胸騒ぎの皇宮


 コンスタンサが憎い、サウルが末期の床から自分を遠ざけたことが悔しくてならぬ。

 そう言いながら涙するベルナディータへ、マグダレーナは猫なで声で話しかける。

「ねえ、どうなの? ……あら、いいのよ。私は国と国との政略で、いい歳をして第三妾妃なんぞに入ってきた女ですもの。故郷に子供を二人置いてね。……でもまあ、まさかサウル陛下があんなに早くに御隠れになるとは思ってもみなかったけど……ま、あのまま国にいても寡婦として子育てに残りの一生を捧げていただろうけれど。ラザロ以外の男と再婚する気なんか、さらさら無かったしね」

 ここまで話して、マグダレーナはちょっと黙った。次に続ける話を、このベルナディータに話しても大丈夫か、吟味するように。

「フロレンティーノはかわいいわ。あの子には、ベアトリアにオスカルルクレツィアがいることは忘れずに教えているの。……無理だとは分かっているのよ。でも、兄弟三人、一緒に育てられたらな、と思わない日はないわ」

 マグダレーナはそう言いながら、真っ白な絹の寝巻きの胸元に下がっている、金のネックレスの鎖を無意識にいじっている。金の鎖の先には、何かペンダントのようなものが下がっているようだが、それは彼女の豊満極まる両胸の間に挟まっているらしく、ベルナディータの目からは見えなかった。

 マグダレーナのベアトリアでの最初の嫁ぎ先はベアトリア第一の公爵家、サクラーティ公爵家だった。公爵家の跡取りであった長男のラザロに降嫁したのであったが、ラザロは二人の子供を残して早逝してしまった。

 ベルナディータは、マグダレーナがサウルについてどう思っていたのか、と聞いた質問には答えなかった。

 答えたのは、それより前にされた質問への答えだった。

「……オドザヤ様、今の皇帝陛下は、第一皇女時代は、お優しい、真正直で穢れのない、貞淑の女神テレサのような方でした。お母上のアイーシャ皇后と、お姿こそそっくりでおられますが、中身はまったく違っていらした……ですのに」

 そこで言葉を切ったベルナディータは、マグダレーナに椅子を進められることもなかったので、しばらく棒立ちに佇んでいた。

 だが、そのままぐずぐずと、派手な朱色に深緑と焦げ茶色で、大振りだが複雑な草花模様を描き出した、なんともベアトリア風のがっしりとして重々しい絨毯の上へ、崩れ落ちていく。彼女の「オドザヤ評」は、「ですのに」というそれまでの肯定的な言葉に反する言葉を用意している、と相手に示したところでしばらくの間、途切れていた。

 マグダレーナも、相手の心模様に感ずるところがあったのか、ここは黙って言いたいように言わせた方が多くを得られると踏んだのか、黙ってベルナディータの次の言葉を待っている。

「……なのに、オドザヤ様は変わってしまわれた。ええ、隠していても私にはこの皇宮へ上がって三十年余りの人脈がありまする。オドザヤ様は、トリスタン王子に会われるなり、恋に落ちられたとか。なのに、その後……まあ、お父様のサウル様の喪中であったこともあり、婚約は先延ばしになさった。そして……その間に」

「あら。なにかあったの? 確かに、去年の新年の宴、トリスタン王子の歓迎の舞踏会を催された時は、トリスタン王子はなかなか陛下をお誘いにならず、陛下は舞踏会の途中で中座されてしまわれたわね。こんな皇宮の奥の奥の後宮に垂れ込めている私には、とんと届いても来なかったけれど、その後、何かあったのかしら?」

 マグダレーナの言葉からは、彼女が去年、オドザヤの身に起こった、それまでの彼女の人生にはなかった、波乱万丈な出来事をどこまで知っているのか分からない。

「オドザヤ様は、サウル様が置き捨てておられた離宮の一つ、オルキデア離宮に手を入れられ、そこで『太陽の女王の結社セナクロ・ソラーナ』とかいう怪しげな催し事を主催されていらしたそうです。なんでも、そこでオドザヤ様のご即位の折に難色を示し、元老院議会の召集を求めた……モリーナ侯爵やら、カスティージョ元将軍閣下などのグループにいた貴族どもの切り崩しを目的に、夜な夜な会合を持たれていらしたとか。そこでは、オドザヤ様は昼間の生真面目で清廉な様子とは打って変わって、薄物一枚で出来た、肌も露わな扇情的なドレス姿でご出御になり……そして、そのおそばにはいつもあの、親衛隊長、ウリセス・モンドラゴン子爵の姿があったとか」

 このベルナディータの話は、マグダレーナの興味を大いにそそった。

「あらまあ! あのお淑やかで無垢なオドザヤ様が!? そう言えば、実は従姉妹で姉妹でいらっしゃるっていう大公殿下の醜聞はここへもよく聞こえて来ますけれど、実は同じアイーシャ様のお子で、お父様は兄弟、というご姉妹であられるだけあって、オドザヤ様も? 親衛隊長のモンドラゴン子爵はオドザヤ様がご即位になった頃には、オドザヤ様のご即位に反対するモリーナ侯爵の股肱だからと、遠ざけられていたはずだわ。いつの間にお側にお戻しになったのかしら?」

 いつの間にか、マグダレーナはカイエンとオドザヤを産んだのが、同じアイーシャであったことを知っていたらしい。まあ、彼女とても嫁いで三年になるのだからそのくらいの情報は耳に入るだろう。

 醜聞のことも含め、どうせ情報の出元は、ベアトリアの外交官でマグダレーナがサクラーティ公爵家にいた時は義弟に当たっていた、現サクラーティ公爵の次男、モンテサント伯爵ナザリオからに違いない。 

 そんなマグダレーナの様子からは、外部の者との直接の面会は、後宮にいる限りは面倒な手続きが必要だし、外からの手紙なども検閲されるが、他にも侍女などを通じて、ある程度の情報のやり取りはしているように見えた。

 それでも、マグダレーナはこの後宮を出て、もっと自由に、息子のフロレンティーノ皇子を擁して動き回りたいのには違いない。そのために、他の二人の妾妃を巻き込んで、トリスタンの病室にまで押しかけたのだから。

「……このベルナディータ、信じたくもありませんでしたが、どうやらそれは真実であったようでございます。ご自分の皇帝位を脅かすかもしれぬ貴族どもを、逆に手の内にせんがため。オドザヤ様は……信じたくもございませんが、この国の頂点に立つ高貴な御身を……とも言われておりました」

 元はサウルの女官長で、今もこの後宮の女官長という、女性の臣下としては最高位にあるベルナディータは、さすがに直接な言い方は避けた。その辺りは、最晩年のサウルや、今のオドザヤに不満を持っていたとしても、この国の皇帝家に対する畏敬と、彼らの、軽々に口にするのははばかられるような種類の私事を相手構わずペラペラ話さないくらいのたしなみは堅持しているのだ。

 もっとも、今のベルナディータのいいようでは、「高貴な御身を……」の先は大人なら誰でも想像することができただろう。

 ベアトリア風の、上等で派手だが重々しい意匠の絨毯の上に膝をついたまま、ベルナディータはふるふると首を振った。

「最初はとてもとても信じられないと、この話を私に囁いた侍女を叱りつけました。ですが、去年の夏に近付いた頃から、突然にオドザヤ様、そして大公殿下カイエン様が共に、春ごろから急に流行りだした、ベアトリア風のドレスをお召しになられて皆の前にお出になるようになった時、私は明らかにそこにあの方達の『作為』を感じました。……あのベアトリア風のドレスの流行りは、冬にはもう廃れてしまいましたから。マグダレーナ様にはご不快かもしれませんが、もう去年の終わり頃からはオドザヤ様も、そしてカイエン様も、ベアトリア風のふうわりと体型を隠すドレスを着られなくなり、元のすっきりとして細身のこのハウヤ帝国風のお衣装に戻られました。あのベアトリア風のドレスの流行は、一年にも満たぬ間だけのことだったのです」

 話がここまで進むと、マグダレーナの栗色の瞳がぎらぎらと光を帯びて見開かれた。

「そうよ! あれは私もおかしな事もある事だと思っていたわ。そうそう、一年にもならない期間だけ。唐突に始まって、唐突に終わった感じがしたわね。あら! それってまるで……女が妊娠に気が付いて、それを周りに知られずに出産するまでの月日にはぴったりじゃなくて? ねえ、ベルナディータ」

 おほほ、とマグダレーナは小声で自分の言葉の危うさを誤魔化すように笑って見せたが、ベルナディータはつられなかった。

「……私は大公殿下カイエン様の人となりは、アイーシャ様がご存命の頃も、この後宮へはあまりおいでになる事もなかったので、よく存じませぬ。ですが、数年前、サウル様が突然に、ベアトリアとの国境紛争で軍功著しかった、あの前のフィエロアルマ将軍から将軍位を、陛下への不敬があったと難癖をつけてお取り上げになりました。そして、皆が驚きましたように、大公殿下の男妾にするようにとのお沙汰をお出しになった時。あの時、まだお若く、未婚の大公殿下が素直にお従いになられたこと。女性の御身で大公軍団の有象無象どもをお従えになり、市内の事件現場などへもご不自由な御身でおいでになるとも聞いておりましたから、オドザヤ様同様に生真面目でまっすぐなご気性、責任感のお強い方と思っておりました。ですのに、シイナドラドからお迎えになった、夫君のエルネスト皇子殿下とは不和だとのもっぱらの評判。お子もお出来にならず、昨年からは新たに、部下である大公軍団の軍団長をも愛人となさったとか。それをまた読売りどもが書き立て、上位貴族の皆様までがそのお噂で夢中など。……サウル様の御代であればありえぬことでございます」

「そうねえ、そう言われれば、おかしなことだわ」

 マグダレーナはオドザヤのことから、急に話題がカイエンのことになったのにも関わらず、話を合わせる。その様子からは、このベルナディータから「ここで、すべて引き出してしまおう」と決めているしたたかさが見えた。

「そうねえ。私は宴やら、先帝陛下のご葬儀やら何やらで何度かお会いしておりますけれど、カイエン様には好印象を持っているのよ。馬鹿みたいに真正直で、不器用な方だわ。女臭さがあんまりなくて、少年みたいにぶっきらぼうで。……なんだか、同じ女なのに、女の庇護欲を掻き立てられるような不思議な方。あんな方が正式な夫君をないがしろになさって、部下とはいえ立派な男を二人も愛人にして愛欲に溺れておられるなんて! でも、六月のオドザヤ陛下のご婚礼では、エルネスト様共々、久しぶりにお目にかかりましたけれど、お二人はリリエンスール皇女殿下を、まるで本当の娘のようにかわいがっておられたわ。私も母だから分かります。あれは演技などではありません。夫婦としては不仲でらっしゃるのかもしれないけれど、リリエンスール皇女殿下のご父母としては自然に見えた。でも、そうなると、大公殿下は私のフロレンティーノのお味方にはなってくださいそうもないわね。そうも思ったのよ」

 ベルナディータは、マグダレーナの本意を探るように、先程まで、オドザヤへの愚痴や危惧をこぼしていたのとは違った目つきになった。この辺りは、コンスタンサと入れ替えられて恨み言を言っていた女とは思えない。そこは皇宮へ仕えて三十年の苦労の重みなのだろう。

「……そうでございましたか」

 ベルナディータはもう泣いてはいなかった。

「それでは、今日、マグダレーナ様が私をお呼びになったのは、私をフロレンティーノ皇子殿下の側へ、引き入れたいとの思し召しであるということでありましょうか」

 この直球すぎる返答には、マグダレーナも驚いた顔を隠せなかった。今日は会うなり愚痴ばかり聞かせられたが、このベルナディータという女、普段は無駄口など叩いたりしない、思っていたよりも賢く、使える女なのだろう、ということも同時に理解していた。

「そうね」

 マグダレーナはソファに半分寝転がったような、尊大な姿のまま、ちょっと考える顔になった。

 彼女がこの夜、ここへベルナディータを呼び出した理由は、彼女の不満を利用して自分の側に引き入れ、後宮の外との連絡を容易にする駒にすることだったのだが、こうなって来れば、話はもっと先へ進めていくことも可能となった。

「これは、もう子供を三人、産んだ私の直感でしかないのだけれど、オドザヤ陛下は去年、どなたの子とも分からないお子をご出産になった可能性が高いわ。冬の初め頃にお目にかかった時、前にも増しておきれいになられていて、びっくりしたの。なんだか少しお顔の輪郭が優しくなられたようで。……ねえ、あなたもそう思っているのでしょう? さっきの話ぶりじゃ」

 ベルナディータは用心深く、返答を避けた。

「ほほほ。急に慎重になったのね。いいわ。……陛下が初恋に落ちられた、トリスタン王子殿下とのお子なら、すぐにも婚約を急いで、第一皇子か皇女としてお産みになる道を選ばれたでしょう。ですが、オドザヤ様はそうお出来にならなかった。……そうでなかったら、このハウヤ帝国で初めての女帝でいらっしゃるオドザヤ様よ。結婚前に孕られたなどとは、世間の反応を恐れて言い出せなかったのかもね。たとえ、お子がトリスタン王子のお子でも。ザイオン女王国の女王だったら、婚前でもなんでも『女王の第一子』として堂々とご出産になられたのでしょうけれど。このハウヤ帝国ではまだ無理と判断なさったんでしょうねえ」

 マグダレーナはそう言いながら、オドザヤの産んだだろう初子に対しては、今更手出しは出来はしないだろう、と残念に思った。間違いなく、オドザヤの秘密出産には大公のカイエンが、そしてオドザヤの股肱の連中、あの宰相サヴォナローラなども噛んでいるに違いないからだ。

「そう考えれば、去年、やたらに大公殿下の醜聞が下賎な読売りにすっぱ抜かれたのも、納得できるわ。あれはもっと大ごとのオドザヤ陛下のご事情を隠すためだたのだわ。今さらこっちから騒ぎ立てても、きっと肝心のお子様は大公殿下の手で安全に匿われているか、もう、別の家の子供として育てられているか、に違いないわね」

 マグダレーナは、トリスタンの病室へ押しかけた時の、トリスタンはもとより、オドザヤやカイエンの様子を思い出していた。カイエンはマグダレーナの疑惑を全部、打ち払ってのけた。自分の男関係についても、それこそ「クソ真面目」に認めて、「それがどうした?」と態度で示したのだ。

 あの、カイエンの馬鹿真面目さには、それが彼女の間違いのない性格であるからこその、恐ろしい影響力が隠されていた。

 トリスタン王子は、このハウヤ帝国へやって来た時点では、間違いなく母であるチューラ女王の命令により、新帝オドザヤを意のままに操る皇配殿下になるつもりだったのだ。去年の新年の舞踏会の様子からして、そうに違いない。

 彼は舞踏会の主催者である、皇帝のオドザヤを放りっぱなしにして、自分たち妾妃たちと先に踊って見せたのだから。あれは間違いなく、トリスタンに初恋の片思いをしていたオドザヤを焦らせるための手管に違いなかった。

 なのに、婚礼の日のパレードで大公カイエンに体を張って庇われたことの他にも、きっとオドザヤから彼には、すでに去年の新年の舞踏会以降、なにがしかの彼ら二人の立場の優劣をひっくり返すような示唆か脅しかがあったのだろう。

 今年の六月の結婚式の時点では、あの二人の姉妹は、トリスタンから牙を奪い、自分たちの手の内にすっかり取り込んでしまっていた。

「ま、どうにしても、ベルナディータ、あなたの思っていた無垢で清廉なオドザヤ様はもういないのよ。そのお父上のサウル陛下もね。そして、あなたは表の政治向きの話も聞き取れる、皇帝付きの女官長の座をコンスタンサに奪われ、今はもう新しい皇子皇女が生まれるでもない、先帝の三人の妾妃が閉じ込められた空虚な後宮の女官長。これって、閑職というか、サウル陛下の代の秘密を知っているあなたを体良くここへ閉じ込めたって訳よね?」

 ここが正念場だった。

 マグダレーナは、腹に力を入れた。

「あなた、こんな閉鎖的で生産性のない、打ち捨てられた空間で飼い殺しにされて、このまま終わってもいいの? それとも、まだ歴史に関われる立場でいたい? どっちなの。あなたはもうオドザヤ陛下には必要とされていない。分かっているのでしょ? 今、あなたを必要としているのは、この私のみよ」

 そっくり返っていたソファから、背中を起こし、まっすぐに床にうずくまっているベルナディータの顔を見たマグダレーナの目には、もう、先程までの傲慢な様子はなかった。

 息子のフロレンティーノ皇子を日の当たる場所に出すには、故郷ベアトリアの国益を図るには、そして何よりも、彼女自身が歴史の大河に身を投じ、歴史に名を残すには、ここでこの老年期に差し掛かった女を味方に付けなければならなかった。

 マグダレーナ自身は、ベアトリアで降嫁してサクラーティ公爵家に入り、夫に死なれるまで。そして、妹の代わりに大国ハウヤ帝国へ嫁がされるまで、自分が歴史に名前を残すことなど考えたこともなかった。

 だが、彼女はハウヤ帝国の妾妃となり、先帝サウルの唯一の皇子を産んだ。この広大なパナメリゴ大陸の西側で一番の大国の、現在、唯一の皇子の母となったのだ。

 なのに。

 彼女の息子は、オドザヤの「法定相続人」になることは出来なかった。

 このままでは皇帝になるどころか、姉で皇帝のオドザヤに子が生まれれば、大人になる前に始末されてしまう可能性さえあるのだった。カイエンもオドザヤもそこまでする気はなかったが、少なくとも、マグダレーナは被害者意識的にそう信じていた。まあ、ベアトリア側もわざと、彼女がそう思い、危機感を抱くように仕組んでいたのだが。

 過日のトリスタン王子を味方につけるための見舞い攻撃は、あえなく失敗に終わった。トリスタン王子はもうすでに、見事なまでに、オドザヤとカイエンの側に取り込まれてしまっていたのだ。

 このままでは、フロレンティーノとともに皇子宮へ出る道は絶たれ、このままでは他の二人の妾妃と一緒に、ここで息子共々に朽ちていく道しかない。

 フロレンティーノがそれなりの年齢となっても、その母がベアトリア王女のマグダレーナで有る限り、皇子宮へ入り、世継ぎとされることなどないだろう。

 そして、オドザヤは身のうちに取り込んでしまったトリスタン王子と結婚し、皇配を得たのだ。これからは誰が父親であれ、オドザヤはトリスタンの子として幾人でも皇子や皇女を出産できる。

 「法定相続人」ではないフロレンティーノなど、オドザヤが最初の皇子を産んだ途端に邪魔者でしか無くなってしまうのだ。

「そうでしょうね」

 ベルナディータもまた。

 彼女にとっても、このマグダレーナの「誘い」は、彼女の一生の最後を光の中で終わらせるか、誰にも顧みられない暗い場所で終わらせるか、の別れ道だった。

 ベルナディータはしばらくの間、返答もせず、身じろぎもせずに床の絨毯の上の何かを見てでもいるようだった。

 やがて。

 すうっと顔を上げ、マグダレーナの健康そうな、うっすらとを紅を刷いたような頰を持つ、きっぱりと整った顔を見たときには、ベルナディータの意思は決まっていた。

「いいでしょう」

 他国の王女であり、先帝の第三妾妃であるマグダレーナに対する、女官長とはいえ臣下の態度としては、そのベルナディータの言葉は身分をわきまえぬ横柄ささえたたえていた。

 その不遜さを咎め立てするべきであるのに、マグダレーナは黒く深い沼のような、それでいて月光に照らされて朧に光るベルナディータの目の奥の「暗黒」に飲み込まれようとしていた。

「……私の今までの人生のすべては、先帝サウル様のものでした。ですが、サウル様は偉大なるご生涯の土壇場で私を打ち捨てられた。塵芥でも捨て去るように。まさか、それが、お最期にあのアイーシャ様を死出の旅に共に連れて行くためだったとは。男の宰相や侍従はともかく、女の私は決してそのお手伝いなどしないということを悟っておられたのです。いいえ、私がアイーシャ様を嫌い抜いていたことをご存知だったのでしょう」

 マグダレーナは声も出せすに、ベルナディータの暗黒の坩堝のような目に見入っていた。

「……オドザヤ様は、あの下品で外面だけ飾り立てた、卑しい平民のアイーシャ様とは違うと信じておりましたのに。なのに、あの方はアイーシャ様よりも……いいえ、アイーシャ様などと比べるのはあまりにも失礼。オドザヤ様は、元は皇女の身でありながら、父上サウル様と同じ揺るぎない権威を持った帝王になろうとしておられます。女の身で、サウル様の唯一残された男皇子フロレンティーノ様を差し置いて。あの方は姉君の大公殿下と手を取り合い、このハウヤ帝国を自由にしようとされているのです」

 マグダレーナは危なく、「でも、唯一の皇子のフロレンティーノではなく、死出の旅に伴いたいと願うほどに愛した最愛のアイーシャが産んだ、第一皇女のオドザヤを次の皇帝に選んだのは、サウル自身ではないか」と言いそうになった。

 だが、それを言葉にするほど、マグダレーナも愚かではなかった。この女の思い込みは間違っているが、それを理由に自分に組みしてくれるのなら、今は受け入れるのが吉、と判断したのだ。多少、動機が歪んでいようと、彼女のフロレンティーノの力になろうと言っているのには違いなかったから。

「マグダレーナ様。このベルナディータ、死を前になさったサウル様は大きな間違いを犯されたと思っております。私を遠ざけたことも、そして、世継ぎを今までの三百年のこのハウヤ帝国の歴史に存在しなかった女帝としたことも」

「すべては、あの卑しいアイーシャに心を奪われたまま、一生を送られたサウル様のお間違い。あまりにもお優しかったサウル様は……あの女、アイーシャが本当は最初の夫アルウィンに心を残していたこともご存じなく、騙されておいでだったのです」

 ああ。

 ベルナディータは、オドザヤがアイーシャの寝台のそばに見つけた、サウルの肖像画の下にずっと隠していた、アルウィンの肖像画のことを、そのアイーシャ自身もしかとは分かっていなかった「本心」を知っていたのだ。

「アイーシャのような卑しい女、外見だけを飾り立てた、到底、皇后にはふさわしくなかった女の娘などに、このハウヤ帝国の支配を任せることは出来ません」

 きっと顔を上げ、マグダレーナの栗色の目を見上げた、ベルナディータの昏い目は今や、強い意志に裏付けされて光り輝いていた。

「秘密裏に庶子を出産したようなオドザヤ、それを是として助けたカイエン、あれは二人ともにあのアイーシャの娘。オドザヤ様のことは、証拠もないことゆえ、今更に真実を問うことも出来ませんが、あの者らにこの偉大なるパナメリゴ大陸の宝石、ハウヤ帝国を思うがままにさせることは、到底、このベルナディータ、承服出来かねます!」

 ああ。

 マグダレーナは自分が、とんでもない危険物を呼び寄せ、味方に引き入れようとしてしまったことにはっきりと気が付いた。

 だが、この「危険物」には大いに使い道があるようだった。

「そうなの」

 マグダレーナは無理矢理に強張った顔に微笑を浮かべて見せた。

「ありがとう、ベルナディータ。あなたの言葉、嬉しく思いますよ。……これよりは我が子、サウル様の唯一の皇子である、フロレンティーノのために尽くしておくれ」 

 マグダレーナは自分の膝下で、床に膝を突いてひれ伏すベルナディータを見ながら、彼女の夢見る「勝利」への道筋が明るくなったと思っていた。

 危険物ではあるが、このベルナディータの使いようでは、モンテサント伯爵ナザリオとの連絡を、俄然、密にすることも可能だろう。なにせ、後宮のものの出入りは、このベルナディータが握っているのだ。こうしてそれを手の内にしたからには、オドザヤやカイエンがそれに気付く前にことを進めていくしかなかった。






 オドザヤの寝室で、同じ寝台に寝転がりながら、自分たちの恋愛模様を、最初は遠慮がちに、酒が進むにしたがって赤裸々な部分まで公開して、ああでもないこうでもないと話しながら。

 いつの間にか最高級の蒸留酒の酔いで意識を失ったらしい。

 カイエンが目覚めたのは、翌日の、もう午前中の半ばが終わってしばらくした頃だった。

 オドザヤはまだ眠っており、二人は麻の夏布団を取り合うように、寝台の真ん中で向き合って寝ていたらしい。

 カイエンは枕元の、きっとサウルの時代からそこにあるのだろう、細かい波の文様で覆われた木の枠に囲まれた時計を見ると、すぐに起き上がった。

 イベットやコンスタンサが起こしに来ないということは、まだ寝ていてもいいのかもしれないが、このままもう一度寝れば、起きるのは昼過ぎになりかねない。

 結局、カイエンが寝台から降りると、物音が聞こえたらしく、すぐに隣室からオドザヤの腹心の侍女のイベットが静々と入ってきて、そのうちにオドザヤも目を覚ました。

 カイエンはやや頭痛がしたが、それはすぐに寝台の横に持って来られた、熱くて濃い紅茶にミルクを垂らして飲んでいる間に、自然に治ってきた。去年、あの居酒屋バルアポロヒアでとんでもない醜態を晒した時ほどには飲んでいない。胸がむかむかするようなことはなかった。

 オドザヤの方は、自分の部屋でないところで目覚めたカイエンよりも緊張がなかったようで、しばらくぼうっとしていた。

 イベットが寝室の窓を開けると、明るい陽光とともに、まだ涼しい真夏の朝の新鮮な空気が部屋を満たし、濃い紅茶の香りがゆらゆらと立ち上るのと共に、彼女の方も目が覚めてきたようだ。

「お姉さまは……本当に生真面目でいらっしゃるのね」

 そして、目覚めていきなりの問いがこれだ。

 二人ともに、夏の特に薄物の絹の寝巻き一枚で、まだオドザヤの大きな寝台の敷布の上に座り込んだままの姿勢なのである。

 カイエンは昨夜、オドザヤに甘ったるい声で引き止められた時にも感じたが、アベルを産んでからのオドザヤはもとよりの美貌にさらに磨きがかかった。それ以前に、オルキデア離宮での集まりを主催し始めた頃から、もう蘭の花のような、なんとも妖しい色香をたたえ始めてはいたが。

 俗に女は子供を一人、成した頃が一番美しい、などと言うが、オドザヤはまだ二十歳。女の一番若くて美しい時期だ。カイエンは自分の方へ乗り出してきたオドザヤの胸元から覗く、ミルク色の肌を見ただけで、自分も女なのにどぎまぎせずにはいられなかった。

 カイエンの女らしくないところは、そんな桁違いに美しいオドザヤを前にしても、自分のせいぜいが普通の胸の大きさやら、不健康な肌の色、何よりも整っているだけで地味とも言える自分の容貌などに劣等感を微塵も抱かない、というところだっただろう。

 カイエンは素直に、きれいになったなあ。でもそれにしても何で姉妹で従姉妹の自分にまでこんな甘ったるい仕草で迫らなくてもいいのに、と思っていた。

「え? 何のことです」

 カイエンはとぼけたが、オドザヤはまだとろんとしている琥珀色の目で、わざとらしくカイエンの灰色の目を下から見上げるようにするのである。こうなってみると、オドザヤの方は別にわざとやっているのではないようだ。相手が親しい人間だと、この頃ではこんな感じなのだろう。

 よく考えてみれば、カイエンがヴァイロンやイリヤの前ではわがままを言い、素っ気なくあしらったり、意地悪く御預けを食わせたりするのと同じなのだろう。今のオドザヤが自分の心を赤裸々に開ける相手といえば、カイエンと、そして愛人のモンドラゴンくらいのものなのだろうから。

「昨日の夜、お姉様が用事を思い出したとかで、コンスタンサを連れて、一度、席を立たれたではないですか。ちゃんと後でコンスタンサは教えてくれましたのよ。お姉さまったら、今日の昼に『私の』ウリセスの執務室へ行く、って前から約束を取り付けていたそうですわね。昨夜はその確認に出られたとか」

 私のウリセス。

 ウリセスとは無論、オドザヤの親衛隊長であるウリセス・モンドラゴン子爵のことだ。オドザヤが今でも彼と関係を続けていると言うことは、昨日の夜のお色気与太話でちゃんと聞かされている。

 トリスタンとの結婚式が済むまでは、アベルの時のように不用意に子を身籠もることがないよう、気を付けている、とは言っていたが、もうトリスタンと結婚したのだから、これからは、ね、とオドザヤは妖しい微笑みで言っていたっけ。

 オドザヤがトリスタンをオルキデア離宮に呼び出して、結婚してから私が生む子供は、全部、あなたの子供として扱うから、と言い放ったとも聞いた。我が妹ながら、一昨年までのオドザヤだったらあり得ない変わりようだ、とカイエンは思ったが、確かに女が支配者になるということはそういうことだ。

 ザイオンのチューラ女王のことを引き合いに出すまでもなく、女皇帝の産む子供はすべて「皇帝の子」に間違い無いのだから。ある意味、男の支配者なら自分の妻の産んだ子が、本当に自分の子か不安になることはあり得ても、女の支配者は自分が母として出産するのだから、そんな不安とは無縁だ。

「おや、コンスタンサは存外、口が軽いですね。いや、話が『陛下の』モンドラゴンのことだから、用心したのでしょうけれど。……ええ。彼はろくに自分の子爵家の屋敷へ帰ることもなく、皇宮の執務室やら、皇宮の敷地内のモンドラゴン子爵家の控え屋敷に寝泊まりしている、と私の部下から報告を受けておりますのでね。いえ、陛下とのことで話があるのではありませんよ。モンドラゴンは元はモリーナ侯爵の派閥にいたでしょう? うちのモンドラゴン子爵屋敷に張り付かせている影使いの報告では、陛下の結婚式の前、夫人の元に妖しい占い師が他の貴族の夫人たちの紹介で出入りしていたとも聞いています。陛下の結婚式にあんな襲撃事件があったのですから、地方で逼塞しているモリーナ侯爵やら、カスティージョ伯爵なんかの方へ、人を送り込んで動きを見張らせたいのです。桔梗星団派は彼らを引っ張り込んでいるに決まっていますからね。もしかしたら、もうすでに他の旧態依然とした貴族たちへも働きかけているかもしれない、いや、そうに違いないんです。だから、こちらも急ぐ必要があるんです。それには、モンドラゴンからも、こちらに転びそうな貴族の名前を聞き取っておきたいんですよ」

 カイエンがここまで言ううちに、二人はガウンを羽織り、明るいテラスの方に用意されつつある朝食の準備されたテーブルへ向かって歩き始めていた。

「あら、そんなお堅い話でしたの。それなら、サヴォナローラの方でやっているはずではなかったかしら?」

 こんな時でも、オドザヤはカイエンの足を気遣うことは忘れない。カイエンの腕を取ってテラスの椅子に座らせると、隣に座りながらオドザヤはちょっと腑に落ちない顔だった。

「実は、ミルドラ伯母様や、デボラ様、サンドラ様などにお願いして、上位貴族のご夫人たちに接触していただいているんです。こっちの方は、男でしかも神官の宰相では話が通りにくいので。クリストラ公爵も、デボラ様のご主人のフランコ公爵、サンドラ様の息子であるバンデラス公爵も今は、領地を動けません。そうなると、貴族たちの動きはご夫人の方から探りを入れるしかないでしょう?」

 苦笑まじりにカイエンがこう話すと、これにはオドザヤも素直にうなずいた。

「すでにお味方に付いている公爵たちが動けない今、男性の貴族で明らかにこちら側と決まっているのは、まずはデボラ様のご実家のカレスティア侯爵家のご当主アンブロシオ様、それにザラ大将軍の兄であるヴィクトル・ザラ子爵あたり、それに陛下のモンドラゴン子爵です。残念なことに、他はまだ不安定なままです。陛下が昨年、オルキデア離宮でこちら側に引き入れた者たちを中心に、しっかりとこちら側へ付かせ、もう、陛下の治世を妨げるような元老院議会の召集などを起こさせないようにしたいのです」

「……それで、お姉さまがウリセスに直接、お聞きになりたいと言うわけですのね。でも、彼は子爵家の婿養子でしょう? 上位貴族にそれほどの人脈はないのではないかしら」

 カイエンは運ばれてきた、柔らかい卵のオムレツや、果物、上等なハムなどが載っている皿から、さっさと食べ物を口に放り込みながら話した。食べながら話すのはお上品ではないが、モンドラゴンとの約束の時間が迫っていたのだ。

「まずは、完全にモリーナ侯爵派で間違いない貴族の名前と、こちらに転ばせられそうな貴族の名前をそれぞれにリストにしたいんです。それと、彼にアンブロシオ・カレスティア侯爵、ザラ子爵などを近いうちに引き合わせておきたい。その手配ですね。それだけじゃないんですよ。彼の実家は準男爵家でしょう。下位貴族の方へも手を伸ばしておきたいんです。これは、私やミルドラ伯母様、ザラ子爵でも難しいのでね」

 カイエンは、かいつまんで下位貴族を取り込む必要に付いて語った。

 つまりは、ディエゴ・リベラの賢者の群れグルポ・サビオスの裕福な商人と、それに借金があるような下位貴族が結びつくのを阻止したいのだと。

「ああ。宰相が今日の午後、話があると言っていたのはそれですのね。賢者の群れグルポ・サビオスはもうすでに桔梗星団派と繋がっている。パレードでの襲撃からは逃げ出してしまったそうですけれど、逆に次は逃げたら桔梗星団派が彼らを役立たずとして始末してしまうかもしれませんもの。彼らだってそれは分かっているでしょう。次はもっと過激な計画でも乗らざるを得なくなる、そんな彼らと手許不如意の下位貴族の当主たちが結びついたら……ちょっと寒気がしますわね」

 オドザヤの顔はもう、皇帝の顔になっていた。

「お姉さまがウリセスと二人だけで話したいとおっしゃるからには、それだけじゃないとは分かっておりますけれど、そういうことなら仕方ないですわ。お任せします」

 そう言いながら、上品に口元をナプキンで拭うオドザヤの琥珀色の目には、まだ「女」としての彼女の気持ちが残っているようだったが、カイエンは見ないふりをして朝食を終えると、昨夜、大公宮へ使いを送って持って来させた、大公軍団の制服に着替えた。さすがに昨日の茶会のドレスでモンドラゴンに会う気など起きなかったのだ。

 化粧は控えめに最小限にしてもらい、髪型もきっちりと、いつもは頰のあたりに垂らしている前髪も左右で編み上げて後頭部で全部まとめてもらった。そうすると、隠すものがなくなったカイエンの左頬には、もう一生消えないであろう、シイナドラドで負った刀傷が露わに見える。

 そういうカイエンの身支度を見ていたオドザヤは、やっと安心した顔つきになった。皇帝としての自分になってさえ、姉であるカイエンが自分の「愛人」と二人きりで会うというのには抵抗があったのだろう。

「よろしくお願いいたしますわ、お姉さま」

 もう至極落ちついたオドザヤの声音に見送られ、カイエンは皇帝の親衛隊隊長の執務室へと、侍従に案内されて出て行ったのだった。



「ああ、シーヴ、ご苦労だったな。陛下に引き止められて急に泊まることになって。ここでの話が終わったらすぐ、帰るから」

 カイエンがモンドラゴンの執務室の前まで来ると、そこにはカイエンの護衛としてこの皇宮に泊り込むことになったシーヴがいつもと変わりない、明るい顔つきと、朗らかな様子で待っていた。

「おはようございます。あの、イリヤさんの方から返事があって、『朝礼なんかどうでもいいわよお。ご姉妹仲良く下ネタで盛り上がってねぇ』ってことでした」

 シーヴは律儀に、イリヤの伝言のところは嫌そうな顔ながらも、イリヤの声色を使って言ったから、カイエンは危なく爆笑しそうになった。おカマのお姐さんみたいなイリヤの口調が、至極真面目な顔のシーヴの口から棒読みで出て来ると、気が違ったとしか思えない。

「そうか」

 カイエンは今更ながらに、イリヤの気の回りようにうんざりした。下ネタ……確かに間違いなくそんな感じの女同士のおしゃべりを、カイエンもオドザヤも生まれて初めて昨晩、楽しんだのだった。まあ、酒の力は借りたが。

「用があったら呼ぶ、と言うか、喧嘩でも始まったら仲裁に入ってくれ」

 カイエンが意味ありげにそう言うと、シーヴはなんだか底光りのする目をして、力強くうなずいた。

 カイエンがモンドラゴンに会うのは、オドザヤとトリスタンの婚礼以来だ。それ以前を考えても、一対一で話したことなどない。

 婚礼の警備のことで、何度かここへやって来て打ち合わせをしたイリヤからは、

「本当にもー、融通の効かない男だよねー。堅っ苦しくってさあ。でもぉ、皇帝陛下への思慕の気持ち? ってのは本物みたいよ。外見は冷徹でカッコつけの自信過剰の傲慢野郎だけど、中身は一途な熱愛系だったりして! あははっ、俺ちゃんにはどーでもいいことだけどねー」

 と、聞いていた。

 カイエンは警備の相談ついでにモンドラゴンのオドザヤへの忠誠度を探って来てくれないかな、でもイリヤもモンドラゴンは嫌いだろうから、それは無理か、と思っていたのだ。だが、気が利きすぎるイリヤはちゃんとそこまで聞き出して来た。

 それなら、話は早い。なんでもオドザヤのためだと言えば、モンドラゴンは従うだろう。

 カイエンはそう思いながら、モンドラゴンの執務室の前に、シーヴと並んで立っていた親衛隊員に、自分が来たことを中へ伝えろ、と命じた。

 親衛隊員は中に入り、そしてすぐに扉は内側から開かれた。

 正面の執務机の向こうで、さすがに相手が大公だから、モンドラゴンは直立不動で敬礼した。

 親衛隊員はカイエンを置いて、部屋から出て行ってしまったから、もうそこにいるのはカイエンとウリセス・モンドラゴンの二人だけだった。

「失礼する」

 モンドラゴンが黙ったまま、親衛隊らしく敬礼しているので、カイエンはそう声をかけて机の方へ歩いて行くしかなかった。

 皇帝の親衛隊長の執務室だから、部屋はかなり広い。大公宮の大公軍団団長のイリヤの執務室と同じくらいか、ちょっと広いかもしれない。客の接待用に長椅子やソファが置かれた場所が窓際にあったが、モンドラゴンはそっちで話す気はないらしかった。

 それは、彼の執務机の手前に置かれた、場違いに豪華な安楽椅子を見ればすぐに分かった。

 なるほど。

 カイエンはそこにモンドラゴンの用心深さを感じた。モンドラゴンとしては、自分が皇帝のオドザヤの現在唯一の愛人であることをしかと意識しているのだ。そして、カイエンがそれを知りすぎるほどに知っていることも。

 アベルの出産の時には、カイエンもイリヤもオルキデア離宮の警備に当たっていたのだから、今さら、なんだ、とカイエンは思った。

 そして、ソファで向かい合う距離感の親密さを避け、自分の大きな執務机を間に挟む理由は、と考えて、カイエンは別の見方に気が付いた。

 モンドラゴンは、カイエンが苦手なのだ。

 もちろん、彼はカイエンがオドザヤと同腹の姉で従姉妹だと言うことは知っているだろう。

 なのに、彼は豪奢な安楽椅子に彼女を「固定」し、自分の方へ近付いていけないように、間に執務机を挟んだ位置関係を作って待っていたのだ。

 もしかしたら、恐れられているのか、嫌悪されているのか、ともカイエンは勘ぐった。まあ、どちらにせよ、ろくに話したこともない相手を、それも自分よりも十歳かそこいらも年齢が下の、体が不自由な脆弱な女を、彼は自分のそばに寄せたくない、と考えていることだけはカイエンにも分かった。

「ごきげんよう、親衛隊長殿。もう、楽にしてくれ」

 カイエンは安楽椅子に座り込みながら、自分が「もういい」と言うまでは敬礼を続けるのだろう、燃えるような臙脂色の制服姿で棒立ちになっているモンドラゴンに向けて、こう声をかけなければならなかった。

「は」

 モンドラゴンは上官に命令された士官さながらに腕を体の脇へ戻した。だが、まだ自分の椅子に座ろうとはしない。カイエンはイリヤの言っていた、「融通がきかない、堅苦しい男」をまさにそこに見た。イリヤとは正反対だ。

 これでは、二人の「打ち合わせ」はさぞや面白い見ものだっただろう。自分も隠れて見に来たかった、などとカイエンは思い、笑い出しそうになったが、ぐっと抑えた。

「堅苦しい挨拶はもう済んだ。さっさと座ってくれ」

 そう言ったら、やっとモンドラゴンは椅子にかけた。でも、まっすぐにカイエンの方を見ようとはしない。

 これは、これからずっと自分から話を進めて行くしかないのか、とカイエンはげんなりした。

 そう来るなら、しばらく焦らさせてもらおう。カイエンはそう思い、じろじろとモンドラゴンの様子を観察させてもらうことにした。こんな芸当が出来るようになった自分を、「図々しくなったもんだ」と自嘲しながら。

 白に近い金髪は軍人らしく短く整えられている。顔色もあまり外で働くことはないのか、青白い。広い額の男としては細い眉の間には、気難しそうな皺が刻まれている。いつもこんな顔つきのままなのだろう。その下に見えるのは、ちょっと珍しいほどに鮮やかな青緑色の目なのだが、それはスキュラあたりの凍りついた湖かなんかのように固い質感だ。鼻梁は細くて額からまっすぐに伸びている。そしてこれも小さな小鼻の下の唇までがキッと固く結ばれている。面長な顔の最後を締めくくるのはやや四角い、頑固そうな顎。

 つまり、全体としてはかなり整った顔なのだが、その表情にはまるで取り付く隙がなかった。

 昨夜の話では、オドザヤは最初は二人きりになり、色仕掛けであっという間に蕩かした、と鼻息も荒く語っていた。だが、カイエンはこの隙のない仏頂面が「蕩かされた」らどんなふうに変わるのか、想像も出来なかった。

 婚礼の日のパレードの馬車の中では、突然の事態に慌てた顔も見せていた。カイエンがやった、イリヤの馬から馬車に乗り移る、と言う突拍子も無い行動には、

(無謀なことをなさる!)

 と言い、呆れた様子だったが、顔つきはあまり変わっていなかったっけ。

 ヴァイロンは日頃は無口だが、カイエンと二人きりになるといきなり暑苦しい男に変貌するが、それと同じようなものなのかな、とカイエンは思うことにした。

 まさか、終始こんな顔の男と、あのオドザヤが一年半も続くとは思えなかった。

「……大公殿下」

 じろじろと見られているのに、呆れたのか、耐え難くなったのか、この勝負はカイエンが勝ったようで、言葉を先に切り出したのはモンドラゴンの方だった。

「うん」

 カイエンは人が悪い様子を作って、自分からは話を進めない。

 モンドラゴンは一瞬だけ、きっとして顔を上げたが、そこにカイエンの面白がっているのが丸見えな表情を見つけると、舌打ちでもしたそうな様子を見せた。気が長い方では無いらしいな、とカイエンは思った。

「今日は、私がモリーナ侯爵の陣営にいた時の人脈について、話がおありとうかがっておりますが」

 とうとう、モンドラゴンは自分から話を始めた。カイエンは「こいつは幸先がいいや」と、内心で指でも鳴らしたい気持ちだった。いちいち、自分から話をして聞き出すなんて、面倒な手間はかけたくなかったのである。

「……私が言うのもおかしいが、お前、不器用すぎるな。そんなんじゃ、とても陛下を預けておけないぞ」

 カイエンはわざとモンドラゴンの言葉を無視した。自分の方が十も若いことは自覚していたし、そんな物言いをしたら、元からカイエンが苦手らしいモンドラゴンである、反発されるかもな、と思ったがあえてそうしたのだ。

 案の定、モンドラゴンは一瞬、信じられないことを聞いた、という顔つきになり、次には青白い顔に朱の色を走らせた。

「陛下は、アベルのことでは、まだまだ御心にお迷いがあるようだ。昨夜は、アベルはエルネストとの間の……ということにして、第一皇子としてお披露目できないか、と仰せになったほどだ」

 カイエンが、この部屋は厳重に密閉されているはずだと思いながらも、囁くような声で重ねてそんな話をすると、モンドラゴンは椅子から飛び上がりそうに驚いた。確かに間違いなく不器用で、根は分かりやすい男だということがそれではっきりと分かった。

「……もちろん、そんなことは無理だ、と説得したし、陛下も納得されたよ。だが、陛下を支えられる男は、今はお前一人だ。トリスタン王子は大怪我をされて、逆に肝が据わられたみたいで、皇配殿下としても見込みがありそうになってきたけどね」

 トリスタンの名前が出ると、モンドラゴンは嫉妬の顔を見せるかと思いきや、急に冷静な顔つきになった。

「そうでございますか、皇配殿下が。……それならば、安心です」

 カイエンはモンドラゴンの顔をまっすぐに見たまま、ずばりと本題に入った。モンドラゴンのオドザヤに対する思いには揺らぎがないと確信したからだ。

「そうか。確かに、今日お前に聞きに来たのは、モリーナ侯爵の派閥に付く上位貴族と、絶対に付かないだろう貴族とをきっちり仕分けしたいからなんだ。これは、ミルドラ伯母様やフランコ公爵夫人、サンドラ前バンデラス公爵夫人たちに、上位貴族のご夫人のおつきあいの繋がりからも探っていただいている。公爵三人は領地を離れられない情勢だから、侯爵の中から、デボラ・フランコ侯爵夫人の兄君のアンブロシオ・カレスティア侯爵、ザラ大将軍の兄のヴィクトル・ザラ子爵と、陛下に間違いなく組してくれるだろう方々と、近いうちにお前を引き合わせるつもりだ。それと……」

 カイエンはこの先の話はちょっと言いにくかったので、少しだけ黙り込んだ。

「それと。……言いにくい話だが、お前は陛下がオルキデア離宮で会合を主催なさり、モリーナ侯爵一派の切り崩しをなさっていた頃、ずっと陛下と共にあったはず」

 カイエンはなんだか喉がごろごろするような気がして、一回、唾を飲み込んだ。そういえば、こいつ、茶の一杯も出して来もしないな、それだけ、カイエンとのサシの話し合いに緊張していたのか、などと思いながら。

 それでも彼女は、今日はここが正念場、と真っ向から切り込んでいった。

「そうなると、こうならないかな? モンドラゴン子爵ウリセス。貴様、あのオルキデア離宮で陛下の特別な『接待』にあずかった者の名前を密かに記録しているんじゃないのか? 陛下自身もわからぬ、あの者アベルの……である可能性のある貴族、今後、陛下とのことを言い出しかねない奴らの名前を! 陛下にとっては一夜だけの、それも自分の側につかせるための仕事の一環みたいな関係でも、陛下に焦がれる貴様には、奴ら一人一人が憎い男どもだっただろうからな!」

 カイエンの声は小さかったが、間違いなく、モンドラゴンに届いた。その証拠に、彼は魔法で瞬時に氷漬けにされたかのように、顔色を変えたのだ。それまで、「お前」と呼んでいたカイエンが、喧嘩っ早い下品な男か、粗野な軍人のように「貴様」という呼称に変えたのも、彼の恐怖を増長しただろう。

 カイエンは、安楽椅子から、左手の杖に力を入れて立ち上がると、つかつかとモンドラゴンの執務机との間の距離を縮めた。

「安心しろ。陛下には何もこのことについては言っていない。これが今日の本題だ、ということもな」

 カイエンがそう言っても、モンドラゴンの凍った顔つきは変わらなかった。明らかに、彼はカイエンがこのことを言い出すとは予想していなかったのだ。

「一夜にして陛下に蕩かされ、陛下の虜となった貴様だ。最初は嫉妬心もあったのかな。それには同情してもいい。だが、まさかと思うが、紙に名前を書いて記録しているのか? そんな危ないことをしていたとしたら、もう陛下のお側には戻せないな。どうだ?」

 言いながら、カイエンは執務机の左側に空いている右手を添え、モンドラゴンの座っている机の向こうの椅子へ歩いていく。

 カイエンの、色々な色をうちに秘めた、輝く灰色の瞳が、ウリセス・モンドラゴンの青緑色の、今は焦点も合わずに震える目玉の目の前に迫って行く。だが、カイエンはモンドラゴンの手がとどく範囲の外で足を止めた。

「吐け! 知っているのかいないのか。知っているなら、記録を残しているのかいないのか!? 女一人と思って侮るなよ、私には用意がある」

 そして、カイエンは右手で、大公軍団の黒くて裾の長い制服のベルトの下にある切れ込みベンツから、魔法のように一丁の短銃を取り出して見せた。

「……この短銃はな、火縄式ではないから、匂いがしないんだ。ま、どっちにしろ見たこともあるまい。見てのとおり、大砲の小型版だ。この国に来た、最初の一丁なんだからな。火花錠式ジャベ・デ・チスパと言うのだ。弾はもう込めてある。この距離だ、私でもお前の心臓は外さないよ。おおっと、少しでも動いたら、ぶっぱなすぞ」

 顔面蒼白のモンドラゴンの前で、カイエンは冷たく言い捨てた。

「陛下は間違いなく、貴様を好ましく、頼もしく思っておられる。そんな貴様をここで、この短銃の餌食にはしたくないなあ。でも、貴様ならそんな記録も可能だって気が付いたのが、間抜けなことに、ちょっと遅くなっちまった。先日、うちの執事が遠慮がちにその可能性について言い出すまで、大公軍団のだあれもそこに考えが回らなかったんだ。ま、貴様には常時、うちの見張りをつけてはいたけどな。今まで公開していないんだから、貴様は間違いなく陛下の忠実な下僕なんだろう。これからも陛下を裏切るつもりはないとは思うけど、それでもそんなものを貴様が持っているとしたら、今からでも回収しなくちゃ、ってことになってなあ」

 その時、時間で計ってでもいたように、静かに扉が開き、シーヴが入って来た。

「ガラさんが上に。親衛隊員は眠らせました」

 カイエンは静かにうなずいて、モンドラゴンに迫った。

「分かったか。じゃあ、さっさと吐け。言い訳は聞いてやる。正直に全部言えば、陛下にも黙っていてやろう」

 カイエンは自分でも意地悪な顔をしているんだろうな、と思いながら、そう言って左手から杖を離し、執務机に寄りかかるようにして、両手で短銃を構えたのだった。

 ……ウリセス・モンドラゴンの心臓のど真ん中に狙いをつけて。 

 

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