Kitina
文子夕夏
忌まれた耳
第1話
何処までも広がっているのではと思える程、青々とした草原と――。
遠くに見える、頂きに雪を被った山脈だけであった。
私は自ら命を絶ったはず……。
手元の睡眠薬を探す、見当たらない。
すぐ傍で焚いた練炭を探す、臭いも燃えカスも無い。
親不孝者として、両親へ最期に遺してやれるはずの遺書、跡形も無い……。
負のオーラを放つそれらの代わりなのか、小さな彼女好みの花が一輪、目の前で風に吹かれていた。
ブルッ、と身体を震わせる。亜季は裸であった。
もしかすると、ここは天国? それとも地獄かしら?
おそらくは地獄だろう、と彼女は思う。
生前、彼女は「彼氏を誑かした」と噂に激昂する友人に虐められていた。
顔立ちの良かった亜季は、同じ大学の男子学生から人気があったが……引っ込み思案の彼女にとって、どんな理由であれ注目されるのは苦痛であった。
しかし虐めはエスカレートしていき、挙句の果てには万引きを強制されて警察沙汰になった。
父は怒り、母は泣き、担当教員は未来など無いと彼女を蔑んだ。
弁の立たない彼女の訴えは全て――認められる事が無かった。
人生に希望を見出せなくなった亜季は果たして、愚かで確実な逃亡を選んだのである。
ドス、と思い切りに地面を殴る亜季。
やり場の無い元友人への怨嗟が、彼女のたおやかな手を拳へと変えた。
悔やみきれぬ程に膨らんだ、両親への罪悪感が拳に力を送り込む。
保身の為にあっさりと自分を切り捨てた担当教員への怒りが、何度も地面を打つよう指示を出した。
敵を叩く訳でも無く、ただ大地を殴るだけ。
死してなお、彼女は未だに敗北者であった。
ふと――小さな花に目をやった。
その花の近くには何も咲いていない。
ただぽつんと、しかし確かな生命力を振りまきながら根を張り、花弁を開いている。
この花は孤独だ。誰にも見られていないのに……それでも咲いている。
風雨に打たれ、虫に取り付かれ、獣に踏まれても……この花は生きていくのだろう。
亜季は小さな花から「生命あるものの在り方」を教えられた気がした。
同時に――最早手遅れであるとため息を吐いた。
亜季には生前、密やかな夢があった。
私が一番好きな人と恋に落ち、幸せな家庭を持ってみたい。
簡潔に言ってしまえば、彼女の夢は「ごく普通の花嫁」であった。
それを実現出来る人は、実はそんなにいないのでは……と、亜季は命を絶つ数か月前から考えていた。
大学で見掛ける男性は何処か子供っぽく、街を歩けば徒に髪を伸ばした軟派な男で溢れ返っている。
彼女にとっての世界は、大学やせいぜいが街でしかなかったが……。
それでも「どうせ他の大学や街にも、似たようなのがいるだけ」と落胆していた。
この世界にいる限り、私は一番好きな人に出会う事など到底出来ない。
それこそ、別の世界に行くでもしなければ……。
亜季を襲う虐めが苛烈さを増す頃、別の世界へ思いを馳せる時間は日々長くなっていった。
彼女の自決は、勿論虐めが一番の理由であったが――。
その影には「別の世界で理想の人を探したい」といった、無謀な夢が隠れている事を、彼女は遺書に記さなかった。
両親が遺書を読み、娘の頭がおかしくなっていたと嘆く事の無いように……と気遣った結果だった。
花を見つめている内に、自然と亜季は笑みを湛えていた。
確かに貰った教訓を実践するには遅過ぎるが、来世にもし生まれ変わることが出来たのなら……それを胸に留めよう。
亜季はあえて楽天的に物事を考える事で、自身が犯した罪から身を隠そうとしたのであった。
その時――ファサ、ファサと後ろから草が擦れ合う音が聞こえてきた。
背後に人や獣の気配は無い。
亜季は眉をひそめながら振り返ると、あり得ない物体がそこにあった。
大きく、そして柔らかそうな金色の毛に包まれた尻尾が、自らの腰部から生えていたのである。
彼女は硬直した。
しばらく経ち、今度は自身の鈍感さに呆れた。
なぜあるはずの無い尻尾が生えている事を、今更になって気付いたのか?
あまりにも鈍過ぎるでしょう――。
大きな尻尾も亜季の心とリンクしているのか……何となく、小さく萎れたようだった。
しばらく眺めている内に、段々とその異質な存在にも慣れてきた亜季は、尻尾にそっと触れた。
柔らかく、それでいて温かった。
死んだはずの身体には無い、はっきりとした命の脈動を、異質な尻尾は発しているのだった。
亜季は直感した。
根拠、理由や証拠も無く……曖昧だが、妙な確信を彼女は得ていた。
私は、何らかの理由で生まれ変わり、別の世界に来ている……?
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