熊だ

天神大河

熊だ

 突然だが、俺の目の前に熊が現れた。


 きっかけはそう大それたものじゃない。俺がたまたま山道を歩いていたら、偶然熊とばったり遭遇した。それだけのことだ。

 このシチュエーションだけを読めば、熊で有名なあの童謡を真っ先に連想させるが、現実は大違いだ。目の前の熊はといえば、成人して背も百七十センチメートルを超えた俺より二回りはでかく、体毛の隙間から見える黒い瞳はぎらぎらと輝き、口の隙間から低い唸り声を上げていた。早い話が、臨戦態勢だ。ヤツにとって、俺は人間の形をした格好の獲物に見えていることだろう。


 だが俺は、単に狩りをしてワイルドな生活をすることに明け暮れたそこらの熊とは違う。人間だ。しかも、九年に亘る義務教育を経て、いまや有名なナニガシ大学を卒業した超エリート。脳の出来が天と地ほども異なるのだ。だから、突然目の前に現れた獣相手でも冷静に、問題なく対処できるのだ。


 見ていろ、熊よ。お前を真っ先に受け流せる、人間様だけが使いこなす究極奥義。とくとご覧に入れてやろう。俺はすぐさま眼前の熊めがけて、その体勢を取った。先手を取ってしまえば、こちらのものだ。勝ったも同然。




 くらえ! 究極奥義、死んだふりだ!!




 心の中でそう叫んだ俺は、その場でうつ伏せに倒れこんだ。






 くくくくっ、ふははははは。

 心の中で笑いが止まらない。ざまあないな。所詮熊など、こんな子供だましに引っかかるただのアホにすぎんのだ。そこが熊であるお前と、人間である俺との越えられようもない壁だ。

 それにしても、可笑しくてしょうがない。今にも声に出して笑ってしまいそうだ。だが、堪えろ。堪えるんだ、俺よ。ここで吹き出してしまえば、ヤツの思うつぼだぞ。こういう誰もいない自然の場でこそ、人間がヒエラルキーの頂点だと教えてやるんだ。場所を考えずにうつ伏せになったから、身体のあちこちに枯れ枝がチクチク刺さって、痒くて痒くてしょうがないが、そんなことは些事に過ぎない。

 さあ、諦めて人間様の前から消えろ! 熊野郎! 俺は、種類はおろか性別も分からない熊に向かって、心の中で吐き捨てた。




 ……。





 …………。





 ………………。




 ……おかしい。

 いつになったら諦めるんだ、この熊は。俺がうつ伏せになってからそろそろ三分近く経つが、なかなか諦めて立ち去る気配がない。


 何か俺の周りをぐるぐる回ってるし。薄目で辺りを窺ってみると、ヤツは俺の身体に自分の鼻を近づけている。俺の臭いを嗅いでいたのだ。やめろよ。お前まで、俺の元カノみたいに「餃子とウンコの混じった臭いがする~」とか言わんよな。やめろよ、まじで。


 だがヤツはそんなことはお構いなしかのように、足の先から腰、腹や手と、俺の身体をくまなく観察し、臭いを嗅いで回る。しかも一つの場所ごとに数十秒はかけると来た。枯れ枝の転がる地面にうつ伏せになり続けたせいか、にわかに足先が痺れてきた俺にしてみれば、それは地獄でしかなかった。

 そして、俺の顔の前に熊が来た。流石にピンチかと思い、俺は少し歯を食いしばったが、ヤツは何をするでもなく、ただ俺の眼前を通り過ぎただけで終わった。


 よし、いいぞ。俺のような人間様は、お前たち熊からしてみればブッダやキリストのそれに近いのだ。あまつさえ、くさい涎を垂らしながら顔を近づけるなど以ての外。邪道を突き進む獣ほど、醜いものはない。俺が心の中で嘆息していた矢先、右腿に激痛が走った。



 ア痛テッ! 何だ、何だ!?

 俺は、思わず死んだふりをするのも忘れて、はっとその場から起き上がった。見ると、熊が俺の右腿に食らいついている。履いていたズボンは食い破られ、そこから露出した腿からは赤黒い俺の血と、かすかに骨や筋らしきものが見えた。

 さすがにやばい。俺は、腿から伝わる痛みに耐えながら、その場を這って進む。いまや枯れ枝から伝わってくる痒みなどかわいく思えた。とにかく逃げるのだ。逃げる、逃げる――。


 だが、もはや手遅れだった。熊は俺の前に回りこむや否や、俺の頭と背に思いきりのしかかり、尻肉を頬張り始めたのだ。カタツムリのように這うだけの俺など、熊からしてみればただの悪あがきにしか見えなかったことだろう。



 やがて、俺の体内を縦横無尽に走っていた痛覚はきれいさっぱり消え去り、視界も徐々にぼやけてきた。




 かくして俺は、熊様の格好の馳走と成り果てたのだ……。




熊だ/完

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熊だ 天神大河 @tenjin_taiga

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