第25話 無間の牢獄2
「あい! して! まーす!」
鼓膜を破りかねない極彩色の叫び声とともに教室の扉を蹴り開けて入ってきたのは里見夏穂の後輩である清瀬姫乃であった。そのとき教室にいた生徒全員が驚きを見せて闖入者に「なんだよあいつ」という視線を注いでいる。
見知らぬ生徒がわけのわからない叫び声とともに乱入してきたのだ。そんな反応をするのも無理もない。そんな視線など一切気にせず姫乃は夏穂のもとに突進してくる。それは猛牛と言ってもいいだろう。
「はいはい。黙れぼけなす」
夏穂はそう言って、こちらに突っ込んできた姫乃に足を向けて迎撃した。その足がちょうど鳩尾に直撃し、「おぐう」なんて女子高生が出していけないうめき声を上げたのちストップして倒れ込んだ。
いつものように夏穂の膝の上に座っていた命は、それを見て困った表情を浮かべている。こんなあほなんて気にかけなくていいんだぞと夏穂は言ってあげた。
「なんですかそれ! 対応ひどくないですか? お昼ご飯全部出そうになったじゃありませんか! そんなことになっていたのなら先輩がたゲロまみれですよ! 女子としてゲロまみれはダメでしょう!」
姫乃は立ち上がって、離れて見てください、と言いたくなるような声色で言う。
「あんな風に突進されたら足くらい出したくなるだろ。それにこっちに向けて吐く必要性はどこにもない。吐くのなら下を向いて吐け。というかここ二年の教室だぞ。よくもまああんな風に入ってこれるな」
「どうしてですか? そんなこと気にする必要あります? お気持ちはわかりますけど、あたしがやる必要なくないですか? あたしと先輩の間には学年の差なんて障子紙以下の障壁でしかありませんからね!
「それとも、一年生が上級生の教室に入るときは、なんかかしこまった態度で入れないといけないとかいうクソローカルルールとかあるんですか?」
「さあ、知らないけど」
仮にそんなものがあったとしても、この後輩はそんなもの守らないだろう。この娘はそういう輩である。空気は読めるが、読む必要のない空気は徹底的に読まないのがこの後輩が持つ特徴の一つである。
「というか先輩」
姫乃は夏穂にじとっとした目を向けて言う。
「あたしという恋人がいながらなにいちゃついてくれてるんですか? ここ教室ですよ。空気とか読んだほうがいくないですか?」
姫乃のその言葉を聞いて、命はびくっと震えた。
「お前にだけは空気を読めとか言われたくねえ……」
「というか、私も先輩の膝に上に座りたい! いいっすか? あの、ちょっとでいいんで!」
「悪いな。私の膝の上は一人用なんだ」
「いいじゃないですか。一人も二人もそんなに変わりませんって。ささ、白井先輩。もう少しお詰めになって」
「やめろあほ」
夏穂はそう罵倒の言葉とともに、もう一度姫乃の鳩尾に足を入れた。鳩尾を蹴られた姫乃はまた「うぐう」なんていう女子が出しちゃいけない下品なうめき声を上げる。勢いが足りなかったのか、今度は倒れなかった。
「一人用と言ったのがわからないのか」
「……ということは、白井先輩が不在の時を狙えば! 私にもワンチャン!」
「ねえよ。ここは命専用なんだ。残念だったな。お前の番は永遠に来ない」
「ちくちょー!」
教室の視線をすべて集める大きな叫び声を上げる姫乃であった。演技ならなかなか迫真である。……すごく迷惑だからやめてほしい。
「ああ……先輩ったら、そんなゴミを見るような目で私のこと見て……興奮しちゃうじゃないですか。もっとひどいことしてください!」
「本当に気持ち悪いなお前」
「そういうところも――す、き」
そう言って教室の床をのたうち回る姫乃である。どうしたら正気を保ったままこんな気持ち悪い行動ができるようになるのだろうか――とそれを眺めながら夏穂は思った。
「あ、そうだ」
そう言って、突如として床でのたうち回っていた姫乃は立ち上がった。先ほどまで行っていた気持ち悪い行動とは打って変わって、真面目な表情になっている。切り替えはえーな、相変わらず。
「今日に限っては、先輩に月が綺麗ですねと言いたくてここに来たわけじゃないんですよ。思い出しました。お話、大丈夫です?」
「真面目な話なら聞いてあげるけど」
「真面目ですよ当たり前じゃないですか。あたしが真面目じゃなかったことなんていままでの人生で一度もありませんし。ああ、確かに先ほどまでふざけていたのは事実ですが、ふざけるのも真面目にやるのがモットーなので」
そんなくだらんモットー捨てろよと言いたいところであるが、それを言うと話が逸れるので黙っておくことにした。
「で、内容は?」
「先日、ルームメイトから相談を受けたのですが、こういう話は先輩がお得意かと思いまして――」
姫乃はそう言って、一切の澱みなく話し始めた。
要約するとこんな話だ。
課題のプリントを忘れたといって教室に戻ったルームメイトがなかなか戻ってこないと思ったら、なにやらおかしな様子で部屋で戻ってきて、それで話を聞いてみると――
ほんの短い間――そのルームメイトは、すべての音が消えた場所にいたという。そのうえ、そこから戻ったら、時間が四十分以上も経過していたらしい。その様子から、ルームメイトが嘘を言っているとは思えず、なにか怪異の類なのではと判断したようだ。
「それで、こういった話は先輩お得意じゃないですか。春のときもお世話になりましたし」
「決して得意ってわけではないのだけど――」
得意とは言えないが、得意でないからといってできないと決まっているわけじゃない。できるできないと得意不得意はそれほど関係がなかったりする。音のない場所に入った話が怪異の類であるならば、それは夏穂にはできる話だ。
「……わかったわ。この前あんたには前に手伝ってもらったし、まずは詳しい話を聞きましょう」
なにか埋め合わせをしてやらねばと思っていたところだ。
「ほんとですか先輩! 愛してます抱いて!」
三度突進してきた姫乃を夏穂は足で押さえた。だが今度は姫乃の足をつかまれてしまって、夏穂の足に頬ずりしてきた。その顔には恍惚を浮かべている。さっきまでの真面目は態度がどこにいった? このあほは余計なことにかんしてまで切り替えが早いのだろう。
「あー、でも。そろそろお昼休み終わっちゃいますし、詳しい話は放課後でも構いませんか? 当事者もいたほうがいいですし」
つかんでいた夏穂の足を離し、頬ずりをやめて姫乃はまた真面目な表情に戻ってそう言った。
「そうね。じゃ、今度は私がそっちの教室に行くわ」
「本当ですかわーいやったあ! それじゃあ失礼します!」
と、相変わらず極彩色のきんきん声を上げて回転しながら教室の扉に向かっていく姫乃。
姫乃が去ってからも、教室のそこかしこからひそひそと「さっきの娘なに?」みたいな声が聞こえてくる。いつものことながら話題を持っていく奴だなと夏穂は思った。これで嫌われてないんだから世の中ってやつはわからんものである。
姫乃の姿が見えなくなってすぐ、膝の上で借りてきた猫みたいに縮こまっていた命が夏穂の手を取って文字を書き始めた。
「京子さんに相談しなくていいのって? 大丈夫よ。いまの段階ではちゃんと話を聞かないと本物かどうかもわからないし。言ったところでどうせ私がやることに変わらないしね。面倒になりそうだったら言えば大丈夫よ」
夏穂はそう言って命の頭を撫でてやった。
「もしかして、なにか嫌な予感でもする?」
そう訊いてみると、命は『そんなことないけど――』と夏穂の掌を指でなぞったあと、少しだけ躊躇して、『あの娘と仲良さそうにしてて羨ましかった』なんてことを掌になぞった。少しだけ顔も膨らませている。
「あらあら」
夏穂がそう言うと、命は顔を赤くしてただでさえ小さい身体をさらに縮こませてしまった。
「あいつとは確かに気兼ねなく付き合える、いまの私にとって貴重な人間だけど――あなたに代わるものじゃないから安心しなさい」
夏穂のそんな言葉を聞くと、命は『本当?』と言いたげな目をして見上げていた。
「本当よ。あんたのことは見捨てたりしないから安心しなさい。ほら、そろそろ昼休みも終わりかだから、自分の席に戻りなさいね」
夏穂と命にしか共有できないものがあるのだからそんなの当たり前だ。
でも、そんなことは言葉にしてもなかなか伝わらないものなんだろう。たぶん。よくわからないけれど。
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