お願いします神さま

 この体でも命でも何だって好きなものをあげるからお願いよ神さま!!



 不思議な場所であった。

 そこは夢の中というにはひどく鮮明で、現実というにはあまりにも朧げで曖昧だった。

 その世界は青と白で埋め尽くされ、足元は澄んだ水で一面がおおわれている。

 辺りは平坦で目印になるようなものなどは何もなく、果ては見えず天も地も空の風景がどこまでも広がっていた。

 恐々と一歩踏みだすと水がちゃぷんと跳ねた。

 しっかりと足底はつき、まるで水たまりに入ったような感覚だ。

 覗きこむと、私の地味顔が鏡のように映った。

 体が水に沈まず立っていることができるのは夢だからだろうか?

 他には何もない、私の獣の五感でも、自身が発する音や匂い以外なにも捉えられなかった。

 空気の流れもない……生き物の存在しない停滞した世界、なのに腐臭のような嫌な淀みは感じない。

 待ってみたが、この世界に私を招いた者の出迎えはないようだ。

 

 非現実系アニメにありがちな心象風景みたい……そんな間の抜けたことを考えながら目的地も決めずに歩きだした。


 しばらく黙々と歩いて立ち止まって辺りを見渡し、そしてまた歩きだす。

 不思議な空間だ……しかしこの懐かしい感覚には心当たりがあった。

 私が再誕した場所……聖女お母さんたちの居る、泉の聖域と同じ空気を感じたのだ。

 この空間は世界に存在してるのに、この世界のどこにも存在しない場所。


 段々と歩くのにも飽きてきて、途中から大声をだしながらスキップしたりステップを踏んでみたり、知っている様々な歩き方やアニメソングを試してみた。

 小心者の私が普段ならしないことでも、誰もいないと分かっているならその限りではない。

 流石にドレス姿なので逆立ち歩きは試さなかったけど……。


 故郷の国民的ヒーローアニメのオープニングテーマを口ずさみながら進む。


 色々ネタになるけど、愛と勇気だけというフレーズは深いと思う。

 人間どんなにコミュ能力が高く親しい者がいても、最終的に一人だけで戦うときが必ず来る。

 それは肉体的なもの……あるいは精神的なものなのかもしれない。

 そのような場で支えになるものとはいったいなんだろう?

 物語でよくある「離れていても僕たちの心は一つ!」とか古臭いけど馬鹿にできない。

 だって心が折れなければ、どんな環境であろうと人は生きていくことができるのだから。

 この体の極限までを試された過酷な闇の森で、長い時間を過ごした私はそう実感していた。


 そのように「私とてもいいこと言ってるネ!」とマイ哲学しながら延々と歩く。


 歩いても疲労を感じることなく、どれほど動いても空腹も感じない。

 そうやって時間の感覚さえ曖昧になってきた頃だろうか……唐突に、すぐそばに誰かが立っていることに気がついた。


 ………………。


 声もだせなかった……その人を発見して姿を認識した瞬間に、頭で考えるより先に体が勝手に動いていた。

 走る、先走った手だけが彼に触れようと前に伸ばされる。

 ほんのわずかな距離、だけど、そのわずかな時間さえ、そのときの私にはもどかしかった。


 彼だっ! あの人だっ! 魔王がいたっ!! 


 私は魔王の逞しい胸に走った勢いのまま飛び込んだ。

 彼の体はびくともせず、力強く、そして優しく私を受け止めてくれた。

 私たちは無言で抱き合った。


「……会いたかった……会いたかったよう」


 やっと口からでた言葉は子供のようにみっともないものだった。

 たった数日だ……たった数日会えなかっただけで魔王はこんなにも私を、闇の森の女王たる私を弱くしてしまう。

 情けない、本当に自分が情けない。

 でもこんな恥ずかしい私を見せたとしても、魔王と一緒に生きていけるのならばまったく構わないと思った。

 彼と一緒にいられることに心が嬉しいと、どうしようもなく叫んでいるのだ。

 そこで初めて、ようやく気がついた。

 ああ、これが人を好きになって愛することなのだと。

 愛することは、獣のように冷淡だった私の心を溶かし、こんなにも弱くする。

 人を愛して愛されることは、これほどまでに心を熱く脆くさせる。

 抑えきれない感情だけが暴れまわって心と体を支配する。

 こんなのは絶対に不公平だ!

 私の強さが消えてしまった、原因となった魔王には責任を取ってもらわないといけない!

 そうだそうに決まっている、だからもう二度と魔王とは離れない……私はそんな支離滅裂で無茶苦茶なことを思った。


 しばらくの時間が過ぎた。


 私は抱きついたまま彼の顔を見れなかった。

 みっともない姿を見せても構わないと思ったけど、やっぱり今みたいに涙と鼻水でぼろぼろの顔は見せたくない……百年の恋も冷めてしまう可能性がある。


 では、どうしよう……はっ!?


 不意に閃いた悪魔的な考えに従い、私は魔王の逞しい胸に顔をグリグリと押しつけた。

 これこそが一石二鳥であると。

 顔を綺麗にするのと同時にマーキングの臭いつけもできた。

 その行為に満足してからやっと顔をあげて彼のことを見た。

 魔王は困ったように微笑んでいた。

 その顔を見ただけで私は心底嬉しくなってしまう。

 でも冷静になって考えるとマーキングはない……恋愛脳と獣脳が直結していたようだ。

 流石に引かれたのではないだろうかとチラリとうかがってみると、魔王はそんな私を気にした風でもなく優しく頭を撫でてくれた。


 そうやって抱き合ったまま、今までの短い旅の話をすることにした。


 転移された先での猟師小屋での一幕。

 立ち寄った村での侍女の有能さと彼女を褒めてみたが上手くいかなかったこと。

 闇の森へ行く山岳の道筋。

 侍女たちが作ってくれた料理、過保護な彼女たちの様子。

 道すがらでてくる魔獣をあっさりと倒したこと。

 危うく野生を取り戻しそうになったこと。

 侍女たちがヨイショするだけの人になってしまったこと。

 闇竜の彼女と出会い祭壇まで送ってもらっていること。


 とにかく、お互いが離れていた時間を少しでも埋めようと私は話した。

 いつもならば彼のほうがお喋りなのに私ばかりが多くのことを口にしていた。

 彼はなにも言わず私の頭を撫でながら優しく微笑んでくれる。

 

 ああ、これがいわゆるナデポというものなんですか?

 でも私はとうの昔にあなたに惚れてますからナデポは違う?

 ナデポリターン?

 いわゆる惚れ直したぜっ……というものですか?

 なにか違う気がしますが私は一向に構いませんよ。

 だって、私があなたにベタ惚れなのはまぎれもない事実ですからね……うふー。


 しかし彼の顔を再び見た瞬間……言いようのない不安に襲われた。

 それでも私の心は嬉しさのあまり暴走していた。

 だから彼のもつ違和感にまったく気がつかなかった。

 

 ……いや、本当は気がつかない振りを必死にしていたのだ。


「ねえ、怪我はしていない? していないみたいだね良かった」

「ご飯はしっかりと食べている? ちゃんと眠れている?」

「まだ戦いは続いているのかな……やっぱり私も戦おうか?」

「あなたがいれば……魔王がそばにいれば、私はどんな相手だって戦えるよ」

「決して怖くないし負けないよ……ねえ、だから、だからお願いだから」


 私一人だけが延々としゃべり続け、魔王はただ微笑んでいるだけだった。

 そして私は……その微笑みを見て折れてしまった。

 ああ、もう駄目だと……もうこれ以上は誤魔化しきれないと。


 私の心は気がつかない振りをする行為に疲れてしまった。

 何もかもが悲しくてなってきた。

 何もかもが悔しくて辛くて涙が次々とあふれてきた。

 どうにもできない気持ちで涙が止まらない。

 どうにもできないことを分かっているのに涙が止まらない。


 だから、そんな気持ちを打ち消そうと子供のように泣きながら叫んだ。


「お願いだから大丈夫だって言ってよっ!!」


 彼はなにも答えない……本当はもう分かっていたんだ。


 彼を抱きしめ、彼に抱きしめられた瞬間に、聖剣に胸を貫かれる彼の姿が見えた。

 でも、それを気のせいだと思い込もうとした。

 でも、猟師小屋でみた夢を思いだしてしまった。

 彼の命がもう無いことに気がついてしまった。

 それなのに愚かな私は、浅ましくも必死に見てないことにしようとしていた。


 ああ、こんな気持ちになるのなら怖くても私が戦えばよかった。

 こんな気持ちになるなら彼を愛さなければよかった。

 こんな思いをするなら求婚なんて受け入れなければよかった。

 私が生まれ変わらなければよかった。

 私が聖剣なんて生みださなければこんなことには! 

 私がこの世界に来なければこんなことには!!


 終わりのない後悔だけが、頭の中を一瞬も止まることなくぐるぐると廻った。


 唐突に今まで私の髪を梳いていた彼の手が離れた。

 私は言葉にならない悲鳴をあげて彼を見あげた。

 彼はやっぱり微笑んでいたのだけど、ひどく悲しそうだった。

 空間が薄っすらと光を放つ……夢の時間はもう終わりを迎えたのだ。


 そう無意識のうちに理解できてしまった。


 抱き合っていた彼と私の体が引き離される。

 私は追いつこうと走ったが彼の体はどんどんと遠ざかっていった。

 それでも諦めきれずに追い続けた。

 やがて彼の顔が、輝きながら崩壊する空間に紛れてまったく見えなくなった。


 私は走りながら、泣きながら両手を伸ばして必死に叫んだ。


「待って待ってよ、いかないで魔王っ!!」


「ああ、待って、魔王、行かないで!

 私を置いていかないで、お願い魔王!

 ああ、誰かお願い、お願いします!

 ああ、誰でもいいからお願いします!

 お願いですから彼を連れて行かないでください!

 ああ、神さま、いますか神さま……!

 お願いします神さま、祈れというなら毎日だって祈ります……!

 貴方の忠実な下僕にだってなってみせます……!

 すべてを捨て貴方に忠誠を尽くす生き方だってできます……!

 だからお願いします神さま、彼を連れて行かないでください神さま……!

 私の持っている物だったらなんでも差しあげますから!

 服でも宝石でも本でも持っている物をすべて、今までの人生で得たものすべてを!

 だからお願いします、私は、すべてを犠牲にしても彼だけが欲しいのです!


 この体でも命でも何だって好きなものをあげるからお願いよ神さま!!」



 でも、神様が願いを叶えてくれるはずがなかった。

 だって神様は、いつだって私には優しくなかったから。



 ――魔王はあっけなく消滅した。



 ◇



 ぼんやりと覚醒すると誰かがなにかを叫んでいた。

 ああ、なんだろうと思った。

 とてもとても悲しい夢を見た気がするんだ。

 本当に悲しくて心が死んでしまいそうな夢だった。


「お妃様! しっかりしてくださいお妃様っ!!」


 侍女たちの声が聞こえる。

 なにか凄まじい金切り声も聞こえる。

 よく分かりませんが大変そうですね、いつもお手数をおかけします。

 戻ったら特別ボーナスでるように掛け合ってみますね。


「私が押さえるから、お妃様の口になにかを噛ませて舌を噛んでしまうわっ!!」

「こんな、こんな、なんということなの……」


 口の中に何かを入れられました。

 ペロっ……この感じは布ですかね?

 あ、金切り声が止みましたよ。

 あのような声は聞いてるだけで苦痛です。

 大声は獣を引き寄せる危険もあるし、良いことはないです。

 なので止まって静かなのは良いことです。

 ええ、本当に本当にとても良いことなのです。


 ……でも、誰がだしていたんだろう?


「お妃様の腕と足も縛るわよ。押さえておいて頂戴!」

「ええ、ええ、お妃様、気をしっかりなさって!」


 あれ、君たちナニをしようとしているのかな。

 すいませんメイドさん。

 流石にそのような特殊なプレイは頼んでいませんよ。

 ああ、でも彼となら……ええっと、彼?

 あれ、あれ、あれ、私は?


 ――友よ 思考 止め 今は 眠れ


 あ、はい、そうさせて頂きますね。

 ええ、すいませんが、しばらく休ませていただきますね。

 では、皆さんおやすみなさい。



 私の頬をなにか熱い滴が流れた……それはいつまでも流れ続けた。

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