第146話 人でなしと妖精と5
体育館棟は、人が人でいられる場所ではなくなっていた。
視界に入るすべての場所が、夏穂をたびたび襲った光る粉で埋め尽くされ、どこまでが床でどこまでが壁なのかも曖昧になり、光る粉から発せられる耳障りな鳴き声のせいで聴覚まで正常に働かない――普通の人間であれば、こんなところにいたらものの数秒で耐えられなくなってしまうだろう。
いや――
怪異と混ざり合っている自分ですら、ここに足を踏み入れるのは危険だ。いままで受けた以上に激しい攻撃をここで受けるのは間違いない。
だが――
それでも夏穂は足を進めていく。
五感をすべて奪う魔境と化した体育館棟へと。
ここは――自分であっても無事ではすまない――その直感があった。
しかし――足を止めるわけにはいかない。ここで足を止めてしまったら、一体誰が命を助けるというのか。命を助けられるのは自分だけだ。なにがどうあっても、あの娘を助けなければならない。だってあの娘は――
自分にできなかったことを頑張ろうとしている尊い娘だから――
夏穂にできなかった人らしくあること。
夏穂にできなかった人らしく生きること。
彼女は――それができている。
自分のすべてを否定されたにもかかわらず――あの娘は未だに人であろうと、人のまま生きようとしている。
それはすべて――かつての自分にできなかったことだ。
でも――
それはとても危ういバランスの上に成り立っている。そのバランスはちょっとした揺さぶりを受けただけで崩れてしまうものだ。それが崩れて――夏穂と同じようになってしまうところは見たくない。
命のすべてを守れると思うほど、自分を驕っているわけではないが――それでも、守りたいと思うのだ。
危うい彼女が――人らしさを捨てないようにするために。
なにもかも失った夏穂に――できることはそれくらいしか残されていないから。
どうせすぐ破綻すると思っていままでずっと生きてきたけれど――命が、一人でも大丈夫になるまでは――生きていたいと思う。
ああ、本当に――らしくない。
いつから自分がこんな風になってしまったんだろう。自分でもよくわからない。
だけど――
それほど不愉快ではない。
たぶん、それは――自分が失ったものを取り返したような気分になれるからだと思う。
『あら、なかなかセンチメンタルなことを考えているのね』
光る粉に埋め尽くされ、右も左もわからなくなった体育館棟のどこからから声が響いてくる。間違えるはずもない。何度も聞いた西澤小夢の声だ。どこにいるのか――とあたりを見回してみても、光る粉で埋め尽くされたこの状況ではわかるはずもなかった。
『それにしても――なかなかつらそうにしているじゃない。あなたそんな顔するのね。驚いたわ。殺されても平然としているのに』
ふふふ、と小夢は嘲るような声を響かせる。この状況でどうやって夏穂のことを見ているのか不明だが、どうやらあいつには自分の姿が見えているのだろう。
「黙れ」
夏穂はそう短く言って、自分の内側破裂しそうになっている怪異を放出する。
真の暗黒を湛えた奔流が夏穂の身体から流れ出し、あたりを埋め尽くしている光る粉を食らいつくしている。光る粉で埋め尽くされた体育館棟は黒い奔流によって晴れたものの、一瞬でもとの異空間へと戻ってしまう。
『ひどいわ。そんな乱暴なことしないでよ。わたし、乱暴なことは嫌いなの。ねえ、もっと楽しみましょうよ』
そんな声を響かせて、夏穂の身体にキイキイと耳障りな鳴き声を発する光る粉がまとわりついてくる。優しく身体を撫でるその感触がとても不快だった。
『あなたの身体ってすごく冷たいのね。まるで死体みたい。なかなか悪くないわ。ねえ、さっさと抵抗なんてやめたら。もちろん、あの娘も一緒よ。それなら構わないでしょう?』
夏穂の腕がなにかに絡めとられてまったく動かなくなった。それから自分の意思には反して徐々に腕を上げられていく。
夏穂はもう一度、自らの裡にいる怪異を解放させる。黒い奔流が身体中から溢れ出し、両腕の拘束を破り、あたりに満ちた光る粉を吹き飛ばして食らいつくす。やはり、一瞬視界が戻ったものの、すぐに光る粉によってまたしても覆いつくされてしまった。どうにかして、元を絶たなければこの状況は打破できそうにない。
「一つ訊きたいのだけど――」
と、夏穂はなんとか声を絞り出す。
「あんたは誰の差し金で動いてるの? 誰かいるのは知ってるわ。この学園の人間?」
『あら、その質問にわたしが答える必要ってあるかしら? 知ったところであなたはわたしをどうすることでもできないでしょう』
先ほど吹き飛ばした光る粉は再び夏穂の身体にまとわりついて、今度は四肢を拘束していく。やはり、光る粉に撫でられる感触は不気味だった。
どうすることもできない――確かにそうだろう。
人の認識能力しかない夏穂に、人の認識を阻害し、幻惑する小夢に打ち勝つ方法はないと言っていい。
『それとも――まだなにか隠しているのかしら? あなた、そういうところあるわよね。隠してるのならさっさと吐いてしまいなさい。別に遠慮しなくていいわ。わたしたち、もう深い関係じゃない』
「深い関係――ね」
正直って馬鹿馬鹿しい。
だが――深い関係というのは間違っていないだろう。なにしろ、ここまで深いやり取りをした相手など夏穂にはいないのだから。
『ところで――
あなた何度もわたしの子供たちを食べたようだけど――大丈夫なのかしら? そろそろいい頃だと思うのだけど』
「は?」
夏穂が疑問の声を上げたその瞬間――
身体の内側から感じられたのは、明らかな異物の感触。自分の手足が――まわりにある光る粉のように発光していた。
そして――身体の内側から響いてくるのは、まわりから聞こえてくるキイキイという耳障りな鳴き声。
身体が自分の意思とは反してぶるぶると震え、立っていられなくなり夏穂は膝をついた。
『あなたがわたしの子供たちを払うために、食べたものの中に色々と仕込ませてもらったわ。中身はなんなのか秘密ね。確かなのは、あなたの認知能力を破壊して、身体と怪異の分離を促進するものだってことは言っておいてあげる』
あたりに響く小夢の声がどんどんと遠のいていく。
その代わり――自分の身体の内側から聞こえてくる耳障りな鳴き声はどんどんと大きくなっていった。
『それじゃあさようなら。あいつにあなたに引き渡してすべてが終わったら、あなたとお友達のことはいただいていくわ。ね、これから長く一緒にいることになるんだし、楽しくやりましょうね』
その言葉を最後に――自身の限界を超えた夏穂は意識を保てなくなり――そのまま、内側に存在する暗闇と同一化した。
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