「砂時計」

蒼井裕香

砂時計

 形容しがたい感情を抱くことが増えた。

名前をつけたい。

これは何という感情なのか。

「欲」はあるのだ。もしかすると人一倍、欲に濡れているのかもしれない。

けれど、本人に願う意欲はないのだ。

 

 "Cafe Morozoff"

わたしの好きなイタリアンカフェのひとつだ。

今日もいつもと同じようにパスタセットを頼んだ。

本日のパスタは「ツナとコーンとブラックオリーブのトマトソース」だ。

食後には紅茶とカスタードプリン、それからフィナンシェのデザートがついている。紅茶用の砂時計がゆるす間、ここに書き連ねることとしよう。


 わたしの目の前には、さわやかな空色と品のよさそうな白でコーディネートされたご婦人がいる。一方わたしはパーカーとジーンズパンツといったいかにもな部屋着だ。わたしは今日、スマートフォンというものを家に置き去ってきてしまった。今のわたしは「自由」なのだ。おっと、紅茶が入ったようだ。フィナンシェもいただこう。

 添えてあるクリームと一緒に口へ運ぶ。グラニュー糖特有の甘さを想像していたわたしには意外な訪問だった。甘くない。

口の中ですぐに溶けたクリームは生クリーム本来のなめらかさと甘さを残していった。おいしい。自然とほころんでしまう。

 食事中に、ドリンクもデザートも「全部持ってきていいから。」とせっかちにパスタをすすっていたご婦人は一生懸命12.9inchのタブレットとにらめっこしている。時間に追われた奴隷らしかった。今度はスケジュール帳を必死に塗っている。BINGOでもしているのだろうか。2度目の電話。ご婦人は世間話をしている近所のおばちゃんだ。BINGOしたのだろう。カップをズズッとすすった。カスタードプリンでも食べようか。

 ほど良い弾力とつるりとした舌触り、苦すぎないカラメルソースと香る卵の風味は絶妙と言っていい。撫ぜるととてもなめらかなこのプリンは大好きだ。おいしい。

 おばちゃんは茶色の2番目に安そうな紙封筒を取り出した。手紙だろうか。

彼女の化粧のように、ピッチリと折り目をつけた紙をその茶色の中にキツく封じ込めた。ご満悦のようだ。

 もう一度顔を上げると彼女はどこにも見当たらなかった。

"私はここに居たわ"

とでも言いたげなデザートプレートやティーカップ、それから清潔そうな白をけがされたくしゃくしゃのナプキンの残骸たちが、何事もなかったかのように連れ去られていった。


 味気のなくなった景色の前で渋くなった紅茶と卵臭いプリンをかき込んだわたしの自由は砂時計だった。

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「砂時計」 蒼井裕香 @SaKuBoU_5221

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