秘密のデート
それからの毎日は浮ついていた。居酒屋で飲んでいる時に、彼女を元気付けるために、食事に行こうと誘っていた。何処に誘おうか、いつがいいか。そんな事ばかり考えて、仕事にならない。俺は彼女を元気付けるのではなく、自分が元気になっている事に気づく。
思えば、ここのところ人生が上手く行っていなかった。妻との喧嘩は増える一方だし、前回の喧嘩の時は一ヶ月近く口をきかなかった。息子と釣りにも行かなくなった。仕事は、まあ、昔から暇だ。
彼女と二人きりで会う二回目の場所は、電車を二十分ほど乗った、下町にあるイタリア料理店である。なぜ下町でイタリア料理なのか、となるかもしれないが、最近の下町は洒落ているのである。もやは下町の風情は一部を残してほとんどない。
早めに着いた俺は待ち合わせ場所に向かう。するともう彼女はそこにいた。そしてナンパされていた。俺が現れると、ナンパしていた男はすぐに行ってしまったが、やはり彼女は誰から見ても輝いて見えるのだろう。ただそうは言っても、俺たちはもうナンパとか、そんな事に関わる年齢ではない。やっぱり彼女は凄いなと思った。そんな彼女と二人で食事に行かれる俺は幸せ者だ。なぜこの幸せを捨てる奴がいるのか、とも思った。
店は駅から近かった。窓際の席に案内され、メニューを渡された。
アンティパスト、プリモ・ピアット、セコンド・ピアットを決めて、ドルチェは後で頼む事にした。そしてワインリストから、ワインの選択肢を考えた。彼女が注文した肉料理がジビエなので、バローロが良いだろう。
料理が来るまで、ワインを楽しんだ。
「今日は誘ってくれてありがとう」
「こっちこそ、来てくれてありがとう。茜とこういう店で食事出来るなんて嬉しいよ」
「私も裕一と一緒に食事出来て嬉しいよ」
「本当にそう思ってる?」冗談っぽく聞いたが、本当は前に座っているのはシンヤの方が良かったんじゃないか、と少しシンヤに嫉妬した。
「本当だよ。裕一の事好きだし」好きという表現は難しい。言った方の解釈と聞いた方の解釈が食い違うとろくな事がない。まあでも、嫌いじゃない事は分かる。
最初の皿が運ばれてきて、俺たちの会話は一旦止まる。料理の説明を受けて、それからプリモ・ピアットを食べ始める。食べながらの会話は幸福感で満たされる。
「これ美味しいね。この店はいつも来てるの?」
「いや、初めてだよ。ここに店があるのは知ってて、一度来てみたかったんだ」
「いつもこういうところで食事してるんだ」この言葉には、彼女の嫉妬が込められているような気がしたので、俺はこう答えた。
「いや、ぜんぜん。居酒屋チェーン店で飲んでる」実際そうである。仕事の帰りに仲間と飲みに行くのはそんな店である。
「でもね、行ってみたい店はたくさんあるんだ。一緒に行って欲しいな」
「私が一緒でいいの?」
「もちろん。茜と一緒に行きたい」
なぜか分からないが、女性と話すのが苦手な俺が、先日から彼女に対しては言葉が溢れ出す。素直に何でも言えるし、話したい事がたくさんある。
人生でこんな事があっただろうか。妻にだって隠したい事があるのに、彼女に対してはまったくそういった気持ちがないのである。全てをさらけ出して話したい。話し続けたい。俺の中に生まれたこの初めての感覚。俺はとても不思議な、言葉では言い表せない、幸福感に似た、しかし単なる幸福感とも違った何かを身体に感じている。
食事が終わり、ドルチェを注文した。エスプレッソを飲んで、全ての食事が終了した。まだまだ話し足りない。しかし時間である。名残惜しい気持ちを残し、レストランを出た。
二十分電車に揺られ、駅から歩いて、彼女を送ることにした。
電車の中でも、歩きながらでも俺たちの会話は止まらない。彼女の家が近づいて来て、もう会話は終わりの時間であるにもかかわらず、俺たちの会話は永遠に続くかのごとく終わりが見えない。
「裕一ってさ、ずっとこの街に住んでるんでしょ」
「嫌いだけど、住んでるよ」
「嫌いなの?」
「正確には嫌いだった。何度もここを出ようと思ったけど、結局出られなかった。でもさ、だからこそ、みんなと繋がっていられたし、クラス会でみんなに連絡が取れたのは、ここにずっといたからだと思う。なんかさ、この大嫌いな故郷にずっといた事が、報われた気がしたんだ。それに、茜とまた会えた。そして今こうしてる。だから今は、大好きな故郷だよ。この街にいてよかった」
「私も同じ気持ち。この街にいてよかった。裕一とまた会えてよかった」
俺たちは強く抱き合いながらキスをした。
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