第61話 略奪の悪魔15

 扉の先に広がっている光景は、私立の進学校とは思えない光景であった。


 整然と並べられていたはずの机と椅子はぐちゃぐちゃになって、時に宙を飛ぶことすらもある。一体なにが起こったのかと思う光景だ。明らかに普通ではない。いまこの教室の中は完全に秩序が崩壊していた。


 この学園で暮らすようになって五年目になるきらは、いままでの学園生活でこのような光景は一度も目撃したことがない。


 想像もしていなかった混沌。

 なにがどうなっているのか。


 いつもは静かに授業を受けているはずの娘たちが、年頃の娘とは思えない罵声や怒声を張り上げて、教室のあちこちで取っ組み合いの乱闘を繰り広げている。取っ組み合いを行う娘たちには、先ほど保健室に現れた娘と似た獣性が感じられた。


 獣性を露わにして暴れている娘の中にはきらと仲よくしている娘もいる。いつもみな礼儀正しくしている娘たちだった。その娘たちがどうしてあんな獣みたいになって暴れているのか、きらには想像もできない。


 なにか、根本から変えられてしまうことがあったのではないかと思うほど、彼女たちは見る影もなく変貌を遂げていた。


 だが、全員が狂気に駆り立てられているわけではない。暴力と怒声が響く教室の中には、机の下で丸くなって泣いている娘、教室の端っこで震えている娘もいた。彼女たちは突然巻き起こった理不尽な暴力の嵐になす術もなく恐怖におののいている。


 きらは、学校という空間で繰り広げられているとは思えない混沌とした光景を目の当たりにして、恐怖で身体が硬直し、背中には嫌な汗なにじみ出てきた。


 どうすればいいのだろう?

 なんとかしたいと思う。

 こんなのはどう考えてもおかしい。

 止めなければと、思う。


 だけど、動こうとすると――先ほど保健室で理不尽に受けた暴力の記憶が蘇って、身体はまったく動いてくれない。


 きらがなにもできないまま硬直している間にも教室の状況はさらに混沌としていく。刻々と変化を続ける混沌はまるで生物みたいだ。


 そういえば――先生はどこにいったんだろう? 教室の中があまりにも混沌としているせいで、先生の姿が見つからない。こんな状況になっているが、いまは間違いなく授業中のはずである。逃げてしまったのだろうか?


 すると、扉を開けた夏穂は教室の中へと足を踏み出した。


「な、中に入るの? 危ないよ!」

「大丈夫よ。たかが女子高生が暴れているだけでしょう。別に死にゃしないわ」


 夏穂はいつも通り平然とした顔をして、いつもと同じく人らしさを欠いた透明な声で澱みなく告げる。


「そ、そういうことじゃなくて!」

「……そういうことじゃないってどういうこと?」


 夏穂は首を傾げてきらに目線を向ける。きらを見据える彼女の目は――とても恐ろしいものに思えた。


 その目を見て、彼女が本当にこの光景を――学校という空間で行われていいはずのないこの混沌をなんとも思っていないのがわかってしまったからだ。


 この娘はこの光景を――いや、それどころか自分のことすらなんとも思っていないのだろう。この混沌以上に、夏穂のあまりにも人から外れた在り方にきらは恐怖を抱いてしまった。なにも言い返せなくなる。


「危ないからあなたたちはここにいなさい。中で暴れてるのに目をつけられないようにしてね」


 そう言い残して、夏穂は混沌とした教室の中に足を踏み入れていった。


 混沌の中を進む彼女の足は迷うことなく前に進んでいく。きらは、あまりにも迷いなく進むその歩みには危うさを感じてしまう。なにをしてでも、夏穂のことを止めるべきだったのにと後悔した。


 どうしたらいいのかまったくわからない。

 止めるべきだった夏穂のことを止められなくて。


 自分の身が惜しくて、夏穂と一緒に教室の中に足を踏み入れることができなかったのが口惜しくて。


 どうしようもない敗北感に包まれる。


 そのとき――きらの右手に温かい体温が感じられた。感じられたその体温で、恐慌に陥りかけたきらの精神は少しだけ平静を取り戻す。


 そちらに目を向けると、きらのことを案じるように命が見上げていた。彼女の目線は、自分の目線よりも十センチ以上下の位置にある。いまでもなお直接言葉を交わしたことがなかったけど――この娘がなにを言いたいのかすぐに理解できた。


 命は大丈夫だと言いたいのだ。


 当然、命だってあの教室の中に入っていった夏穂のことを心配しているだろう。彼女の目にも不安は感じられる。


 だけど――


 命は強い不安を感じていながらも、夏穂のことを誰よりも信頼しているのだ。だからこそ彼女は夏穂のことを止めなかった。それがわかって――


 自分にはできなかったことを――自分よりも遥かに危なっかしい命ができているのだと知って、少しだけ嫌な気持ちになる。


 けれど――


 こんなのも弱々しい命ができているのだから、自分だって同じようにできなければいけない、そう強く思った。


「ありがとね」


 きらがそう言うと、命はきらの顔を見上げて少しだけ微笑んだ。ほんのわずかの変化だったけれど、自分にそんな感情を向けてくれたことはとても嬉しかった。命の微笑みを見たあと、教室の中にいる夏穂の目を向ける。


「あ……」


 教壇へと進んでいく途中、たまたま目についた夏穂にからんでいく娘の姿が目に入った。先ほどまで別の娘と取っ組み合いをしていた娘だ。それが目に入って、きらは思わず声を上げてしまう。


 ここからでは、その娘が夏穂になんと言っているのか聞き取れなかった。


 だが、胸倉をつかんでなにかを叫んでいる様子を見れば、それが友好的なものではないのは明らかである。自分のように理不尽に暴力を振るわれるのではないかと思うと、やっぱり恐ろしい。


 しかし、胸倉をつかまれて近い距離で叫ばれても、夏穂は涼しい顔のままだ。胸倉をつかまれ、恫喝をされても、彼女は怯みもしていない。


 夏穂がなにかを言い返すと――


 彼女の身体から、どこかで見たことのある黒い『なにか』がにじみ出し――

 胸倉をつかんでいた娘の手から、それがにじみ込んでいって――


 狂気に駆られていた娘は、見てはいけないものを見てしまった顔をして手を離す。

 手を離すと、彼女の手ににじんでいた黒い『なにか』は綺麗に消えていた。


 また――なにか見えた。

 保健室で見たものと似ている。


 夏穂の身体からにじみ出す黒い『なにか』――あれは一体なんなのだろう?

 彼女は気のせいだと言っていたけれど――あれは気のせいなんかではない。あそこまで強く記憶に残る気のせいなどあるとは思えなかった。


 夏穂の身体からにじみ出した黒い『なにか』に触れてしまった娘は、先ほどまで彼女を満たしていた狂気はすべて取り払われ、青い顔となってそのまま後ずさって尻もちをついてしまった。それから、彼女は口からよだれをたらしたまま呆然と天井を眺めたままぴくりとも動かない。


 ――やっぱり、気のせいじゃない。


 だけど、夏穂がなにをしているのかまったくわからなかった。

 だが、自分にからんできた娘がそんな状態になっても、夏穂はまったく気に留めることはない。混沌としている教室を悠然と進んでいく。


 夏穂は教壇のところまで辿り着いて、その近くでしゃがみ込んだ。なにをしているのだろうと思ったところで、教壇の影からもう一人誰かが立ち上がったのが見えた。


 立ち上がったのは今年赴任したばかりの、若い女性教師だった。まだ経験の浅い彼女は、いきなりこのような混沌となってしまい、どうすることもできず、教壇の影で震えていたのだろう。


 夏穂と女性教師は、何回か言葉を交わしたのち、前の扉から教室の外に出てきた。夏穂は怪我をせず戻ってきてくれて、きらはひと安心する。


 夏穂と一緒に教室から出てきた女性教師は一度こちらに目線を向けたあとそのまま早歩きで去っていった。彼女が去ったのを確認してから、夏穂は二人のもとに戻る。いつも通り、涼しい顔をしたままで。


「だ、大丈夫?」

「うん」

「先生は……どうしたの?」

「ちょっと収拾がつけられないから、職員室で誰か読んできてくださいって言った」


 その判断は当然である。


 あんな混乱、今年新任したばかりの若い教師に収拾がつけられるはずがない。しばらくすれば別の教師がやってきて、事態の収拾を図るだろう。


 場合によっては警察も来るかもしれない。


「あ、あの……」

「なに?」


 からんできたあの娘になにをやったの? と訊こうとしたけれど――言葉が出てこなかった。気になるけれど、それについて訊いてはいけない気がして――


「……ううん。なんでもない」

「……ならいいけど。それじゃあ――」


 と言ったところで、隣の教室から尋常ではない物音が聞こえてくる。なにか大きなものが思い切り壁にぶつけられたらしい。それをはっきりと聞いてしまって、きらはびくりと身体を震わせ、背後を振り向いた。


 もしかして――


「ここで起こってる混乱は――別のクラスでも起こっているようね」

 軽やかで涼しげな口調で夏穂は言った。彼女の意見にきらも同意する。

「正直、面倒なことになってきたから他の先生がやってくる前に離れたほうがよさそうね。行きましょう」


 颯爽と歩き出した夏穂にきらと命も続く。

 果たしてこの混沌をなんとかできるのだろうか?

 狂気に駆られたクラスメイトたちはもとに戻ってくれるのだろうか?


 色々な心配がきらの中に渦巻いていく。

 だけど――自分にできることはなにもなくて――


「あなたが気を病む必要はないわ。悪いのは願いを叶える代わりになにかした自称『悪魔』なんだから。悪いのはそいつよ」


 夏穂は立ち止まって振り返り、きらに対してそう告げる。


「『悪魔』……」


 夏穂からそう諭されて、どうして自分が彼女に話しかけたのかをやっと思い出した。

 願いを叶えてくれる『悪魔』――そいつをなんとかしたくて、きらと夏穂の関係が始まったのだ。

 この学園のどこかに潜んでいる『悪魔』――そいつをなんとかしなければ、この異常な状況を正常な状況に戻すことはできない。


「じゃ、どこかゆっくり話ができる場所にでも行きましょうか」


 夏穂は振り返り、色の薄い髪を揺らしながら再び歩き出した。

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