第107話 災厄を呼ぶ悪性8

 部室をあとにした丈司は、大学の外に出て、あてもなく歩いていた。


 いきなりおかしくなった須田と、その須田と似たような斑紋があるのを見かけた部長のことについて考えていた。あれは――一体なんなのか? まるでわからないけれど、それがいいものだとはとても思えない。


 黒い斑紋と黒い粒子。


 あれは一体――なんなのか?

 あれも――怪奇現象、なのだろうか?


 怪奇現象でもそうでなかったとしても――

 なにか――なにかとんでもないことが起こりつつあるのは間違いない。


 いや――もしくは、もうすでに――

 起こって、いるのかもしれない。


 しかもそれは――自分にはどうすることもできないほど巨大なもので――


 そう思うと、背中を不気味に撫でるぬるぬるとした悪寒が背筋を走る。丈司は足を止める。自分は――なにかとんでもないことに首を突っ込んでしまったのではないか。


 やばい、と思った。

 それ以上に――

 どうすれば――いいのだろう。


 なにか起こっていることを察知しているのに、なにもできないというのは歯痒い。本当に自分にはなにもできないのだろうか?


 もうすでに夏は近づいているはずなのに、やけに寒く感じられた。こんなことになるのなら、一枚羽織るものを持ってくればよかったと思う。


 いま起こりつつ――起こっているかもしれない出来事には――

 つかさが、かかわっている――

 かもしれない。


 朝の態度を見れば、誰だってそう思うはずだ。

 彼女になにかあったのか――

 それとも――

 なにか知っているのか。

 どちらかなのかはわからない。どちらもなのかもしれない。


 だが、それがどのようなものであっても、それが決して彼女にとって、そして自分にとってもいいものとは思えなかった。


「連絡――してみようかな」


 とはいっても、丈司もつかさも携帯電話など持っていない。親もとを離れて下宿する大学生には携帯電話は金がかかりすぎる。それに――つかさの家には固定電話もなかったはずだ。それだと――


「家に、行ってみるか」


 丈司はそう思ってから歩き出した。

 つかさのアパートは丈司の下宿先からも近い場所にある。歩いて十分ほどの距離――大学からだと少し離れているが、充分歩いて行ける距離だ。


 言いようのない不安と嫌な予感に苛まれながらも、夕陽に照らされた街を進んでいく。


 もう一年半ほど暮らして、すっかり慣れていたはずなのに、何故か別世界に見えた。それが自分の認識の問題でしかないとわかっているのに、そのように思えてしまう。


 自分は変わっていない。変わったのは世界のほうである、と――考えてしまっている。


 少し考えすぎ――だと思う。


 それは――充分理解しているつもりなのに――嫌な予感と不安は消えてくれない。猛毒のように身体を侵してくる。


 気がつくと、つかさの住むアパートの前に辿り着いていた。足を止める。アパートに入ろうとして再び歩き出そうとしたところで丈司の足は止まって本当に行くべきなのかと逡巡した。


 行っても――大丈夫、なのだろうか?


 いや、朝にあんな態度をしていれば自分でなくても心配になるのは普通はずだ。それに、いままでだって何回も彼女の家に訪れているではないか。どうして今日になってそれを逡巡などしているのだろう?


 少しだけ迷って――やっぱりつかさがどうなったのか気になったのでアパートへと足を踏み入れた。エレベーターに乗って、つかさが住んでいる三階へ向かう。エレベーターを出て、一番奥にある角部屋が見えてくると――


 つかさの家の前で、見知らぬ女性が立っているのが目に入った。


「…………」


 誰だろう。

 たぶん、ここの住人ではない。


 というか、恐らくこのあたりに住んでいる学生でもなさそうだ。つかさの部屋の前に立っている女性は和服に身を包んでいるのだから。普段着が和服なんて人が、こんな学生マンションに住んでいるとは思えない。


 丈司の視線を感じ取ったのか、和服の女性はこちらに振り向いた。歳は恐らく、自分よりも少し上。二十四、五ってところだろう。綺麗な顔をしているけれど、特徴がまったく見当たらない。目を逸らしてしまったら三秒で忘れてしまいそうだ。


「あの、どうかしましたか?」


 和服の女性と目が合った丈司は、彼女に話しかけていた。これから訪ねようとしている相手の部屋の前にいるのに無視するわけにもいかなかったからだ。


 見知らぬ女性に声をかけるなんてはじめての経験だったので、なにか変なこと言われてしまうのではないかと思って心臓がばくばくと脈打った。


「こちらに住んでいるお嬢様を訪ねたのですが、どうやら留守のようでして」

「お嬢様……?」


 お嬢様というのは――つかさのことなのだろうか?

 いや、彼女の部屋の前でそう言ってるんだから、別の誰かのことを言っているわけではあるまい。名家の出身って噂で聞いていたけど――あれは本当だったのか。


「あなたは?」

「えっと……つかささんの同級生、です」


 彼氏です、という度胸は丈司にはなかった。それに、そんなことわざわざ言う必要もない。


「そうでしたか。それは失礼いたしました」


 和服の女性は優雅で気品が感じられるお辞儀をする。


「あの、まだ帰ってないっていうのは本当ですか?」


 この時間になってもまだ帰ってきていない。それがやけに気になった。五限が終わるのはまだ先だから、もし五限の授業があったのなら帰ってきていなくても別段不思議ではないのだが――今日ばかりは、朝にあんなことがあったせいかなにかあったのではないかと思えてしまう。


「何回かインターフォンを鳴らしてみたのですが反応がなかったので。居留守を使っているのかもしれませんが」


 和服の女性は平坦な口調で語る。その喋りかたにも個性とか特徴とかが欠けているように感じられて――なんだか不気味に思えた。


「失礼ですが――あなたはつかささんとどういう関係ですか?」

「私はお嬢様のご実家で家政婦をさせていただいている藤井と申します」

「ということは、京都からこちらまで?」

「はい」

「そうですか……」


 入学してからずっとつかさとの付き合いがあるが、いままで実家の人間が訪ねてきた覚えはない。あんなことがあったタイミングで急に訪ねてくる――それはとてつもなく不穏に感じられた。


「このまま待っていても仕方ないので、また日を改めようと思います。日が変われば、お嬢様の気も変わるかもしれませんし」


 それでは失礼します、と平坦な口調で言って、藤井は丈司の横を通り抜けていった。丈司から数歩進んだところで立ち止まってこちらに振り返り――


「あなたとお嬢様のご関係について文句を言うつもりはありませんが――不幸な目に遭いたくないのであれば、お嬢様から離れることをおすすめします」


 と、やはり平坦な口調でそう言った。


「それは……どういう」

「言葉通りの意味です」


 藤井はそう言い残して、角を折れて消えていった。丈司だけがつかさの部屋の前に取り残される。


「…………」


 やっぱり――

 あの黒い粒子をまき散らすゾンビや黒い斑紋とつかさにはなにか関係が――


 あんな言葉を聞いてしまったら――あるとしか思えなくなってしまった。それがさらに丈司の不安を煽っていく。


 そのまま何分か硬直したのち――一応つかさの部屋のインターフォンを鳴らしてみたけれど――なにも反応はなかった。

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