第59話 略奪の悪魔13

 どうやら、少し席を外していた間に大変なことになっていたようだ。夏穂は改めて命ときらの様子を窺ってみる。


 きらはまだ足もとがふらついているし、命は怯えた様子で夏穂の手を強く握りしめている。突然、保健室に現れたあの娘にどんな暴行を働かれたのだろうか?


 ――なにか妙なことが起こり始めている。


 廊下での騒動といい保健室でのことといい、いまの学園内には不穏な雰囲気に満ちはじめている。


 いや、もう満ちているのかもしれない。


 まるで堤防が壊れて氾濫した河川にように狂気が流れ出している。いきなり理不尽な暴力を受けた二人はその狂気を確かに感じているはずだ。


 乾いた足音だけが響く廊下は、まだ昼だというのになにか不穏だった。

 先ほどの娘もそうだ。彼女は『なにか』を失っていた。『なにか』を失った結果あのような行為に及んだことに間違いないだろう。


 その『なにか』を失った原因は――


「悪魔に願いを叶えてもらった結果……かな」


 夏穂がぼそりと呟くと、彼女の手を握る命の力が一瞬だけ強くなった。命はまだ怯えている。それを見ていると、いまの自分にわずかばかり残された感情である怒りが外に滲み出していくような気がした。


 不安そうな顔をして命は夏穂の顔を見上げてくる。


 それを見て、夏穂に彼女に向かって「大丈夫だから安心しなさい」と言ってあげた。気休めにしかならないが、なにも言わないよりはましだろう。気持ちなんてものは言わなきゃ伝わらないし、言ったってしっかりと伝わるとは限らないのだ。それなら言ってしまったほうがいい。そんなふうに思う。


「ねえ、里見さん。一体なにが起こってるの?」


 夏穂の半歩後ろを歩いていたきらが不安そうな声でそんなことを訊いてきた。不安になるのも無理はない。なにしろ彼女は二度も理不尽で意味不明な暴力を振るわれたのだ。それもわずか一時間もしないうちにである。


 この学園は全寮制の私立ということもあり、多くの生徒は裕福な家の娘で、暴力的な行為とは基本的に無縁だ。真面目な委員長であるきらもその一人だろう。その身に受けた暴力以上の衝撃を受けているに違いない。


「私にもよくわからないのよね。飲み物を買いに行ったら、人だかりの中で取っ組み合いをしている二人と倒れているあなたを見かけただけだから。

 だけど――」


 そこで夏穂は一度言葉を切って半歩後ろを歩くきらに視線を向けた。彼女がごくりと息を呑む音が聞こえる。


「あれが起こった原因が――件の悪魔とやらに願いを叶えてもらった代償なのは間違いないでしょうね。それ以外の理由はなさそうだし」

「やっぱり……」


 きらは少し震えた声を上げる。


「それにしても悪いことをしたわね」

「え?」

「だってあいつが狙ってたの、たぶん私よ。下駄箱近くで取っ組み合いをしていた二人を止めたのは私だったから。すぐには来ないと思って席を外したのは浅はかだったわ。まあ、判断を間違うのはいつものことなのだけれど。本当にごめんなさい」


 夏穂は立ち止まってきらに頭を下げた。


「……えっと、その――大丈夫だから気にしないで」


 きらは両手を振りながら困惑していた。夏穂から謝られるとは思っていなかったのだろう。そんなところも、真面目な委員長である彼女らしい。


「変なことになったから保健室を出てってしまったけれど大丈夫かしら? ふらついているところを見ると、あの娘に暴力を振るわれたのでしょう? おかしなところがあったら我慢しないほうがいいわ」

「いまのところは大丈夫。ありがとね……っと」


 きらは、はにかんだ笑みを見せると、まだ足にきているのかふらついてつまずきそうになる。夏穂はそんな彼女の身体をもう片方の手で受け止めてあげた。


「ご……ごめん」


 夏穂に身体を受け止められたきらは恥ずかしそうな声を出した。


「別にいいわよ。気にすることはないわ。まだふらついているみたいだし、手を繋いだほうがいいかしら」

「…………」


 夏穂に身体を受け止められたまま、きらは硬直していた。命ほどではないが、彼女の身体も温かい。温かく感じるのは、夏穂の体温が低すぎるせいのかもしれないが。


「じゃ、じゃあ、そうする……ね」


 失礼します、なんて律儀なことを言って、自分の手を制服の裾で何度か拭ってから、きらは夏穂の手を握った。彼女の手は少しだけ汗ばんでいる。

「教室に戻ろうと思っているのだけど――大丈夫?」


 夏穂は二人に対してそう問うた。二人とも同じく首肯してくれる。

 でも、そう言ったきらの声にはどこか不安があると感じられた。気になったので夏穂がそれについて訊いてみると――


「喧嘩してたうちの一人がクラスメイトだったから――どうなってるのかと思って」

「……なんだか嫌な予感がするわね」


 異様な熱に包まれて取っ組み合いをしていたうちの一人がクラスメイトである――そして、保健室に現れた娘と同じように奪われていたのだとすれば――


 授業をサボって保健室にまで出向いてきたのだ。なにか起こっても不思議ではない。


 いや――

 もうすでに起こっているかもしれない。


 いまこの学園にはおかしなものによって満たされている。ただでさえここは、おかしなものが発生しやすい場所なのだ。そのため、閾値を超えてしまうと、フィードバックを起こして収拾がつかない事態になるのも充分あり得る。それが起こってしまうと面倒だし、命にも悪い影響を与えるのでなんとかしたいところではあるが――


 なんとかしようにも問題を起こしている『悪魔』とやらがなんなのかもまったくつかめていない現状を考えると、それはなかなか難しい。


 なんとかするのなら――まずは生徒の願いを叶えている『悪魔』の尻尾をつかまなければ駄目だ。それができなければなにも始まらない。


 どうやればいいだろうか?


「ねえ阿黒さん、訊きたいことがあるのだけどいいかしら」

「いいよ。なに?」

「最近、なにかおかしなこととかあった?」

「おかしなことって――例えば?」

「そうね――変なものを見たとか、記憶にないものが部屋にあったとか――かな」

「うーん」


 唸るような声を上げてきらは思案する。


「それはないと思うけど――ついさっき、知らない人から変なこと言われたな」

「変なこと?」

「お前じゃないのか? とか、手続きを踏まない奴は客じゃないのか? とかそんなの」

「……なにそれ」

「なんでそんなこと知らない娘から言われるのか全然心当たりなくて」

「それでどうしたの?」

「突然そんなこと言われて困ってたら、向こうが勝手に去っていったの。どうしてそんなこと言われたのか、全然わからなくて」

「……ふむ」


 夏穂はきらの様子をそっと確かめてみる。彼女は本当に困っているようで、嘘を言っているようには見えない。夏穂に対してそんな嘘をつく必要性もないはずだ。真面目な委員長であるきらがそんな嘘をつくとは思えないが――


「その人、どんな感じだった?」

「なんだろう、追い詰められているというか焦っているというか――そんな感じ」


 追い詰められた様子できらに話しかけてきた。なんだろうそれは。妙にどこか引っかかる。


「おかしなことを訊くけれど――阿黒さん、瓜二つの双子の妹とかいる?」

「ううん」


 きらは首を横に振った。


 そんなの当たり前である。実は双子だったなんていうのは五十年前でさえ禁じ手とされた手段だ。カビも生えないくらい馬鹿馬鹿しすぎるし、そもそも、現実では間違いなく起こり得ない。


 とは言っても――知らない娘がきらに話しかけてきたのなら、それにはなにかしら理由があるはずだ。ただならぬ様子であったのなら――それは間違いない。


「なんだか……騒がしいね」


 階段を上がって夏穂たちのクラスにある階に辿り着くと、どこか既視感が感じられる騒がしさがどこからか伝わってきた。その騒がしさのせいで、夏穂の手を握る二人の力が強くなったのが感じられる。


「ねえ……これって」


 恐る恐るといった様子できらが質問する。やはり、きらも同じようにこの騒がしさに既視感を感じているようだ。


「ちょっと様子を見に行ってくる。二人はここで待ってて」

「ううん。一緒に行かせて」 


 きらはそう言って、命もそれに頷いて同じ意見だと主張する。先ほどのことを考えると、一緒にいたほうが安心かもしれない――夏穂はそう考え、「危なくなったらすぐに逃げていいから」と二人に告げた。


 三人は手を繋いだまま廊下を進んでいく。クラスに近づけば近づくほど、伝わってくる騒がしさは大きくなり、その中にある狂気が強まっていくのが感じられた。二人の手から伝わってくる動揺を感じながらも、夏穂は歩みを進めていく。


 教室まで辿り着くと――扉を開けるまでもなくその中はすでにおかしくなっていることがわかった。


 罵声。

 怒号。

 騒音。

 熱狂。


 狂気に彩られたそれらが薄い壁越しから漏れている。


「危ないから二人は下がってて」


 夏穂がそう言うと、命ときらは握っていた手を離す。

 両手が自由になった夏穂が教室の引き戸を開けると――


 そこには――学び舎とは思えないほど荒れ果てた光景が広がっていた。

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