里見夏穂は怪異を食らう
あかさや
#P
第1話 すべての終わり
そこにあるのは、想像を絶する絶望だった。
突然、現れた真っ黒な『なにか』によってここにあったすべてのものは徹底的に破壊されたらしい。それだけはわかる。いや、それしかわからない。自分の身体が残っているのかどうかも不明だ。きっと、残っていたとしても、あんなものに襲われたのだから、まともではないだろう。
あらゆるものを拒絶し、破壊し、埋め尽くしていった真っ黒な濁流。それは過ぎ去ってなお、禍々しい呪いをここに残していったようだ。
声が聞こえる。
苦痛に泣き叫ぶ声だった。
それが誰のものなのかはわからない。誰のものかわからない苦痛に泣き叫ぶ声が延々と木霊していた。拷問でも受けているのだろうか。ならとっても痛いことをされているのだろう。可哀想に。その声を聞いているとそんな風に思えてきた。
誰かに縋るように、『助けてくれ』と懇願する声が聞こえる。
助けを求めるその声は、まるで呪いのようだった。
やはり、その声は誰のものかわからない。ただ『人』の声だというのはわかる。
子供でも人質にとられているのだろうか。そのように聞こえる。子供を持ったら、あのようなことをするのだろうか? なんだかよくわからない。自分にはあまり関係のないことだ。
誰かのあざ笑う声が聞こえる。
希望を持って道を進んでいた誰かを、あと少しのところで蹴落とすのがたまらなく好きというような声。目的があって痛みつけるのではなく、痛みつけることが楽しくてたまらないみたいだ。この声を発している『誰か』は手段と目的にすり替わっているらしい。
ひどいな、とその声を聞きながら、他人事のように思う。
たぶん、あの笑い声のような嗜好を持つ人間はどこにでもいるのだろう。
平和なはずの日本でも。
それはもうたくさん。
……どうしてこんな声が聞こえてくるのだろう。
どうせならもっと楽しそうなものを聞かさせてくれればいいのに。
きっと、これを見せている『誰か』の趣味はろくでもないのだろう。そうでもなければこんなものを見せるわけがない。
倒れている自分の口もとに赤黒い液体が流れ込んでくる。誰かの血液だった。誰のものかわからない。それほどこの場所には血液が満たされている。血の海、というのはこういう光景なのだろうと思う。
この血液は恐らく、ここにいたはずの両親か兄弟のもののはず……もはやそれは、誰のものであってもなにも意味はない。
三メートルほど先にはなにかの塊が佇んでいる。恐ろしいほど真っ黒い、一切の意味をなくした塊。それが本当にヒトだったのかと疑いたくなるほど醜悪なモノ。中に詰まっていた血液も臓物も汚物もすべてぶちまけながら、身体を構成していたすべてのものが現在進行形で溶けているようだ。
なんて、ひどい光景――
何故こんなものを見せられなければいけないのか。
なにも悪いことなんてしていないのに。
でも、世の中というのはこういうものなのだろう。自分の場合、その理不尽さを知るのが少しばかり早かっただけだ。程度の差こそあれ、こんな体験は生きていれば経験するものなのだろう――たぶん。
ぐちゃり。
素人が作った下手くそなゲームの効果音みたいな音を立て、家族の誰かだったはずの黒い肉塊が崩壊した。
溶けて、崩れて、黒い肉塊は赤い液体の中に混ざって醜い模様を描いていく。その崩れたモノは炭化したように真っ黒だ。とてもヒトだったとは思えない。
そうか。
ここに満ちている血液がやけに黒かったのはあれが原因だったのか。
道理で他の家族の肉塊が見えないはずだ。
恐らく、いま見たように他の家族もあのように溶けていったのだろう。自分が意識を取り戻す前に。
ならどうして。
どうして自分はまだこうしていられるのだろう。
先ほど見たように、自分だって同じように無様に汚らしく残酷に溶けてしまわなければおかしいはずなのに。
あれは、ヒトという生き物の一切を許さないはずなのに。
どうして自分はまだ生きているのだろう。
いや、どうだろう。生きていると思っているのは自分だけで、とっくの昔に死んでいるのかもしれない。
あんなことが起こったのだ。なにが起こったって不思議じゃない。
日曜の夜。テレビを見ながら家族全員で夕食を囲もうとしたそのとき、突如押し寄せてきた黒い奔流。それだけは、その光景だけは確かに覚えている。忘れようと思っても忘れられない、永久に脳へと焼きつけられた鮮烈な映像だった。
それに飲み込まれてから、どうなったのかわからない。
わからないが――この惨状を見れば、なにかとんでもないことが起こったのは間違いない。それだけは確かだ。それが明らかすぎるせいで、それ以外なにもわからないけれど。
気づいたときには黒い奔流は消え、血の海と黒い塊と、怨嗟と嘲笑の声だけがなにかを呪うように残響し続けている。
ああ。
これからどうすればいいのだろう。
あの黒い奔流に飲み込まれた自分にはなにも意味がない。あれはヒトのすべてを否定する。すべてを否定され、それでもなお残ってしまった自分は本当になんなのだろう? ただそこにあり、動いているだけの肉の塊だ。そんなものに意味はない。
あらゆる意味を失ったにもかかわらず、命だけは残っている人間は一体どうすればいいのだろう。
あらゆる意味を失っても、生きていくべきなのだろうか。
……わからない。
そんなの、知ったことじゃない。
けど。
このまま放置されていれば死ねるだろう。どうせ動くことすらままならない。すぐに楽になれる。それほど時間もかかるまい。
大人しく死んでいけるはずだ。
どうせ、自分は一切の意味を失ったのだから。
あらゆる意味を失って生きていくのは滑稽だ。
意味を失ったのに生きているのは、それは生きていると言えるのだろうか?
それなら、生きなくてもいいじゃないか。
あらゆる意味を失ったのなら、生きていてなにになるというのだろう。
それで、いいじゃないか。
命の尊さなど、無意味だと知ってしまったのだから。
それにしても。
どうして意識なんて取り戻しているのだろう。
意識なんて取り戻さないまま、家族と同じように溶けてしまえばよかったのに。
なにも意味をなさないモノになってしまえばよかったのに。
……運が悪いなあ。
そのとき――
足の末端から熱が入り、身体に駆け上がっていく。溶けた鉄を流し込まれているかのようだった。それなのに、熱いとは感じない。不思議な感覚だった。どういうわけか、『生きている』という感覚が蘇った。
身体の中を駆けあがってきた熱が頭に達したところで――
再び意識はどこかに消えていった。
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