第8話 逃亡

 モノレールがゆるやかなカーブにそって走る。

 ビルとビルの間をぬうように進むモノレールの中、俺はドアの横でぼんやり外の景色を眺めていた。

 今までに来たことがない町だ。

 白い建物が集まっていて、空の青さとの対比がきれいだ。

 建物の奥にはきらきらと太陽の光を受けて光る真っ青な海が見えた。

 前に八神と海に行ったことがあったのを思い出したが、ろくにいい思い出ではなかったので思い出すのを中断する。

 そして、向かいの席に座っている連れに目を向けた。

 八神はごきげんなのか、足を前にのばして席に座って意味のわからない歌をハミングしていた。

 最終駅だからか、土曜なのに乗っている客は意外と少なく、俺と八神のほかに三人ぐらいしかいない。

「おい。これからどこに行くんだ?」

「もう少しで着くよ! あっ、ほら」

 八神が言ったとたんに、到着駅のアナウンスがして八神が立ち上がった。

 駅に降りると、駅に隣接している建物も白いことがわかった。

 八神は迷いもせずにその隣接した建物に入っていく。

 ふと、入り口に「学会発表会 11:00~」と書いてある看板が目に付いた。

 八神に何の説明も受けないまま、数百人分の席の並ぶホールに入る。

 席にはスーツ姿の男たちが座っていて、半分以上は埋まっていた。

 壇上がよく見える席に八神がさっさと座る。

「これは何なんだよ? 俺に会いたい人って誰だ?」 

「これが終わらないと会えないの。だからこの学会発表を柿沼くんと見ようかと思って」

「終わってから来ればよかったじゃねぇか!」

「だって、お兄ちゃんが出るんだもん」

「お兄ちゃん?」

 聞き返した瞬間にあたりが真っ暗になった。

 発表会が始まったらしい。

 この発表会、終わるのにどれくらいかかるんだろうと俺は思った。

 壇上には一人の研究者が上がってきて、どこで区切れるのかわからない長文を延々と語り、正面にあるスクリーンにはオオカナダモような緑の植物を写していた。 

 最初の数秒で話についていけなくなり、話を聞くのも面倒になった。

 ずらずらと読み上げるような発表より、学校の授業の方がましに思えた。

(俺に会いたいっていうのは誰なんだろう。)

 この時点で俺は半分寝ていた。

 しばらくして、

「んん?」

 左腕に違和感を感じて目をあけると、八神が俺の腕をつついていた。

「次、お兄ちゃんだよ」

 前を見ると、真っ白な白衣を着た男が壇上にあがってくるところだった。

「次は、再生科学研究所、細胞研究、八神弘樹(やがみ ひろき)氏です」

 客席に向かって立つと赤いネクタイをしめているのが見えた。

 黒縁めがねをかけている、二十代くらいの男だ。他の研究者たちが六十代前後の中、八神の兄は子供が混じっているみたいに異質に見える。

 八神弘樹は会場全体を見回すとマイクをつかんだ。

「おーい、寝てるやつ、起きろ。僕の発表、聞いてなかったら後で細胞一億個サンプルにもらうからね。よろしくー」

 俺の隣に座っていた男がガバッとはねあがる気配がした。どうやら今まで寝ていたらしい。

 冗談なのか本気なのかよくわからない脅しめいた発言。

 八神に似ている。こいつが八神の兄なのか。

「人間の細胞の数は六十兆個以上あるというよね。寿命の短い細胞は……」

 そこからまた眠くなるような細胞の話が始まり、何度か寝そうになったが、始めに細胞一億個もらうと言うのを聞いていたからか完全に眠ることはなかった。

 それでも、八神弘樹の発表が終わってからしばらくしてまた睡魔におそわれて気がつけば俺は寝ていた。

 座っている椅子もふかふかしていて寝心地がよかった。

 昼寝にはちょうどいいくらい寝た後に、急にまわりが騒がしくなってきた。

「八神、八神」と前も後ろも斜めもうるさいのだ。

 うなって目をあけると、知らないスーツの男たちが群がっているのが見えた。さっき学会発表を見ていた研究者たちだろうとすぐに思いつく。 

「な、なんだ!?」

 びっくりして左隣にいるはずの八神を見ると、八神は静かにニコニコしたまま座っている。

「八神さーん!」

「八神くん、研究についての話を聞かせてくれ!」

 研究者たちは熱心に俺と八神の周りに集まって呼びかける。

 どうなってるんだ、と俺は右隣を見た。

 驚いた。

 隣にさっきまで壇上にいたはずの八神弘樹が座っていた。

「君とゆっくり話がしたいと思ったんだけどここじゃ無理そうだね」

 八神弘樹は俺を見てのんびりとそう言って首のネクタイをゆるめる仕草をした。

 この男が俺に会いたがっていたという人物らしい。

「どこか静かな場所に移動したいねぇ。どこがいいか。僕の家に来る? A子が夕食作ってくれるよ」

「やめておく」

 八神の料理なんか食べられるわけがない。

「細胞の実験について聞きたいのですがっ!」

 熱く尋ねる研究者を完全シャットアウトして八神弘樹は俺と八神しか見ない。

「じゃあ、外で食事しようか。二人とも、なに食べたい?」

「肉!」と八神が手をまっすぐのばして発言した。

「俺はなんでも」

「それなら、ぼくの行きつけのお店でいいねぇ。……はいはい、研究者さんらは、質問はメールかファックスで送ってねー。ぼくも忙しいから」

 八神弘樹が立ち上がり、俺と八神はその後についていった。

 残念そうにしながらも、さざ波のように研究者たちが引いていくのがわかった。

「やっほー、タクシー!」

 会場を出てすぐに八神弘樹は道路脇で手を挙げて黒いタクシーを止める。

 八神弘樹と八神がそれぞれ、助手席と後部座席に入り込むと、俺も仕方なく八神の隣に入った。

「じゃあ、駅前のしゃぶしゃぶ落葉まで」

「はい」

 運転手が答えて、カーナビのあたりを少しいじると、すぐにタクシーは発進する。

 しばらく沈黙が流れた。   

「もしかして、行きつけのお店ってしゃぶしゃぶなのか」

 俺は気になったことを聞いた。 

「うん」

 と前の席から返事が来た。

「肉の色がかわるのをじーっと見ながら食べるのおもしろいじゃん」

「そうっすか」

 また沈黙が流れた。

 男一人でしゃぶしゃぶかよ。

 やっぱり八神の兄だというだけあって、変人だとわかった。

 それから数分して、しゃぶしゃぶの店についた。

 そこは特に高級店というわけでもなくよく見かけるようなしゃぶしゃぶのチェーン店だった。

 店の中に入ると、赤黒二色の四人掛けの椅子に通された。

「おっ、八神さんじゃないですか、いつもので?」

 店員は八神弘樹を知っていた。

「うん、いつもの!」

 注文は短かった。

 八神弘樹は本当に常連客だったらしい。

 店員はすぐに戻ってくると、設置されていた台の上の鍋にだし汁を注いで鍋に火をつけた。

 それから、また肉や野菜が運ばれてきた。

 そういえば、俺はしゃぶしゃぶを食べるのは初めてだ。

「どうやって食べるんだ、これ」

「えっ初めてー?」

 向かいに座っている八神弘樹が驚いて俺を見る。

「ま、まぁ」

「肉をぐつぐつの鍋に入れて煮て食べるんだよ。おなかすいたから野菜どさどさ入れるよ」

「肉も入れまーす」

 八神と八神弘樹が鍋の中に肉と野菜を全部詰め込むように入れた。兄弟だけに二人とも手際がいい。

 ぐつぐつ煮え立つ鍋の中を無言で三人がのぞいた。

「先に食べていいよ」

 八神弘樹にそう言われた俺は遠慮なく肉を鍋から拾って

ごまだれに煮えた肉をつけて食べてみた。

「う、うめぇ」

 文句言いようがないうまさだった。

 久しぶりにうまいものを食べて感動した。

「よかったぁ。それが聞きたかったんだよね。僕たちも食べよう、A子」

 兄に言われずとも八神は箸で肉をつついていた。

 八神がとるのは全部、肉だ。

 自分の分がなくなりそうなので、八神弘樹は焦って自分の肉を皿に確保した。 

 俺も八神に肉を全部持って行かれる前に野菜の横につぶれていた肉をすくい上げた。

 しばらくの間、無言の攻防が続いた。

 鍋から肉がなくなると、八神弘樹がまた新しい肉を注文してくれた。

「ついつい鍋をつつくのに熱中しちゃうよね」

 鍋の向こう側から、八神弘樹に笑いかけられて、俺はただうなずいた。

「そうか、そうか。きみがA子の生きる理由かぁ。柿沼くんが見つかってよかったね、A子」

「うんっ」

 どういう意味だろうと俺は口を開きかけた。

 そのとき、ちょうど次の新しい肉が運ばれてきて、目の前に積まれる肉の山を見てなにも言えなくなった。

 そして、聞こうとしてたことも腹が満足していく度に忘れていった。 

 それだけ肉がうまかった。

「ごちそうさん」

 八神に最後の肉をとられたかわりに、鍋に残ってただよっていた野菜のかけらを食べた俺は箸を置いた。

 その時、何かうっと呼吸が詰まるような異変を感じた。

 気のせいじゃなく、目の前が白くもやがかかったように見えなくなる。

 そしてそのまま急速に意識が遠のいていった。



 一時間もたたないうちに、俺は目が覚めた。

 薄暗い物がほとんど置いてない部屋にいて、俺は座った覚えのない椅子に座っていた。

 起き上がろうとしたが自由に動けない。手足をしばられている。

 俺はもっと気をつけなけりゃならなかった。

 八神が危ないなら、その兄貴も危ないかもしれないと。八神A子に油断するといつもこうなるんだから。

 顔を上げると、目の前の椅子に八神弘樹が足を組んで座っているのが見えた。

 ライトが八神弘樹の上にあるらしく、八神弘樹のいるところだけが明るく照らされている。

 八神弘樹が上半身を少し動かして、持っていたカルテをボールペンでコツコツ叩いた。

「きみの頭につけているのは嘘発見機だ。これからぼくの設問に「はい」「いいえ」で答えてもらう。ただし、嘘をつくか、答えないと電流が流れるからね」

「な、なんだそりゃ!」

 頭が重いと思っていたら、頭に装置がつけられていたらしい。

 触ってみると、金属の固くて冷たい感触がした。

 本当に電気が流れそうだった。

「冗談じゃないよ。試しに流してみようか」

 八神弘樹が軽い口調でそう言った。

 次の瞬間、俺は絶叫していた。

 一瞬だったが、頭からつま先まで電気が伝わってきた。

「それと、もし期待してたら悪いんだけど、A子は助けに来ないよ。隣の部屋に監禁してるからね。あいつは君のことになると目の色を変えて何でもしでかしちゃうから。じゃあ、質問スタート。イエスかノーで答えてね」

 何を聞かれるんだろう。

 俺はそう思って身構えていた。

「きみの生まれは××市だ」

「い、イエス」

 思っていたよりもまともな質問でよかったと胸をなでおろす。

 だが、質問は始まったばかりだから油断できない。

「きみの出身小学校は××小学校だ」

「イエス」

「二年生の時の担任は浅間先生」

「イエス」

 質問の内容範囲が狭くなっていく。

 それと同時に俺はこの質問内容を不信に思い始めた。

 じわじわと心臓の方から不信の色が広がっている。 

 それから質問は思わぬ方向に動いた。

「じゃあ次は小学二年生の時同じクラスだった女の子について」

 変な質問だ。

 この時には、不信の色はのどまで達していた。

「あずさっていう子を知ってるね?」

 八神弘樹は的を射たとばかりに目に強い光を宿していた。

 本当に聞きたかった質問にようやく入り込んだらしい。

 俺は知ってると言いかけて「イエス」と答えた。

 二年生の時にあずさという女子とよく遊んでいた記憶はある。

 だが、なぜ八神弘樹はあずさのことを聞くのだろう。

 正体のわからない不安がおそってくる。

「おまえはあずさを知ってるのか?」

 聞くと、とたんに八神弘樹は無表情になった。

「今、質問できるのは僕だけだよ」

 冷たい声に俺は目を覚ました。

 八神弘樹の握っている電流装置に目がいく。

 今、主導権を持ってるのは八神弘樹だ。

「きみとあずさは仲がよかった。そして、きみとあずさはたった二人だけの実験クラブに入っていた」

 実験クラブという言葉の響きに、懐かしい子供の時の記憶が揺り動かされる。

 だが、それは数少ない人間しか知らないはずだ。

「どうして知ってるんだ?」

 思わず声に出した。

 俺は八神弘樹が何かを知ってるんじゃないかという予感がした。いやな予感だ。

 さらに問いただそうとしたその時。

「お兄ちゃんってば、ひどいなぁ」

 緊迫感にかけたマイペースな声が出口のない四角い部屋に小さく侵入してきた。

 首をめぐらしても、八神の姿はない。

 どこから声が聞こえるんだろう。

「わかってるくせにわかってるくせに、ひどいなぁ」

 壁に小さな穴があいている。

 そこから誰かがのぞいている。

 それが誰かなんて決まっている。

 八神A子しかいない。

 ぴしぴしと壁に亀裂が入って穴を広げていく。

「A子!」

 八神弘樹が叫んだ。

 あいた穴から次第に肌色の五本の指が入ってきた。

 指が壁をがっしりとつかむ。

 と、爆発するような大きな音がして、壁に丸い大きな穴が開き、その先に立つ八神の姿が見えた。

「柿沼くんを返して」

 八神が片手に持っていた薬品の最後の一滴が落ちる。

「だめだよ。まだ質問がたくさん残ってる」

「お兄ちゃんの研究なんてどうでもいいもん」

 俺の目の前まで八神がやってきて俺の体についている拘束具をはずし始めた。

 以外と簡単にとれるものだったらしく、八神は手際よく全部をはずす。

「A子。柿沼くんに質問を続けさせてくれ。すぐに終わるよ」

「やだ。あたし、柿沼くんと出ていく」

「戻りなさい!」

「やだ。柿沼くんと行く」

 すぐ後ろまで追いかけてきた八神弘樹を振り向いたA子は手にメスを持っていた。

 そして、そのメスのとがった先は八神弘樹に向けられていて、それからそのメスはまっすぐに八神弘樹の腹部にずぶりと突き刺さった。

 じんわりと白い白衣に鮮やかな赤が広がっていく。

「じゃあ行こうか、柿沼くん」

 八神に引っ張られても、俺は返事ができなかった。

 床にうずくまる八神弘樹の姿が目に入った。

「逃げよう」

 いつものような調子で八神は答え、その指で緊急用のボタンを押した。 

 サイレンが鳴り、ガチャガチャと気だるそうに鉄の扉が開く。

「お、おまえ、こんな滅茶苦茶やっていいのかよ!」

「いいの。ここにあるのは全部いらないの」

 八神は振り返らずに答えを返した。

 こいつは迷ってない。

 まっすぐに一つの選択をしたんだ。

 俺は八神に引っ張られたまま、扉の外に出た。

 窓がない暗い廊下がずっと続いている。

 ふと、八神が足を止めた。

「どこに行くんですの、八神さん」

 前に倉利B子が立ちふさがっていた。

 学校の制服を着ていて、ぎゅっと豊満な胸を抱き合わせるように腕を組んでいた。

 強く腕を握る指は何かを恐れて強がっているようにも見える。

「あたしが行きたいところに行くの」

 八神は普段通りに笑う。

「弘樹さんがおっしゃってたでしょう。あなたはここにいなくちゃだめですのよ。ところで、弘樹さんは」

 そこで、倉利の顔色がさっと変わった。

「弘樹さん!?」

 倉利が高い声で叫んで八神弘樹の方へ駆けていく。

 サイレンにかぶって倉利の悲鳴が聞こえた。

 炎に包まれていた時に上げた声よりもずっと高い悲鳴だった。

「行こうか」

 八神が言って俺は我に返る。

 その時、少し先にぼんやりとした白い影をまとって立っている知ってる顔を見つけた。

 担任の数学教師の安東だった。今は八神弘樹のような白衣を着ている。

 向こうも一瞬俺に気がついた。だが、気がつかなかったように横を通り、八神弘樹のいる方へ走っていった。

「あいつ、安東もここの関係者だったのか」

「うん。あたしの研究を監視するために学校にいたんだよ」

「八神の研究?」

「学校も先生がいるから危ないね」

「っていうか、なんで俺が逃げなきゃならねぇんだよ」

「研究所の人に捕まったらもう研究所から出してもらえないよ。あたし、柿沼くんといられないなら死ぬつもりだから」

「は? どういう意味だよ」

「逃げないと捕まっちゃうよ。離れないでね」

 ぎゅっと八神が俺の腕をつかむ。

 何にもできない俺の腕を。

 振り払おうと思えばできたはずだった。

 だけど、俺はもう八神から離れられなくなっていた。


「どこに行くんだ」

 十分以上、八神と一緒に無言で走り続けてから俺がようやく聞いた。

 知らない土地で、現在地がまったくわからない。

「見つかっちゃうから隠れないとね」

「隠れるったってどこにだよ?」

 横にある道路には車が行き交っている。

 人目につかない場所なんてあるのか疑問だ。

「いいところ、知ってるの」

 そう言って八神は俺の手をつかんだまま、森の中へ入り出した。

 夜の森は暗すぎて足下がどうなってるのかわからない。

 地面はぼこぼこしていて、草だらけでとにかく歩きにくかった。

 八神は何も恐れる物はないといった風で、ずんずんと奥に進んでいく。

 暗いのに行き先が見えているみたいにまっすぐ歩いていく。 

 足下に何かがいるような気がして息苦しくなってきたところで、ようやく電灯のある明るいところに出た。

 そこは行き止まりだった。

 フェンスが張り巡らされていて、周りに空き缶やたばこが山のように落ちている。

「ここだよ」

 雑草の茂るフェンスを指さして八神が言った。

 フェンスの向こうにはひび割れた古い人気のない建物があった。

 よく見れば、見覚えのある場所だと気づいて思わず声が出る。

「ここ、第一小じゃねぇか!」

 俺の通っていた小学校だった。

 懐かしいとかいうよりも、まだあったのかというのが感想だった。

 数年前に廃校になって、取り壊されるという話を聞いてた。もうとっくになくなっているものだと思っていた。

 子供の声もなく静まりかえった校舎は不気味なホラースポットになっていた。

 幽霊の一人や二人いてもおかしくはない。

 暗い窓の奥に誰かが立ってるような気がして、首筋が寒くなる。

「マジでここに入るのかよ…」

 隣をみると、八神はフェンスをのぼっていた。

 上る靴の上を見えると、スカートの中身が見えそうになってて俺は顔をそむけた。

 八神は俺が後ろを向いているうちに一番上までのぼりきって、フェンスの向こう側に……落ちた。

 ボキッと不吉な音がした。

「八神!? おい、大丈夫か!?」

 返事がない。

 これはヤバい。

 俺はフェンスに手をかけるとよじ登って、フェンスの反対側に降りた。

「どうしたんだよ、八神……」

 だが、そこには八神はいなかった。

「いったいどこに……?」

 とつぶやいた瞬間、後ろから何かに思いっきり抱きつかれた。 

 自分のものとは思えない悲鳴が上がった。

「ねっ、びっくりした?」

 横を見ると、にっこりとほほえむ八神がいた。

「あったりまえだろ! おまえ、何ふざけてんだよ!」

 八神は俺に抱きついたまま体重を預ける。

「足の骨が折れちゃったみたい。動けなくなっちゃった」

「マジかよ……。とりあえず落ち着けるところを探して休もうぜ。ここじゃまずい」

 フェンスの向こうは森だが、落ち着かない雰囲気がある。

 やりたくないけど仕方がない。

 俺は八神を背中におぶって校舎に移動することにした。

 ポケットに入っていたケータイの光で校舎を照らす。

 窓はどこも真っ黒で閉まっている。

 どこも鍵は閉まってるだろう。

 その時、八神が指で俺の肩をトントンとつついた。

「あそこの扉から入れるよ」

 昇降口の扉を指さして八神が言う。

 そこで昇降口に移動した。

 八神はどこからか小さな小瓶を取り出して、その中身の液体を昇降口にかかっている鍵にかけた。

 シューと音がして金属がみるみるうちに赤い光になって溶けていった。

「まだ熱いからもう少しして黒くなってから触ってみてね」

 赤い光が消えると鍵は地面に溶け落ちて、扉は簡単に開くことができた。

 ぎぃいいいとさびた金属の轟音がした。

 八神と中に入ると、用心深く扉を閉める。

 扉を完全に閉めると真っ暗になったので、ケータイの明かりをまた点ける。

 げた箱の前にある、すのことマットを踏む感覚があってから一階の廊下に出た。

 右と左どっちに行こうかと少し迷う。

「理科室に行こうよ。人体模型さんがいるかも」

 八神が提案した。

「人が多い方が落ち着くでしょ?」

「多ければいいわけじゃない。しかも、人体模型は人のうちに入らない」

「……ふーん、そうかぁ」

 八神は俺の話が気に食わなかったのか、それから口を閉ざしてしまった。

 校舎の中は何かが潜んでいそうで不気味すぎた。

 明かりがあれば少しは落ち着くのに、廃校になって校舎の電気はすべて使えなくなっている。

「じゃあ、あそこに行こうよ」

 八神は校舎の真ん中に凸凹に空いている空間を指さした。校舎のくぼみ。

 俺はその場所を見て、

「わかった」と答えた。

 見覚えのある場所だった。

 その空間に出るためにはまた一つ鍵を壊さなければならなかった。

 鍵が溶け落ちると、俺は扉を蹴りあけた。

 その空間は屋根がないので、上を見上げればまた夜空が見えた。

 小さな庭ともいえる場所で、下は地面で雑草がしげっていて、小さな池と子どもが二人座れるくらいの石が一つあるだけの空間だった。

 俺は八神が座れるようにと石の方に行こうとした。だが、するりと八神は自分から俺の背中から降りた。

「足は治ったから平気だよ。ここ、まだあったんだね」

「え……」

 八神が言った言葉の意味についていけない。

「おまえ、ここを知ってるのか?」

 そう聞いてから、八神が小学校のことを知っていてもおかしくはないことに気づく。

 この小学校に通っていたか、友達や家族がいて遊びに来たことがあったかもしれない。

「っていうか、おまえ、さっき足が折れたっていうのに、治ったのかよ!?」

「うん。もうぜんぜん平気だよ。鬼ごっこできるよ」

「いや鬼ごっこはいい」

「おなかすいたねー」

「まぁな」

「しゃぶしゃぶが最後の食事になっちゃったねー」

「不吉なこと言うなよ! ここで死ぬみたいじゃねぇか」

 ケータイで時間を確認すると、一時二十分だった。

 しゃぶしゃぶを食べてからそこまで時間はたっていないのが不思議な気がした。

「じゃあさ、獲物探しついでに狩人ごっこしようか。柿沼くんはイノシシの役ね。それであたしが狩人。やりでイノシシの心臓を射止めるの」

「俺がイノシシかよ」

「だめだよ、逃げちゃ。こっちにまっすぐ来てくれなきゃ」

「誰が行くか!」

 本物のイノシシだって、背中向けて八神からは逃げ出すに決まってる。

「たしかに腹減ったな。ここに立てこもるにも何にもないんじゃ……」

 コンビニに食料を買いに行くしかないだろうと考えていると、急に後ろから八神が抱きついてきた。

「ねぇ。わたし、ずっとどうして柿沼くんのことしか考えられないんだろうって考えてた。どうして、柿沼くんの心臓を取り出してこの手でわしづかみにして胸に抱きしめたいと思うのか考えてた」

「そんなことしたら血まみれになって俺が死ぬ」

 頭の中にカラーでイメージが浮かんできて俺はぐったりした。

「そんなのイヤ!」

 八神が悲鳴を上げる。

「お、おい、はなせよ!」

 目の前は池だ。

 このまま倒れると池に確実に落ちる。

 この池にはミトコンドリアやアメーバもろもろの微生物が大量に住んでいることを俺は小学校の理科の授業で学んでいた。

 絶対に落ちるのは回避したい。

 つい力を込めて八神を引き離した。

 ゴツッ。

 堅いもの同士がぶつかった音。

 見ると八神の頭が地面にある巨大な石の上にあった。

「お、おい、や、八神……」

 石の前に倒れた八神はしばらく動かず、しばらくしてからぴくぴくと手を動かして立ち上がった。

 頭から黒い液体が流れて顔の半分が黒く染まっていた。

 頭から出血してるのに八神は気にもせずまた俺に近づいてくる。

「八神……」

 異様な光景だった。

 ゆらゆらと幽霊のように八神は立っていた。

 悲鳴を上げず痛いとも言わず。

 この世の人ではないように。

「おまえ、なんなんだ。本当に人間なのか!?」

 俺が叫ぶと八神は血まみれの顔で何ともうれしそうに笑った。

「柿沼くん、わたしにすっごく興味あるみたいだね」

 そして懐から何かを取り出す。

 そのすっとした形、月を映し出す輝き。

 メスだった。

「知りたい? 知りたいでしょ。わたしももっと知りたいよ。柿沼くんのこと」

 八神は俺に向かってメスを差し出す。

「柿沼くんにならわたしは解体されてもいい」

 その時、ぐらっと八神の体が傾いた。  

 なんの支えもなく八神は地面に倒れた。

 俺はこの得体の知れない少女を見下ろしたまま、ただ立っていた。動けなかった。

 どうしたらいいんだ。

 もうわけがわからない。

 しばらくして、八神のそばに一冊の手帳が落ちてるのを見つけた。

 文字が書いてあるようだがよく見えない。

 そっとつまみ上げて、ケータイのライトで照らして読んだ。

『あずさ』『実験帳』の文字が読めた。

 まさか。

 俺は手帳をおそるおそる開いてみる。

『実験クラブ』『研究所』『今日の実験』……。

 あずさは、俺が小学生だった時に仲がよかった女子の名前だ。そして、俺とあずさは二人で実験クラブというクラブに入っていた。

 この庭は、実験クラブの縄張りだった。

 だけど、どうして八神がこの手帳を持っているのか。

 まさか。まさか。

 まさか?

「いたいた。ダメだろ、心配かけちゃあ」

 いきなりいないはずの人間の声がした。

 中庭の出入口を見れば、背の高い男が、担任の数学教師がひょっこりと立っている。

 いつ来たんだ? 

 こいつは八神の研究所にいた。

 もうただの数学教師なんかじゃない。

 こいつは研究所の関係者で、俺と八神を追ってきたんだ。

 周りを見ても、出口は一つしかない。

 逃げ場がなかった。

「うああああああっ!」

 俺はパニックになっていた。

 自分でもわけがわからないまま、叫んで数学教師に向かってつっこんでいった。

 何が起こったのかわからないうちに俺は冷えきったほこりっぽい床に押さえつけられていた。

 俺は暴れた。だけど、相手の方が強かった。

 腕が後ろからつぶされる。

 動けない。

 すぐ目の前をばたばたと数人の人間が走っていき、八神の倒れている庭に出ていった。

「聞きたいことはたくさんあるだろうけど、話は後で聞いてやるよ」

 数学教師に後ろの腕をつかまれたまま、俺は立たされた。

 そして、校舎を出て、小学校の入り口に止まっている白い大型車に引っ張って行かれた。

 車の後ろのドアは開いていて、車の前まで行くと、中にいる人間が見えた。

「おつかれさま」

 にこやかに俺をねぎらったのは八神弘樹だった。

 八神弘樹は、腹に包帯を巻いていた。白衣の腹部に少し血の色がにじんでいる。

 それは、研究所から逃げるときに八神が刺してできた傷だった。

 だが、それ以外は普通に元気そうに見えた。

 八神は兄の弘樹を振りきるために刺した。あの時の八神の頭の中に少しでも弘樹を思うことがあったのだろうか。

 しばらくして、八神弘樹が口を開いた。

「A子が暴れたらどうしようかと思ったけど、おとなしくなっててよかったよ。僕は動けないから」

 弘樹は、車の中にいるもう一人に向かって言う。

「よかった、君を傷つけずにすんで」

 弘樹の真向かいで、座っていた倉利がぴくりと肩を動かす。

 倉利は短いスカートの下で足を組んで座っていた。

「わたくしなら、いくら傷ついたってかまいませんわ」

 そう言って倉利は顔を赤くした。

 車の内は救急車によく似ていた。

 中央に寝台があって、その横に脈を計る機械がついていた。

 それからすぐに、八神が担架で運ばれてきた。

 車の中にある寝台に移される間も、八神は顔が真っ青で少しも動かない。

 死んでるみたいだ。

 俺は体の全機能がまひして足に根が生えたみたいに動けなかった。

 そして、いつのまにか、さっきまで俺を腕をつかんでいたはずの数学教師がいなくなっていることに気がついた。

「一緒に乗りなよ。A子が『何』なのか、教えてあげる」

 弘樹が言った。

 八神A子。

 それは俺にとっての最大の謎。

 気づくと、弘樹は手に小さな手帳を持っていた。

 さっきまで八神が持っていたもの。

 その小さな手帳を見た時、俺の中に物言えない恐怖が生まれた。

 知るのが怖い。

 だけど、きっと俺は知らなきゃいけない。

 なぜだか心の奥でそんな風に思った。

「わかった」

 俺はそう言って、車に乗り込んだ。

 研究所に着くまでずっと無言だった。

 八神のメスに心臓をえぐられているような心地がした。

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