第42話 春と恋と金と炎10
「今日はありがとう。それじゃあまたね」
はなの部屋を出る前――姫乃は、はなに向かってそんな言葉を投げかける。
正直なところ、彼女を一人にするのはとても心配だった。本当に一人にしても大丈夫だろうか? 以前からなにかに追い詰められていたのだ。そこに、目の前で生きたまま人間が燃えて死ぬというショッキングな光景を目の当たりにしてしまった。
それ以来――ろくに物も食べることも、睡眠も不充分であることも、ひと目顔を見たときにそれがわかってしまうほどだ。下手すれば、自殺もしかねない状態である。なんとかしてあげたい――そう思うけれど、医学的な知識がなにもない自分がどうするべきなのかまったくわからなかった。
やはり、はなのことを相談するなら三神先生だろうか? カウンセラーらしさのかけらもない人だけど――先輩が言うにはそこまで怖い人でも悪い人でもないらしいが――
「あの先輩が言う、『いい悪い』はあまりアテになりませんよねえ……」
誰の姿も見えない寮の廊下を一人で歩く姫乃はそんなことをぼやいた。
なにしろ先輩は他人に対する関心が欠けている。先輩のことは好きだし、信頼もしているけれど――あそこまで無関心な人が、『人間のいい悪い』がわかるのだろうか、と姫乃は疑問に思ってしまうのもまた事実であった。
とは言っても――この学園は金満私立であるわけだし、明らかにおかしな人間を雇っているとは思えないが――
そんなことを考えながら歩いていると――
――自分に対して露骨な敵意を向けている視線と衝突した。
姫乃のことを睨みつけているのは見覚えのない娘だった。いまのところ、他クラスに知り合いと呼べる相手は誰もいない。
なのに、どうして自分はあんな敵意を向けられているのだろう? そんな疑問を抱きながらも、ここまで露骨に睨みつけられて目線を逸らすのは癪なので、姫乃は立ち止まってその娘に対して視線を注ぐ。相手も視線を外そうとしない。視線がぶつかり合う二人の間にぴりぴりした空気が満たされていく。
面倒だなあと思いながらも視線を外さない姫乃はしばらくして、敵意を向けている娘の様子にどこか既視感を覚えた。
――これは。
はなと同じだ。
自分に敵意を向けるあの娘の雰囲気は、先ほどまで話をしていたはなと似ているのだ。はなは自責的になっていたが、いま目の前にいる彼女は他人に対してそれを発露している。迷惑な話だが――その気持ちは理解できる。
ということは――
あの娘は、はなと関係があるわけか。
自殺した加賀という娘の自殺には他にも誰かかかわっているのは聞いている。露骨な敵意を向けているあの娘は、はなと仲よくしていた一人なのか――
そう思うと、あほみたいな対抗心を燃やして時間を浪費するのも馬鹿馬鹿しくなって、姫乃は合わせていた視線を外していつもより速い速度で歩き出した。彼女に一番近づいたそのとき、向こうから舌打ちが聞こえてくる。
それにイラっとして、思わず睨み返しそうになったけれど、姫乃は思いとどまった。無視すると決めたのに、そこでイラついてはなんの意味もない。露骨な舌打ちをされて湧き上がってきた怒りをなんとか押し留めて、姫乃はその娘のすぐ横を通過する。
なにか因縁をつけてくるかと思ったけれど――なにも起こらなかった。睨みつけていたあの娘の横を通過した姫乃は階段を降りていく。あんな奴のことを考えていても仕方がない。
さっさと忘れてしまおう。なにしろ、これから先輩とお話するのだ。せっかく先輩の部屋にお邪魔するというのに、嫌な気持ちを持ち込むのは失礼だ。
どうやら――
あの焼死事件は、はなたちのグループに相当の衝撃を与えたようだ。それは明らかである。そうでなければ、はなも先ほどの娘もあのような態度を取るとは思えない。果たしてなにがあったのだろう。なにか後ろ暗いことは明らかであるが――
そんなことを考えながら歩いていると、先輩の部屋の前まで辿り着いていた。一番奥にある角部屋。これから先輩のお部屋にお邪魔すると思うと、胸が高鳴る。いい匂いとかするんだろうなあ。高鳴る気持ちを少しでも抑えるために、一度だけ深呼吸してから、扉をノックする。
ノックしてすぐ先輩はドアを開けて顔を出した。
「あら、来たのね」
いつも通り人らしさに欠いた口調で喋る先輩はどこか不健康そうに見えた。
「そりゃあ、先輩の部屋に上がれるわけですし、行かない理由とかありませんし、うまいことやれば既成事実とか作れるじゃないですか。一回くらいどうです? 二人きりですし、不純でいやらしいことしましょうよ」
「……そんなこと言えるのなら大丈夫ね。さっさと上がりなさい」
「……はい」
やんわりとスルーされてしまったので、姫乃は少しだけがっくりとしつつも先輩の部屋の中へと入っていく。
人間が目の前で焼死するなんて衝撃的な光景を見たのにもかかわらず、先輩は相変わらずだった。いつも通り、宇宙空間のように空虚だ。人間味をどこまでも欠いているはずなのに、先輩が近くにいると妙に安心するのは何故だろう。
先輩の部屋は――二段ベッドと机以外なにもなく、生活感のない部屋であった。
「どこでも座っていいわよ」
そう言われたものの、ベッドに腰かけるのは失礼かと思って、姫乃は適当な床に腰を下ろす。先輩は勉強机の椅子に腰を下ろして、姫乃のほうに椅子を向けた。
「なんだか、物が少ないですね」
「まあ、一人で使ってるし」
「そうなんですか?」
部屋割りは二人と決められているはずだ。
学則は比較的ゆるいとはいえ、一人部屋にしてくれといったところで、それを通してくれるとは思えない。そもそも先輩が一人部屋にしてくれなんて言うとも思えなかった。糞まみれの汚い家畜小屋であっても気にせず暮らしていそうである。
「昔は二人部屋だったんだけど、どういうわけか同室になった娘たちに拒否られちゃってねえ。あまりにもそれが続くから一人部屋にされたのよね。三年半くらいかしら。要は腫れもの扱いされてるわけ。私としてはなにもしてないんだけど」
「…………」
先輩との同室を拒否った娘たちの気持ちもわかる気がする。先輩は異質な存在だ。それもとびっきりの異質である。多くのお年頃の女子が、その異質さに耐えられなかったとしても無理はない。
「きっと、私が卒業したあとはこの部屋は事故物件的な扱いを受けるのでしょうね。板でも張られて閉鎖とかされるのかしら。知ったことではないけれど」
心底どうでもよさそうに先輩は言った。
「ところで、赤城さんの様子はどうだった?」
「話はしてくれたんですけど――かなりやばそうでした。食事もろくに摂っていないようでしたし、睡眠も不充分のようです。どうしたらいいんでしょうか」
「京子さんに相談するのが無難でしょうね。あの人あれでも医者だから。行きたくなさそうならなんとか説得するか、無理矢理連れていくしかないわね。まあ、あとは――あなたができるだけ毎日様子を見に行って、話し相手になってあげるくらいしかできることはないんじゃないかしら」
「迷惑……だったりしませんかね?」
「今日、会ってくれたのだし、下手なことしなければ大丈夫なんじゃないかしら。嫌だったら門前払いされていたと思うし。迷惑になるかどうかはあなたのやりかた次第でしょう。その方法をぼっちの私に訊かないでほしいところだけど」
「……そうですね」
はなのことを放っておくわけにもいかないし――難しいがやるしかあるまい。
「ところで、今日はなんのご用でしょう?」
今回はなにが間違ったのか、姫乃のことを先輩が呼び出したのである。先輩のほうから呼び出してくれるなんて、それは失神しそうなくらい光栄ではあるのだけど――予想外のことすぎて困惑していた。
「あんなことがあって、うやむやになってしまったけれど――あなた、加賀さんと仲よくしていた子たちの名前を知りたがっていたでしょう。それを教えようと思って。なにか手段があるようだし」
「……忘れてなかったんですね」
そんなのすっかり忘れていると思っていた。
というか、重大なことが起こったので、姫乃自身も完全に忘れていたのである。この人、とても意外だがかなり律儀なのでは?
「まあね。で、これが名前のリスト。たいした情報はないんだけれど、自由に使ってちょうだい」
そう言ってクリップで留められた数枚の紙を差し出した。ぱらぱらと紙をめくって中身を確認する。名前と簡単なプロフィールがまとめられただけのものだった。
しかし――
「いえ、これで充分です。あとお願いがあるんですけれど――」
「なにかしら? 真面目なお願いだったらいいわよ」
「真面目ですよ。友達のことなんですから。個人的なお願いとかいやらしいお願いはこれが終わってからしますので」
「……で、なにかしら?」
「先輩にこんなことをお願いするのは失礼だと思うんですけど――」
姫乃は、先輩に失礼を承知でお願いを言った。
それを聞いた先輩は――
「なんだそういうことね。いいわよ。それくらい。そのほうがうまくいきそうだしね。役割分担って大事よ。そういうの得意だし」
まったく気に留める様子もなく、姫乃のお願いを聞いてくれた。
自分で提案しておいてあれだが――得意なのかよ、と心の中で突っ込みを入れる。
「ありがとうございます」
姫乃は先輩に一礼をして、それから今後のプランについて話し合った。
話が終わって先輩の部屋を出たあと、姫乃は少しだけ自己嫌悪に囚われる。
これがどう転ぶかわからない。これではなのことを確実に救えるわけでもない。みんなが不幸になって終わるだけかもしれない。
だけど――
未熟なことに、これ以外方法は見つからなかった。
やるべきことをやろう――そう心に決めて、姫乃は歩き出した。これからしばらくの間、少しだけ忙しくなる。
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