10年目の帰郷

千石綾子

10年目の帰郷

 帰ってくるべきではなかったのかもしれない。

 しかし僕は問題を抱えたまま再びここに戻ってきた。


「近江、近江だろ」


 古びた酒屋の店先で、やけにおっさんくさい青年が僕に声をかけてきた。

 誰だろう。

 日に焼けた肌は強い日差しにまぶしく光っている。ささくれた木でできた日本酒のケースを藍色の前掛けに乗せてトラックの荷台からおろした。青年は手を休めて笑顔で近づいてきた。


「ヒロだよ! まさか忘れたのか?」


 ヒロ……博巳ひろみ。ああ、そうか、こいつの実家は酒屋だった。老けたなあ、と自分のことは棚に上げて思う。なにせ小学生の時以来だ。

 よく店のラムネをこいつが勝手に僕たちに振舞っては親父さんに小突かれていたっけ。見れば昔と変わらない店先のブリキのたらいには氷水が張られ、不格好なトマトとラムネの瓶がいくつか泳いでいる。


 ヒロはごつごつとした手で氷水の中からラムネを引き上げて僕に手渡した。痛いほどに冷えた瓶の感触が気持ちいい。


「ああ、サンキュ」


 懐かしさに自然と笑顔になる。久しぶりのラムネの瓶に僕がもたついていると、ヒロは苦笑いを浮かべて僕の手から瓶をひったくった。


「東京もんは不器用だな」


 昔は僕もそう言って都会の人間を笑ったものだ。そんな僕も両親の東京転勤と共にここを去ってもう10年になる。

 ヒロの指先に押されて深緑色のガラス玉は液体の中にカランと落ちた。ヒロは白い歯を見せて瓶を再び差し出した。僕はバツの悪い笑顔を浮べていたに違いない。鼻を突くラムネの香りと炭酸の刺激に遠い夏の日を思い出してくらりと眩暈がした。


「夜には仕事が終わるから、うちで一杯飲もうや」


 僕は無言で頷くと、瓶を片手に目的地に向かって歩き出した。


 棚田の広がる砂利道を上った先に僕が育った祖父母の家がある。昔祖父が乗っていた軽トラックは錆付いてあぜ道に打ち捨てられていた。荷台には鍬やビニールシートが雑然と置かれている。


 畑の前を通って家に着く。祖父が丹精を込めたトマトやキュウリは昔と変わらない。古い犬小屋の中で茶色い雑種の老犬が腹を見せてすやすやと眠っている。郵便受けに貼られた「猛犬注意」のシールに僕は笑いをかみ殺した。


 ドアノブに手をかけて引くと、鍵がかかっていた。車がないので出かけているとは思ったが、昔は留守でも鍵をするような家はこの辺りにはなかった。僕は少し寂しさを覚えた。それでも勝手口に回ると鍵どころか台所の窓も開いたままになっている。それはそれで非常に無用心に感じてしまうのだから僕も勝手なものだ。


 台所から洗濯場を通って居間に入る。外は暑いが、日陰になった家の中はひんやりと涼しい。荷物を置いて畳の上にごろりと横になった。


「……ちゃん。……アキちゃん」


 呼ぶ声に、はっとして目を開けた。つい眠ってしまっていたらしい。


「ばあちゃん」


 懐かしい顔がそこにあった。少し老けたが、祖母は昔と変わらず優しく微笑んでそこに立っていた。


「アキちゃん。また腹出して寝て。腹こわすぞ」


 子供の頃は少し苦手だった口うるささも今こうして聞けることはとても嬉しい。胸が苦しく涙が出そうになる。


「……ただいま」


 祖母はにこにこ笑って頷いた。

 共稼ぎの両親の代わりに僕を育ててくれたのは祖父母だ。あの犬小屋で昔飼っていた白い犬が僕の弟代わりだった。何故もっと早く帰って来なかったのか今思えば不思議でならない。


「冷蔵庫に麦茶あるぞ。飲みな」


 そう言って祖母はテレビをつけるとお気に入りの座椅子に座って時代劇を見始めた。僕は台所で麦茶をコップに注ぎ、祖母の隣にごろりと横になって一緒にテレビを眺めた。いつもこうして会話もなく過ごしていたものだ。言葉はなくてもお互いに居心地が良かった。


「そうだ、豆煮たんだ。食うか?」

「うん」


 祖母の煮豆は僕の好物だ。祖母は「どっこいしょ」と立ち上がり膝をさすると台所へ消え、鍋を掴んで戻ってきた。


「アキちゃんが喜ぶと思って煮ておいたんだ」


 僕は体を起こして鍋を覗き込んだ。


「あ……」


 僕は体から力が抜けるのを感じた。

 鍋は空っぽだった。

 それでも祖母はにこにこと笑ったまま僕の顔を覗き込むように見つめている。失望を悟られないように僕は少し泣きそうな笑顔を祖母に向けた。


 向かい合いたくない現実が僕にのしかかってくる。祖母はそのままゆっくりと歩いて仏壇のある壁の中へすうっと消えていった。その上の方にはまだ新しい祖母の遺影。



 僕には不思議なものを見る力がある。それは古い家に住み着いた妖のようなものだったり、時には悪意を持った霊だったりする。そしてこうして愛しい親族も見ることができる。それは一見嬉しいようでも、目が覚めると寂しく感じる夢とまるで変わりない。


 いたたまれなくなって、僕はまた勝手口から外に出た。家の脇の草むらからトノサマバッタが飛び出し、乾いた羽音と共に空を切って遠くに消えた。僕はなんとなくその後を追う。

 バッタが着地したであろう草むらを覗き込むと、ヒキガエルほどの大きさの黒い老人がしゃがみこんでいた。


「今年は水が足りないよ。みんな乾くよ」


 小さな老人は首を振りながらぶつぶつと一人でつぶやいている。僕はいつも通り聞こえない振りをして、そっとその場を去った。


 僕は物心つくころからこういうものと折り合いをつけて過ごしてきた。というのも、こういうものが見えるのは僕だけではないと信じ込んでいたからだ。これが当たり前。それでもこれをタブーとして口にしないのが人としてのマナーなのだろうと僕は信じて守ってきた。


 砂利をタイヤが踏む音がした。祖父が帰ってきたらしい。ドアをばたんと閉める音、ガサガサとビニールの袋のこすれる音。表にまわると祖父が車から荷物を降ろしているところだった。


「アキちゃん。もう帰ってたのかい」


 真っ黒に焼けた顔はそのままだが、随分と痩せたように思える。髪も薄く真っ白になっていた。笑みを浮かべてこちらへ歩いてくる祖父の両手にはスーパーのビニール袋が提げられている。


「今日はご馳走作るよ」


 祖父は元々手先が器用で僕の弁当も祖父母が交代で作ってくれていたほどだ。しかし祖母が亡くなってからはおそらく家事は全て自分でやっているのだろう。祖父の笑顔に僕は胸が痛くなった。


「今ちょうど明神ヶ池がきれいだよ。遊びにいっといで」


 祖父は玄関先に立てかけてあった自分の釣竿を手渡してにっこりと笑った。僕は無言で受け取り家を出た。


 明神ヶ池というのは裏山にある古池だ。僕は雑木林の中の大きなブナの木が立ち並ぶ山道を歩き始めた。道端の朽ちかけた小さな地蔵には花と饅頭が添えられている。道は細いが地域に愛されている場所だ。しんとした林の中に小鳥のさざめきだけが聞こえてくる。


 軽い勾配の道を上がりそして下ると、葦の茂る池が眼下に広がった。まっすぐ池に続く山道。空は青く、池の向こうの山際にどっしりと入道雲がせり出している。


「あーっ!」


 大きく伸びをしながら、なんだか僕は叫んでいた。

 僕は今大学を休んでいる。所謂休学の身だ。理由なら色々と挙げられる。気に入った授業が一般教養に重なっていて受けられないこと。ゼミのやつらと気が合わないこと。友達のところに転がり込み創作談義で毎日時間を潰して授業についていけなくなったこと。

 でも、親にも学校に言えないことが一番の理由だ。それが今僕が抱えている問題なのだ。




「隠すなよ。見えてんだろ」


 晴れすぎた暑い春の日に、その暑苦しい長髪の男は通りすがりの僕に声をかけた。背中を汗が流れたのは暑かったからだけじゃない。


 黒いスーツに長い黒髪のその男は数日前から僕に付きまとっていた。返事をするわけにはいかない。僕にしか見えていないはずの男と口なんかきくものか。しかもその男からは危なげな空気が漂っていて、今にも僕の肺を侵食しそうだ。


「へえ、無視するんだ。……って言ってもさっきからこっちチラ見してるじゃないか」


 小ばかにするような挑発にも僕はぐっと堪え、受け流した。太陽の光が苦手な僕が差している大きな黒い傘だけでも既に人目についているのだ。僕は足を速めた。


「困ってるんだろ? お前にはまだ契約がある。……逃げられやしないんだ」


 遂に僕の足は歩みを止めた。

 ―――契約。それを知っているのは、ただの通りすがりなんかじゃない。



 僕には小さいころに交わした契約がある。小さい頃、僕はよく明神ヶ池で遊んだ。ザリガニやフナを釣り、夏には泳ぎ、冬は氷の上でスケートをした。いつも遊び慣れていたこの池だったからこそ、誰もが油断していたのだと思う。


 10歳になる夏の午後、双子の兄の敏明としあきと一緒にここへ来た。しっかりものの兄は僕の手を引いて水際をゆっくり進んだ。でも、僕は何故か走り出してしまった。


 兄の手を振り切り、僕は岩を伝って池の真ん中にある小島に飛んだ。……飛んだつもりが、距離が足りなかった。僕の足はずるりと小島の端の草の上を滑り、体は暗い水の底まで一気に沈んだ。

 後覚えているのは暗い水の中で揺らめく水草と、真っ青な夏の空。


(ああ。来週遠足なのに)


 冷たい水の中で、何故だかそれだけが残念で、悔しかった。


(……いきたいか?)


 水の中から声がした。声ではなくて、それは泡だったかもしれない。僕の目に、耳に、それは響いた。


(遠足にいきたい)


 僕は声にならない声を漏らした。やはりそれは吐き出した泡だったのかもしれない。


(いきたいか?)


 泡と泡が交じり合って、渦を巻いて水面が揺れた。


(いきたい)


 僕が言うと


(いかしてやろう。……ただし10ねんごにかえってこい)


 声が笑った。

 あとは光だけ。覚えているのは光だけだ。僕は契約を交わし、遠足に行き、今生きている。




「何が目的だ?」


 僕は黒い男に小声で言った。それでも後ろを歩いていたサラリーマンが僕を気味悪そうにじろりと眺めて通り過ぎた。まったく嫌になる。


 僕はすぐそこの電話ボックスに飛び込んだ。小銭を入れずに受話器を上げる。これで誰も僕を独り言を呟く危ない男とは思わないだろう。先ほどの黒い男は狭いボックスの角で腕組みをしたままにやにやとこちらを見ている。よく見れば男は半分ボックスにめり込んだ状態だった。


「逃げられない僕を馬鹿にして楽しみたいのか?」


 あの世とやらから僕に声をかけてくるやつらにはこういう嫌らしい性格のやつが多い。僕はもううんざりしていた。男は鼻で笑って口の端を上げる。


「お前、卑屈だって良く言われるだろ。そういうのをあいつらは好むんだよ」


 そうしてジャケットのポケットから煙草を取り出して火をつけた。


「逃げる方法が知りたいかと思ってさ」




 練り餌をつけた針を池に放った。ぴちょん、と輪が広がってアメンボが揺られながらぴんぴんと逃げていく。遠くでさらさらと水音がした。そちらに目をやると、比較的新しい小さな地蔵があった。祖父の庭に咲いていたのと同じ黄色い花が供えられている。


 10年前、あの夏の午後。落ちたのは僕だったのに、いなくなったのは兄だった。何度も何度も捜索隊が出て長い棒で池を探したけれど結局兄は見つからなかった。


(10ねんごにかえってこい。そのときにかえしてやろう)


 あれは夢なんかじゃなかった。でも僕はそのことを誰にも言わなかった。怖かったのだ。ただただ怖かったのだ。あの声が、ではない。僕の勝手が両親から兄を奪ってしまったことを叱咤されるのが怖かったのだ。


 同じ双子の兄弟でも兄は愛想が良く誰からも好かれていた。両親の愛情は平等だと思いたかったが実際は違っていた。人見知りが激しく何をやってもぐずな僕は両親の失望の対象だった。

 そしてあの日僕が残り、兄が消えた。悲しい思い出から逃げるように両親は転勤を願い出て、この地を離れた。それきり一度もここへは帰っていない。




「逃げる? 何から?」


 そう聞いてみたものの、男が言いたいことを僕はもう分かっていた。


「帰って来いと言われてるんだろ。帰ったらどうなるかも分かってる。だろ?」


 この態度が余計に僕を苛立たせた。何でも見透かしているぞと言わんばかりに人を小ばかにして見下ろしている。


「放っといてくれ。逃げるつもりはないさ。考える時間ならたくさんあったんだから」


 そう。時間はたくさんあった。10年だ。でも、僕はその10年を考えることだけに費やしてきた。10年経ったら帰らなくてはならない。そしたら全てが終わるのだろう。それは僕から全てのやる気を削いでいった。やる気のない僕はなりゆきで入った大学にも馴染めずに今こうして宙に浮いている。


「それでも、迷いが見える」


 嘲笑うように男が煙を吐き出した。煙たさで僕の鼻はつんとなった。


「お前には関係ないだろう」

「そう思うなら消えるまでだが」


 男はにやりと笑って少し消えかかった。意外と素直なやつなのか。それとも僕を試しているのだろうか。一方僕は正直少し焦りを感じていたのだろう。心のどこかでこいつに助けて欲しいと思っていたのかもしれない。


「何が目的だ」


 僕はもう一度繰り返した。




 くい、と浮きを引く手ごたえ。僕の体は糸を引くタイミングを覚えていた。ぱしゃり、と軽快な水音を立てて僕の、いや祖父の釣竿は小さなフナを釣り上げた。

 ぴちぴちと地面で跳ねて体を汚していくフナ。僕はこの小さな釣果に満足感を覚えて、獲物を逃がすことにした。


 不意に僕の目から涙が零れた。こんな他愛のないことでさえ満足できたはずなのに。僕は10年をただ考えることに費やしてしまったのだ。そしてもう時間は残されていない。


康明やすあき?」


 後ろから声がして僕は振り返った。振り返らなくとも誰が立っているかは分かっていた。


「カズ…和弘」


 北山和弘きたやま かずひろ。やはり小学校の同級生だった男だ。こいつとは家も近くて親友だった。こちらに帰って来ると決めた時に電話をかけてここで待ち合わせていたのだ。


 奴の父親は酒癖が悪く、よく殴られて泣いてはうちに逃げ込んできていた。色黒で背が小さく痩せていた。僕は10年ぶりに会う親友の姿をじっと見つめた。あんなに小さくいつもおどおどしていたカズはやけに堂々として大人びて見えた。


「ほい」


 奴が投げて寄越した缶コーヒーは程良く冷えていた。僕らは池のふちに並んで座って話をした。




「肝心なのはな、おまえも1人、兄貴も1人ってことだ」


 男の、勿体ぶった言い方がやけに鼻につく。僕は不満を隠さずに顔をしかめた。


「まあ聞けよ。この手の契約のトラブルは多いんだ。そして解決法も色々で……しかもお手軽なものが多い」


 なんだか胡散臭いセールスを聞いている気分だ。


「誰か身代わりを立てればいいのさ。いなくなっても困らない人間の1人くらい身近にいるだろ?」


 ああ、やっぱりこういうことだったのか。僕はこの取引を始めた事を後悔した。


「あの池に呼び出して、お前の代わりにあいつらに渡せばいい。……シンプルだろ?」


 僕は胸が悪くなってきた。しかし心のどこかで救われた気になったのも確かだ。もう僕はその時にカズの顔を思い浮かべていた。


「何が目的だ」


 ようやく男はそれに答えた。


「俺が助けたお前の時間を預けるよ。だから10年経ったらここに……」


 そういうことか。結局こいつらは僕の魂を手放すつもりはないらしい。気が付くと僕は声を出して笑い出していた。……笑いながら、何故か涙が止まらなかった。




「え? あのミキと結婚したんだ……」


 僕はちょっと驚いてまじまじとカズの顔を見つめた。林田美紀はやしだ みき。足が速くて頭が良くていつも笑顔だった人気者。僕も憧れていたことがあったっけ。


「ああ、高校で同じ陸上に入ってさ。冬には子供も生まれるんだ」


 西日を背にしたカズの笑顔はまぶしかった。僕は目を細めてその顔を見つめた。


『いなくなっても困らない人間の1人くらいいるだろ?』


 いるかもしれない。きっといるだろう。でも、それは少なくともこの男ではない。笑顔で祝福の言葉を伝えて、僕はカズの背を見送った。


(いきたいか?)


 あの声はそう聞いた。今の僕は何と答えるだろう。


(いきたいか?)


 きっと答えは変わらない。でも、大事なのはそこじゃないのに僕は気付いていた。僕は思い出していた。僕が水に沈んだあの後、僕は兄の手の感触を感じていた。

 兄は泳ぎが得意な方ではなかった。それでも僕を助けるために迷わず水に飛び込んだのだ。いつでも兄は優しかった。ぐずな僕の手を引いて一緒に歩いてくれた。僕がへまをすると代わりに叱られてくれた。


(いきたいか?)


 そうじゃない。僕が聞いて欲しいのはそんなことじゃないんだ。そこがやつらの狙いなんだから。


 夕暮れが近づいてくる。僕は覚悟を決めた。岩を渡って池の中央にある小島に着き、その縁にしゃがみこんだ。ふいに風が吹いて水面がさざめく。ちら、ちら、と小さな灯りがゆらめく水面に現れ、泡のように消えていく。


『金魚だ』


 僕は思い出した。昔兄とこの池に来ると、決まってこの光が集まってきては笑いさざめいた。


『ちがうよ。金魚はあんな風に笑ったりしないよ』


 僕は兄にそう言ったものだ。思えば僕らは水に魅入られやすい子供だったのかもしれない。いつも彼らは僕らを狙っていたのだ。


 ちら。ちら。光が僕を呼ぶ。僕の足はそれに逆らえない。ゆっくりと水の中に僕は歩を進めた。


――これでよかったのかもしれない。


 僕はいつでも僕に優しかった兄を想い、カズの笑顔を思い浮かべた。水は柔らかく僕を迎え入れ、光は踊って僕の周りを回り始めた。

 僕の息が細かい泡になって水面を揺らす。僕は水の中から夕暮れの空を見上げた。紫の空に橙の細い雲が流れている。空に泡が昇ってはじけた。


 そして。僕を呼ぶ声がする。


「……ちゃん」


 それは温かい、僕の大好きな声だ。


「……アキちゃん」


 僕は目を開けた。皺だらけの小さな手。


「アキちゃん」


 祖母が笑顔で手を差し伸べている。僕は夢中でその手を掴んだ。


「おかえりアキちゃん」

「……ただいま」


 僕は祖母に抱きついて泣いた。




 目を開けると、僕は薄暗い草むらに倒れていた。僕を護るように頭の横には黄色い花と地蔵が佇んでいる。僕はゆっくりと起き上がり、釣竿を手に家へと向かった。背後でくすくすと笑い声が聞こえた気がした。


 祖父の家に戻ると、もう夕食の支度は済んでいた。すき焼きとうなぎ、とんかつにスイカ。唖然とするほどご馳走が並んだ食卓を囲む。扇風機の風に蚊取り線香の煙が揺れる。食事が済むと祖父は古い割り箸の束を手に庭に出た。


「アキちゃん、送り火焚くからおいで」


 僕は盆提灯の蒼い灯りがともる仏壇の前を通って外に出た。仏壇には10年前に明神ヶ池で死んだ弟の康明やすあきと、一周忌になる祖母の位牌が真新しく並んでいる。


 祖父のサンダルをつっかけて僕は草いきれの庭に出た。祖父は慣れた手つきで火を熾してそこに木をくべる。去年の今日、祖母は倒れてそのまま帰らなかった。僕は去年のお盆に帰らなかったことを一生後悔していくだろう。 


 遠くの空に光がはじけた。そしてパチパチとかすかな音。


「ああ、花火だよアキちゃん」

「夏も終わりだね」


 その声を賑やかな虫の声がかき消した。



            了

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10年目の帰郷 千石綾子 @sengoku1111

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