第14話 嫉妬の夢魔4
――嫌なものを見た。
夏休みも終わり、新学期が始まって二日――里見さんが誰かと一緒にいるのを見かけてしまったからだ。
ごうごうごう。
なにかの音が聞こえる。
これはなんだろう。
一緒にいた娘は誰か知らない。前髪が長くて、ちゃんと顔は見えなかったけど、すごく小柄な娘だった。私なんかよりもずっと顔立ちの整った、可愛らしい娘だ。夏休み明けに転校生が来る、という話をどこかで聞いたので、彼女がそうなのかもしれない。
里見さんが、縮こまっているその娘の手を引いて、たまに里見さんが話しかける――なんのことはない、特別なものはなにもない、どこでもよく見られる光景でしかなかったのに。
それを見たとき――見てしまったとき、私の中に巻き起こったのは旋風を巻き起こす嫉妬の炎。それは、自分の裡をすべて焼き尽くしてしまうと思うほど激しいものだった。
そう、私は――
ごうごうごう。
ああそうか。
これは燃える音だ。
私の中で嫉妬という感情が燃えている。
自分の裡にある『なにか』を燃やして、猛烈な熱を生み出しているらしい。
自分には見向きもしてくれなかった里見さんが、私の知らない誰かが、彼女の隣でああしているのが我慢ならないらしい。
――違う。
知らない誰かだから、こんなにも感情を燃え上がらせているわけではない。
きっと、私は里見さんと一緒にいるのが誰であってもこの嫉妬の炎を燃え上がらせていたはずだ。あんなふうに、里見さんと誰かが仲よくしている光景を見せられていたのなら、それが仲のいい友人であっても、嫉妬の炎を燃え上がらせていたはずだ。その程度には、私は里見さんに恋い焦がれている。
意外だ、と私は思った。
自分がここまで嫉妬深いとは。
ごうごうごう。
燃える音が聞こえる。
私の中にある『なにか』を燃やして延焼を続ける嫉妬の炎は弱まる気配がない。
あの光景を思い出すたびに、私の中にある大切な『なにか』まで燃えていくように思える。
このまま――
燃えて、燃えて、燃えて、燃え尽くしたら、私はどうなってしまうのだろう。
それが、少しだけ恐ろしい。
自分の中にあるすべてを燃やしてしまいそうだ。
どうして――
どうして、里見さんに手を引かれているのが私ではないのだろう。あの娘が私よりも可愛いからか? 違う。絶対に違う。里見さんが可愛いとか可愛くないとかで接する相手を決めるわけがない。彼女のことをそこらの女子生徒と同じ尺度で測れるわけがないのだ。だから、あの娘にあって、私にはないものがあるに違いない。そうだ。絶対にそうだ。そうじゃなきゃ、私があそこにいないのはおかしいじゃないか――
ごうごうごう。
嫉妬の炎はさらに延焼を続けていく。
このままだと、嫉妬の炎は自分の裡を飛び出して、外を燃やしてしまうのではないかと思えてくる。
それくらい、私の中で渦巻く嫉妬は強烈だった。
「どうしたの? 具合悪い?」
そう話しかけてきたのはルームメイトだった。彼女も入学してからずっと仲よくしている友人の一人である。ルームメイトは心配そうな顔をして、こちらを覗き込んでいた。
「……ちょっとね。悩みごとかな」
だが、ルームメイトにも――いや、ルームメイトだけではない――私の秘めている感情を言うつもりはなかった。
いや、言えるはずがない。
なにしろ、私が恋い焦がれている里見さんは多くの生徒が忌避している『魔女』なのだ。ルームメイトも、里見さんのことを忌避しているに違いない。彼女にまつわる噂話は、この学園の生徒には有名だから――
里見さんに関する噂話がどこまで本当なのかはわからない。
しかし、火のないところには煙は立たないとも言う。
だから、きっと私の知らないなにかがあるのは間違いない。
それでも。
それでも――高校にあがったばかりの私が、彼女に救われたのは否定にしようもない事実なのだ。
「まあ、無理には聞き出さないけどさ。一人で悩むのは駄目だよ。つらくなったら誰かに言った方がいいんじゃないかな。私でも三神先生でも、誰でもいいけど」
「わかってるって。本当に大丈夫だから。心配しないで」
私がそう言うと、ルームメイトはそれ以上なにか言ってくることはなかった。彼女とも中学入学からの付き合いである。なにかあると察しても、よほどのことがなければ干渉してこないだろう。約四年半同じ部屋で過ごしているので、そのくらいの距離感は弁えている。
それに――
私が恋い焦がれている相手があの『魔女』だって知ったら、きっとルームメイトも顔をしかめるに違いない。
もしかしたら、軽蔑されるかも。
それは……嫌だ。
だから、この恋心は絶対に知られてはいけない。
私の中にだけ留めておかなければ――
「……すこし外に出てくる」
「これから? 敷地の外に出ないなら大丈夫だと思うけど――気をつけてね。あと、先生に見つからないように」
「わかってるって」
私は軽く笑って、自分の部屋を出た。
夕食後、消灯時間までは自由時間だ。生徒たちは各々、文字通り自由に過ごしている。一つ許されていないのは学園の敷地外に出ることだけだ。やんちゃなグループの中には、学園を抜け出して夜遊びをしている者もいるようだが――私にはあまり関係のない話である。
学園の敷地内であっても、夕食後に出歩くのはあまりよろしいことではない。教師に見つかれば、なにか小言を言われるのは確かだ。
それに。
この学園は怪奇事件の類がよく起こる。
被害が出ることはほとんどないのでその多くは事件と言えないが――変なものを見たという話はよく耳にする。この学園の生徒なら、卒業するまでに一度はおかしなものを見かける、とも言われるほどだ。それくらい、この学園では変なものの目撃例や体験談が多い。……私は幸か不幸か、四年半の学園生活でその類を一度も見たことないけれど。
できるだけ音をたてないように寮内の廊下を移動し、靴を履いて外に出た。
そこには――
普段、自分が見ているものと同じとは思えない異世界が広がっていた。
夜になっただけで、なにか変わっているわけではない。よく見れば、どれもこれも自分の知っている風景である。ただ、夜だからまわりがどこも暗くなっているだけだ。
なのに――ここは本当に知っている場所なのだろうかと思ってしまった。とても同じ場所とは思えない。
――暗い。
ただ、それだけで同じ場所をここまで異質なものへと転じさせる事実に、私は言いようのない恐怖を抱いた。
文明の明かりで照らされようと、夜は未だに人が生きる世界ではない。
きっと、そこは――
そのとき、
背後から感じられたのは――尋常ではない数の『なにか』の視線。
明らかなそれを感じてしまった私は硬直した。身体が鉛かなにかになったようだった。身体が重い。動かせない。怖い。背後になにかいる? なんだ? なんだあれは? わからない。誰か不法侵入してきたのか? 違う。これは人の視線じゃない。そう、これは数え切れないほど大量の――
歩くことも、背後を振り返ることもできず、大量の視線にさらされたまま私は動けなくなった。動いたら、いま私を見ている大量の『なにか』に殺される。
音はろくに聞こえないのに、明確な『なにか』の気配だけは明らかに感じられる異様な状況のまま、時間だけは無慈悲に流れていく。どれほど異様であっても、時間の流れは止まらない。止まってくれない。時間ってやつはどこまでも平等だ。こんなときくらい、止まってくれたっていいじゃないか。
――逃げなければ。
どこに?
このまま、背後にいる『なにか』がいなくなってくれるまで前に進み続けるのか?
――そんなの無理だ。
どこまでも前に進み続けたところで、背後にいる『なにか』は私のことは逃がしてくれない――その確信があった。
前にも進めず、後ろにも戻れない――この状況は私みたいだ。あの日からずっと、里見さんに思いを告げることも、彼女への思いを捨てることもできなかった私のようだ。だからこんなことになったのかもしれない、そんな風にも思えてくる。
『なにか』の視線の釘づけにされたまま、動けなくなってどれほど時間が経っただろう。とてつもなく長い時間が経ったように思える。
――駄目だ。
どうにかして、背後にいる『なにか』を振り切らなくてはいけない。このまま部屋に戻らなければ、ルームメイトだって心配する。背後を振り返らなければ、寮には戻れないのだから。
……勇気を出せ。
これができれば、きっと私は里見さんに――
一度、唾を飲み込み、背後を振り返る。
それと同時に視界を埋め尽くしたのは無数の蛇。そのどれも見たことのない種類であった。
津波のように押し寄せてきた無数の蛇は一瞬で私の身体を埋め尽くして食らいつくして――
「それは気のせいだ」
その声が聞こえると同時に、一瞬で私のすべてを埋め尽くし、食らいつくしたはずの蛇はその痕跡も一切残さずにすべて消えていた。
「…………」
身体は無事だ。どこにも異常はない。あれほどまで重くなっていた身体も戻っている。先ほどまであったあれは――自分に押し寄せてきた大量の蛇は――本当に気のせいだったのか?
それは、気のせいというにはリアリティがありすぎた。
「――先生」
私の呪縛を解き放ったのはこの学園の教師だった。この学園では数少ない男性教師。顔は知っているはずなのに、どういうわけか名前が出てこない。なにかおかしい。変なものを見てしまったからだろうか?
「こんな時間になにをしている?」
「……悩みがあったので、外の風にあたろうと思って。敷地の外に行くつもりは――」
「ならいい。だが、敷地の外に出ないといっても、夜間の外出はできるだけ控えろ。敷地内だからといって安全とは言えんこともある。最近はなにかと物騒だからな」
「……はい」
教師の言う通りだ。敷地内だからといって安全ではないことは、いま私に襲いかかった異様な状況のおかげで痛いほど理解できた。
「ところで、悩みがあるといったな?」
「え?」
教師があまりにも意外な言葉を発したので、私はそんな声を出してしまった。生徒に対してそんなことを言うタイプの教師ではなかったからだ。
「悩みがあるのなら、それを使ってみるといい」
「…………」
それとは、一体なんのことだ?
教師がどういう意図を持ってそれを言ったのかまるで理解できない。
だが――
「使う使わないはお前の自由だ。強制はしない。しかし、私にとってはそれを使ってくれるだけ有益だ」
「は、はあ」
なにを、言っているのだろう。
「教師として、男として、寮まできみを送っていくべきなのだろうが、失礼させてもらおう。なにぶん家が遠いのでな。いますぐ電車に乗らないと終電に間に合わない」
教師はそう言って、すぐに夜の闇へと消えていった。
私は夜の学園で再び一人になる。異様なものはどこにもない。身体も問題なく動く。いつも通り、どこか恐ろしい普通の夜だった。
私は教師が歩いていった方向と逆に歩き出した。
寮に戻るまで、あの『なにか』に遭遇することはなかった。あれは教師が言ったように、本当に気のせいだったのだろうか。あまりにも現実離れしていたけれど、なにもなかったとも思えない。そのとき感じられた気配は、いまでもはっきりと思い出せてしまう。
嫉妬に狂って、どこかおかしくなってしまったのだろうか?
よく、わからないけれど。
その日の夜、私は――夢の中でこの学園の誰かがビルの屋上から落ちる夢を見た。
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