32.みてみて

 私は強めのかまってちゃんです。自分のしたことに反応をもらいたくて仕方ないのです。「みてみておかあさん」から抜け出せていないのです。

 なぜなのかと考えたとき、いつも頭に浮かぶことがあります。私はほんとうに「みてみておかあさん」を満足にしてきたんだろうか。


 小学3年生前後だったと思いますが、それはそれはもう大事にしていたジェニーちゃん人形を持っていました。みつあみをしていた子で、それを一筋たりとも乱したくなかったのでほんとうに大切に扱っていました。

 ある日、帰宅すると、わたしのジェニーちゃんのみつあみは無残にほどかれていました。遊びに来ていた母の友人の子供がわたしのジェニーちゃんで遊んでいて、無邪気にそれをほどいたのでした。

 それがどれだけショックで悲しかったかわかってもらえるでしょうか。

 あんなにきれいだったみつあみが、ゆるいウェーブに変わっているのです。それも他人の手で。

 私はどれだけか怒ろうかと思いましたが、誰も悪くない、と気づいてしまったのです。遊びに来たわたしより小さな子供にわたしのおもちゃを貸した母親に悪気があったはずもないし、その子供も当然悪気なんかありません。わたしがどれだけ大事に思ってたか知らないんだから。

 私は怒りませんでした。誰も悪くなかったからです。

 でも大人になってから思うと、怒ってよかったと思うのです。10歳くらいの子供なんだから、大事にしていたおもちゃを壊されて泣きもせず怒りもせず我慢なんかしなくてよかったと思うのです。

 でもどうしてあのとき、誰も悪くないのだから、と諦めたかというと、母に怒られるからです。だって母に悪気はないのだから、母にとって怒られるのは責められることで理不尽なことだからです。そういう人だったのです。少なくともわたしの中の母親像はそうでした。

 何かがわたしの身に起こったとき、「みてみておかあさん」は無条件で出来ることではありませんでした。「おかあさん」が笑うことでなければいけませんでした。


 別にすべてを母のせいにしようというわけではありません。でもジェニーちゃん人形のことはいつまでも忘れられないし、これからもきっと死ぬまで忘れないだろうし、私の人格形成に強い影響を与えたとは思うのです。

 子供のうちに満たされなかった「みてみておかあさん」がいつまでもわたしの中に残っているのかな、とふと思ったりしています。

 今でも何かすると誰かに見てほしいし、反応がほしくてたまらないです。けれども誰も「おかあさん」ではないのだから反応がなくても別に普通のことなのだ、というところまで理解は及んでいます。理解しています。

 でもときどきわたしの「みてみて」は暴走します。暴走したって意味はないのにしてしまうのです。すごいね、えらいね、つらかったね。なんでもいいのです。怒らずにかまってほしいのです。そういうときはインナーチャイルドちゃんが泣いているときなのです。


 なので定期的に暴走しますがついったーのみなさんは適度にかまってくれたり、優しく放っておいてくれたり、ありがたい限りです。

 最近はやったことのないことをやってみたばかりなので、「みてみて」が激しいですがご容赦ください。インナーチャイルドちゃんが泣いているだけですので。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る