第2話

昼である。動かなくても、自然と腹は減る。大食漢ガルガンチュアとパンタグリュエルの寓話のように、肉、とりわけフランスのグルメといわれるタルタル・ステーキを賞味したくなった私は、空港内の店に足を運んだ。


タルタルステーキとは、見た目はハンバーグを焼く前の状態と形容される、生の大きなミンチ肉の塊で、ハーブやスパイスで肉に下味をつけた、フランスでは代表的な食べ物だ。見た目にさえ怖気づかなければ、案外箸はすすむものである。

しかしこのレストランには、人の食の行動をいちいち詮索しては、面と向って客に文句をいうシェフがいるというので要注意だ。

今日のターゲットは例のバレエ・ダンサーの少年だ。彼はサラダだけをつまんで店を出ようとしていた。それを見たこの店の事情を知る客たちは、同情の笑みを浮かべて、ことの成り行きを見守る。案の定、シェフの剣幕は相当だった。


「俺の作った料理に手をつけないとはどういうことだね。お客さん?」


会計はすでに済ませているのにも関わらず、料理を残した客に対し問答無用のごとく怒りを顕わにするという、理解に苦しむ愚行を学習してしまっているシェフは、今回も自分の立場やプライドを、客のほうで受け止めてくれるだろうとの甘えの感情を、全身から湧き出させている。

しかし少年の固く結ばれた唇からは、


「あなたはシェフとしてふたつの間違いを犯している。一つ目。客が注文する前に生肉であるときちんと説明するなり、メニューに写真を貼るなりして注意を促すことをしていない。ここは世界有数の国際空港、宗教上牛肉を食べられない人たちだって来るはず。

二つ目。僕が料理を注文する前に説明を求めたとき、あなたは『これは牛肉のステーキである』とはっきりいった。しかし一般的には『牛肉のステーキ』とは、牛肉を焼いた料理のことだと認識されている。あなたはシェフなのに、ステーキというものが何かということを知らないから、僕はあなたをシェフとは認めない。よってあなたの作ったものは食べない」


流暢なフランス語だった。皆、彼の賢そうな顔と、賢くなさそうなシェフの顔を交互に見る。彼の攻撃的行動が、少年の、真理値を用いたような屁理屈により消去または抑制されたことで、今後はこの店も何がしかの対応を考えなければならないだろう。シェフは恥ずかしさで震える体を隠すように調理場へと消えた。舞台裏で待つ贔屓客たちは、少年の好演を称えた。


カフェから漂うシュゼットの甘い匂いは、鼻腔をくすぐる。嗅覚は、脳の記憶をつかさどる部分と関連があるらしい。彼は手元の本を洋書から、自分が出演する舞台の台本に切り替えて読み始めた。効率のよい覚え方を知っているようだった。


「腹、減ってないか?これ余分に買ったんで、良かったら。デザートもある」


私の右手はポシェットが宙ぶらりんのままの状態になったが、彼は呼びかけには黙ったままで、目をあわすことすらしようとはしない。出した手はすぐに引っ込めざるをえなかった。

こういう時の沈黙ほどやっかいなものはない。なぜなら、あからさまな親切を嫌う人間は、その行動の裏の意図が何なのかを探すからだ。


「バレエ・ダンサーにこんなことを聞くのもどうかと思うんだけれど、今後のバレエ界において32回転以上の自力回転は可能だと思うかい?」

そういい終えてから、私は心底、間抜けな質問をしてしまったと後悔した。

ややしばらくして彼は冷たく口を開いた。


「僕を放っておいてくれませんか」


いい慣れた口調だと感じた。彼は二度とここには戻ってはこなかった。私は後ろ姿から、その言葉が出た理由を探した。人は情緒的な生き物ゆえ、相手が男性女性年上年下問わず、出会いというものを大切にしたいと考える。たとえ相手に興味関心がふつふつと湧いてきて、親密になりたいと思ったとしても、慌てず時間をかけて関係を構築しようと考える。時折、その気おくれを相手に気づかれてしまい少しの優越感を持たれてしまった挙句、自分の劣等感に大いに気づかされることもあるのだが、出会いはそれ以上に大きな心的作用をもたらす。しかし彼の態度は、世間や他人との対人接触を極力避けているように感じた。警戒をしているといったほうが適切かもしれない。まるで、何らかの重大な国家機密を他国に暴かれないようにする密偵のように。


風はおさまり、細かい雪がちらほらと舞っている。窓の外の天地の区別のない真っ白い地平線は、眺めているだけでも、もの寂しさが募ってくる。ここの治安自体もいいものであるとはいえなくなってきているようだ。空港警察の警察官が数人、無線で何かをやり取りしている姿が目立つようになってきている。

一時でもいいので、こことは違うどこかへ行きたくなった私は、親しくさせてもらっていたヨルダン出身の家族に市内観光に行くと言い残し、厚手のダウンジャケット、マフラーと手袋、ニット帽を装着、バックパックを背負い、出発した。

解放された囚人のように雪で覆われた地を足で踏みしめた。

堅く締った雪道を歩きながら、ナポレオンがイタリア戦役でフランス人兵士たちを勇気づけた逸話を思い出す。


『私は諸君を世界で最も肥沃な場所に連れて行く』


彼らフランス軍は、軍服や靴だけでなく、弾薬や食料すらもこと欠く貧しい兵士たちだった。そんな兵士たちが集まった、ナポレオン遠征隊は国境を越えて、サルデーニャ軍、オーストリア軍の4万以上の敵勢が待つイタリアでこれらを打ち破った。その時の兵士たちはどんな気持ちだったろう?新進気鋭のナポレオンという男の意気衝天の勢いを見抜いた彼らたちの勝利でもあったわけだ。

『パリ市内まで25Km』の標識を見ただけで、くじけそうになる私とは大違いだ。

時間は限られている。あさっての飛行機でパリを発たなければならない。やむなく高速鉄道に乗ることにした。この高速鉄道はその名の通り、雪原を彗星のように疾走する電車だ。スピードに関しては、世界一を誇るであろう老若男女が運転する高級車など目ではない。


私は市内中心部にあるサンミシェル・ノートルダム駅で電車を降り、雪がちらほら舞い散るセーヌ河畔へと移動した。端のところどころが凍りつき、水鳥たちは寒そうに顔を羽毛に隠しじっと動かない。例外なく美術館、博物館は軒並み休みだ。あてどもなく歩くうち、パラダイム・シフトと呼ばれる文化施設の前に来た。この建物をパリに来て初めて見た時の驚きは言葉では上手く言い表せなくて、しばらくその場に立ち尽くしていた覚えがある。いわゆる時間が止まった感覚を体現したのだ。本来なら内部にあるはずの柱や、電気、水道、空調などの配管や階段、エスカレーターは外にむき出しになっている。

一見、足場が掛けられた建築途中の建物か、あるいは解体作業中の現場のようだ。しかしそれはすでに完成している建物だったのだ。

これを受け入れたパリの人々、いやパリだからこそ受け入れられたであろうこの施設。150年以上前に、パリ改造を行って以来、厳しい建築制限が設けられた中での建設だった。既存から脱却したい市民のための建築物といって良かった。


パリ留学前に立ち寄った、芦屋から六甲山にむかう坂の途中に建つ住宅も建築様式は違え、これと同じ『時間が止まったような感覚』に襲われた建物だったように思う。

旧山崎家住宅と呼ばれるその建物は、灘の造り酒屋の当主だった山崎正宗の別邸として知られていた。

ここはもともと四階建てのモダンな建物だが、地形に沿って、水平方向に階段状に建てられているため、それぞれが一階ないし、二階になっている。鳥や動物たちが設計すればこのようなパースぺクティヴになるのではないかと思うぐらい周りの風景に溶け込んでいる。構造はコンクリートだが、周囲への圧迫感はほとんど感じられない。車寄せや柱、そして暖炉には、山から掘り出した良質な大谷石を使い、欄間や窓には葉の飾り銅版を使用している。この窓を通過し、床にこぼれ落ちた光は、葉の模様がくっきりと映し出され、まるで森林の木漏れ日のような効果をもたらしていた。

六甲山の横池や奥池あたりから流れてきた伏流水は、建物付近で静かに合流して芦屋川となり、その流れは大阪湾へと注がれる。天気の良い日など建物のバルコニーからはその雄大な景観が一望できる。パリのシャーロン別邸を設計する際には、敷地から玄関に着くまでのアプローチを参考にさせてもらった経緯がある。

アプローチとは、客が敷地内に入り玄関に着くまでに設けられた通路のことで、建物の外観や周囲の景観をじっくり楽しんでもらおうとする、施主や設計者のサービス精神が表れているものだ。


この建物が建てられておよそ90年がたつ。優れた建築物というものは時間の経過を含む世界観というものを独自に形作っている。

自然事象を含め、我々人間が過去、現在、そして未来を生きる存在であることも含意して建てられているため、そこを訪れると時折時間が止まったような、戻ったような、はたまた進んだような不思議な感覚を覚えるのはそのためなのである。そんな空間にずっと身をおいて置きたいと思うのはある意味人間であれば自然な欲求だろう。


雪道に足を取られそうになりながら私は、以前住んでいた下宿があった場所を探した。パリ、セーヌ河を挟んで右岸、教会の尖塔だけを移築しただけという奇妙な塔が見える記念公園の近くの場所にそれはあったのだが、現在は建物ごと取り壊されてしまい、痕跡はない。

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