第16話 伊奈事件

福島正則、黒田長政らは徳川方を代表し大坂城へと出仕し、毛利輝元へ大坂城から立ち退くように談合をしていた。


仮にも石田方の総大将として祭り上げられていた毛利輝元であったが、分家の吉川広家(きっかわひろいえ)を通し消極的ではあるが関ヶ原に毛利勢は参戦していないという事実を作っていた。


徳川家としても関ヶ原にて石田方の総大将に祭り上げられた事は輝元の消極的参戦を認め、大坂城から退去するように説得していた。


これに中々首を縦に振らなかったのが淀の方である。


彼女は毛利輝元が退去し徳川方が入って来たなら秀頼に災いが起こるのではないかと疑心暗鬼になっていた。


輝元も淀の方の手前簡単に退去するなどと口に出し豊臣家への忠義を疑われたなら面倒ゆえなかなか退去できなかったのだ。


そんなある日の事である。


福島正則の家老・佐久間嘉右衛門が、徳川家臣であり今時点で山科の番士を任じられていた伊奈昭綱の家臣にと諍いを起こし切腹するという事件が起こった。


福島家臣が報告するに、家康が入京に際し規制をかけ、佐久間嘉右衛門が山科を通行しようとしたところ伊奈昭綱の家臣に急に禁を犯していると咎められ、叩きのめされたというのだ。


佐久間嘉右衛門は福島家家老であるが、陪臣とは言え徳川家の者に逆らう訳には行かず、しかし福島家の武士が棒で打ち据えられた事を恥じ切腹したと正則に報告した。


福島正則という男はまず激情家である。


他にも情に篤い男で筋を通す男でもあった。


正則からすれば徳川家も福島家も家格の違いはあれども共に豊臣家の家臣である。


そんな家康が勝手に京に規制をかけ、またそれにより自らの家老が切腹した事を大いに怒り


「おのれ内府!秀頼様を差し置いて天下人を気取っておるのか!?」


となどと激怒し徳川屋敷に使者を立て、正則は軍2千を以て大坂城を背に陣を張った。


山科の事件を全く知らなかった徳川陣営は「家康の死」が正則に知れたのかと戦々恐々となった。


もし家康の死が今の時点で公表されでもしたらまとまりかけていた天下はまた麻の如く乱れるのは必定。


様子を見つつ次郎三郎は忠勝、正信ら重臣を侍らせの福島家臣との面会要求を受けた。


肝を冷やしていた徳川陣営の予想とは大いに反し、正則の話は聞けば聞くほど正則の用事は「家康の死」ではなく、山科の番士・伊奈昭綱の首の要求であった。


事情はどうあれ今福島家を敵に回すわけにはゆかぬ、次郎三郎は


「それでは伊奈昭綱の首を・・・」


と言いかけたところで伊奈昭綱の人柄などをふと思い出してしまった。


次郎三郎が思い出したのは上杉に上洛を促す使者を誰にするか家康が悩んでいる風景であった。


伊奈氏は徳川譜代の家臣であり昭綱はその中でも5男であった。


兄たちも徳川家へ対し忠義の戦死をし、昭綱そんな忠義の伊奈家の当主であった。


行けば生きては帰れないやも知れない上杉家への派遣。


昭綱は自ら会津へ行くと家康に申し出たのである。


家康はそんな忠義の昭綱を酒宴を以て送り出し、昭綱は会津へ向かった。


結果、昭綱は無事に戻りその際持ち帰った書状こそが後に直江状などと呼ばれる書状である。


次郎三郎はその事を思い出してしまい、福島家の使者に


「昭綱を招聘し事情を聴取した上でお答えいたす」


と答えてしまった。


福島家の使者が帰った後、奥では忠勝が次郎三郎を殴っていた。


「今、福島を敵に回すのは厄介と分かっているであろうが!!!家臣一人の首で済むのだぞ!!」


主の為に常に死を覚悟している武士にとって伊奈昭綱の首一つ飛ばすのは些事であるのだ。


このやり取りを不思議そうな目で見ていたのがお梶の方である。


武士の世界で生きて来たお梶の方は次郎三郎はなぜ昭綱の首を飛ばさなかったのかよくわからないのである。


次郎三郎が


「わしには昭綱殿が何の理由もなくその様な暴挙に出たとは思えんのだ!」


と言い返すと忠勝は


「お主は徳川家を潰す気か!!」


と更に怒り次郎三郎を殴ろうとする。


お梶の方は次郎三郎がなぜ簡単に昭綱を成敗できないのかようやく理解した。


「だれぞある!」


お梶の方が急に叫んだ。


これに驚いたのは忠勝と正信である。


「これ以上、次郎三郎への手出しはわらわが許しませぬ、平八郎殿さぁ、お手を放しなされ?」


水を向けられた忠勝はふっと次郎三郎を手放した。


次の刹那、侍女達がお梶の呼び出しに呼応するように用事を承りに来た。


「上様が酒を所望じゃ、持ってまいれ」


と侍女たちを追い払う。


忠勝が


「お梶殿、この様な悪戯はおやめくだされ」


と機嫌を取る様に言うが、お梶はそんな忠勝の目を見て言った。


「そなた達の上様は何の理由もなく家臣に死を命ずる方であったのか?」


この言葉は今度は正信に突き刺さった。


三河一向一揆以来、本能寺の変まで次郎三郎と共に行動をしていた正信が徳川家に戻れたのは家康の人徳であったのだ。


「一理ある」


正信がそう言い、伊奈昭綱が招聘されることになった。


表向き謹慎中の秀忠がこの事を知ったのは宗矩の報告であった。


柳生忍びを放ちこの昭綱の事件を知ったのだ。


「ふふ、所詮は影という事か、この程度の決断が出来ぬとは」


などと不敵な笑みを浮かべ良からぬ事を考えているのであった。


次郎三郎は伊奈昭綱を招聘し、山科での一件を報告させた。


この頃次郎三郎は大垣城から居城を京に近い大津城へと変えていた。


招聘された昭綱は委細を報告し、山科の番士達に落ち度がない事が判明した。


昭綱が語る事実は徳川の面々を激昂させた。


事実はこうであった。


山科番士をあずかる昭綱とその家臣団は地元の住民を大切にし共に協力し山科の関所を守っていた。


しかし酒に酔った福島家・家老である佐久間嘉右衛門が山科で不埒な行いを起こしたのである。


その上、佐久間は自分が福島家の家老である事を吹聴し悪事を重ねた。


昭綱は佐久間の頬を叩き


「家臣が主君の名を語り悪事を働くとは何事か!!」


と喝を入れたのだ。


佐久間は一気に酔いから醒め、自らの行いを恥じ切腹に及んだというのが昭綱により語られた事実であった。


これについては正信が伊賀者を使い裏を取り、事実である事が証明されたのである。


次郎三郎は昭綱に落ち度がない事を改めて知り、切腹を申し渡せなくなった。


徳川家臣団は今回の事件は正則の増長と決めつけ、福島正則陣へ兵を向け大坂城に立てこもったなら大坂も落とすべし!と一丸となった。


その時である。


昭綱が次郎三郎の顔を見て


「殿、畏れながら心なしか面持ちが少し変わられましたか?」


などと口にした。


これには、忠勝、正信、直政が肝を冷やし次郎三郎の顔を一斉に見た。


次郎三郎はそんな昭綱を騙し通す事が出来ないであろうと判断し申し渡す。


「左様、お主の思う通りよ。」


と昭綱に告げた。


昭綱はそんな次郎三郎の解答に涙を流しその場で崩れ落ちた。


徳川家の家臣団はそれを見て家康が昭綱を身を挺して守っている事に感謝して泣いているとうまく勘違いしたのである。


その後、次郎三郎は奥へ昭綱を招聘し直に話をした。


「そなた名を何と申したかのう?」


昭綱は率直に次郎三郎に質問する。


「世良田次郎三郎元信にござる」


昭綱は「あぁ、世良田殿の・・・」


と言いその後、次郎三郎に己の決心を告げる。


「一介の家臣に切腹を命じる事が出来なければ一人前の大将にはなれませぬぞ?」


次郎三郎は困り顔で


「しかし昭綱殿に非はござらぬ」


というが


「今は世情が未だ固まっておらぬ、わし一人の皺首で済むのなら喜んで腹を切ろうぞ」


次郎三郎は黙ってそれを聴いていた。


「しかし心残りはわしの家臣、次郎三郎殿に預けても良いか?」


次郎三郎は家臣の面倒を見る約定を交わし、昭綱の切腹が決まった。


同じ頃、山科の関所には宗矩を伴った秀忠が訪れていた。


秀忠は伊奈家の家臣に告げる。


「父上が大いに苦慮されているのだ」


伊奈家の家臣たちは秀忠の言葉に傾聴する。


「昭綱殿は譜代の家臣、お主達に非が無い事がわかり切腹を申し付けられずにいるのだ。」


伊奈家の家臣は昭綱が苦境に立たされている事を初めて知る。


「わしは、父上の足元にも及ばぬが、実際に福島の家老を叩きのめしたそなたらの首を持参し今回のいざこざを終わらせたいのだ。」


伊奈家の家臣たちは昭綱の為ならばと数こそ少ないが全てのものが腹を切る決意をした。


同時に次郎三郎に刺客を放ち、この程度の事すら処理できない影は要らぬと云わんばかりに露骨な態度をとったのである。


秀忠が福島の陣所を訪れ、伊奈家の家臣団の首持参し正則を呼びつけた。


正則は呼ばれたはよいものの、そこに家康の姿が無いことに不信感を感じてはいた。


秀忠が自慢げに


「これこそは福島殿の家老に辱めを与えた者の首にござる、お納めくだされ」


と正則に言う。


正則が秀忠を睨みつけ


「内府は如何した?わしが所望したのは伊奈昭綱の首よ、その首は如何いたした?」


と秀忠に問う。


秀忠は予想外の反応に戸惑い


「いや、さればこの首を持参したのだ」


と正則に申し渡す。


正則は秀忠が正則を嘗めていると思い、その胸ぐらをつかみ再度聞く。


「されば内府は如何したとわしは聞いておるのだ!」


秀忠は自慢げに


「父上は関ヶ原で戦死なされた。」


と正則に告げる。


これには宗矩も開いた口がふさがらなかった。


(秘事を漏らした!?)


宗矩は動揺しない様、勤めて冷静にしかし内心は焦っていた。


正則はとるに足らない戯言であると思った。


「うぬは、関ヶ原に遅参したから知らぬであろう、小早川陣営に鉄砲を射掛け出馬の催促をする御大将が影武者であると申すか?馬鹿も休み休み申せ!」


正則はそれに付け加えるように


「もしそれが事実であるならば、ワシにとっては好都合、内府がもし戦死したとして、そちの様な「戦のいろは」も知らぬ小僧っ子が相手なら赤子の手のひらをつねるが如く徳川家を滅亡させる事が出来るわッ!」


その時秀忠は三万余の兵を以てしても真田の守る上田城2千名を落とすどころか敗退し続けた事を思い出す。


(2千の真田にすら勝てなかった俺が倍以上ある福島に勝てる道理がない!?)


秀忠は焦り始めた。


(宗矩!!暗殺は中止だ!!刺客を戻せ!!)


今ここに至り秀忠は己の無知蒙昧を知ることになった。


その頃、次郎三郎側では昭綱の切腹の儀が執り行われる事となり粛々と準備が進められていた。


切腹のまで次郎三郎は家康との思い出話を昭綱と語らっていた。


そんな時である。


(硝煙の臭い!?)


「そこかッ」


次郎三郎が抜き身の刀を投げつける。


そこには一人の死体があった。


しかし柳生忍びはもう一人いた、もう一人が次郎三郎を暗殺しようとしたところを止めたのが甲斐の六郎である。


六郎は関ヶ原を生き延びた清興の命で次郎三郎の影の護衛をしていたのだ。


「そなた名を何と申す?」


次郎三郎が問いかけるが六郎は頭を下げその場から自然に消え去った。


六郎が捕らえた一人を尋問することになった次郎三郎はこの刺客が誰の手によって放たれた者か大方の予想がついていた。


「そなたらの主人は誰だ?毛利か?福島か?黒田か?」


忍びが答える


「わしは主の名など応えん、早く殺せ!」


その後次郎三郎が


「やはりな、秀忠の手の者か?」


と聞くと忍びはぎょっとして


「なぜそこに中納言様の名が出る!!」


次郎三郎が再度言う。


「中納言様ねぇ」


忍びが己の失策を悟り舌を噛み切り絶命した。


昭綱が「何故中納言様が・・・」


などと呆然としていたので次郎三郎が秀忠の本性を昭綱に教えた。


その直後、使い番が次郎三郎の下を訪れ


「福島陣営にてにわかに異変の様子あり、中納言様が伊奈家家臣の首を福島殿に献上の様子」


と伝えた。


昭綱がそれに号泣し


「何故じゃ!?中納言様はなぜそのようなむごい事を・・・。」


そう言ってその場で腹を掻っ切った。


「次郎三郎殿、漢は一度吐いたツバを飲めんもんじゃ、福島はわしの首でなければ満足せぬであろう。一刻も早くこの首を届けて下され」


次郎三郎はその場で介錯をし、忠勝と正信を連れ即刻、福島の陣所へ向かった。


秀忠は宗矩に何とかこの場を納めさせようとするが、宗矩にはもはや正則を斬る以外の方法は見当たらなかった。


「福島殿、冗談ですよ!父上は間もなくこの場に参着の予定でござる」


などと先ほどの態度とは打って変わって弱腰の秀忠。


そんな秀忠の胸倉をつかんでいた秀忠の手がパッと離され、福島陣の入り口に立っている次郎三郎を見た時、秀忠と宗矩は首がつながった事に安堵感を覚えた。


秀忠は自慢するが如く伊奈家家臣の首を次郎三郎に披露し、心の中で


(さぁ衆目の面前でわしを褒めよ)


と考えていた。


次郎三郎はそんな秀忠の頬を叩き


「秀忠!謹慎中の身で勝手な事を致すな!!」


と怒鳴りつけたのである。


予想以外の次郎三郎の反応に秀忠は驚き、初めて次郎三郎を畏怖した。


そこに正則が


「いやぁ、この小僧っ子が内府殿が関ヶ原で戦死したなどと戯言を申しておりましたが、その覇気は正に内府殿の御威光ですなぁ!」


などと近づいてくる。


次郎三郎はそんな正則に申し伝える。


「この度は秀忠が迷惑をかけ申し訳ござらん、約定通り伊奈昭綱の首、持参致しました」


正則はその首を見て満足げに


「流石は内府殿!物事の道理がわかっておる」


そんな正則に次郎三郎は釘を刺す。


「此度の一件、当家の調べにて判明したが伊奈昭綱に何ら落ち度はなかった、元をただせば福島殿の家老が山科にて酒を煽り福島殿の名を笠に不埒な行いを昭綱が正した事から始まったのだ、不信あればご自分の目で一度確かめよ!!!」


この一言は正則に衝撃を与えた。


福島正則は戦で傷ついた家臣を手厚く保護する反面罪には厳罰を以て対処する武将であったのだ。


真っ青になった正則に次郎三郎は続けて言い付ける。


「こちらも正則殿の要請とあったから罪なき家臣の首を差し出したのだ!!そもそも正則殿には大坂に居座る毛利を退去させる大役を頼み於いた筈!!このような所でわし等二人が仲違いするは天下に不安を与えるだけであると判らぬ福島殿ではあるまい!早く毛利を大坂より退去させるが宜しかろう!!!」


福島正則は次郎三郎に頭を下げ


「御意!!!」


としか言えなかった。


殴られへたり込んだ秀忠に正信がそっと近づき


「これで解りましたか?今の徳川にはあの者の力が必要なのです。」


と秀忠に申し付ける。


秀忠はそのまま俯き


「良きに計らえ」


と一言呟き、押し黙るのであった。

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