第6話 フラッシュバック
土曜日。何かしらのオマケがつく週末デーの二日目は、休日ということも相俟って、相変わらずランチ時は大盛況だ。バイト二日目のみのりも、まだまだ慣れない忙しさにてんやわんやするも、持ち前の明るさと丁寧な接客態度に、ほんわかする女性客も少なくない。当然、兄弟ファンからしたら面白くない要素もあるが、彼らの親戚だと公言されている以上、下手にみのりに対し、横柄な態度を取ることも出来なかった。一方、当のみのりはと言うと――。
オーダーをキッチンに伝えに行く。
「――ほら、慶! 八番テーブルのお子様ランチ、もう十分以上待たせているよ! 小さな子供は長く待っていられないんだから、早く提供してあげないと、お母さん達が大変でしょ!」
「わ、わかっている! もう仕上がるぞ。イタリア国旗を刺して、出来上がり! うん。我ながら今日も素晴らしい出来だ!」
胸元にイタリア国旗のスカーフを巻き、真っ白い制服で働く上の兄の周りには、キラキラ星が輝いていて、ただでさえ美形な顔立ちの二人から、更に麗しいオーラが放出されている。そんな二人の姿に、みのりは、ぼうっと見惚れた。
「悪いな、みのり。待たせて悪かったと伝えてくれ」
出来上がったお子様ランチを提供台に乗せた慶が、これまたキラキラ輝く笑顔を向けた。
「ごめんね、みのりちゃん。もし遅いとか、早くしてとかいう苦情が来たら、すぐに教えてね。僕が謝りに行くから」
長男らしい雅の男気に、みのりは紅潮し、ばっと二人から顔を隠した。
(ひゃあああ! 改めて見ると、二人ともカッコイイ! カッコよすぎるよ~!)
「ん? どうした、みのり。顔が赤いぞ?」
「お熱でもあるのかな? 辛かったら溌に言って、休んでいても良いんだよ?」
「あ、いえっ! これは違うんです! だ、だいじょうぶです! 私が弟さん達の分まで働きますからー!」
口から心臓が飛び出してしまう前に、みのりはダッシュで、お子様ランチを八番テーブルへと運んだ。
「――ではホットサンドとコーヒーの二点で、六百五十円になります」
溌がレジにて会計している。
「え? あの、プリンアラモードもあったと思うんですけど……」
「ああ、本日は週末デーなので、そちらはオマケです。こちらのサービスとなりますので、今日は、そちらのお代は頂かないことになっているんです」
にっこりと笑う溌に、「ほえ~」とみのりは同い年ながらも、精神年齢は、ずっと彼の方が上だと感心した。
「倖チャン! 今日お店が終わったら、お姉さん達と一緒にカラオケ行かな~い?」
「えっ……あ、えっと……」
年上の女性客からのお誘いに、倖がシドロモドロする。
「お、おれ、カラオケはっ……」
「おねがーい。お姉さん、SNSでもいーっぱいこのお店の写真アップしてるんだよ~? もっと宣伝してあげるから、イイでしょ? ね?」
「あ……」
口を噤んで俯く倖に、遠くから見ていたみのりは胸を突かれた。そうしてずんずんと彼女達の下へと進み、「すみません、お客様。本人が嫌がっているので、そういうお誘いはご遠慮願いますか?」
にっこりと笑って謝絶するみのりに、女性客だけではなく、倖までもが目を見開いた。
「なっ……! 何よ、別にアンタには関係ないでしょ! 親戚だからって、しゃしゃり出てこないでよね!」
「申し訳ございません。ですが、本人が嫌がっておりますので」
「嫌がってるって、そんなワケないでしょ!」
そうヒステリックに叫んで、女性客が睨むように倖を見上げた。
「ひっ……!」
慄く倖の表情があまりに本気過ぎて、思わず女性客も、「えっ……」とショックを受けた。
「わ、わかったわよ! カラオケは諦めるから、写真だったらイイでしょ?」
「どうしますか? 倖さん」
「あ……写真、なら……」
渋々女性客達からの妥協案を受け入れた倖に、みのりは憂いの瞳を向けた。それから彼女達の携帯で写真を撮ると、みのりは自分の仕事に戻っていった。
その一部始終を見ていた溌。いつまで経っても人見知りが治らない弟に、人知れず吐息を漏らした。
午後七時となり、みのりはドアに吊るす『営業中』の表示を『閉店』に変えた。見上げた空は厚い雲が覆い、今にも雨が降り出しそうだった。
今日の閉店作業は溌と倖、それから見習い中のみのり。三人でホールとキッチンの片づけをしていく。途中、溌はレジの締め上げ作業の為、店の奥の事務所へと引っ込んだ。ホールに倖とみのりの二人きりとなる。倖から見て、気まずい沈黙が流れた。一方、みのりは、せっせと箒でホール内の掃除を始めた。
楽しそうなみのりの後ろ姿を直視出来ずに、倖の視線が右往左往する。それでも昼間の礼を言おうと大きく吸った息は、結局声にならないまま吐き出された。そうこうしている内に、みのりが振り返った。
「ふわっ!」
不意の対面に、慌てて倖が顔を隠す。
「ほえ? 倖さん……?」
「あっ! えっと、あの、な……」
あたふたする倖に、みのりは首を傾げた。
「どうしたんですか?」
無意識の内に、みのりが倖に近寄る。
「ぎゃ! ちょ、俺っ……」
後ずさりして、倖がみのりから離れていく。
「倖さん? 私、倖さんに嫌われてしまうようなこと、しましたか?」
不安そうに、みのりがその距離を縮めていく。
「いや、ちがっ……そうじゃ、なく、テ……!」
「だったら逃げないで下さい。私、もっとたくさん倖さんとお話がしたいんです。それに、倖さんにはお礼も言いたくて……」
「え? お礼……?」
「はい。面接の日、雅さんに断られた時、倖さんが最初に賛成して下さいました。お客さんの時から倖さんが人見知りだということは知っていたんですが、すごく嬉しかったです。ありがとうございました」
ばっと顔を上げた倖の目に、優しく笑うみのりの姿が映った。脳裏に、ずっと昔に出逢った可憐な姫の姿が浮かんだ。
「あ……」
「人見知りでも、倖さんはとってもお優しい方ですね」
その言葉に、脳裏に浮かんでいた姫から、顔に影を落とす中年女に反転した。
『――優しい子。そんなに優しいと、傷つけたくなっちゃうじゃない』
「ひっ……」
俄かに倖が耳を押え、その場に蹲った。
「倖さん? どうしたんですか! 大丈夫ですか!」
「どうしたっ!」
そこに、レジを締め上げた溌が飛び込んできた。
「溌さん! 倖さんがっ……」
「倖っ! おい、しっかりしろっ!」
「ううっ……にい、ちゃん……」
倖が震える手で溌の腕を掴んだ。それだけで、倖の身に何が起きたのか理解出来た。
「……悪い、のりピー。今日はもう上がってくれ。オレとこいつだけにしてくれねーか」
「あ……はい。分かりました……」
倖の身を案じるも、みのりはその場から出ていった。
二人きりとなったところで、「チェストォ!」と、溌が倖の脳天にチョップを喰らわせた。
「いってぇー……!」
涙目で顔を上げた倖に、「オメーは何やってんだ?」と溌が悪びれることなく言った。
「溌兄?」
「戻って来たか? ったくよー、なーに思い出してんだよ、オメーは」
「あ……悪ぃ。って、アイツは?」
「のりピーならもう帰ったぞ」
「わっ、マジかよ……。やべえとこ見られちまったな」
倖が深く息を吐いた。その様子に、溌も大きく息を吐く。
「オメーなぁ、五年も経ってんのに、まだ引きずってんのかよ。今代の母親のコトなんて、さっさと忘れろよな。ホントの母ちゃんでもねーんだからよ」
「分かってるけどよ。でも一応、この時代に俺らを産んでくれた奴だし」
「その女がオメーに何したのか覚えてんだろーが! オレらの知らねートコで、ずっとオメーをっ……!」
ぐっと溌が言葉を詰まらせた。倖も口を噤み、俯いている。溌は立ち上がると、倖から体を背けた。
「あいつらからはもう、オレら四人の息子の記憶は消したんだ。オレらのコトなんざ、これっぽっちも覚えてねーんだよ。今までもずっとそうしてきたろーが! ……オレらは頬月。人間ごときが傷つけていい存在じゃねーんだよ。いーか、オレらは人間よりもずっと勝れた種族だ。オレらこそ闇の眷属の王。誇り高き、頬月家の赤鬼だろーが!」
振り返った溌は、真紅色の瞳で、頭には二本の角が生えている。鋭い牙と爪を持ち、頬から首筋にかけて、瞳と同じ真紅色の睡蓮の刺青が刻まれている。その姿こそ頬月兄弟の真の姿であり、倖は自分の掌に目を落とした。
「……俺だって、断ち切らねえとって、思ってる……」
そのまま目を瞑り、ぐっと拳を握り締めた。
日曜日の午後四時前、雨の日でもアフタヌーンティーを楽しむ客が店内を埋める中、急遽店を訪れた、テレビ局のクルー。黒縁眼鏡をかけた若いスタッフの男が、対応した溌に名刺を手渡した。
「お忙しい中すみません、テレビてってれの『いきなり!アポなし極上グルメ!』という番組の者でして、今ちょっとだけ撮影しても大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないですねえ!」
笑顔の中に、怒りが隠し切れない溌。顔は笑っているものの、「こういうことは受けてないんですよ~」と苛立つ声で断った。
「そこを何とか! 今から女優さんがアポを取りに来るというテイで! このとーりですから!」
「いや、困りますから! ウチはアポなしは困るんです! 撮影や取材なら、ちゃんと正規にアポイントを取って頂ければ受けますから!」
「それじゃあ番組が成立しないんすよ~!」
「(知らねーわ!)すみません、お引き取り下さい。他のお客様方のご迷惑になりますので」
「そこを何とか~! 『ほおづキッチン!』さんが流れれば数字が上がるんすよー!」
「(だから知らねーつってんだろーが!)……お帰り下さい」
二人の掛け合いを、みのりはハラハラしながら遠くから見守っていた。
「あれ~? どうしたの? 何の騒ぎ?」
「あ、雅さん! あの実は、テレビ局の方が、アポなしで撮影させて下さいとのことでして……!」
「アポなしか~。それは確かに困るね~」
「悠長なことを言っている場合か。ここは兄さんが出て、ガツンと言った方が良いんじゃないのか? 一応、この店のオーナーなんだから」
キッチンから姿を現した二人に、携帯のシャッター音が鳴り響く。
「はあ……。こういうのも、ある意味アポなしだな。って、倖はどうした?」
「ああ、倖さんならドラッグストアに……」
「ドラッグストア? 何だあいつ、体の調子でも悪いのか?」
「ああ、いえ! 何でも昨日の晩、眠れなかったみたいでして。それで眠気覚ましのドリンクを買いに……。昨日、倖さんが閉店作業中に蹲ってしまって……。それが関係しているんでしょうか?」
心配する表情を浮かべるみのりに、二人は顔を見合わせた。
「気づいてた?」
「いや全く」
「ほえ?」
二人のやりとりに、みのりが首を傾げた。
「大丈夫だよ。……いや、そうでもないか。僕達は知らなかったんだもんね。彼の心の痛みなんて。本当は、何も分かってはいないんだ」
「心の、痛み……?」
「倖はな、幼い頃は素直で、兄弟の中では、一番思いやりのある子だったんだ。両親は私達が幼い頃に離婚したが、母親は教育に熱心でな。私や兄さん、それから溌が全国でもトップレベルの中学・高校に入学したものだから、当然倖にも同じように期待していたらしい。だが倖はどうも勉強が苦手でな、母親の思い描くような息子に育たなかったらしく、ちょうど私と兄さんがイタリアに修行に行ったことも重なって、ストレスや苛立ちから倖を……」
そこまで話して、慶が目を伏せた。その様子に、雅が続きを話す。
「倖をね、母親が虐待してたんだ。言葉と暴力で倖を傷つけた。まだ十二歳とか、そこら辺の年齢だったんだけどね。当然、イタリアにいた僕達はそんなことになっているなんて知らなかったし、気づいてもあげられなかった。でもその時、高校生だった溌が偶然その現場を目撃して、彼を助けてくれた……。でも、倖の心には傷が残ってしまった。人見知りだったり、女性が苦手だったりするのは、今もまだ、彼の心が傷ついている証拠なんだ。たまに当時のことがフラッッシュバックすると、昨日君が見たように蹲って動けなくなってしまうんだよ」
「そんな……」
倖の辛い過去に、みのりは昨日と同じく、胸が締め付けられた。
「――お願いします! そこを何とかっ!」
「だから、何度お願いされようとも、無理なものは無理です!」
溌とスタッフの掛け合いは、まだ続いていた。
「ありゃー、まだやってるや」
「もう兄さんが行くしかないだろう」
「そうだね。行ってくるよ」
雅が溌とスタッフのいるドア付近へと向かった。するとそこに、一人の女優帽を被った、サングラス姿の中年女性が来店した。
「あ、朝岡さん……!」
「朝岡?」
いきなり入店してきた女性に、スタッフが慌てて頭を下げた。
「ちょっと! いつまで待たせるのよ!」
「す、すみません! もう許可を頂けますから!」
「いや、許可しねーって!」
咄嗟に溌の素が出た。
立ち止まった雅が、じっと朝岡を見つめた。同じように溌も、朝岡に目を向ける。
「ちょっと! さっさと撮影しなさいよ! この後には映画の記者会見が入ってるのよ! 後が痞えているんだから、早くしてちょうだい!」
「ねえ、もしかして朝岡って、あの朝岡美和?」
「って、女優の?」
みのりの耳に、女性客達のヒソヒソ話が聞こえてきた。
「朝岡美和……ああ、あの人有名な女優さんですよ、慶さん!」
振り返ったみのりの目に、ぐっと拳を握り締める慶の姿が映った。その瞳が薄らと赤く染まっているように見えた瞬間、何も言わず、慶がキッチンへと戻っていった。
「……すみませんが、当店は女優さんのご来店をお断りしております。申し訳ございませんが、お引き取り下さい」
感情なく、雅が言った。
「ウチのオーナーがそう言ってるんで。……さっさと帰れ。ここはアンタのような女が来るとこじゃねーんだよ」
静かに、しかし憤怒の表情で、溌は彼らを店から追い出した。
「ちょっと! 何とかしなさいよ!」
「いや、もうこの店は諦めましょう!」
「嫌よ! 私はこの店がいいのっ!」
「帰れ!」
雨が降りしきる中、必死に抵抗し、互いに押問答する。押し出された朝岡と、そこにドラッグストアから帰って来た倖が、鉢合わせとなった。押し出された勢いで、朝岡から女優帽とサングラスが外れる。そこに慌ててマネージャーの男が傘を差した。
「あ……」
傘を差して立っていた倖の前で、昨日脳裏に浮かんだ、影を差す中年女が顔を上げた。
「おふくろ……?」
声にならない声が、朝岡の耳に聞こえた。
「はあ? おふくろ? 私はアナタを産んだ覚えなんてないわよっ!」
金切り声でそう叫ばれ、ぐっと倖は唇を噛み締めた。
「おい、ゆきんこっ!」
溌の声に、はっと倖が我に返った。
「早く中に入れ! いつまでも囚われてんじゃねーよ!」
「あ、ああ……」
店に入ろうと足を進めて、目を伏せた倖が、思い切れないように立ち止まった。
「おい、倖……」
兄の言わんとしていることは、重々承知している。幼い頃、母親に虐待された光景がフラッシュバックしてくる。その母親が、親子の記憶を消した生みの親が、今目の前にいる女優、朝岡美和だった。記憶の底から震える体。それでも胸を押さえた倖が、意を決して、朝岡に目を向けた。
「……この店のモン食いたければ、女優じゃなくて、一人の客として、来れば、いい……」
「倖……」
「なに?」
ぐっと目を瞑った倖の瞼の裏には、夕陽に照らされて、笑ってゼニネコちゃんに五百円玉を入れる、高校時代の溌の姿が浮かんだ。腕に包帯を巻いた幼い日、あの時向けられた笑顔と、一つの約束。
『――オレがオメーの大学資金を貯めてやる。だから、オメーもそれまでにアイツにされたこと全部忘れろ。オレはオメーなら乗り越えられるって、信じてんだからよ』
瞼を開けると、ポカンと自分を見上げるアイツがいた。
「俺はっ……もう、アンタなんか怖くねえから! 俺にはいつも傍に、兄貴がいるからっ……」
目を見開いた朝岡には、当然四人の息子達の記憶などない。しかし、その脳裏には、身に覚えのない、遊園地での写真がフラッシュバックした。
一人しか写っていない写真。元々は、誰かと一緒に写っていた気がするのに、その誰かが、どうしても思い出せない。――雨に濡れた朝岡の頬に、一筋の涙が紛れた。
倖が店のドアを閉めた。そこには称えるように頷く雅と、顔を伏せる溌の姿があった。
「あの、溌兄……」
「チェストォ!」
ばっと顔を上げた瞬間、溌は倖の脳天にチョップを喰らわせた。
「っつうー」
「オメー何勝手なコト抜かしてやがんだ、バカヤロー! ああいうコトはなぁ、オレが決めんだよ!」
「はあ? なんで溌兄なんだよ! どう考えたって、オーナーの雅兄だろうが!」
「何言ってやがる! 誰が給料計算してると思ってんだ! 誰が確定申告に行くと思ってんだ! この店の資金繰りは全部、オレがやってるってんだよ! いーか、こいつら上の兄貴二人は、利益や税金なんざ、これっぽっちも頭にねーんだよ! だったらオレがしっかりするしかねーだろーが! 決定権は全部オレにあんだよ!」
「いいのかよ、雅兄! こんなこと言ってるぞ!」
「うん。溌の言う通りにしてたら、間違いないよ。決定権もオーナーの解任権も、ぜーんぶ溌にあるから」
「それは長男としてどうなんだ?」
呆れた様子の倖だったが、どこかで過去と決別が出来た気がして、心は晴れやかだった。
キッチンに戻った雅に、「帰ったのか?」と、慶がナポリタンを作りながら訊ねた。フライパンを動かす慶に、「……うん」と雅が答える。
「……倖は大丈夫そうか?」
「うん。まだ人見知りは治らないだろうけど、その原因は、克服出来そうだよ」
「そうか……」
「なーに怒ってるの、慶。そんなにあの人に再会するの、嫌だった?」
雅は椅子に腰かけると、片肘を付き、慶の後ろ姿を見た。
「……あの
「んー? ああ、まあ、しょうがないよね。そのお陰で僕達は、イタリアに修行に行けた訳だし。その費用が工面出来たのも、あの人が華々しく女優に復帰してくれたお陰だもん。僕は結構、感謝しているかな。今代の母親には」
イタリア国旗のスカーフを弄りながら、雅は笑った。
「全く、兄さんは女性に甘すぎだ。……後三日だぞ。本当に大丈夫なんだな?」
「うん、大丈夫さ。大丈夫……」
カレンダーを見つめる雅が、自分に言い聞かせるように呟いた。
昨日と同じく、倖が閉店作業をするみのりの背中に目を向ける。ゴクリと唾を飲み込むと、「ありがとな……」と呟いた。
「へ?」
突然礼を言われて困惑するみのりに、「あ、いや、だからっ……」と倖が口籠る。
「倖さん?」
「き、きのう、俺がカラオケに誘われてるのを、断ってくれたろ?」
顔を真っ赤にさせながらも、倖は感謝の気持ちを伝えた。
「そんなこと……!」
「オマエにとってはそんなコトでも、俺にとっては重大なコトだったんだ! だ、だからっ……ありがと、な……」
「倖さん……」
その照れた表情に、みのりの心が温まっていく。
「お、おれっ……! 一応、オマエより年下だからっ……! だからそのっ……サン付けとか、しなくていい……」
「ほえ? じゃあ倖ちゃん?」
「チャン付けはやめろ」
「それじゃあ、……倖くんでも、良いですか?」
みのりの可愛らしい表情に、「お、おお!」と、倖は胸の高まりを感じ取った。
「け、敬語も、俺には、使わなくていいから……」
だが、ここまでが限界だった。倖は恥ずかしさから、逃げるようにキッチンへと向かった。
ホールに一人きりとなったみのりは、ふとソファ席に目を向けると、一冊の花柄の手帳が置かれていることに気が付いた。
「あらら、忘れ物かな?」
手帳を手に取り、何気なく開いた。そこはちょうど、今月のスケジュール欄だった。今日は八月二十三日。予定には〝ほおづキッチン!でのディナー″と書かれている。そうしてその週を辿っていくと、二十六日の予定欄に、〝頬月兄弟バースデー″と書かれていた。
「あ……」
「どうしたんだ、みのり?」
突然慶に話しかけられ、反射的にその手帳を隠した。振り返り、「いえ、何にも!」と笑顔を向けた。
「そうか。いやー、今日も忙しかったな。みのりは明日が初めての休みだろ? ゆっくり休んでくれ」
「はい! あ、でも……、あの慶さん、そのー」
急にモジモジし始めたみのりに、「ハッ……!」と慶は感づいた。
「私はチャペルでも、神前式でも、どちらでも構わないぞ?」
「ほへっ?」
「へ? プロポーズの答えを聞かせてくれるんじゃないのか?」
「いつ私プロポーズされましたっけ! っていうか、何でOKの前提で事が進んでいるんですか!」
「ええっ? 断るのか? 私だぞ? 同じPON厨じゃないか!」
至極真面目に話す慶がそこにいる。
「いや、えっと、その……。あの、一つお伺いしても良いですか?」
「ん? 何だ?」
「あの、ご兄弟は皆さん、その……同じ誕生日、なんですか?」
「え?」
「あ、いえっ! すみません、変なことを聞いてしまって……」
背中に隠す手帳を、ぎゅっと握り締める。
「あ、ああ。いや……実はな、そうなんだよ。珍しいだろう? 四人とも同じ誕生日だなんて。けど、急にどうしたんだ?」
「い、いえ! あ、じゃあ私、皆さんのお誕生日に、何かお祝いをしますね!」
そう告げたみのりの目に、どこか儚そうに目を伏せる慶が映った。
「あの、慶さん?」
「……ああ。じゃあ誕生日、期待して待っているからな」
顔を上げた慶は、いつものように優しく、大人の余裕を抱かせる表情に戻っていた。
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