春が終わり、梅雨が始まった。


 この頃には本も残すところあと一章となっていて、先生との時間を終わらせたくなかった私は『受験勉強』を口実に、本を読み進める事を中断していた。


「楽しみは受験の後に取っておきます」


そう言うと先生は「そうだな」と言って笑ってくれた。

 先生は受験勉強で分からない事があったら来ても良いと言ってくれて、私はわざと難しい問題を解いては分からないと言って国語科準備室に足を運んだ。先生には難易度の高い問題に挑戦する姿勢を褒められたが、動機が不純な私は素直にそれを喜べなかった。


 そんな毎日を送っているものだから、国語科の成績ばかり伸び、他の教科の成績は下がった。別に難関大学を狙っていたわけではないのだが、いくら文学部とはいえ国語科以外の教科も必要なわけで、これ以上バランスの悪い勉強ばかり続けていると予備校に通わせるという両親の言葉に、私は慌てて他の教科の勉強にも励んだ。予備校に通うという事は先生に教わる時間が少なくなってしまうという事で、それが何よりも嫌だった。


***


 その日は曇天ながらも久しぶりに雨のない朝だった。


 学校は休日で、私は学校の近くの書店を訪れた。参考書を探すための外出だったのだが、実はその日はお気に入りの作者の新刊の発売日で、買えないまでも少しだけ立ち読みしようかなどと考えていた。


 二階建ての広い書店には幅広いジャンルの本が取り揃えられていて、学校周辺において図書館の次にお気に入りのスポットだった。


私は念のため持って来ていた青いビニール傘を傘立てに差して店内へと入る。


 私は目的の参考書を手に取りと、すぐさまそのまま真っ直ぐ文芸書のコーナーへと足を運んだ。


 まさか、そこに私服姿の先生がいるなんて、思いもしなかった。


「……偶然だな」


いち早く私の視線に気づいた先生は、少しだけ驚いたように眉を上げたが、すぐにいつもの表情に戻ってそう言った。私はあまりの出来事に驚きを隠せないまま「偶然ですね」と先生の言葉をおうむ返しした。


「参考書を買いに来たのか」


私の腕の中の本を見て、先生は言った。私は先生の言葉にただただ頷いた。先生はジーンズパンツにVネックのTシャツと、いつもに比べてとてもラフな格好で、見慣れない私はいつもよりもさらに落ち着かなかった。


 先生は「頑張っているな」と言った後、しかしすぐに目の前の棚に並べられた文芸書の数々に気が付き「ついでに息抜きもしに来たのか」と苦笑した。魂胆を見破られたのが少し恥ずかしくて私は視線を下げた。下げた先には先生の手があり、その手には緑の表紙の本があった。


「あ、新刊……」


思わず出た小さな呟きに気付いた先生が、私の視線を辿る。


「ああ、これ……そう言えば好きだったんだよな、この作家。今日発売したんだ」


きっと私はその瞬間、酷く羨ましそうに先生を見上げたのだろう。そんな私を見て先生は顔を背け、声を殺すように笑った。


「受験が終わったら、好きなだけ読めば良い。何ならこれを貸してやろう」


一通り笑い終えてそう言った先生の声はとても優しいものだった。


 スーツに白衣の姿じゃないからか、先生はいつもよりも表情が豊かなように見えた。今思うと、きっと先生こそ息抜きをしに来ていたのだろう。


「じゃあ、約束ですよ」


先生は私の言葉に「そうだな、約束だ」と言って頷いた。


 会計を済ませ、先生と共に外へ出ると予想通り雨が降り始めていた。やはり持って来て正解だったと思いながら傘立てを見て、私は青ざめた。傘立てに差したはずの、私の傘がなかった。


「……傘、盗まれたのか?」


私の反応に何となく察しがついたのだろう、先生が声をかけてくれる。私が素直に頷くと、先生は渋い顔をした。


「この近くはコンビニもないしな……」


先生の言う通り、大通りから少し離れた場所にあるこの本屋の周辺には、傘を買えるような店はなかった。一番近くのコンビニまで歩いて十五分はかかる。だからこそ、傘を盗まれたのだろう。

 走ったら八分、それとも雨が止むのを待った方が賢明か、どうしたものかと考えを巡らせていると、隣に立っていた先生が傘立てから傘を抜いた。


「これを使え」


先生はそう言って自分の傘を私に差し出した。私は驚いて、そして慌てて首を振った。


「ダメです、風邪をひきます」

「受験生が風邪をひくよりはマシだ」


そう言って先生は傘を引かない。


「ここで止むのを待ちますから」

「予報だと今日は一晩雨だ」

「買った本が、濡れちゃいます」


本の事を口にすれば、先生は一瞬口詰まり「それもそうだが」と困ったように顔をしかめた。本が好きで、本をとても大切にしている先生のことだ。濡れるのはさぞ嫌なのだろう。少し逡巡していた先生はしかめっ面で後頭部を掻いた。


「……仕方ない、コンビニまで入っていけ」


先生はそういって傘を広げると、私の入れるスペースを開けた。いわゆる、相合傘を提案されたのだ。


「ほら」


固まっている私に先生は急かすように傘を私の方へと傾けた。


「……失礼します」


私は参考書の入った鞄を抱え、躊躇いながらも先生の傘へと入った。

 先生は私の歩幅に合わせてゆっくりと歩きだした。


 たとえ男性用の大きな傘でも、二人で入るには多少手狭で、初めて会った日よりも距離が近い。傘を持つ先生の手が視界に入る度、先生の腕に肩が触れる度、隣に並ぶ先生の存在を嫌でも意識させられた。


 傘に弾ける雨音ばかりが大きく聞こえて、まるで傘の外の世界と遮断されたかとさえ思えた。


「本当はこういうのは、あまり褒められたことじゃないんだ。他言はするなよ」


先生はその日、いつもの白衣もスーツも着ておらず、私も制服を着ておらず、私達は傍から見ただけでは教師と生徒だとは分からなかったことだろう。でも先生は、一人の男性であるとともに、私の教師だった。


 教師と生徒。それは困ったときに傘を分け合う事も難しい距離らしい。


 先生は私と同じ傘の下にいたはずなのに、私は私達の間に途方もない距離があるように感じた。


 道すがら、受験勉強は上手くいっているのかと聞かれたり、数学は苦手だと答えたりと初めは多少の会話もあったが、途中から何を話すわけでもなく、ただ歩き続けた。本と勉強という共通の話題以外では、私達はとても無口だった。


 歩いていると、T字路に差し掛かった。それは、少し前に友人が男の子に告白された場所だった。一月も前になる出来事だったが、私はそこを通る度に鮮明にその時の事が思い出された。


「友達が、ここで告白されました」


気付けば私は話し始めていた。あの時の私が何を思ったのか、今でもはっきりとは分からない。きっと先生に聞いてほしかったのだろうと思う。


「告白してきた子は友達の知らない子でした。彼は一目惚れだって言っていました」


いつも先生といる時は、プライベートな話は滅多にしなかった。先生とこんなにも個人的な話をするのは、あの進路相談の時以来だった。それでも先生はいつもの通り、口を挟む事なく聞いてくれていた。


「まるで誠一みたいだと思いました。でも彼は、誠一と違って……フラれることを分かっていて、告白しました。その時彼をすごい、とは思いましたが、彼の気持ちは分かりませんでした。誠一と彼は一体何が違ったのでしょう」


私は普段よりも饒舌に話した。話す頭の傍らで、よほど自分はあの時の事が引っかかっていたのだろうと思った。


 そんな私に先生は物珍しいものを見るかのような目を向けたが、すぐに考える様に視線を上げた。


「……誠一は、本当のところはただの臆病だ。何だかんだと理屈を並べ立ててはいたが、結局は自分の望む未来が得られずに失望するくらいなら、何も行動しなくていいと考えたんだ。でも、その『彼』には一歩を踏み出す勇気があったのだろう」


だから、憧れた女性と知り合いになることができた。

 そう言われて納得した。彼は、告白したことで友人の視界に入ることができた。アドレスを得ることができた。彼は告白することでチャンスを得たのだ。


「まあきっとその男子はいちいちそんなまどろっこしい理屈を考えて告白をしてはいなかっただろうけどな。相手に知って欲しかったんだろ、自分の想いを」

「たとえ、フラれると分かっていても……ですか?」


先生は頷いた。


「それでも想いを伝えたいと思える、そんな良い恋をしたんだ」


その時の先生は、また遠いどこかを見るような目をしていた。


 そして私と先生の間には再び沈黙が訪れた。


 私は先生の言葉を心の中で反芻した。先生は、玉砕覚悟の彼の恋を『良い恋』だと言った。想いを伝えたい、その一心だった彼の行動を『勇気』と称した。


 私は良い恋をしているだろうかと自問自答すれば、返ってくる答えは「ノー」だった。誠一と同じ、私のそれは臆病な恋だ。そう自覚すると、先生の賞する『恋愛』とのギャップに、胸の中の寂しさが増した気がした。


 ふと、このままで良いのだろうかと思った。どうせフラれるのだから、と想いに蓋をして、この恋をなかったことにして、私はそれで良いのだろうかと思った。


 雨脚が少しずつ強くなっていった。角を曲がり、大通りに出ると、途端に雨音に混じって街中の人の喧噪や、車の音が大きくなった。そこまで来れば、コンビニまでもう少しだった。


 私は小さく、出るか出ないか位の囁き声で「先生」と呼んでみた。しかし先生からの反応はない。私の小さな声は雑音で先生にまで届いていなかった。


「先生……先生……」


私は小さく、何度も呼んだ。先生は相変わらず前だけを見ていた。


「好きです、先生」


伝える勇気のない言葉をこっそりと口にしてみた。一人きりの自室でも言ったことのない言葉だった。心の中ですら躊躇われた言葉だった。


 想いを言葉にすれば、少しは胸の内の寂しさも紛れるかと思った。


 きっと掠れてほとんど音になっていなかっただろうその言葉は、雨と街の音にかき消された。先生は振り向くことのないまま前を向いていた。それが答えの様な気がした。


「ありがとうございました」


やがてコンビニに到着した。私は屋根の下に入って振り返り、先生にお礼を言った。見上げた先生の左肩は濡れていた。


 また明日、と告げれば、また明日、と返ってきた。そして先生は私に背を向けて歩き出した。私は段々と小さくなっていく先生の黒い傘を見送った。


 先生は私の想いを知って、少しでも『嬉しい』と思ってくれますか?


 心の中で問い掛ける事しかできない、やっぱり私は臆病者だった。雨に混じって、一筋の涙がこぼれた。


 想いを言葉にすれば、少しは寂しさも紛れるかと思った。しかし現実は、胸の奥にさらに寂しさが募るばかりだった。


***


 梅雨が明けて夏が来た。


 毎日暑くて、私は冷房の良く効いた図書室へと逃げ込むことが多くなっていた。逆に国語科準備室を訪れる頻度は減ってしまった。勉強に忙しかったし、何より自分の気持ちを一体どうしたいのか、自分の中で結論が出ていなかったのだ。そんな状態で先生と会ってしまったら、つい勢いで先生に言ってしまうのではないかと恐れた。


 それでもたまに、分からない問題を抱えて先生のもとを訪れた。先生に会っても胸が苦しいが、先生に会えないのもまた、辛かった。


 先生は時折私にアイスをくれた。何故だか冷房の効きづらい国語科準備室で、暑いとアイスがうまいだなんて冬とは真逆の事を言いながら、アイスを差し出すのだ。先生のそんな優しさが、ますます私を喜ばせ、私を苦しめた。


 先生に会うたびに、私はどうしようもないくらい先生の事が好きで好きでしょうがないのだと思い知らされた。そしてあの雨の日、蓋を開けてはいけなかったのだと後悔した。一度口にしてしまった想いは私の心臓で渦を巻き、そのままぐるぐると頭を巡った。


***


 期末テストが終わり、夏休みに入り、先生のいる学校へ毎日通わなくても良くなったものの、相変わらず私の頭の中は先生でいっぱいで、会っても会わなくても苦しくて、私は葛藤を忘れるため日々を勉強に費やした。


 高い目標があったわけでもなく、ただすべてを頭から追い出したいがための勉強だった。強いて言うなら、第一志望に受かった暁には先生が笑って褒めてくれるかもしれない、という淡い期待もあった。どちらにせよ相変わらずの不純な動機だというのに、私の成績は良く伸びてくれた。


 夏休み中の数少ない登校日。教室で前期の成績と模試の結果を受け取る日だった。図書館での勉強の甲斐もあり、その当時志望していた大学のほとんどはA判定という良好な結果を収めていた。


 教室で解散となった後、模試の結果を報告しようと久しぶりに国語科準備室へ行った。先生は夏休みだというのにいつものようにそこにいた。


 私の訪問に気付いた先生は「ちょうど良かった」と言って私を手招いた。


「七月中旬の模試の結果、今日返ってきただろう? どうだった?」


私が返却された結果表を見せると、先生は満足そうに頷いた。そして重なった資料の束から何冊かの冊子を取り出した。それらはどれも有名大学の案内資料だった。


「現国に関しては難関大学の問題もかなり解けるようになってきている。もし他の教科が追い付けば、このあたりの大学にも手が届くと思って、いくつか資料を取り寄せてみた。数学に多少難があるみたいだが、努力次第ではどれも入れない大学じゃない」


もちろん今の志望校が良いのなら、それも良いと思う、と先生は続けた。


 私は心底驚いた。先生は私達三年生の担当はしていない。その頃は準備室を訪ねる機会も減っていた。だというのに、わざわざ私のために大学を調べてくれていたらしい。まるで私が先生に特別気にかけてもらえているかのようで、自然と喜びに顔が緩んだ。


 先生はその中の一冊の私立大学の資料を手に取った。それは貰った資料の中でも、とりわけ水準の高い大学の資料だった。


「ここは、先生の母校だ」


先生の言葉に、私は手元の資料から視線を上げた。


「ここで文学に出会った。いい大学生活を送れていたと思う。近代文学と現代文学に特に秀でていて、ゼミも豊富だ。きっと合うだろうと思った」


先生はゆっくりと資料のページを捲り、時折懐かしそうに目を細める。


「別に押し付けるわけじゃない。可能性の一つを提示しているだけだ。受けるか受けないかは自分で決めればいい」


そう言って私は先生にその資料を手渡された。ずっしりとした資料の重みが、先生の応援のように感じた。言葉にはされなかったけれど、先生に「頑張れ」と言われた気がしたのだ。


 いつもの無表情で武骨な先生ではない。一緒に本を読み解いて、時折私を褒めてくれる先生でもない。私のために、私の背中を押してくれる先生。それは、まるで私なら出来るよと言ってくれているようで、信じてもらっているようで、胸がいっぱいになった。


「ありがとうございます。じっくり、考えてみます」


私は先生の用意してくれた資料を全て受け取り、そう答えた。


***


 その後の夏休みは、受験生らしくもっぱら一日中勉強をしていた。夏期講習のために学校へ行くこともあったが、私は国語科準備室へ足を運ぶことはせず、そうなると先生と会う事は全くなかった。


 受験生としては遅すぎるくらいだが、夏休み中にいくつかオープンキャンパスにも出向いた。先生に紹介された学校は日程が合う限り回ってみた。先生の母校にも、見学へ行った。


 先生の母校は街はずれの林のそばに建っていて、高校とは比べ物にならないほど広いキャンパスの中を、私服の学生たちが自転車で移動していた。木漏れ日の差し込むキャンパスはとても穏やかで、学生たちのお喋りが風に乗って聞こえてきた。


 制服を着た私はその中で酷く浮いた存在のように感じた。


 先生も、この広いキャンパスを自転車で移動したのだろうか。友人とお喋りしながら空き時間をつぶしたりしたのだろうか。食堂で昼食を食べながらレポートに取り組んだりしていたのだろうか。サークルに入って好きなことに夢中になったりしたのだろうか。


 辞書を片手に、難解な本と格闘したりしたのだろうか。


 先生がいたという場所で、あったかもしれない過去に思いを馳せてみても、先生のそんな姿は全く想像できなかった。周りを見渡して先生の面影を探してみても、当然見つかりはしなかった。


 私は胸に宿った薄暗い虚無から逃げる様にキャンパスを後にした。


 学生だった先生を、私は知らない。私にとって先生は『先生』で、先生にとって私は『生徒』で、だからこそ先生の不器用な思いやりや面倒見の良さ、優しさに気付けたし、好きになった。


 もしも先生と違う出会い方をしていたら、きっと気付かなかった。きっと先生を好きになれなかった。学生時代なんて知らないでも良いんだと自分に言い訳をした。この恋はどうしようもなく報われないんだと自嘲した。


 夏休みの間、私は先生に会いたくて、会いたくて、でも会いたくなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る