栃木の親分の謎

 伊刈は喫茶スローライフの一番奥のボックスに座ってパソコンを開いていた。液晶画面に「栃木の親分」と打ったまま指先は三十分凍ったままだった。藍環業の白馬の騎士として登場した高峰が言った言葉だった。栃木の親分とは誰なのか? それ以前に高峰とは誰なのか? 右翼の会長を名乗っているけど本物なのか? それは明日の撤去作業を見ればわかるかもしれない。藍環業ほどの大物になれば全国の組織とつながっている。環境事務所のたった四人のチームなど捻りつぶすのは簡単だろう。それがどうしてわざわざ高峰を使って撤去を申し出たのだろう。何を怖がっているのだろう。さすがの伊刈にも訳がわからなかった。まだ知らない世界で何かが動き出している。その予兆は感じていた。夜間パトロールを始めた時とは違う予兆だった。違いはどこにあるのか。夜パトの相手は穴屋と一発屋だった。しかし今度の相手は現場のチンピラじゃない。もっと背後にある目には見えない世界だ。シュレッダーダストの中からたった十枚の紙切れを探し出しただけなのに、その見えない世界が動揺していた。「こっちの世界に来るな。そっちの世界に帰れ」高峰がそんなメッセージを送っているように思われた。

 「伊刈さん、お邪魔してもいいかしら」

 気が付くとママの麗子がテーブルの脇にサーバーを持って立っていた。彼女は赤いフェイクベロアのソファに座ると、伊刈の同意を得ずに空になったカップにコーヒーを注ぎ足した。

 「信じられないくらい暇でしょう。伊刈さんが来なかったらお店閉めようかと思ってた」

 「この町には合わない店かもしれませんね」

 「どこがダメかしらね」

 「田舎の喫茶店は常連がつかないとムリです。ここは常連を拒否しているような感じがしますよ」

 「ええそう拒否してるの」麗子はあっさり認めた。

 「それじゃムリですね」

 「伊刈さんにまでそんな宣告されちゃったらもうおしまいね。ここやめるわ」

 「えっ?」

 「驚かないで。あたし籍を入れたの。それがお店を閉める理由よ」

 「ここのオーナーとですか」

 「ええ」

 「エリちゃんからオーナーは既婚だって聞いてますよ」

 「知ってたんだ。オーナー離婚したのよ」

 「ママのためにですか」

 「うん」

 「ほんとにお店閉めますか」

 「実は大家さんにはもう今月限りって言ったの」

 「残念ですね」

 「ごめんなさいね」

 「これから何をやるんですか。まさか専業主婦じゃないでしょう」

 「オーナーのお店がいっぱいあるから手伝うわ。伊刈さんが来るようなお店じゃないけど」

 「どんなお店ですか」

 「中国系のマッサージ店。オーナーは日本人じゃないの」

 「マッサージならたまには行きますよ」

 「そうなんだ。ねえちょっと左手を見せて。私手相を鑑るのよ」

 「そうですか」伊刈は恐る恐る手を出した。「あらかじめ言っておきますが僕は信じません」

 「手相は信じるものじゃないわよ」ママは伊刈の手を両手でほぐすように包みながら言った。細くしなやかな指先だった。

 「そうなんですか」伊刈は意外そうな顔でママを見た。

 「占いの本を見ながら生命線がどうとか結婚線がどうとかわかったふうなことを言う人がいるけど当たらないわよ。だって手相は占いじゃないもの」

 「じゃなんですか」

 「手相にしても人相にしても体からのメッセージを読まないとだめよ。人は嘘を言ってるときは手が汗ばむのよ。ほんとのことを言ってるときは手が硬くなる。手を触りながらそれを感じるのよ。だから嘘発見器と原理は同じね」

 「それじゃトリックじゃないですか」

 「そうよ。人相だって同じ。いろいろ話しながら目や鼻の動きとか表情の変化を読み取ってるだけなのよ」

 「だったら最初からそう言えばいいじゃないですか」

 「それはだめよ。なにか口実がないと手を握ったり顔をじっと見たりできないでしょう」

 「なるほどそれはそうだ」

 「占いっていうのは口実なのよ。だから道具はタロットカードでも水晶玉でなんでもいいのよ。科学的根拠なんかなんにもないの」

 「ありますよ。今の説明とっても科学的だった」

 「あら褒められちゃった」

 「それで僕の手相はどうですか」

 「とても若々しいわ。伊刈さんの目も手もあたし好きだわ。いつもとってもいい目だと思ってたけど最近とくによくなったわよ。何かに挑んでるって目ね」

 「悩んでるんですよ」

 「そうは見えないな。悩みはもう晴れてるはず」

 「そう見えるんですか」

 「ええ手も冷たくていいわね。もっと暖ったかい手だと思ってたけど冷たかった」

 「どっちがいいんですか」

 「今日は冷たい手が気持ちよかった。私の手が熱いから。それだけのことなのよ」

 「参考になりました」伊刈は手を引っ込めた。

 麗子はお別れの挨拶をしたつもりだったのに伊刈はそのことに全く気付いていないみたいに自分の手にじっと見入っていた。冷たいと言われたばかりの手が熱くほてっていた。

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