第22話 嫉妬の夢魔12

「私、あなたになにかしましたっけ?」

 それは、嫉妬と怒りに狂った私に残されていた最後の理性を崩壊させるには充分すぎた。


 ――そもそも


 そんなこと、はじめからわかっていたはずなのだ。里見さんが私のことなど一切気に留めていないことなんて。私にとってなによりも大事な思い出であっても、彼女には数時間と経たずに忘れてしまうくらいどうでもいいことなのは――


 わかっていたはず、なのに。


 私はどこまでも見誤っていたのだ。

 里見さんの無関心がどれほどのものなのかを――


 どうしようも、ないほどに。

 間違えていた。

 私は一体なにを期待していたのだろう。


 どこかから笑い声が聞こえてくる。どこまでも間違えていた私をあざ笑う声であることは間違いない。その声は愚かな私のことを心底嘲笑している。笑われて当然だ。それくらい、現実を突きつけられる前までの私は愚かだったのだから。


 ここに姿を現したときに、気づいておくべきだった。


 里見さんが私のことなんて記憶の片隅にすら残っていないことを。

 一年半前の出来事なんて記憶の片隅に残しておく価値すらないことを。


 どうして私は気づかなかったのだろう。

 本当に――愚か者だ。


 あの娘に手を出さないのなら好きにしていい。そんなことを平然と言えてしまう彼女が、ただ一度――ほんの少しだけかかわっただけの『誰か』のことなんて覚えているはずないじゃないか――


 すべて理解しても――

 理解せざるを得なくても――


 私は突きつけられた現実を許容できなかった。

 だから私は――


 私の両手は里見さんの首をつかんで絞めつけていた。

 全身の力をその両手に込め、里見さんの首を絞めつけている。


 自分がなにをしているのか、それを自覚するまで果てしなく長い時間がかかったような気がする。


 それでも、里見さんの首を絞めつける私の両手は離れることはない。


 とんでもないことをしているという自覚はあった。なのに――私の両手は、私の制御化を完全に離れて、里見さんの首を絞め続ける。いつか、夢の中であの娘に対してやろうとしたのと同じように私は渾身の力を込めて里見さんの首を自分の両手で絞めていた。


 自分の首を絞められているわけではないのに、息が苦しかった。苦しいのならやめればいいのにと思う。だけど、自分の制御から離れてしまった私の両手は、私を無視して力を込め続ける。里見さんの首を絞めるのをやめてくれない。非力な自分の身体とは思えないほどの腕力で里見さんの首を絞めている。


 私の両手が自分の制御に戻ったのは、聞くに堪えない醜悪な音が聞こえたときだ。その音を聞いて、やっと私は失っていた理性を少しだけ取り戻した。


「……あ」


 私の手を離れた里見さんは、後ろに向かって力なく倒れた。一切抵抗せず倒れた里見さんは、たまたま転がっていた大きな石に思い切り頭を強打し、後頭部から赤黒い液体を流している。彼女は、できの悪い人形のように首がすわっていなかった。


 あの音は――私が正気を取り戻したあの醜悪な音は、里見さんの首を圧迫し続けた結果、私の両手が彼女の首の骨を砕いた音だったらしい。首が折れて、頭から血を流している里見さんはまったく動かない。動いてくれない。

 これはなにかの間違いだ、人間がこんなに呆気なく死ぬはずがない――私はそう思った。


 しかし――


 草木の茎みたいに首が折れ、後頭部を強打しても微動だにしない里見さんは間違いなく死んでいる。夢の中で何度も人殺しをしてきた私にはそれが理解できてしまった。いま目の前で転がっているあれは完全に死んでいる。


 私は――突きつけられた現実を受け入れることができなかった私は、それを否定するあまり里見さんを殺してしまったのだ。いまも両手には絞め殺したときの生々しい感触と体温がはっきりと残っている。それは否定のしようがない現実であった。


 そして――


 ここでは夢の中の世界と違って、殺した人間を蘇らせることはできない。

 現実世界において私は、無力な女子高生にすぎないのだから。


「……違う」


 私は、首を振ってそんな言葉を口にして、いま目の前に広がる現実を否定する。したいと願う。


 だが、それを口にしたところでどうにかなるはずもなかった。

 首が折れて、割れた後頭部から血を流す里見さんは微動だにしない。

 やはり、どう見ても彼女は死んでいる。


「殺したかった、わけじゃない」


 そうだ。殺したかったわけじゃない。私はただ許せなかっただけだ。先ほど自分の突きつけられた現実を。それを突きつけた里見さんのことが――許せなかっただけだ。殺してやりたいなんてまったく思っていない。


 それでも――


 目の前に広がっている光景は現実だ。私が自分の手で里見さんを殺したのは紛れもなく事実である。殺したいと思っていなかったとか、殺すつもりじゃなかったとか、そんなものはすべて無意味だ。里見さんのことを私が殺してしまったのが現実である以上――はたから見れば、私の言葉は加害者がほざく都合のいい戯言でしかない。


「ど……どうすれば」


 そこで、私はやっと目の前にある里見さんの死体をどうすればいいのかに思い至った。いくらこの場所が生徒も職員もほとんど来ない場所であったとしても、このまま放っておけばこの死体がいずれ見つかるのは明らかである。学校の敷地内で人間の死体が見つかったとなったら、警察が現れるのは確実だ。そうなったら、すぐに私が殺したことは判明するだろう。


 ――どうする?


 私の中に恐慌が広がって、駆け巡る。

 どうやれば、これを隠蔽できるのだろう?


 恐慌して、冷静な思考ができなくなっていた私にはいい手段などなにも思い浮かばなかった。時間だけがただ過ぎていくだけだ。あと十分もすれば、生徒の数が増えてくる。それまでに、なんとか――


 ――無理だ。

 素人の私に、たった十分で死体の処理なんてできるはずがない。


 ――早くしないと。


 焦りがさらなる焦りを生んでいく。いまの私にはちゃんと地面に立っているのかどうかもわからなくなっていた。


「あ――」


 焦りが限界を超えたところで、私はあることに思い至った。

 それはまさしく、すべてを救う天啓だったと言える。

 これはもう死んでいるのだから、私のものじゃないか。どうせ見つかったら私は捕まってしまうのだ。


 なら、これを私のものにすればいいじゃないか。そうだ。それがいい。里見さんが私のものになる。それは私が願っていたことではないだろうか?


 これはピンチなどではない。私が里見さんを自分だけのものにする千載一遇のチャンスである。


 だって、普通にしていたら、里見さんを私のものになんか絶対にできなかったのだから。夢での悪さを現実で引き起こせるようになったのと同じだ。これは大いなる意思が私に与えたチャンスなのだ。それを逃すべきではない。


 それを考えると、私の中で荒れ狂っていた恐慌は綺麗さっぱり消えてなくなっていた。代わりに生まれたのは、愛しい里見さんを自分だけのものにできるという巨大すぎる歓喜と多幸感に包まれる。


 地面に倒れ、まったく動かない里見さんを見た。首が折れ、後頭部から血を流している以外は損傷はない。これくらいなら、腐らないようすればいい状態で保存できるだろう。折れた首や割れた頭だってなんとか綺麗にできるはずだ。


 ああ。なんて素晴らしいのだろうか。

 まさか、こんな日が来るなんて夢にも思わなかった。


 里見さんは私のものになったことだし、あの娘には手を出さないとしよう。彼女の意思は尊重するべきだ。それくらいの度量は、嫉妬に狂った私にだってある。


 だって里見さんは私だけのものになってくれたんだから。それくらい守ってやれなければフェアじゃない。死んじゃったのに、あまりにも可哀想じゃないか。


 というか、里見さんが私のものになってくれた以上、あの小娘など知ったことではない。はっきりいってどうでもいい。勝手にどこかで野垂れ死ねばそれでいい。


 首が折れ、頭から血を流す里見さんを抱き上げる。動かなくなった人体を持ち上げて担ぐのはすごく大変だった。


 もう動かなくなってしまったけれど、まだ体温が残っている。


 でも、普通の人よりも遥かに冷たい気がする。私の身体に背中越しに伝わってくる残された体温すらも愛おしい。里見さんを自分だけのものにできる――それを思えば、死体を担ぐのも不愉快に感じなかった。


 そもそも、死んで動かなくなっただけじゃないか。それだけで不快になるなんて愛が足りてない証拠だ。


 反応してくれないのは、少し悲しいけれど。それは仕方ない。だって死んじゃっているのだから。反応しないのは当たり前だ。里見さんを独占するために必要だった対価だと思えばいい。そう思えば耐えられる。


 私はなんて幸せなのだろう。私より幸せな人間などこの世にいるのだろうか――


 そのとき――

 背中から感じられた体温と体重が消えて――


「え?」


 無数の細かいなにかが、私を背後から貫く感触だけがあった。

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