猫園公園《ねこぞのこうえん》

くまっこ

前編 箱のなかの毛布

 僕は、四角い箱の中にいた。

 いつからここにいるのか、箱に入る前はどこにいたのか。まるで思い出せないけれど、そんなことは別にどうでもいいことだった。

 気がついたらここにいて、箱にはやわらかい布が敷いてあって、それにもぐりこむと凍てつくような空気を浴びなくてすむ。それだけ分かっていれば、安心だった。

 布の中には、僕と同じように丸まるがいた。

 そのもういっぴきは布よりもあったかくてやわらかくて、布の中で寄り添うと僕はすぐにねむたくなるのだった。


 幾度か眠っては起きてを繰り返した昼下がり、が僕たちの箱を覗き込んだ。

 白くて大きいそいつは、じろりと僕たちを見て「おまえたち捨て猫かい?」と聞いた。

「ステネコ?」

 聞いたことのない言葉だったから、僕は確かめるように聞き返した。

「人間の家で産まれたのに人間に捨てられた猫のことを、人間がそう呼ぶのさ。そっちは兄弟だろう?」

「キョウダイ?」

 は、また知らない言葉を使った。

「同じ母親から一緒に産まれてきたってことさ」

「ふうん?」

 白いのの言うことはむつかしくてよく分からなかったから、僕はあいまいにうなずいた。

「おまえたちずっとそこにいるけど、おなかはすかないのかい?」

 今度は僕にも理解のできる言葉だったから、僕は箱の隅の布の下に隠してある『カリカリ』をちらりと見せた。

 これは僕ともういっぴきのゴハンだ。カリカリと歯ごたえが良くて、食べるとおなかが満たされる。すこしずつ、なくならないようにすこしずつ、僕たちはカリカリを食べて過ごしていた。

「そんなの、すぐになくなっちまうだろう? なくなったら餌はどこで獲るんだい? この公園で暮らしていくなら、そんな箱捨ててこっちに来なよ」

 たしかにカリカリは残り少なくなっていた。はじめは袋いっぱいに入っていたはずなのに、もうあと一回食べたら、たぶんなくなってしまうだろう。

「ゴハンはほしい。どうしたらいいの?」

「挨拶するんだ」

 白いのはそう言って体を翻しスタスタと歩きだしたから、僕はあわててその後を追った。

「兄弟は?」

 箱の中で丸まっているもういっぴきを見て、白いのがあごを指す。

「あいつはまだちいさいし」

「ちいさくたって、挨拶くらいできるだろう?」

「あんまり、うまくあるけないんだ」

「ふうん」

 白いのは僕たちの箱を一瞥して「まあいいさ」とつまらなそうに言った。


 そうして歩いて、白いのに連れて行かれた先にはが前脚を折り畳んで座っていた。

「捨て猫だよ」

 白いのが言うと、黒くて大きいのは僕をじろりと睨みつけてから「なんだ黒猫か。俺と同じだな」と言って笑った。

「捨てられてよかったなあ。おまえは自由だ。餌は好きに獲っていいし、食いっぱぐれたら、またここに来な。慣れるまでは面倒みてやるからさ」

 黒くて大きいのは、見た目とちがって優しかった。堂々としていて強そうで、僕は彼と同じ色だということを、少しだけ誇らしく思った。


 その日から、僕は箱を出て公園を歩き回った。餌が獲れそうなところを探したり、ひなたぼっこをしたり、でも遊び疲れるとまた箱に戻って、あったかい布に潜って、もういっぴきに寄り添ってねむった。


          ○


 箱の中のもういっぴきは、いつもねむっていた。僕は公園の猫たちよりもまだ小さかったけど、もういっぴきは僕よりもっと小さくて弱々しかった。

 僕は大切なキョウダイをもっと大きくするために、たくさん餌を獲ってきては、箱に入れる。餌をあんまり獲れなかったときは、自分のゴハンを我慢したり、様子を覗きに来た白いのに分けてもらったりした。

 そうして僕はどんどん大きくなったけれど、もういっぴきは小さいまま変わらぬあたたかさで箱の中にいる。僕はそのぬくもりが大好きなのに、公園の猫たちは「あの小さいのも時間の問題だな」とささやきあっていた。


 時が来ると、もういっぴきは冷たく、固くなるのだと、白いのが言った。

 もういっぴきはこんなにあったかいのに、やわらかいのに、それが冷たくなったり固くなったりするなんて、信じられない。信じられないけれど、それが死ぬということなのだと、黒くて大きいのは僕に教えてくれた。僕も、白いのも、黒くて大きいのも、いつかは冷たくて固いものになるんだって。

 というのは、そんなに恐ろしいものなのだろうか。白いのも黒くて大きいのも敵わないなんて、すごく大きいのかもしれない。「時が来たら追い払ってやる」と僕が意気込んでいたら、黒くて大きいのが「そうだな」と言って、白いのは珍しく何も言わなかった。


          ○


 白いのは毎晩、公園を隅々まで歩きまわる。この公園で暮らす猫のことを、白いのはみんな知っている。

「俺も飼い猫だったんだ」

 箱の中でもういっぴきのあたたかさを確認していたら、白いのが上から覗き込んでいた。

「おまえらと違って、ずっと人間の家で暮らしていたんだ」

 そう言って白いのはもういっぴきのにおいを嗅ぐと、見たこともない怖い顔をして、僕を見据えた。

「時は俺らには追い払えない。こいつを人間に預けるんだ。できるかい?」

 ……僕はいま、一番のむつかしいことを言われたのだと思う。でも、これはちゃんと考えなくちゃいけないことみたいだ。

 白いのは、「に歯向かえるのは人間だけなんだ」と僕に教えて、またすぐにどこかへ行ってしまった。夜の公園には昼間はいない猫たちも集まってくるから、白いのは忙しいのだった。

 僕は、ここにいるもういっぴきを箱から出すなんて、考えたこともなかった。だって箱から出たら、もういっぴきは生きていけないじゃないか。だから僕は、もういっぴきのために餌を獲るし、もういっぴきも僕をあたためてくれる。

 この公園は自由な場所で、僕たちはなんだってできる。それなのに。もういっぴきを救えるのは僕しかいないのに、僕にはその力がないなんて。ましてや、もういっぴきを救えるのが、僕たちを捨てただなんて。

 ——でも、もういっぴきが、冷たくて、固いものになるのは、もっと嫌だ。


 そうして僕は、一晩中考えて、決心をした。


          ○


 公園に来るニンゲンには、がいるということを、この公園で遊んでいるあいだに僕は学んでいた。

 いいニンゲンはカリカリを公園に置いていく。

 わるいニンゲンは……僕たちを追い回したり、ひどいめに合わせたりする。

 この公園で何度もニンゲンに会っては、いいことや嫌なことを経験して、僕は足音でなんとなく、ニンゲンの種類を聞き分けられるようになっていた。

 ——もういっぴきを、わるいニンゲンに見せるわけにはいかない。

 いいニンゲンの足音はやわらかくて、砂をつぶすような音だ。僕はそんな足音を聞くたびに「なあああん」と大きな声を立てた。


          ○


 そんな日が何日か続いたとき、男と女の二人組が僕の声を聞いて近づいてきた。男はニコニコと僕を眺めていて、女の方は低くしゃがんで僕と目線をあわせ「チッチッチ」と口をならしている。

 僕は慎重に距離をとりながら、僕たちの箱に二人を案内することにした。

 ニンゲンは何ごとかをいいながら、不思議そうな顔をして、僕についてくる。

 そしてとうとう、もういっぴきのねむっている箱まで、ニンゲンを連れてきてしまった。

 ——どうか、いいニンゲンでありますように。

 僕はそう願いながら、箱にニンゲンを、おびき寄せた。


「・・・・・・?」

「・・・・・・」

「・・・・・・!」


 二人が何を話しているのかなんて分かりようがないけれど、ニンゲンは箱の中を見て、たいそう驚いているようだった。

 もういっぴきは、昨日よりも一昨日よりも、ぐったりとしている。日に日に元気がなくなっていて、黒いのも白いのも、もう限界だろうと言っていた。

 自分で自分を守れない奴はここでは生きていけないという。僕がもういっぴきのぶんまでがんばったって、それはどうしようもないことなのだと。ほかの猫たちも、そういう奴をたくさん見てきたって、口々に言っていた。

 だから。

 僕は僕たちを捨てたニンゲンに、賭けを挑むのだ。

 本当はそんなこと絶対に絶対に嫌だったけれど、もういっぴきは弱くてちいさくて、ここでは生きていけないから。僕には、もういっぴきを救える力がないから。もう、そうするしかないんだ。


 二人のニンゲンは何かを決意したように頷きあうと、もういっぴきをそっと抱き上げて、ポケットから取り出した白いハンカチの上にやさしく置いた。

 もういっぴきは、抵抗もせずに人間の手のひらの上にいる。

 ニンゲンの手のひらにちょうどよく収まるもういっぴきを見て、あんなにちいさかったのか、と僕はあらためて思った。

「いもうとをまもっていたんだね、えらかったね」

 ニンゲンは、もういっぴきを見つめている僕に近づくと、そう言って頭を優しく撫でた。

 僕は、その一瞬だけだけれど、あったかい家の中で同じように頭を撫でてくれたニンゲンの手のひらの感触とミルクの味を思い出して、胸のあたりがほんのすこし、しめつけられるような感じがした。

「ごめんね、うちではいっぴきしか、かえないんだ。たいせつないもうとはあずかるからね。またくるね」

 ニンゲンの言葉はやはりまるで分からなかったけれど、あったかいのだけは伝わってきて、僕は安心して「ニャー」と返事をしてあげた。


 ニンゲンの手のひらに乗ったもういっぴきは、西日をあびて金色に輝いて見えた。僕とは正反対の、明るい黄色のトラジマ模様は、きっとニンゲンに愛されるいい色だ。

 賭けの結果はまだ分からないけれど、きっともういっぴきは幸せになれる。そう僕は、信じることにしよう。

 もういっぴきは僕の声を聞いて、ちいさなちいさな弱々しい声で、僕を呼んだ。久しぶりに聞いたもういっぴきの声は、僕が最後に聞くもういっぴきの声だろう。

 ——僕はいつか、ずっと隣にいたもういっぴきのぬくもりを、忘れてしまうだろうか。



 さよなら、僕のもういっぴき。

 さよなら、僕の大切なきょうだい。




前編  了

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