妹がいる日常 ー生活習慣改善日記ー
虹色
第1話兄と妹
私の名前は山野巧(やまの たくみ)。
嫁なし、彼女なしの寂しい独身男。現在28歳。
化学系の技術職として、町の中小企業に勤めている。
自宅と会社の往復が、私の日常。待ってくれる人も、ペットでさえもいない。寂しい毎日。
刺激が欲しい。
人生に彩を加えるような刺激が。
今日も、そんな寂しい毎日の一欠片なのだろうと思った。
「お帰りなさい。今日は早かったね」
誰もいないはずの自室から、出迎えの声がした。
長い黒髪が印象的な、おとなしそうな女性――
「久しぶり、兄さん。お邪魔してるわ」
妹が出迎えてくれた。義理でもなんでもない。実の妹が。
妹は私を出迎えると、てきぱきとした動きでお茶を入れた。この乱雑な部屋で良く動けるなと感心した。
妹は――山野緋香里(やまの ひかり)は、この部屋に来たことはなかったはずだ。引っ越し先の住所も教えて覚えはなかった。二年前、高校の卒業祝いにディナーをプレゼントしてやったとき以来か。
どうやってここまで来たのだろうか。
当然の疑問が頭に浮かぶ。
「久しぶりだな。元気にしてたか?」
部屋への侵入方法は確認なんて野暮なことは聞かなかった。疑問は頭の中にしまっておく。聞いても、意味がないことがわかっていたから。
「元気では――ないかな。ぼちぼちだよ」
「そうか」
「兄さんは元気してた? 顔色、あんま良くないけど」
「そう見えるか? 確かに、私も元気じゃないかもな。ぼちぼちだ」
「少し老けたね」
妹は微笑みながら言った。
「けど、そんな疲れた顔してちゃ、人生楽しめないよ」
「かもな」
私は苦笑した。
確かに、最近楽しいと思ったことがない気がする。
自宅と職場の往復ばかりで、楽しみどころか刺激がない。
今、久しぶりに妹と会えたことがある意味刺激的ではあるが。
「兄さん、大丈夫?」
「全然元気。超元気!」
妹の前で虚勢を張ってみる。……溜め息をつかれた。
「嘘つかないの。この部屋の惨状を見れば、まともな生活を送れていないの、まるわかりだよ」
確かに、その通りだった。最近、仕事が佳境で家事を疎かにしていた。キッチンもリビングも荒れ放題。世紀末の様相を呈していた。そんな中、自然な動きでお茶を淹れた我が妹の対応力というのは評価すべきなのかもしれないな。
「私が兄さんの生活をサポートしてあげる」
「え、何で?」
「できる妹ができない兄を助けるのは当然でしょ」
自信に満ちた顔で妹は言う。二年も見ないうちに、随分変わったな。
昔の彼女は、引っ込みがちで、臆病で――こんなに笑う女の子じゃなかった。何が彼女を変えたのだろう。いつか、タイミングがあったら尋ねてみよう。
「とりあえずは、この部屋の掃除からはじめましょうか」
腕まくりをして妹は言った。
妹の動きは素早かった。
迷いのない動作で汚れとゴミを排除していく。
「兄さん、掃除はスピードと勢いが大事なんだよ」
妹は作業の手を緩めない。迷いなく捨てていく。
雑誌、レシート、ペットボトル、期限切れのクーポン券、etc.
みるみる部屋が片付いていく。
「ほら、ぼさっとしない。兄さんも働く、働くっ!」
そう言って、洗濯物の山を渡された。
私は無言で妹の指示に従った。
「ほらっ、綺麗になった」
満足そうに妹は言う。部屋は劇的にきれいになった。心なしか輝いて見える。
「これで、誰が来ても恥ずかしくないね」
「確かにな。ありがとう、助かったよ」
「お礼を言うのはまだ早いよ。仕上げをしなきゃ」
そう言うと妹は、私のポケットからするりと携帯を抜き取った。手慣れた動きでカメラを起動させると、部屋中をぱしゃぱしゃと撮り始めた。
「よし、完了」
一通り、撮り終えると妹は携帯を返した。
「毎週、これと同じ角度で写真とってね。そうしたら、兄さんでも簡単に整えられると思うから」
「なるほど」
妹の提案に、私は素直に感心した。
いつかまとめてやろうと思っていたから、私の部屋はここまで荒れ果ててしまったのだ。だが、定期的に振り返る習慣をつければ、この惨状になる前に歯止めをかけられる。それに、写真にとることで、どの程度汚れているのかすぐ分かる。写真は嘘をつかないから。
「私がいなくなってちゃんと続けるんだよ」
「わかった、続けるよ」
「まぁ、すぐには消えないけどね。当分はここで居候させてもらうよ」
「好きにしろよ。掃除の礼だ。好きなだけ泊まっていくといい」
「ではお言葉に甘えて」
そう言い、妹は布団を用意する。見覚えのない、ピンクの布団が現れた。どうやら、自前でもってきたらしい。住み込む気満々であった。自分の生活環境を整えるために、掃除をしたのかもしれない。これは一杯食わされたか。少しみないうちに、小賢しくもなったな。
「兄さん」
「どうした?」
神妙な顔つきで、妹は言う。綺麗に整った部屋で、改まって言う。
「人生、生きているうちに楽しまないと損だよ」
「緋香里に言われると、説得力があるな」
「でしょー」
妹は笑った。
私は笑えなかった。
そう、私の妹は二年前に死んでいるのだから。
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