『legal smoke』
中田祐三
第1話
世界は様々な価値観であふれている。
友情。 愛情。 与えられた仕事を誠実に確実にこなし、三十年ローンで購入したマイホームで愛妻と子供に迎えられ夕飯につく。
大分廃れてきたとはいえ、これが体現できている人間はこの国でもっとも理想に近い生き方だろう。
……まあ、俺達の年代にはもはや幻想と同義だがな。
量販店で買った安物の絨毯に横たわり、流行のなんちゃって低反発の枕に頭を預ける。
薄ぼんやりとした視界の向こうではヤニと何かによってコーティングされたかつては白かった天井が見える。
くそっ、窓を開けるのを忘れていたな。
室内に充満するケミカル臭い煙によって自分自身が燻されているのを感じる。
だが今更動く気は無い。 というよりも動けない……いや動きたくないというのが正解だから最初の言葉でおおよそ間違っていないだろう。
億劫そうに視線を横に向ければ茶色い絨毯の上には青い外装に涙を流したような目が印刷されたパッケージが転がり、寄り添うようにライターと灰皿が置いてある。
その灰皿の上には薄紫の煙が消えかけた狼煙のように一筋立ち昇り、天井で燻った雲のようなそれをつなぎとめるように繋がっていた。
誰かが言った。 『人生は生きるには長すぎる』と。
キザでいかにも繊細なその言葉には未だ頭の固かった十代の頃には反発を覚えたものだ。
実を言うと今でもその言葉自体は好きじゃない。
俺から言わせてもらえば、あー…なんだろうな? そうだな、『この国でシラフで生きていくには俺達はまとも過ぎる』と言ったところだろう。
まるで映画の台詞のようだった先程の言葉よりも一般大衆っぽくて素敵だなと自賛して薄暗い部屋の中で一人噴き出しちまった。
「お~、やってるかい」
急に部屋の扉が開いた。 途端に部屋の中に新鮮な空気が流れ込む。
排気ガスと息がつまっちそうなクソくだらなくて、思考停止した国民の吐息に満ちた空気が。
「早く閉めてくれ…酸欠になっちまうよ」
「俺から言わせればこっちがラリっちまうよ」
短髪に眼鏡、そしてスーツを着た染谷ははにかみながら俺の隣にどかっと腰を降ろした。
「残業お疲れ様…企業戦士殿」
「いやいや今日も自己啓発だよ、何しろこちとらしがない底辺ソルジャーですから」
おどけた言い方をするが、俺は笑わない。 染谷も笑ってなどいない。
まるで泣き笑いのような、何かを諦めたような曖昧な表情をしている。
「ほら…まあ一服しろよ」
横になったまま、すでに消えちまった紙に巻いた『それ』を手渡すと、染谷は首を横に振ってそれを断る。
「今日はマイ道具を持ってきているから要らないよ、ヤニ臭いハゲ上司から毒ガスを間接キスされてきたんだから、もう男とのキスはしたくない」
そう言いながらビニール袋の中から彼自ら自作したご自慢の水パイプ(ソメヤンスペシャル)を取り出す。
「それはご愁傷様だな…とはいっても少し前までは俺と散々間接キスしてきたってのにツレないわ…ダーリン」
いつもよりも柔らかくなった感性と気持ちで冗談を言うと、
「それには触れんといて~!」
ダミ声で返してくれる。
そこではじめて俺達は笑いあった。
大いに。 心から。 まるで子供の頃のように。 愛想笑いじゃなく純粋にだ。
「少し貰うよ」
床に置いたパッケージから一つまみ掴むと、それを水パイプの火皿に置いてライターで火をつける。
ボコボコという音が薄もやの部屋の中に心地よく響くので目を瞑ってその演奏を楽しむ。
ひとしきり吸い、一分間ほどの沈黙の後にフ~と言う風の音を聞く。
そして少しはおさまったと思ったあの化学物質のような香りが鼻腔を刺激する。
「窓、開けるぞ」
いまだ瞼の裏を覗いている俺をどうやら跨いで染谷が窓を開ける音が聞こえ、それすらも何か素晴らしい音楽のように思えたので俺は感嘆のため息を漏らすのだった。
「今日は泊まっていくんだろう?」
「よくわかったな」
「わかるさ、わざわざミニコンポなんて持ってきてるんだからな」
薄い絨毯シートの上、メタリックに光るミニコンポが鎮座している。
「今日もテクノかヒップホップか?」
瞳を開き、窓際に立つ染谷を見上げると、真面目でややオタ臭い印象を他人から受けるであろう彼は、
「もちろん両方さ…」
こちらが嬉しくなるほどの眩しい笑顔で答えてくれた。
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