫画みたいに自分の頬をつねってみる。痛い。じゃあこれは現実なのか?

 カレンダーに書かれているのは、ちょうど4年前の4月の日付だった。

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