『殺し、殺され、ふり、ふられ』
三月一日。暦の上ではとっくの昔に春に入っているが、ついに気象予報士さん的にも春へと入ったことになる。
まだまだ暖かいとは言えない気温で春だと感じることは全くないがしかし、世の中に目を向けてみれば卒業シーズン。ニュースを見ると、多くの高校が三月一日に卒業式を行なっていることが分かる。
小中高、友達と呼べるような親しい人物のいなかった
だから今日も今日とて、
本日その中学生の初仕事ということになるのだが、果たして上手くいくか否か。
「神哉くん、お仕事順調ですか?」
いつものようにダイニングテーブルでノートパソコンをカタカタしていた神哉の目の前の席に、彼杵は腰掛ける。
神哉が顔も名前も素性もこちらが一方的に知り尽くしている会ったこともない少年のことを憂慮している時に、彼杵はおずおずといった調子で問うてきた。
「オカズはできてる。まだご飯炊けてないから、あと5分くらい待ってくれ」
「あれ? 私今ちゃんとお仕事のこと聞きましたよね?」
「本当に聞きたいのは飯のことだろ?」
戸惑う彼杵に神哉が当然のごとく答えると、何やら彼杵は嬉しそうに口元をニマニマさせ、じーっと神哉を見つめてから、グッと顔を近付けた。
「神哉くん!」
「……なんでしょうか」
「好きです。結婚してください」
「お付き合いもなしですか」
「私と神哉くんの仲です、もう必要ないでしょう」
「俺はお付き合いして同棲してって、ちゃんと段階踏んでいきたいタイプなんだ。結婚してから相手の嫌なとこ見つかったりしたらヤダし」
「それも大丈夫です。私この家に住み込んでるも同然ですから結婚生活今と変わりません」
「だったら余計結婚したくない。毎日晩飯のメニュー俺に聞かずに料理覚えるくらいしろ、せめて手伝え!」
「……」
彼杵は無言、返す言葉もない、ぐうの音も出ない。せめてもの抵抗として不貞腐れた顔で神哉を見つめるも、神哉はすでに仕事に戻っているため効果が無かった。
それからしばらく神哉はパソコン作業を、彼杵は週刊少年マガジンを読むことで二人の間には沈黙が流れていた。キーボードを叩くタイピングの音や雑誌のページを捲る音、衣擦れ音、時計が時を刻む音――人間が口を閉ざすことで訪れる沈黙は、普段意識しなければ聞こえない音を自然に聴かせてくれる。
だがしかし、その静謐な空間は彼杵の新たな問いによって壊された。
「じゃあ神哉くん、好きなタイプ教えてください」
「……考えたこともなかったな。別に大したこだわりはないけど、大人な女がいい」
「なるほど、サヤ姉的な?」
「お前サヤ姉が大人の女って言いたいのか? 家事全くできない独身アラサー女子だぞ?」
「まあ、確かにサヤ姉は立派な大人とは言えないかもですね……」
得意料理はカップラーメン、掃除洗濯は週一で来てくれる家事代行サービス業者にオール委任、独り身生活が長いはずなのに生活力皆無の沙耶は、お世辞にも立派な大人だとは言えないだろう。
もちろん、沙耶は年下二人にこんな言われ方をしていることなど露知らず、現在神哉宅へと向かっていた。
「なんかこう、大人というか落ち着いた人? がいいな。動じず、どっしり構えて広い心で受け止めてくれる人がタイプだと思う」
「それ、結構私当てはまってません?」
「え、どこが……?」
「だって神哉くんが掃除手伝えって言う時も動じませんし、詐欺師という悪徳商売をしていることも受け止めてますから!」
「それは“動じない”じゃなくて“動かない”だろ。それにお前だって泥棒して稼いでるじゃないか」
「んもぉ! 全部ド正論で返してくるじゃないですか!」
彼杵の謎の逆ギレを、神哉は華麗なスルースキルで受け流すどころか避け流してしまう。彼杵はやっぱり頬を膨らませて睨みつけてくるが、神哉もやっぱり気に留めない。
その時、キッチンの炊飯器からご飯が炊けたことを知らせる甲高い音が鳴り響いた。
「彼杵、2階行って師匠呼んできてくれ。夜ご飯できたって言えば――」
「――残念だったな神哉。わたしの耳は炊飯器の音をしかと聞き入れているぞ」
神哉の言葉を遮って、2階から椿が降りてきた。椿はボサボサに寝癖のつきまくった長い白髪をポリポリ掻き、フレームレスの眼鏡の奥で赤い目を爛々と輝かせているが、その赤色は目の色ではなく充血によるもののように感じなくもない。
「ツバキちゃん、ちゃんとお風呂入ってますか? 髪の毛ヤバいですよ」
「入っとるわい、週二回くらい」
「……不潔ですね」
「だってお風呂面倒くさいんだもん。熱いし疲れるし」
「風呂もそうだし、あと全然寝てないですよね? 目バッキバキですよ」
「んぁーー! 二人してうるさい! わたしはわたしの仕事とか生活の仕方があるの!」
キレ気味に椿は声を荒げる。触らぬ神に祟りなし、反抗期真っ盛りの椿には何を言ってもキレられるだけだ。
話し方とか立ち居振る舞いとか大人ぶるクセに、中身はまだまだ子供なんだよなぁ――神哉ははぁとため息を吐きながら、茶碗にご飯をよそう。
今日は豚の生姜焼きがメイン、濃い目の味付けにしているので白米なしにはやっていられない。ダイニングテーブルに自分の分、彼杵の分、椿の分をそれぞれ用意して、三人合わせて合掌。
彼杵は生姜焼き、白ご飯、ワカメと豆腐のお吸い物の順にガツガツとかき込んでいく。神哉と初めて会った時から何も変わらない、恐ろしいほどに食い意地が張っている。すぐに彼杵の茶碗から白ご飯が姿を消し、彼杵は自分で炊飯器からお替わりをよそった。
一方そんな彼杵とは対照的に、椿はとてもゆっくり、ゆっくりとした食事だ。30回以上噛んで食べるべしという話を馬鹿正直に実行しているかのようによく噛んで、飲み込んでいる。加えて小柄な体型と比例した小さな口でのスローペースな食事は、いつも神哉や彼杵が食べ終わった後も続くことが多い。
「ねぇツバキちゃん、私と神哉くんお似合いだと思いませんか?」
「彼杵、それは第三者が言うことであって当事者が言うべきじゃないと思うぞ」
「ごめん師匠。さっきからコイツしつこくって」
「気にするな。彼杵が神哉にぞっこんなのはここに居候を始めてかなり早い段階で理解している。彼杵からのこういう突拍子もない話にはもう慣れた」
「で!? どう思いますか!?」
「……まあ、別にお似合いじゃないとは言えないな。普通に仲良さげだし」
箸を置いて、椿は彼杵からの質問に答える。面倒臭そうな表情で、とてつもなく重々しい口の開き方だ。
「むしろ神哉が何故こんなに好き好きアピールしてくれる女を何もせず放っておいているのか疑問だ。彼杵に頼めばすぐヤれる、童貞卒業のチャンスだというのに」
「んなっ///! ヤ、ヤれるだなんて……///! ツバキちゃん恥ずかしいですよぉ〜!」
と頬を赤らめつつも、まんざらでもない様子の彼杵。しかし対する神哉はと言うと。
「さっき彼杵にも言いましたけど、俺は段階を踏んでいきたい人なの。だいたい今すぐに童貞卒業したいわけでもないし。……それに、彼杵とはね……」
「なんかよく分からんが、要するにEDってことか?」
「違いますね」
「別に私は一晩中フェザータッチし合うだけでも大丈夫ですよ、安心して中折れしてください」
「いやだからEDじゃないって……俺ちゃんと勃つから」
全く持って食事中にする話ではないことはおおよそ見当が付くが、下ネタ好きの女子二人組がこうして卓を囲んだ時点でそれなりの覚悟が必要になるだろう。神哉としても別にマナーに小煩くするつもりはないので基本注意も何もしないのだが。
と、その時。突然、というか必ず突然でいきなりではあると思うが、神哉宅のインターホンが鳴った。
「お邪魔しまーす」
玄関の扉が開かれる音と同時に女性の声が神哉たちのいるリビングにまで聞こえてくる。
声を聞いてすぐにそれが
「悪い神哉、急ぎでやらなくてはならない仕事を思い出した」
「え、あっ、ちょっと師匠!?」
箸を机上にバンと強く置いて立ち上がり、口早にそう言って椿は2階へと駆け上がっていった。まるで沙耶から逃げるかのように。
椿が2階に消えたその後、リビングに入ってきた沙耶。ダイニングテーブルの上に視線を向けて、疲れきった表情を綻ばせた。
「あー、イイ匂い。生姜焼きだ?」
「うん。サヤ姉食べる?」
「えぇ、いただくけど……この食べかけは?」
「さっきまでツバキちゃんがいたんです。でもお仕事とか言って2階行っちゃいました」
「あら、そうなのね……」
階段の奥を見つめて、沙耶は何かを訝しがっているような声音を出す。
その目の奥で一体どんな感情が湧いているのか、少なくとも静かではあるがしかし決して穏やかなものではないだろう。沙耶の目は明らかに椿のことを“現役女子中学生”として見てはいない。
「サヤ姉、ご飯出したよ」
「あ、うん。ありがと」
神哉に呼ばれてようやく我に返った沙耶は、振り返り席に着く。
長い金髪をゴムで一つに括り、「いただきます」と手を合わせて生姜焼きに口をつける。
「あ、そう言えば彼杵、怪盗Hとは会えたの?」
「会えましたよ。ただもう二度と会いたくありませんけど!」
「え、どうして……?」
先日の怪盗Hの一件。彼杵の憧れであった怪盗Hは、なんと驚きなかなか捕まらない下着泥棒と同一人物だったのだ。
結局あの後逃げ出した怪盗Hもとい
結果、彼杵はガチギレ、二度と下着泥棒をしないと誓わせることで春昌を解放した。怪盗Hであることもバレて、下着泥棒していたこともバレて、挙げ句の果てには一度チョイ煽りした後なのだから、これでまた下着泥棒でもすることがあればもうそこに待つのは社会的な死のみ。
よって春昌は二度と下着泥棒をしませんと半ベソかきながら土下座して、事なきを得たのだった。
彼杵からその事の顛末を聞いた沙耶は苦々しげな表情で笑い、口を開く。
「それはまた……何というか、残念ね」
「いやもう残念とかいう次元はとうの昔に消え去りました。今はただひたすらに軽蔑してます」
「まあ確かに、下着泥棒なんてあたしにはちっとも理解できない犯罪ね。全くお金にならないし」
つまらなさそうに言って、沙耶はスープを喉に通す。生姜焼きが濃い味なので、ワカメスープはあっさり目の味付けにしてあり、こちらもまたご飯が進む。
三人はその後も世間話や近況を談笑しながら食事を楽しんだ。やがて神哉と彼杵が食べ終わり、沙耶がご飯をお替わりするかどうか悩んでいた刹那のこと。
今度は本当に突然のことだった。
リビングのドアが開かれ、その奥から黒いコートに身を包み、フードを深く被った怪しげな男が入ってきたのだ。
体格的に大柄な和人でもないし、小柄な凶壱でもない。その他にインターホン無しで神哉宅に入ってくる男は存在しない。
「……
その男は、手に持った拳銃を三人に突き付けて、ハスキーボイスでそう問うてきた。
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