第41話 春と恋と金と炎9

 青い炎が綺麗に輝きながら音もなく揺れている。燃えているのは――よくわからないけど大きな物体。実によく燃えている。灯油でもかけられたのだろうか? それくらい青い炎の勢いは激しい。でも、どうして燃えている『なにか』は動いているのだろうか? その動きはなんだか苦しむ生物みたいだ。


 それに、この悪臭はなんだろう? これを嗅いでいると吐き気を催すのを通り越して頭がおかしくなってしまうそうだ。それくらいこの臭いは耐えがたい。


「――――」


 誰かの声が聞こえる。苦しいのか痛いのか――それはわからないけれど――聞こえてくる声は絶叫と呼ぶべきものだった。どうして炎から声が聞こえてくるんだろう? おかしいな。炎に意思なんてあるはずがないのに。不思議なこともあるもんだ。


「――――」


 相も変わらず炎から声が聞こえてくる。なにを言っているのかまったくわからないけれど、その声が苦しんでいることだけは理解できた。


 燃えるのってそんなに苦しいのかな? あんた炎なんだから燃えるのが仕事じゃないの? そんなことを思った。自然物にも魂ってあるのだろうか?


 まあ、世の中には不思議なこと、想像を超えたことなんてたくさんあるし、あってもおかしくないと思う。


 ちょっと前まで、人間が空を飛ぶなんてできなかったわけだし、喋る炎くらい出てきたっていいはずだ。いまの科学はすごいらしいし。よく知らないけれど。


 青い炎の後ろから、誰かの姿が目に入った。自分と同じ年頃の女の子である。誰だろう? よく知っているはずなのに、誰だか思い出せない。それに、どうして半透明なんだろう。なんだか幽霊みたいだ。


 半透明の女の子と目が合った。彼女はとても怖い顔をしていた。赤い涙を流し、憎しみでゆがみ切っている。どうしてそんな顔で見つめてくるのだろう。あの娘にこちらがなにか悪いことをしたのかな?


 少しだけ考えてみて、心当たりは思い浮かばなかったのに、そうかもしれないと思った。そうじゃなかったら、あんな怖い顔しないはずだ。


「――――」


 女の子がなにかを言った。炎から聞こえてくる絶叫のせいで、彼女がなにを言ったのかまったく聞き取れなかった。なんて言ったのだろう?


 全然聞こえなかったけれど、彼女がなにをしたかったのかは不思議と理解できた。それは何回も聞いている言葉だったから――


 気がつくと、自分の身体は青い炎に包まれていた。四肢、胴体、頭――身体の色々なところから青い炎が巻き上がっている。


 いつもと違うのは、とても痛くて苦しかったこと。痛くて苦しくて怖いのに、まったく声が出せなかった。炎を振り払おうと必死になってもがいても、赤い涙を流し、怖い顔をした女の子は助けてくれない。


 そんなの当たり前だ。

 自分で追い詰めておいて、見殺しにしておいて――それにもかかわらず自分が苦しんだときは助けてほしいなんて都合がいいにもほどがある。


 だって、あの娘は――


 あの娘は――なんだっけ?

 よく思い出せない。


 でも、あの女の子に自分がとても悪いことをしてしまったのはしっかりと覚えている。


 青い炎に焼かれて、痛くて苦しくて怖くて、ちゃんと考えられない。もう、自分もあそこで燃えている『なにか』と同じようになってしまうのだろう。


 ああ、そうか。

 愚鈍なことこのうえないが、ここまでいってやっと気づいた。


 あそこで燃えているのは人間だ。


 ついこの間、それを見たばかりじゃないか。どうして忘れていたんだろう? やっぱり、馬鹿だからかな?


 あそこで燃えているのは、自分と同じように――あの娘に対してひどいことをした誰かなんだ――それに気づいたところで、痛みと苦しみと恐怖で彩られていたはなの意識はそこで途切れてしまった。



 目を覚ますと、そこは暗い部屋だった。


 見知った自分の部屋のはずなのに――まったく知らない場所のように思える。時刻を確認すると、もう昼を過ぎていた。


 ――青い炎。

 ――燃える人間。

 ――人脂が燃える悪臭。


 記憶にこびりついて離れないその光景を思い出して、はなは猛烈な吐き気に襲われて、慌ててトイレに駆け込み、便器に向かって吐き戻した。これで何度目だろう。数えるのも嫌になるくらい吐いている。あの日から、ほとんどものが食べられないから、出てくるのはすっぱい胃液だけだ。


 三日――ずいぶんと経った気がするのに、あの日からまだ三日しか経っていない。


 はなの目の前で、竹内が生きたまま燃やされてから――それだけの時間しか経過していない。それを思うと、背筋がぞっとした。


 竹内が燃やされたあのあと――自分がなにをしていたのか曖昧だ。


 警察が来て、なにか喋ったような記憶はあるけれど――具体的になにを喋ったのかまったく思い出せない。たぶん、竹内が目の前で燃やされるのを目撃して、おかしくなってしまったのだ。そうじゃなかったら、記憶がここまで曖昧になってしまうはずがない。


 ――でも。

 それも仕方ない。そう考えて、はなは自分に言い聞かせる。

 これは、卑怯者の自分が受けなければならない罰なのだ。


 欲と保身のために――友人を見捨てた愚か者に与えられるべくして与えられた罰なのだ。そう思えば、この苦しみにだって――耐えられる。いや、耐えなければ駄目なのだ。彼女は――自分たちに自殺に追い込まれたゆいはもっとつらい思いをしたはずなんだから。


 なにも出なくなってから、はなはトイレを出て、口をゆすいでからベッドへと戻る。


 いまはなにもしたくない――それ以外頭にはなかった。学園内で死人が出た影響で、あと数日は休みだ。目の前で人間が燃えるなんてショッキングな光景に遭遇したのだから、しばらく授業をサボったところで教師も文句は言わないだろう。そもそも、他にやることもない。


 どうせ――


 そのうち、自分たちは竹内と同じように燃やされて殺されるのだ。あの青い炎に燃やされて、無様に苦しんでのたうちまわって燃えて、炭になって死ぬに違いない。


 竹内が燃やされた以上――自分も他の三人だって例外ではないはずだ。

 だからきっと自分たちは全員、近いうちに殺される。

 恨みにゆがんだ怖い顔で、赤い涙を流すゆいによって。


 全員――無残に殺されてしまうのだ。

 夢で襲っていた青い炎が現実でも襲いかかって――燃やされて死ぬ。

 自分たちは彼女に殺されても仕方ないことをした。それは事実だ。


 それでも――はなは死にたくなかった。

 自分が消えてしまうのが怖くて怖くて仕方なかった。

 竹内みたいに生きたまま火を点けられて、苦しんで死ぬのが怖くて仕方なかった。


 ――死にたくない。


 目の前で誰かが死ぬ瞬間を目撃して思ったのがそれだった。殺されても仕方ないと思っている――はず、なのに。


 どこまで自分は卑怯者なら気が済むのだろう。いままで以上に自分の卑怯さに、自分勝手さに嫌悪感を抱いた。


 もう、なにをしたって無駄だ。もう逃げられない。仮に、この学園から逃げ出したとしてもゆいの炎は自分を追いかけてくる。殺されるのを大人しく待っている以外できることなんてない。


 どうして――もっと早くできなかったのだろう?

 こうなるまえに、自分の罪を告白していれば――


 ――違う。


 ゆいの自殺を止められれば――

 自分が嫌な思いをすることになっても、ゆいの味方になってあげたのなら――

 ――こんなことには、ならなかったのに。


 罪悪感に潰されることも――

 殺されるかもしれない恐怖に震えることもなかったはずだ。


 どうしてそんなことがわからなかったのだろう?

 どうしてそんな愚かなことしかできなかったのだろう?

 どうして、正しい選択ができなかったのだろう?


 いまのはなには、後悔と絶望と死の恐怖しか残されていない。

 そのとき――扉をノックする音が聞こえてきた。その音で、布団をかぶって震えていたはなはびくりとする。


 誰だろう――ルームメイトならノックはしないはずだ。正直いまは誰にも会いたくない。このまま無視してしまおうか――そう思ったとき――


「はなちゃん。大丈夫ですか?」


 扉の向こうから聞こえてきたのは、姫乃の声だった。扉越しからも、彼女は自分のことを案じているのがわかる声だった。


 あんなに迷惑をかけたうえに――心配までさせるなんて自分は本当に最低だ。そう思うものの、姫乃が自分のことを心配してくれるのは本当に嬉しかった。


 どうするべきか躊躇して――はなは布団から出てよたよたと歩き、一度唾を飲み込んでから扉を開けた。


「ああ、よかった。返事がないのでなにかあったのではなかと思いました」


 そうにこやかな笑みを見せて言った姫乃の姿は、ずっと暗い部屋で過ごしていたはなの目が眩んでしまうほど明るい。でも、容赦のない明るさが暗く沈む恐怖に震えるはなを安心させてくれた。その安心で、涙がこぼれそうになる。


「大丈夫なら少しお話しませんか?」


 そこで、姫乃が以前見たときよりもやつれていることに気がついた。

 人間が燃えて死んだところを見てしまったのだ。底抜けに明るい姫乃だって自分と同じ高校生である。あんなものを見て、平然としていられるほうがおかしい。


「うん。わたしの部屋でもいいかな?」

「いいですよ。それではお邪魔します」


 ルームメイト以外がこの部屋に入ったのはいつぶりだろう。思い出してみると、ここ最近、誰かを部屋に入れた覚えがない。


 それどころか、竹内が死んだあの日からはなは一人だった。就寝時間にはルームメイトも戻っているので、厳密にはずっと一人だったとは言えないけれど――一人にしてほしかったはなの雰囲気を察して、ルームメイトは日中ずっと友人の部屋にいる。もうしわけないことをしている自覚はあったけれど、どうにもできなかった。

 三日ぶりに部屋の明かりをつけると、その眩しさで目が痛くなる。


「好きなところ座って」

「ありがとうございます」


 礼儀正しく姫乃は言ってから、ぺたりと女の子座りをした。その姿勢がずいぶんと綺麗だったので思わずどきっとしてしまう。


「いやあ、はじめて他の娘の部屋に入りました。わりとものがあるんですね」

「持ち物に関しては案外ゆるいから――そうなのかも」

「こう言うのは失礼かもしれないのですが――はなちゃん結構読書家なんですね。金融関係なんてなかなか渋いものを」

「……うん。お父さんが証券会社のトレーダーだから、ちょっと興味があって」

「へえーそれは偶然ですね。あたしの父も投資家をやってるんですよ」

「そうなの?」

「ええ。去年の夏に母が再婚しまして――」


 それから、一時間ほど姫乃と話をした。

 その時間は、ここ最近ではまったくなかった――とても楽しい時間だった。

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