第131話 妖精の愛15

 人を殺してしまった――その事実は薫子の身体の内側を呪いのように蝕んでいた。


 決して殺したいなんて思っていたわけではない。ただ、自分が殺されそうになったから必死になって抵抗しただけだ。


 だけど――

 その結果、薫子はつばさのことを殺してしまった。


 何度も何度も何度も、もともとどんな顔かをしていたのかわからなくなってしまうほど、彼女の顔面を損壊した挙げ句――殺してしまったのだ。


 いまでも――

 薫子の手にはつばさを殺したときの感触がはっきりと残っている。


 骨を砕く感覚、頬肉を潰す感覚――耳には薫子の殴られていたときに発していた悲鳴がいまも残響していた。


 それらの感覚は――罪悪感の刃となって薫子の心を責め立てていく。

 どうして――自分はあんなことをやってしまったのだろう? そう思えてならない。


 つばさによって、首を絞めつけられていたあの瞬間――抵抗するその前までは、『殺そう』なんて一切思っていなかったはずなのに――


 これからの人生――このときやってしまった殺人に対する罪悪感を一生持って生きなければならないのだろうか?


 いま薫子の胸を支配する罪悪感にこの先ずっと襲われると思うと――

 これまで感じたことのない底知れない恐怖を抱いた。


 逃げ出したい――そう思う。

 しかし――

 いま薫子に襲いかかり、苛んでいるのは自分の内側にあるものだ。それからは、どうやっても逃げられない。逃げようがない。


 これは――天罰なのだろうか?

 つばさといい仲だったはずの小夢と関係を結んでしまった天罰――


 いや、違う。そんなはずはない。

 だって、あんなに可愛い小夢といい関係になったことが天罰のはずがない。小夢のおかげで――失恋して『ここにいたくない』と思っていた薫子の心は救われたのだから。


「う……うう」


 そう自分に言い聞かせても――薫子の裡にある罪悪感はまったく弱まることはない。時間が経つにつれて、それはどんどん強くなっているようにすら思える。


 どうしてこんな目に遭わなければならないのだろう?

 薫子は――心の傷を癒したかっただけなのに。

 少しだけ――逃げたかっただけなのに。

 それなのに――こんな、ひどい目に遭うなんて。


「まだ、そんなこと気にしているの?」


 扉が開かれて、小夢が戻ってきた。小夢のことを見ると、罪悪感で死んでしまいたい気持ちが和らいでくれる。小夢は薫子の隣に腰を下ろしてそっと手を重ねて指を絡めた。


「大丈夫って言ってるじゃない。ここは閉ざされた場所、あなたがよく知っている現実の場所とはまったく違う場所なの。ここでなにが起こったところで、あなたを咎めるものは誰もいない。殺されたつばささんだって、もうここで起こったことを忘れているわ」

「で、でも――」


 自分の両手には、まだはっきりと殺したときの感触が残っている。


「ここから出る方法の一つが、相手を殺すことだってさっきも言ったでしょう? あの人だってここから出たかったに違いないんだから、あなたはなにも悪くないわ。むしろ、感謝してもいいくらいよ」

「そう……かな」


 小夢の言葉を聞いている、『人を殺した』ことによって発生し、いまも苛んでいる罪悪感がどんどん消えていく。


 どうして――小夢の声はこれほど気持ちいいのだろう? そう考えると、少しだけ怖くなったけれど――すぐにその恐怖は霧散する。


「そうよ。それでも忘れられないっていうなら――わたしが忘れさせてあげる」


 小夢はそう言って、少しだけ乱暴に薫子の唇を奪う。柔らかくて甘い唇と舌、濃厚に舌を絡め合わせたときに時おり起こる歯と歯がぶつかる硬い感触すらも心地いい。


 小夢のされるがままになっていると、急速に罪悪感はまるで嘘だったかのように消え去り、このまま自分のすべてを蹂躙して欲しいという被虐的な情欲が湧き上がる。一分ほど唇を舌を絡め合わせたところで小夢は薫子の唇から離れた。


「どう? 気持ちいい?」

「うん……」


 小夢の唇が離れたときには、先ほどまであれほど心の中に渦巻いていた罪悪感が綺麗さっぱりなくなっていた。


 そうだ。

 彼女の言う通りじゃないか。


 ここで起こったことは誰にもわからない。仮に、あの『魔女』が薫子がつばさを殺したことを告発したとして、誰がそれを実証するというのか?


 できるわけがない。

 ここは異常な空間だ。

 この異常な空間に、警察の捜査など及ぶわけがない。


「ね、不安なら見に行ってみましょう」

「見に行くって……なにを?」

「決まってるじゃない。さっきの教室よ」

「さっきの教室……」


 それは、つばさの死体が放置されている場所だ。


「で、でも……」

「大丈夫よ。行きましょう」


 小夢はそう言って強引に薫子を立たせて、手を引いて歩いていく。小夢の力が強かったわけではなかったのに、何故か抵抗する気が起きなかった。


 五十メートルほど歩いて、先ほどまでいた教室の扉を開く。

 そこには――


 確かにあったはずの、死体が消えていた。


「ね? あなたが殺したからつばささんはもとの場所に戻れたのよ。これで信じられる?」

「……うん」

「どうしたの? まだ不安?」

「本当に――先輩は生きてるの?」

「生きてるわ。だってこの場所は普通じゃないんだもの。普通じゃない場所で起こった出来事が現実みたいに普通のわけないじゃない」

「そう……かな」

「そうよ。それともわたしのこと、信用できない?」


 小夢の問いに、薫子は首を横に振った。

 そんなの当たり前だ。小夢が自分に嘘を言うわけないじゃないか。こんなに可愛くて魅力的な娘が――嘘をつくなんて思えない。


「それなら嬉しい。唐突だけど一つお願いがあるの」

「お願いって……なに? 小夢の言うことだったらなんでも聞いてあげるよ」

「本当に? じゃあね」


 そこで一度言葉を切って、眩暈がするほど蠱惑的な笑みを薫子の見せつけたのち――


「あの『魔女』のことを――殺してほしいの」

「え?」


 薫子は、小夢が何故そんなことを言うのかまったく理解が追いつかなかった。


「こ、殺すって……」


 薫子は恐る恐る声を上げる。


「そのままの意味よ。さっきつばささんにやったように、あの『魔女』も殺してほしいの。だって、わたしたちが二人きりで過ごすには、あいつ邪魔でしょう?」

「それは……そうだけど」


 小夢の目を見ていると、なにがどうなっているのかわからないが、世界がぐるぐると回っているように思えてきた。


「それに、そろそろいい頃だと思うの。ここは時間の経過が早いから、分離し始めている頃だろうし」

「……?」


 薫子は、小夢がなにを言っているのかまるでわからなかった。

 だけど――

 小夢が言っていることは絶対に正しい、そんな確信があった。


「この空間はね、あの『魔女』とあいつの中にあるものを分離するための場所なの」


 やっぱり、小夢がなにを言っているのか、薫子には理解できなかった。


「実はあの意味不明な便箋、わたしが書いたのよ」


 ああ、そうだったんだ――と薫子は納得した。


「でも、わたしだとあいつのことを殺せないから、薫子ちゃんにやってほしいの? 薫子ちゃんなら、できるはずだから」

「そうなの?」


 薫子は夢遊病者のようになって首を傾げた。


「そうよ。あなたにしかできないの。お願い、わたしの言うこと、聞いてくれる?」

「うん……。二人っきりに、なりたいもんね」


 薫子はそう言って、覚束ない足取りになって歩き出した。


 魔女を殺そう。

 あいつは邪魔者だ。

 あいつを殺してしまえば――わたしは幸せになれる。


 これは試練だ。

 薫子と小夢が幸せになるための――試練。


 自分はすでに一人殺している。

 二人殺してもたいして変わらないじゃないか。


 小夢が殺してほしいというのなら――小夢のために、あの『魔女』をぶち殺してやろう。


 つばさよりも残虐な方法で殺してやる。

 なにか道具はないだろうかと思いながら、薫子は人の絶えた校舎の中を進んでいく。

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