彼女の腕、あのウォータープルーフ。

琥珀 燦(こはく あき)

彼女の腕、あのウォータープルーフ。


 ・・・クリスマス・プレゼント、何が欲しい?

 僕が問いかけたら、彼女は、こう言った。

 ・・・あなたの。時計をください。

 小さくかすれた、囁くような声だったから、時計(トケイ)が時間(トキ)に聞こえたりして。


 僕達二人が恋人になって初めてのクリスマスの、あれは確かイヴ・イヴのこと。

「時計?」

「そ」

 あまり表情を崩さない。ひそやかな微笑。

「腕時計が、欲しいの。でも間違っても、新しいのなんて買わないでね。私は、あなたの腕時計が欲しいの」

「こんなのが、そんなに気にいったの?」

 その時僕が着けていた腕時計は、三年ほど前、学生時代にバイト代をかなりつぎ込んで買った少々根の張る代物で、そりゃ自分でも気に入りの物だったけど、ゴツイめのウォータープルーフで、とても女の子の細い腕に似合うものではなかった。

「ん、それじゃなくてもいいんだけど。・・・あのね。あなたの使い古しの腕時計なら何でもいいの。そんなにいい物じゃなくてもいいし、流行遅れのでもいい。壊れて動かないのでもいい。私達が出会う前、私が知らなかった頃のあなたの時間を、あなたの手元で刻んだ腕時計が、欲しいの」

「ふーん」

 素っ気なく相槌を打つ振りをしながら、僕は、実は、この彼女のセリフに感動していたのだ。

「だめ?」

心配そうに僕の顔を覗き込む彼女。僕はちょっとからかうように鼻をならして笑った。

「もう! ヘンな奴って思ったんでしょ?」

「そうじゃなくてさぁ」

 彼女の膨れっ面を真似て、僕もちょっと怒った顔でこう言ってやった。

「ずるいよなぁ。女の子は男物の大ぶりの腕時計しても可愛いけど、僕が女物の腕時計しても可愛くないじゃん、不公平だよ」

 左腕の重いウォータープルーフをはずしながら笑って「そういう事なら、僕だって、僕の知らなかった頃のきみを知ってる、腕時計が欲しいって言いたいのにさぁ・・・ほら!」彼女の、合わせた手袋の中にウォータープルーフを落とす。

「メリー・クリスマス!」

 彼女は、目を真ん丸く見開いて、まるで小さな星屑を手に入れた子供のように、僕の体温の残る時計を、真綿色の手袋の両手で包み込んだ。

耳元にそぅっと近づけて、目を閉じて、クスクス、小さな風のような笑い声を立てた。

 とても、可愛いと思った。

 僕の、天使だと、思った。


 数ヶ月前、彼女からの告白で始まった恋だった。

 でも、この時、この言葉を聞いた瞬間、僕は本当に彼女に恋をしたのだと思う。


 黒の太いベルトに、深いブルーの文字盤。彼女の細い腕に痛々しい程の重量感を持ったウォータープルーフは、その後数年、彼女の腕で、二人で過ごした時間を刻んでいた。

 僕達は本当によく笑ったし、大ゲンカもした。泣かせてしまったり、何度も抱きしめあったり、嵐のように激しく幸せな日々を通り抜けて、ある日小さな、だけどどうしようもなく決定的なきっかけで別れて、その後二度と会うことはなかった。

 でも、別離の瞬間、二人は涙でくしゃくしゃの笑顔で手を振ったし、あのウォータープルーフを彼女は僕に返そうとしなかった。

「二人の愛は永遠じゃなかったけれども、あなたと過ごした時間は、笑顔も涙も、一秒ごとに輝いていたから、永遠よりも尊いものなんです。私は、この時計を二人の時間が存在した証拠として持っていたい。返さなくていいですか?」

 その頃には僕達は、悲愴なまでに幸せな恋に疲れ果てて、恋人というよりも戦友のような気持ちになっていた。(彼女もそうだったと、僕は確信している。)でも、結婚という人並みの幸せなゴールにはたどり着かなかったけど、二人は眩しいほどの美しい時間を過ごしたと、僕も本当に心からそう思う。


 二人は、同じ時間(とき)を共有して生きた。愛を共有して、あのまばゆい時間を通り抜けた。

 最後に彼女は、27歳の等身大の僕に似合う、新品の腕時計を選んで、僕にプレゼントしてくれた。それは僕の誕生日の夜だった。


 そして、二人は別々の時間を生き始めた。別離のしるしに交換した腕時計は、エンゲージリングより尊い。きっと。

 さようなら。

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彼女の腕、あのウォータープルーフ。 琥珀 燦(こはく あき) @kohaku3753

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