第一章 願い人たち
第1話
――だれかに呼ばれる声がする。わたしの名前を、呼ぶ声が。
それはひどく懐かしいような、だけど生まれて初めて聞くような、なのに泣きたくなるような。直接頭に、鼓膜に、心臓に。ふかく響く、不思議な声だった。だから目を覚まさなければと思った。
重たい瞼を押し上げると、すぐ目の前に男の子の顔があった。
「──よかった、うらら…! なかなか目を覚まさないから、すごく、心配した…!」
言葉と共にそっと自分の顔に添えられた、あたたかくて大きな手の平。あまりにも自然なその動作に、うららには戸惑う間もなかった。ただ黙ってその動作を受け入れる。
頭がボーっとして、思考がまとまらない。
そんなうららを置いて、目の前の男の子は続ける。
「どこか怪我はない?」
「……え…っと」
「はい、メガネ。割れてなくてよかった。うららには大事なものだもんね」
「…え、あ、の……」
「どうしたの? 気分わるい?」
うららは条件反射のように差し出されたメガネを受け取りそれをのろのろとかけながらも、言葉は上手く形にならず零れるだけで。
その反応の悪さに目の前の綺麗な顔がずい、と近付く。とても整った、だけど少し幼さの残る甘い顔立ち。名前を呼ぶその声すら、甘い響きを孕んでいる気がした。
少し戸惑いながら、うららは漸くそれを言葉にした。
「あなた、だれ…?」
風が強く、吹いていた。
風に乗って薫るのは、遠い昔に嗅ぎ慣れたような草花の匂い、土の香り。懐かしさに胸が締め付けられるのに、今はすべてがどこか遠く。
それよりもうららには今自分のこの現状が分からないという不安が胸を占めていた。濃い霧がかかったように、頭が上手く働かない。ただ疑問が口をつく。
「ここは……どこ…?」
震える視線の先に広がっているは、緑の地平線。自分はさっきまで学校に居たはずだ。
「…僕のこと、分からないの?」
そっとうららを覗き込む少年の、少し毛先にクセのある髪が揺れ、綺麗な青い瞳に自分が映る。そこに映っているのは、紛れも無く自分。自分が誰なのかは、きちんと分かる。でも。
目の前で自分の名前を呼ぶこの人が一体誰なのか、まったく分からない。
「気が動転してるのかな…大丈夫、大丈夫だよ、うらら。とりあえずケガがなくて、本当に良かった」
微笑んでそう言った彼は、どこか寂しそうな顔を見せながらもやさしくうららの手をとった。まるでいつもそうしているように、ごく自然な動作で。
彼に触れられることに何の警戒も抵抗も無いことに一番驚いたのはうらら自身だった。うららは極度の人見知りで、人と触れ合うことに慣れていなかった。
だけど彼がうららに触れた、その瞬間。
「──…っ」
胸が、疼いた。
それは吸い込んだ酸素と共に全身に向かいながら、まるで条件反射みたいにうららの体から力が抜けていくのを感じる。それと同時に自分の中を、満たすのを。
――そうだ、これは…この温もりはいつもすぐ身近にあって、わたしにとって大切な温もり。なにより、確かなもの。どうして、忘れたりしていたの…?
泣き叫びそうな心臓がそれを伝えた。胸のずっとずっと奥が、熱を放つようにあつくなるのを感じる。
そしてうららは、その手が知るその名前を口にしていた。
「……そ、ら…」
不思議な感覚だった。記憶を辿ってもその姿は思い出せないのに、それは自然とうららの内から、口から零れた名前。湧き出た感情。
「……ソラ」
もう一度確かめるように呟いたうららに、目の前の綺麗な顔が本当に嬉しそうに、安心したように、微笑んだ。
「そうだよ、うらら。僕たちは、幼馴染み。ずっと、一緒に育った」
「おさななじみ…」
そう言われても、やはり未だはっきりとはしない。頭に靄がかかったように思考の邪魔をする。
戸惑いを隠せないうららに、ソラは続ける。
「今の状況がなんなのかは、僕もよくわからないんだ。…ただ、僕らはさっきまで学校の図書室にいた。そしてうららが絵本を開いた瞬間、光が溢れて…僕は慌てて、うららの手を掴んだんだ。そして気づいたら、ここにいた」
握ったうららの手を離さずに、ソラはなるべくゆっくりと言葉を紡ぐ。
うららにその瞬間の記憶はなかったけれど、とにかくここが図書室でも学校でもないことだけは、確かだった。
「これはあくまで、僕の憶測なんだけど…」
困ったような苦笑いを浮かべ、どこか言いにくそうにソラが視線をぐるりと見渡す。つられるようにうららもそれに倣った。
緑溢れる小高い丘。視線の向こうには森も見える。柔らかい空気と雰囲気は、うららにとってやっぱりどこか懐かしく感じた。
「ここは、絵本の中なんじゃないかと、思う」
ソラの口から出てきた言葉に、うららは思わずきょとんと目の前のソラを見つめる。
――…絵本の…なか?
なんだか現実味のないその言葉に思わず呆けるうららに、ソラがやはり苦笑いを深くする。きっとそれは、口にしたソラ自身もわかっていたのだろう。
その時だった。
「──冗談じゃねぇ」
突然ふってきた声は、うららのものでもソラのものでもなく。
反射的に視線を向けたその先に、3つの人影がゆらりと動いた。
「そんな夢みたいなこと、あってたまるかよ」
真っ先に目につくのは、日の光に輝く金色の髪。そしてその隙間から覗く鋭い目。その雰囲気だけで、気圧されそうなほどだった。
――一体、誰──
「だけどどうやら全員、状況は同じようだな」
その後ろからは、溜め息と共にメガネを押し上げながら黒髪の少年が現れる。ひどく不機嫌そうにうららとソラを見やり、すぐに視線を外してまた溜め息を吐いた。
「状況、というのは…」
「ここにいる、経緯」
見知らぬ存在の突然の介入に戸惑いながらもソラが零した言葉に、最後に現れた少年が盛大にあくびをしながら気だるげに答えた。
クセのある栗色の髪が、ふわふわと歩く度に揺れている。ゆるりとした足取りでうらら達の目の前を通り過ぎたと思ったら、すぐに近くの木の幹に腰を下ろした。
「俺たちもある絵本に触れた瞬間、光に呑み込まれて…気がついたらここにいた」
うららとソラを見下ろしながらメガネをかけた少年が心底不本意そうに言い、再びを溜め息を漏らす。
「その、絵本て…」
思わず口にしたのはうららで、3人がそれぞれ視線の端で目配せする。
それからメガネの少年がその視線をうららに向け口を開いた瞬間、別の声がそれを遮った。
「『オズの魔法使い』」
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