第130話 妖精の愛14

「どういうことよ……これ……」


 怒りを孕んだ声とは裏腹に、つばさは能面みたいな無表情を貼りつけたまま、ゆっくりと薫子と小夢のもとに近づいていく。


「どういうこと……つばささんは見たそのままの通りよ。わたしたち、こういう仲なの」


 こんな決定的な場面を見られたというのに、小夢には動転している様子はない。いつも通り、艶めかしく、脳まで痺れる甘い声でつばさの問いに答えている。


「それとも……勘違いさせちゃったのかしら? そうだったらごめんなさいね。そんなつもりはなかったの」

「そんな……つもり、ですって……」


 つばさは、好かれていたはずの小夢からそんなことを言われると思っていなかったのだろう。その声は怒りと驚愕に震えている。


「だって、あなたなんかよりも薫子ちゃんのほうが魅力的なんだもの。より魅力的な相手がいるのなら、そっちのほうがいいと思わない?」

「……!」


 つばさは無言で怒りに震えている。それが薫子にまでしっかりと伝わってきた。

 なにか言い訳をしなければ――と思うのだが、薫子の口は動いてくれない。まだ小夢の柔らかい感触の残る唇は震えるだけだった。


「それにあなた、あまり上手じゃなかったし。強引にやるから結構痛かったのよ。つばささん、女の子とするの、慣れてないんでしょう?」


 淫靡な笑みを見せたのち小夢の手が薫子の手を優しく握った。それだけで、こんな状況でも不思議と気分が落ち着いてくる。


「でも――薫子ちゃんはあなたと違って慣れているのよ。されても全然痛くしないし、わたしがしてあげるときもすごく可愛いし。もしかしてあなた、強引にやるのはいいと思っているかしら?」


 見せつけてあげましょう――そう言って小夢は薫子の唇を奪った。小夢の唇が薫子の構内に侵入し、この世のものとは思えない快楽で蹂躙される。


 こんな姿を誰かに見られている――それはとても恥ずかしいことのはずなのに、いつもよりも腹の下が熱くなっていた。湧き上がる情熱に抗えず、最初にあったはずの恥ずかしさはものの数秒ほどで消えてしまった。


「……やめさない!」


 つばさは狂乱を孕んだ怒鳴り声をあげて、暴力的な動作で小夢を薫子から引き離した。そのまま小夢は倒されてしまう。


「ほんと、空気が読めないのね。そんなのだから相手を満足させることもできないのよ」


 淫猥な笑みとともに漏れたのはつばさに対する嘲笑。未だに様子が変わることのない小夢に、薫子は底知れない恐怖を抱いた。


「……うるさい」


 つばさは、無表情のまま――しかし声には想像を絶する怒りを湛えている。


「あんたの……せいね」


 つばさはヒステリックな声を上げ、先ほど引き離して倒した小夢ではなく、薫子に近づいてきた。彼女から、怒りを超えた狂気が滲み出ている。


「あんたが……小夢を誘惑して……」


 つばさは自分の足を振りかぶって、そのつま先を薫子の顔面に向けて放ってくる。薫子はとっさに手で防御したものの、その程度で思い切り叩きこまれたつま先を防御することはかなわず、後ろに仰け反って倒れ、鼻からは鈍い痛みが走る。腕を見ると、鼻血が滲んでいた。


「舐めるんじゃないわよ、このクソ女!」


 倒れた薫子に対して、ここぞとばかりにつばさは顔面を踏みつけてくる。薫子はなんとか抵抗を試みるが、一度取られてしまった優位は簡単には覆せない。ほとんどされるがままに、顔面や腹を蹴られたり踏みつけられたりした。


 薫子は、どうして自分が殴られているのだろうと思った。

 別に、責任があるのは小夢だと思っているわけではない。小夢が与えてくれる快楽に抗えなかった自分も悪い、それは充分すぎるほどわかっている。


 だけど――

 なに被害者ヅラをしているのかとも思う。


 だって――あんたが小夢を満足させてやれなかったからこんなことになったんじゃないのか?


 自分も悪い。それは認めよう。

 でも――自分のことばっかり考えて小夢のことを考えてやれなかったお前だって同じくらい悪いんじゃないのか――


「殺してやる……」


 つばさは薫子を思い切り蹴り倒したあと、馬乗りになってその首に両手をかけた。


「死ね……」


 薫子の首にかけられた両手に力が込められる。その力は同じ人間の女性と思えないほど強い。ぎりぎりと首を絞められ、酸素を取り込めなくなった薫子はだんだんと意識が遠のいていく。


 しかし――

 このまま殺されるわけにはいかない。

 こんな、小夢を満足させられなかった輩に――殺されてなどなるものか。


 薫子はなんとか両手を動かして、近くにあったなにかをつかみ――

 それを思い切り、つばさの頭に叩きつけた。


「……っ!」


 抵抗されるなんて思ってもいなかったのか、殴られたつばさは薫子の首にかけていた力を一瞬だけ弱める。


 その力が弱まった隙を逃さず、薫子は自分の首を絞めていた両手を思い切り振り払ってから立ち上がり、つばさの顔面に向かって足裏を思い切り叩き込んだ。足の裏に、なにか柔らかい感触が広がる。蹴れられた犬みたいな声が聞こえた。もしかしたら、犬を殴ったのかもしれない。


 薫子は――止まらなかった。


 顔面を蹴られて怯んでいたつばさに向かって、先ほど首を絞められているときにつかんだもので殴りかかる。顔面を蹴られて怯んでいたつばさは、それ以上されると思っていなかったのか、実に馬鹿みたいな顔をしていた。


 がん、がん、がん。


 薫子は一心不乱にそれを振り下ろした。一発目で打ち倒して、そのまま両手を抑え込んで馬乗りになって二発目三発目を繰り返す。


 がん、がん、がん。


 自分が殺されかけたせいで薫子は我を忘れ、つばさの顔面に向かって手に持っていたそれを思い切り叩きつける。柔らかかったり、硬かったりする感触がなんとも心地いい。


 がん、がん、がん。


 気がつくとつばさはぴくりとも動かなくなっていた。動かなくなっても薫子の手は止まらなかった。殴る感触がとても気持ちよくて、手を止められない。つばさの顔面から飛んでくる血を降りかかるたびに暴力的な衝動が湧き上がった。


 がん、がん、がん。


 殴るのは気持ちよかったけれど、いかんせん手が疲れてきた。気がつくとつばさの顔は見る影もないほどぐちゃぐちゃになっていた。実に無様な姿だと思う。小夢にあんなことをするからいけないんだ。


「あ……」


 そこまでやったところで――薫子は自分がなにをしてしまったのかにやっと気づく。


 自分の両手は、つばさの顔面を完全破壊したときの返り血で赤く染まっていた。殴るのに使った懐中電灯も見る影もなく形が変形してしまっている。


 人だったとは思えないほど顔面が破壊されたつばさは――明らかに死んでいる、ように思えた。


「殺し……ちゃった」


 殺すつもりはなかった。

 だって向こうが先に殺そうとしてきたのだ。抵抗するのが普通の感覚だろう。これは正当防衛……正当防衛だ――そう自分に言い聞かせたけれど――


 それでも『殺した』という事実は薫子にとって耐えがたいものだった。

 薫子は、逃げるように馬乗りになっていたつばさの死体から退いた。


 どうする?

 仕方なかったとはいえ、人を殺してしまった。どうにか、しないと。


「……大丈夫よ」


 狂騒に襲われていた薫子を救ったのは小夢の甘くて柔らかい声だった。


「で、でも……」


「なに言ってるの。ここはわたしたちしかいない場所なのよ。ここでなにをしたところで警察に捕まるわけないじゃない」

「あ……」


 そうだ。この場所には自分たちしかいない。

 なら、ここでなにが起こったとしても、警察が薫子のことをどうにかできるはずもないのは当然だ。


「それに――この空間で殺されればもとの場所に戻れるのよ。つばささんだって戻りたかったことに変わりないんだからそれでいいじゃない。ここでのことなんてきっと忘れているわ」


 小夢の甘い声は――この瞬間だけは自分を侵す猛毒のように思えた。


「ね、大丈夫だから、ここからさっさと離れましょう。死体と一緒に寝るのは嫌でしょう」

「うん……」


 気がつくと薫子は自分が人を殺してしまった罪悪感を忘れていた。


 大丈夫だ。

 わたしには小夢がいる。小夢さえいればわたしは満たされているんだから、人を一人殺したくらい気にすることはない。


 そう自分に言い聞かせて――薫子は小夢に手を引かれたまま、死体と壊れた懐中電灯が残る教室をあとにした。

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