眠れぬ夜に

白檀

少女と鷹

薄靄の立ち渡る荒野に、乾いた地面を踏みしめる足音が続く。小さな、しかし確固としたその足音は、まだ朝日の差さぬこの地に響く、唯一の音であった。

足音の主は、このような荒れ果てた場所には似つかわしくない、幼い少女のようである。

同年の娘たちがまだ夢の中にいる時間に、この少女は、上気した頬を風に晒しながら、眠り続ける荒野に分け入っているのだ。しかし、彼女が夢遊や狂気の類でないことは、しっかりと纏った防寒用のマントや右手に掲げられたカンテラから明らかであるし、何より、その目はしっかりと前を見据えていて、足元には微塵の揺らぎも見られなかった。


歩き続ける少女は、やがて、小さな岩山の前でその歩みを止め、ゆっくりと頂上を見上げた。

岩山の上には、一羽の鷹が、枯れかけた木に留まってまどろんでいる。その体躯は通常の鷹より一回り小さいものであったが、獲物一匹見当たらぬ荒野に在って、不思議と艶やかな美しさを保っていた。僅かに顔を見せ始めた朝日に映えて、その翼は、きらきらと輝いているようにすら見える。

鷹の姿を認めた少女は、一瞬顔をほころばせると、そっと岩山を登り始めた。ここまで短からぬ距離を歩いてきたであろうに、少女の足取りには、少しも危ういところがない。岩山と言っても、彼女の背丈を四つ五つ重ねた程度のものであるから、少女はすぐに頂上まで辿り着いた。


登り切って一息ついた少女は、呼吸を整えると、背負っていた鞄を地面に降ろし、バスケットと牛乳瓶を取り出して枯れ木の傍に腰を下ろした。

バスケットの中から取り出したパンを切ると、その上に薄く切ったトマトを二枚、そしてずっしりと厚みのあるハムを乗せ、思い切り齧り付く。たちまち口いっぱいに広がる果汁と肉汁にむせ、急いで瓶を呷って牛乳を流し込むと、歩き通しで疲れた体に冷たさが染み渡って、心地よい疲労感が全身を包んだ。

透き通った朝の空気が肺を満たし、地平線から差し込んでくる朝の光が、鮮烈な実感となって押し寄せてくる。

少女の小さな唇から、はぁ、と溜息が漏れた。


途端、肩に重みを感じて、少女は高揚から引き戻された。

右を見遣ると、ようやく起きたのか、先程までまどろんでいた鷹が留まっている。その目は半ば閉じていて、まだ、何処か目覚めきってはいないようだ。少女はふわりと微笑むと、その嘴に優しく口づけを施し、頭を撫でた。

もう一枚、今度はやや薄くパンを切り、ちぎっては牛乳に浸して、口先に差し出す。鷹はゆっくりと首を伸ばし、少女の手から、柔らかくなったパンをついばんだ。

もう一度、浸し、差し出す。

もう一度。

もう一度。

もう一度、そしてもう一度。

やがて、パンがなくなると、少女は瓶とバスケットを地面に置き、膝の上に招いた。鷹は名残惜しそうに一度だけ指を甘噛みすると、招きに従って少女の膝上に収まって丸くなった。


少女の指が艶やかな羽をなぞる度に、鷹も甘えるように鳴いて応える。

少女の目が愛しげに見つめる度に、鷹も目を細めて視線を絡める。

その光景は男女の睦みあいにも似ていたが、靄を分けて差し込む朝日の中で、淫靡さは露ほども見て取られず、寧ろ、ある種の聖性すら感じさせるものであった。

朝焼けまでの長い時間をそうやって過ごしていた少女と鷹であったが、朝日が完全にその姿を現した頃、少女がゆっくりと立ち上がった。鷹も同時に飛び立ち、再び少女の右肩に留まる。

少女はゆっくりと鷹の頬を撫でると、寂しげに笑って、もう一度、嘴に口づけした。それを合図としたかのように、鷹はゆっくりと翼を広げ、少女の肩を離れて枯れ木に舞い戻る。

鷹が木に戻るのを見届けた少女は、バスケットと瓶を戻して、鞄を背負った。



少女は、ふわりと、今度は辛そうに微笑むと、右手を軽く上げて岩山を下り始めた。下り切ったら、そのまま、決して後ろを振り返らずに、もと来た足跡を辿るように歩き続ける。そんな少女の背後には、姿を現し切った朝日の差し込む中、何度も何度も、円を描くように飛び続ける、一羽の鷹の姿があった。

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眠れぬ夜に 白檀 @luculentus

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