或いは、例えばそれはこんなif Version_Sigma.
9
「……………………みゃっ!?」
『サーバル』ははっと目を覚ました。
全身は嫌な汗でびしょびしょになっていて、目覚めとしては最悪だった。
周囲を見渡せば、どうやら船に改造したジャパリバスの中のようだ。吹き抜けになっている車体の向こうには真っ青な海が広がっている。
空は青く、白い雲が浮かんでいていた。俗に言う晴天というやつだろう。
大きな袋が荷台には積んであり、桶には水の類も乗せられている。どうやら自分はバスの中で昼寝をしていたらしい。
「さっきまでのは……なんだったの?」
先程までの光景を思い出して首をひねる。しかし頭を触っても傷なんてないし、胸の中心に風穴なんて空いていなかった。
そこで、ようやく結論に至る。
普通に考えれば、憎悪と怨嗟が蔓延する『世界』なんてあり得ないじゃないか。それこそあんな地獄のような悲劇なんて、起こるはずがない。
そんな風に考えても、いまいち実感が湧かなかった。あの時だって似たような感覚があったのだ。すぐには処理できないのも無理はないだろう。
もう一度、全身を確かめる。
火傷も、かすり傷も、骨折もしていない。そこまで念入りに確認して、ほっと胸を撫で下ろした。
「あ、目が覚めたんだね『サーバル』ちゃん。どうしたの? 何処か痛いところでも……ケガとかしちゃったの?」
後方からの声。
かばん。
運転席から体を捩じってこちらに顔を向けている。その頭に帽子は無い。当たり前だ。今も自分が首にかけてるのだから。
つまり、目の前の少女は。
「か、かばんちゃん!?」
「え、あっ……そうだよ? ど、どうしたの?」
「け、ケガしてない!? えっと、えっと!」
「わっ……! お、落ち着いてよ『サーバル』ちゃん!」
『ア、アワワワワ。「サーバル」、食ベチャダメダヨ』
「食べないよ!」
急に『サーバル』に体を弄られ、かばんは珍しく狼狽えた。いつも通りのボスに反論しているとバスの上から二人のフレンズが顔を覗かせる。
「あ、目が覚めたんだねー。……どうしてかばんさんを触ってるの?」
「あの、えっとね! わたし、なんかかばんちゃんに黒い何かでバンってされちゃってね!?」
「ボクそんな怖いことしないよ!?」
「えっとだから! それでばくだんとかみさいるとかでパークが大変なことになっちゃって……っ!」
「……? 何を言ってるのかよく分からないのだ。パークならさっき出たところなのだ!」
アライグマの言葉にきょとんとした。
何かを察したようにフェネックは頷くと、
「あー、きっと怖い夢でも見たんじゃないかなー? だってかばんさんはここにいるし……ほら、パークはあそこに見えるよー?」
「ゆ、め……?」
そう言われて指差された方向を見れば、確かにパークはそこにあった。火も見えないし、空には爆撃機なんて一機も飛んでいない。
夢。確かにそれがしっくり来た。
きっと、全部悪い夢だったのだ。
かばんが裏切ったことも。目の前で『世界』が消えたことも。地獄になったパークも。
全て自分が見ていた夢だった。
そう考えれば全て合点がいく。
そうだ、まだ自分たちの旅は始まったばかりなのだ。
かばんがハンドルを握り直し、眉をハの字にしていた。
「それにしても……すみませんマイルカさん。手伝ってもらっちゃって……」
そう言ったかばんの前にはマイルカと呼ばれたフレンズが船になったジャパリバスを押していた。
「大丈夫大丈夫ー! 私もあそこに行くところだったからねー!」
結局、『サーバル』たちはかばんに着いていくことに決めた。足漕ぎの船にバスの一部を改造し、追いかけていたのだ。
しかしやはりというかなんというか、バスが電池を切らしボスがフリーズしたところで合流。こっそり着いていくつもりがかなり早い再会となった。
その時に出会ったフレンズが、今目の前にいるマイルカだ。
事情を話すとマイルカも目的地が一緒だったようで、ジャパリバスを押してくれている。
だがこれだけのフレンズが乗っているバスを押していくのも限界がある。そこでマイルカは超音波で友だちを集め、バンドウイルカとシナウスイロイルカが手助けしてくれた。
そして、とうとう『サーバル』たちはゴコクエリアに上陸したのだ。
「ありがとねー! マイルカー! バンドウイルカー! シナウスイロイルカもー!!」
「ありがとうございましたー!」
「うんっ! そっちも元気でねー!」
白い砂浜の向こうには大きな森林が見えた。
そもそも上陸したはいいが、まず大前提として電池が無い。となると当面の目標は充電できる施設を探すことだろう。
以前はジャパリカフェで充電できた。なんだか最初の頃に戻ったようで懐かしい、それでいて新しい場所だから新鮮な気分も味わっているという矛盾した感傷に今現在浸っているわけだが、そんなことお構いなしにまるで雷の如く、アライグマが大きな声を上げた。
「ゴコクエリア! ゴコクエリアなのだ! ここからまたアライさんたちの新たな旅が始まるのだー!!」
元気が良くて大変結構。
なんて言ってられないのがアライグマというフレンズだ。ダダダダダダダダダダダッッッッ!! という効果音が比喩ではなくモロに聞こえるあたり、彼女のエネルギーは半端ではない。一直線に突進し、地面にある石に躓いたと思えばゴロゴロ転がって木に突撃した。
明後日の方向に全力疾走ができる。
フェネックがそう言ってたのをぼんやりと思い出しながら、あぁ、こういうことなんだなぁと失笑が漏れていた。
「あ、あはは……。と、取り敢えずでんちの充電をしないとね! でもボスはゴコクエリアに詳しくないみたいだし……どうしよう……。かばんちゃん、何か思いつかない?」
「え? うーん……多分ここにもラッキーさんっていると思うんだ。同じパークガイドロボットならそういう場所も知ってると思うよ」
「さすがかばんさんなのだ!」
「わっ、びっくりした!」
突然隣から活気の溢れた声が飛び出してきた。どうやらフェネックが連れ戻してくれたらしい。
ボス曰く、かばんの言う通りここには他にもラッキービーストがいるようだ。
顎に手を当てたフェネックがこれまでのことを引っ括めて結論を出した。
「それじゃあまずはここにいるボスを探さないとねー」
10
言った。
確かに彼女はそう言った。
フェネックが今までの相談の内容から第一目標を提示して、それにみんなが賛成していたはずだ。そしてそのままよしそれじゃあこのエリアのボスを探しに行こう! おー! という流れになっていたはずなのだ。
しかし現在『サーバル』たちはボスを探してなどいない。
むしろ逃げていた。
それは何か? 決まっている。
青やら赤やら紫やらで彩られたセルリアンからだ。
ヒトとけものが横一列。
『サーバル』たちは全力疾走のまま森の中を駆け抜けていた。
「『サーバル』はおっちょこちょいなのだ! どうしてボスとセルリアンを間違えるのだ!? そんなことアライさんでもしないのだ!!!!」
「アライさーん、頭の上におっきいたんこぶ作って言っても説得力無いよー?」
「そういうフェネックも泥んこまみれだよ! わたしが言っちゃいけないんだけど同じくらいドジしちゃってるよ!?」
始まりは『サーバル』のいつもの
あっ、ボス見っけと両手で鷲掴みにしたのはセルリアンの突起で、それが近くにいたセルリアンの群れに伝わって追いかけられることになったのだ。
多勢に無勢は一目瞭然。倒すよりも逃げたほうが良いと判断したわけなのだが、少しでも数を減らそうと落とし穴を作ったフェネックは足を滑らせ転げ落ち、アライグマは気を惹こうとしたら盛大にすっ転んで大岩に頭を打ち付けた。
そんなわけでしばらく痛みやら羞恥心やらでわなわなと震える二人をしばらく『サーバル』が抱えていたわけなのだが、兎にも角にも大変だったのである。
「わぁ……!? セルリアンが突進してきた!?」
前言撤回。今もなお大変だった。
『サーバル』は頭を使うのは得意ではないため、そういうことに長けている友人に託す。
ほとんど叫び声に近い形でその少女に呼びかけた。
「どうしようかばんちゃん!? おっとっと……! ど、どうしよう!?」
「えーと、えーーっと!」
かばんは周辺を見渡すが生憎ここは森の中。役に立ちそうなものなど置いていない。セルリアンがたくさんいたからかフレンズの姿も見えなかった。
しかし。
しかしだ。
流石はみんなのリーダーかばんちゃん。もう一度木の並びを見ると唐突に閃いた。
「さ、『サーバル』ちゃん! あの木って斬れる!?」
「え? ちょっと難しいかも!」
指を指したのは少し離れたところにある大木だ。
切断するのは一人では厳しい。せめてあと数人、力を借りたかった。
「じゃあフェネックさん、根っこの部分を掘り起こしてください! なるべく重さで他の木の方に傾くように! 『サーバル』ちゃんとアライグマさんは体当たりで倒してくれないかな!」
口を揃えて三人のフレンズが二つ返事で了承する。
囮は持久力のあるかばんが引き受けた。
時間にして数秒。
その間にフェネックは注文通りに大木の根元を掘り起こし、そのせいで木の重心が傾いた。
続いて『サーバル』とアライグマが全身を使って突進する。
一度だけでは倒れない。数回に分けて衝撃を与えることで、大木はやっと倒れ始めた。
隣にあった二回りほど小さい木に当たり、重さに耐えきれず二本まとめて倒れていく。しかし一本だけでは終わらず、次の木も、その次の木も倒していった。
その間もかばんは木登りと立ち回りを利用してセルリアンを誘導する。
そして最後の一本が倒れ、地面と木の間に出来た空間を滑り込むように飛び込んで回避するとそれは出来上がった。
「なるほどねー」
「すっごーい!」
「おぉー……流石はかばんさんなのだ!!」
それは丸を描いているように倒れていた。一定以上の太さを持つ倒れた木々によって、セルリアンは三六〇度どこを見ても行き場をなくしていた。
額に汗を垂らしながら、かばんは満足気に笑っていた。
「う、うまくいって良かった……」
その騒ぎを聞きつけたラッキービーストが姿を現した。
怪我の功名というか結果オーライというか、四人とも疲労困憊になりながらも第一目標を達成した。
とまぁ、こんな感じのトラブルが先程あったわけである。
だがそんなことでめげる『サーバル』ではない。ぶっちゃけそれ以前にキョウシュウエリアでは川に流されたりロープウェイのロープから落ちたり山から転落したりバスで材木をふっ飛ばしたり温泉と間違えて氷水に突っ込んだりしたこともあったため、この程度何のダメージにもならないのである!!
……思い返せばドジしてばっかで泣きそうになったがそれはそれ。本題に移ろう。
「えーっと、ゴコクエリアのラッキーさん。この辺りでバスの充電ができる場所ってありますか?」
『マカセテ。ソノ前ニ、ソッチノラッキービーストニリンクシテゴコクエリアノ情報ヲコピースルヨ。カバン、僕ノコアニ近ヅケテクレルカナ?』
「えっ? わ、分かりました」
かばんがボスをラッキービーストのコアに近づけると、ゴコクエリアのラッキービーストは目を、かばんが身に着けているボスは全身を点滅させていた。
『インストール……完了シマシタ。カバン、コレデ僕ガゴコクエリアヲ案内デキルヨ。近クニ宿泊施設ガアッテ、ソコニ緊急用ノ充電設備ガアルミタイダネ。場所ハココカラ西ニマッスグ進ンダトコロダヨ。歩イテイッテモ大丈夫ナ距離ダネ』
「なるほど……ありがとうございます。フェネックさん、西がどっちだか分かりますか?」
「うーん、結構走り回ったからねー。ちょっと自信ないけどあっちなんじゃないかなー」
指を指した方向は相変わらず森の中だ。
あのフェネックが冷や汗をかいているのも新鮮だった。こういう普段であれば見れない側面も見れるから旅は楽しいと思える。やはり追いかけて正解だったと改めて実感していた。
宿泊施設は見つかった。ボロボロで、もう使われていないようだったけれど充電するための機構は生きていたようだ。
ボスが小屋や中にある設備の説明をして、アライグマが興奮するのをフェネックが止める。
いつも通りの日常だった。
傍らの少女に向き直る。
それに気づいた彼女は微笑みながら可愛らしく小首を傾げた。
ずっとずっと、この日々が続くと思うから。
だから、今日も笑って伝えよう。
この『世界』の何よりも、貴女の笑顔が好きだから。
「いつもありがとね! かばんちゃん!!」
「こちらこそ。これからもよろしくね、『サーバル』ちゃん!!」
11
本当に、本当に心の底から『サーバル』は思っていた。
どうしようもなく楽しくて、どうしようもなく満ち足りている。
毎日がきらきらと煌めいていて、隣のあの子の手を握る度に幸せだと実感する。
きっと、これだけでは終わらない。
ドジを踏んで失敗したり、セルリアンと戦ったり、パークの危機に立ち向かうことだってあるのだろう。
でもきっと大丈夫。
友だちの手を離さずに、ずっと握って、目を離さないでいれば見失わない。
失敗したって立ち上がれる。また一歩を踏み出していける。
次の日も。
その次の日も。
そのまた次の日も。
楽しくて、幸せで、満ち足りた日常が続いていく。
『サーバル』は疑いもせず、そう信じているのだ。
12
それを。
その満ち足りた日常を別の誰かが眺めていた。
日が傾き始めて、バスの中にいるけものを赤く照らしていた。
砂浜で残されたジャパリバスの中の一番端っこで。
いれば気付くはずなのに、こうして膝を抱えて
そのけものは。
サーバルキャットは嫌な汗を全身から噴き出しながらカタカタと震えていた。
「なに、あれ……」
最初から最後までサーバルはここにいた。
なのに、誰もその事を気にも留めなかった。
代わりにいたのは自分ではない誰かで、さも当然かのように溶け込んでいた。
何もまったくの別人だったわけではない。
ただおかしい。
おかしいはずなのだ。
震える唇をぎこちなく動かして、吠えるように叫ぶ。
「何でセーバルがあそこにいるの!? わたしはここにいるのに、どうして誰も見てくれなかったの!? 毛皮も黒くて、目も真っ赤で、絶対に間違えるはずないのに……!!!!」
『どこか不思議な事ですか?』
カツン、と革靴がバスの底面を叩いた。
虚空から現れた『かばん』が、サーバルの目の前に着地した音だ。
『あの位置にいる事ができるのは自分だけだと思っていたんですか? 思い上がりすぎですよ。世界はそんなに優しく作られていません。貴女の代わりなんていくらでもいます。あのセルリアンのサーバル……セーバルでしたっけ、彼女はその一例に過ぎません』
指を一回鳴らすと、何もなかったところから一枚の白い板が現れた。
『「世界」が回るにはそれ相応の歯車が必要です。しかしそれは唯一無二のものではありません』
白い板に置かれていた黒いペンが独りでに宙に浮き、さらさらと絵を描いていく。
左に色が塗られていないサーバル、右に黒いサーバル。
おそらく自分は左の絵なのだろう。
『誰でもいいんです。必要なパーツに近いものがあれば、勝手に世界は回っていくんですよ』
黒いペンは白い板を貫いた。
無色のサーバルを的確に取り除き、黒いサーバルは無傷のままだった。
『それこそ、顔も名前も性格も違う誰かであってもかばんという少女を支えることが出来ます。過程は少しの差異が生じますが、結果は同じことなんですよ』
丁度白い板の真ん中に、かばんと思われる少女の姿が描かれる。
『繰り返します。ヒト、フレンズ、セルリアン。誰であろうと、何であろうとあそこにいられるんです』
黒いサーバル以外の存在が書き加えられる。見たことがあるフレンズや、見たことがない誰かも描かれていた。
かばんの周りを囲うように、その〝パートナー〟は並べられていく。
その中に、サーバルの姿はない。
『あなたはいなくてもいい。努力しても報われない。いつかは誰かにその場所を奪われる。そんな不安定な場所に居続けて良いんですか? 貴女はそれを受け入れられるのですか?』
胸がとてつもなく苦しかった。締め付けられるような、放っておけば潰れてしまうのではないかとも思えていた。
『かばん』の口は止まらない。サーバルは心とともに頭を俯かせていく。
『耐えられないでしょう。自分ではない誰かが、一番居心地のいい場所を我が物顔で占領してるんですよ。そこにいたのは自分だったはずなのに、別の誰かが全てを奪い去っているんです。そう、例えば、あの黒いサーバルのようにね』
ぶるりとサーバルの背筋が震えた。
思い出していた。自分がいたその場所に、知らない誰かがさも当然かのようにそこにいる状況を目の当たりにした瞬間を。
何か、言葉には表せない何かが心の奥底で燻ってきているのを感じる。
『良いんですか? 許せるんですか? 全てを失って、奪われて、貴女はそれで満足なんですか? かばんが幸せなら自分は構わない? まさか。自分に嘘はつけませんよ』
「だから、何なの?」
声は小さく消え入りそうだった。
頭には疑問しかない。理不尽な仕打ちを受け、心が磨り減ってきている。拳を強く握りしめることしか、サーバルは出来なかった。
「わたしの代わりはいくらでもいるって言って、こんな目に合わせて……あなたは何がしたいの? わたしをどうしたいの? もう、分かんないよ……。あなたがしようとしていることも、あなたが言っていることも……だって、言ってることがみんな違うんだもん……」
『僕が言っていることは簡単です。あなたが頑張る必要なんてどこにもない。意地を張らず、誰かに任せてしまえばいい。この世界は単純です。一つのピースが抜けてもそれ相応のものか、あるいは他が補ってくれます』
代わりがいるという意味を、何となく受け止めてしまっていた。
思い返せば似たようなことをジャパリパークで経験していたではないか。
壊れたジャパリバスを動かせるようにするため、アライグマたちが探し回っていたタイヤがおそらく一番分かりやすいだろう。
もし、あれと同じ理屈だとすれば。
『辛いでしょう? 嫌になるでしょう? 諦めてしまえば良いんですよ』
楽な方に逃げたくなる。
だって、考えても分からないのだ。
自分は何もしなくても良いのではないか。
何もしないほうが良いのではないのか。
もし、自分の存在が大したものではなく、この決意が的外れな思い込みだとすれば。
自分が何かをすればするほど、他の誰かを不幸にするのではないか?
また、甘い言葉を掛けられる。そう思っていた。
しかし、次に来た言葉はサーバルの予想を遥かに上回るものだった。
『僕はね、貴女を救ってあげたいんです』
「……?」
思わず、顔を上げる。
モチーフになった少女が目の前にいるのではないかと思うほど優しげな笑顔だった。
『全てを奪われて壊れていくなんて僕は見たくない。だから救ってあげたい。さぁ、僕の手を取ってください。貴女が望んだままに、悲劇も、闘争も、喪失もない、理想の場所へ送ってあげます。ご要望とあらば顔も名前も変えてさしあげましょう。別人として生きていきたいと願うのなら、その通りに叶えてあげます』
笑って、慈愛があるような表情で手を差し伸べる。
救いの道標か。
悪魔の誘惑か。
どちらになるか分からない。しかし、嘘を言わない『神』の手を取れば、少なくとももうこんな目に遭わなくても済むのだろう。
でも。
どうしても頭の何処かで引っかかっているものがあったのだ。
その手を取ってしまえば、取り返しのつかないことになることを本能的に理解していた。
だから。
「…………違う」
真っ直ぐ、目を見据えたまま。
怪訝な顔をする『かばん』にもう一度。その言葉が聞き間違えではないことを示すために。
「違うよね?」
『……何がでしょう』
空白が空いた。僅かに、その顔が引きつるのが見えたような気がした。
「全てを奪われて壊れていくのを見たくない。それはきっと、嘘じゃないんだけど、でも、きっと違う」
『だから何が』
「あなたはわたしに諦めてほしいんじゃないの?」
慈愛の微笑みが消えた。
空気が変わる。
分かる。ピリピリと肌を焼くような危機感じゃない。まるで蛇に体を這い登られているような、そんな漠然とした危機感だ。
恐怖。
そう言い換えることが出来るだろう。
しかし臆するな。
その感覚が気のせいじゃないとすれば、その答えもまた間違いではないはずだ。
「代わりがいるってことは関係ないわけじゃないけどそれだけじゃない。あなたは、そういう言葉で責め続けてわたしが戦うことを諦めるのを待ってるんじゃないの?」
『かばん』は何も言わなかった。ただ目を細め、サーバルのことを静かに見下ろしている。
まだ足りない。
「顔と名前を変えるっていうのも、全部わたしがわたしじゃなくなるための方法。あなたは、わたしが自分が誰なのか分からなくさせるためにこんなことをしてる。……わたしは」
替えが利き、サーバルではない誰か。そんなものに価値など無いだろう。
なのに、『かばん』は今まで悪意しか無い言葉しかぶつけてこなかった。それこそ水面の反射などで改変した姿を見せさえすれば、否が応でも自分が何者か分からなくなる。すぐに終わる話だったはずなのだ。しかしその手は使わず、言葉だけで押し潰そうとしてきた。
それが答えだ。
『かばん』が対峙している者こそ何かを成し遂げてしまう懸念があった。アイデンティティを壊し、自我を崩壊させ、自身が何者かを混乱させるという方法を選ぶ何かがあった。
差し伸べられた手が歪んでいた。
その眉間に皺が寄っていた。
それが、サーバルに確信を持たせる。
「わたしは諦めたりしない。あなたの手なんて借りない! 絶対!!」
『──っ!!』
歯を食いしばるような音とともに虚空を力強く握りつぶす。
それだけで、『世界』は圧縮され床に落としたコップのように粉微塵に砕け散った。
壊れていく『世界』の中で、鼻から上は帽子で隠れているが『かばん』の口元は裂けるように歪んでるのが見えた。
『どうやら本当に、貴女の決意は固いようですね。あぁ褒めてますよ? それはもう……ふふふ』
『世界』の破片にかばんと黒サーバルが映った。最後まで笑い合っていたが、それもやがて砕け散る。
この『世界』がどんなモノなのか、何となく分かっていた。
これは黒サーバルの理想だ。
サーバルになりたい黒サーバルが、本当の意味でサーバルになれた『世界』だったのだ。
『では映しましょう。見て聞いて体験してください。無尽蔵に湧く「世界」を。終わらない旅路の果てを』
黒一色の『世界』が顔を覗かせた。
しかし揺らいでいる。
見れば、『かばん』は中指の腹に親指を押し当てていた。
『ようこそ、
揺らぐ。
揺らぐ。
揺らぐ。
息つく暇など与えない。
次の『世界』が。
来る。
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