死んでも愛して


 あの女は地上の女神のように振る舞い

 あなたを私から奪った

 あの女はきっと、どんなことがあっても

 あなたを失うことはないと思っていたのでしょうね

 でも、私たちは

 あなたを激流のような時代の歴史に連れ去られてしまった


 あなたの燃えるような臙脂色の制服が

 真っ赤に染った広場で時代の渦に飲み込まれるのを

 私たちは、遠く、それぞれの場所から見ていた

 なすすべも無く


 ずっと後に、人伝てに聞いたわ

 あなたはあの広場で

 狂気に血走った目をした人々の見つめる前で

 堂々と、それまでの人生に満足した顔で殺されたと


 自分に課せられた運命を誇らしげに迎え入れ

 泣き濡れる私たちをこの世に置き去りにして

 私からも

 あなたの所有者だったあの女からも永遠に離れ

 あなたはこの大地ではない何処かへと

 一人きりで去って行った! 


 きっと私たちの顔など思い出すこともなくね

 だって男の人って、そういうものでしょう?

 分かっているの

 あなたを殺したのは、私でもあの女でもない

 それはあの混沌の時代

 あなたから生涯失われることのなかった、あなたの肩書き

 それは、歴史にあなたの名前と一緒に伝えられる

 あなたが死んだ理由

 あなたが選んだ理由

 

 ああでも大丈夫

 死んでから困るかもしれないけれど

 あの後、私たちは私たちだけの生涯の伴侶を手に入れたの

 そして、おばあちゃんになるまで生きたわ

 私もただの世間知らずのお嬢さんではいられなくなった時代で

 もし、もう一度、違う世界で出会ったなら

 私たちはあなたと彼のどちらを選ぶかしらね


 そうよ

 私たちは唯一の者へ捧げる心を持たない女

 私たちはそういう運命の元に生まれた女

 それでもあなたを愛していた心は残っている

 たぶん、死んだ後も心の片隅で真剣に愛している

 あなたを見つけて、あなたに出会えた時代を

 あなたの不器用な微笑みを

 私たちは決して忘れない



   アル・アアシャー 「死んでも愛して」






 カイエンは火花錠式ジャベ・デ・チスパの短銃の銃把じゅうはを両手でつかんだまま、ピタリと照準をモンドラゴンの胸につけていた。火縄に点火する必要のないこの短銃は、あとはただ、引き金を引けば火薬皿に火花が飛び散り、銃口からもう装填済みの弾が発射されるはずだ。

 短銃とは言え、女の、それも体力に自信など微塵もないカイエンには、短銃を長い時間、狙いをつけたまま保持しているのは難しかった。

 カイエンは日頃、鉛を流し込んだ黒檀の杖を使っているので、握力はそれなりにあり、体の割に手が大きく、手の指も長かったので、銃把を握っていること自体には問題はなかった。普通の女性の小さな手では、この短銃の、男の手を想定して設計されたとのだろう銃把を握るだけのことさえ、かなり辛いことだろう。

 この短銃は同時にもたらされた「鉄砲」と同じ大きさの弾を用いる形式のため、それなりに重量があったこともあった。

 もっとも、そんなことは承知の上だったので、カイエンはこの会談が始まってしばらくしたら見張りを眠らせて部屋に入ってこい、と昨日の茶会の前からもうシーヴに命じていたのだ。

「まあ、大公としての私は迂闊に過ぎたよ。うちの執事が言い出すまで、昨年の色々と危なげだった陛下のすぐそばに、それこそ『執事』ででもあるように張り付いている『男』がいたという事実を見落としていたんだ。私の執事のアキノが言い出してくれるまでね。アキノは自分は私の生活のすべて、裏事情まですべて知っているということ。それならば皇帝陛下の方はどうだろうということを、私に気付かせてくれたんだ。それまでは私だけじゃない、大公軍団長も、他の……去年の陛下のあれ……を知っている者たちも、皆が皆、その事に気が付かなかったんだ」

 そう言っているカイエンの横に、左腰に下げた大剣の柄に手をかけたシーヴが並ぶ。通常はこの皇宮へ上がる時には上位貴族であっても、その従者であっても剣の類は取り上げられ、預けなければならないのだが、例外はあった。

 それが、まずは臣下では元帥大将軍エミリオ・ザラと、臣下の第一である大公カイエンとその従者だった。カイエンの場合には自分自身は帯剣出来ないゆえの例外的な措置だ。

 シイナドラド皇子のエルネストも皇子であることと、配偶者が大公のカイエンであることから許されている。今後は、トリスタンもそうなるだろう。だが、公爵から下の貴族、四人のアルマの将軍たち以下は皇宮内での帯剣を許されない。

 親衛隊も例外だが、彼らは雅やかな皇宮内を歩き回ることから、普段は大剣ではなく細身の装飾的な剣を帯剣することになっている。そんな剣でも、斬る方はともかく、刺す方の威力では充分に人一人殺せる。

「……そ、そんなことが……そんなものが……」

 ウリセス・モンドラゴンは慌てた様子で何か言いかけたが、そこでまた彼は心臓が止まるほどに驚いたに違いない。

 音もなく親衛隊隊長の執務室の天井板がずらされたかと思うと、そこから巨大な影が床の絨毯の上へ落ちてきたからだ。

「……扉の外には、親衛隊員に化けたナシオを立たせた。長話しても問題ない」

 カイエンは目をそらす事なく、モンドラゴンの方を向いたまま、その声にうなずいた。

 もちろん、それは巨躯をものともせず、皇宮も大公宮も思うがままに歩き回れるガラだった。

 普段は兄である宰相サヴォナローラと大公宮との間の連絡を主に行なっているガラだが、大公宮の裏、影使いや、帝都防衛部隊と連携した働きも積極的に行なっている。

「わかった」

 カイエンがそう言いながら、自分の後ろに強そうなのを二人置き、短銃を構えたまま、なおも見つめていると、モンドラゴンはすぐにこの状況を飲み込んだらしい。ガラのことは知らないだろうが、その真っ青な目から、宰相サヴォナローラの弟が大公宮にいる、という話を思い出すのは簡単だろう。  

「確かに。……確かに『そのこと』はすべて記憶している。だが、記録に残したりは……」

 その時だった。

 モンドラゴンの執務室の狭い中庭に向いたガラスの窓の向こうで、ふわりと影が動いたのは。

「殿下ッ!」

 カイエンの持つ短銃の銃口の射線を避けて、窓に向かって走るガラを見ながら、カイエンを守るように彼女の前へ出ようとしたシーヴがそう言った時には、もうカイエンは躊躇なく引き金を引いていた。むろん、ふたりとも、カイエンがここでは迷いなくぶっ放すだろうことは予想していたので、その射線上に立たないように注意して動いていた。

 だぁん!

 カイエンはもうこの火花錠式ジャベ・デ・チスパの短銃を何度も実射して練習していたのだが、それはすべて屋外でのことだった。外ではたーん、と乾いた音に聞こえるが、室内ではその射撃音はおんおんと壁に共鳴して鳴り響いた。

 がしゃあっと派手に窓ガラスが割れた音など、ろくに聞こえなかったほどだ。

「クソ。まあ、腐っても親衛隊長だし、昨夜の陛下ののろけ話から、陛下への気持ちと臣従は疑ってなかったけどな。それに話が話だけに、賢明な男なら記録になんざ残しちゃいないとは思ってたけど……。それでも、私とお前が二人きりで会談することが漏れれば、誰かが尻尾を出すんじゃないかと思ったが、大当たりだ。だが、これじゃあ、人が集まって来るのは抑えきれないな」

 カイエンは制服の裾の長い上着の裏の隠しポケットに隠していた、火花錠式ジャベ・デ・チスパの短銃の道具を取り出すと、もう慣れた手つきで次弾の装弾を進めていた。

「……まあ、しょうがないか。この私がこういう『新来渡来の武器』をすでに手に入れ、使いこなしていると知れるのは悪くない。……黙っていても、すでに敵方も同じようなものを手に入れようと動き出しているに違いないからな。こちらが優勢に立っていると思わせるのにも役立つだろう」

 カイエンは独り言のように言った。

 アメリコの船が、大公宮に鉄砲と短銃をもたらしたことは黙っていてもいずれは知れる事だ。すぐに、敵方の桔梗星団派もこのシイナドラド放出の新しい武器を手に入れようとするに違いない。なにせ、この新しい『武器』は、カイエンのようなひ弱で力のない女一人でも、狙いさえ確かなら簡単に人一人の命を、それも距離を置いた状態で奪えるシロモノなのだ。

 もちろん、カイエンは窓の外の曲者を殺そうとは思っていなかった。だから、それほど確実に的を狙って撃ったのではない。

 窓の外では、ガラと、表の廊下を回ってきたらしい、臙脂色の親衛隊の制服姿のナシオが一人の侍従を取り押さえているようだ。

「……まさか。大公殿下、まさか、私にはオドザヤ陛下に仇する勢力の見張りが……?」

 モンドラゴンは、目の前で火花錠式ジャベ・デ・チスパの短銃をぶっ放され、青白い顔に華奢な体つきのカイエンが、手際よく次弾の装填を終えるのを呆然と見ていたのだが、やっと口をきけるようになったらしい。

「親衛隊の隊員の方は、お前が自分で裏を当たって、怪しいのは適当な理由をでっち上げて追い払ったみたいだが、さすがにお前の権限じゃ、皇宮の侍従一人一人の裏は洗えなかっただろうな」

 次弾装填完了! と、顔を上げたカイエンの前へ、ガラとナシオが割れた窓の外から、一人の侍従姿の男を引っ張ってきた。男はすでに舌を噛まないように猿轡をかまされ、ナシオが縄で手際よく手足の自由を奪ってしまっている。

 その侍従の向かって右の耳の上半分が吹っ飛んでいた。窓の外に潜んで、隠れて話を聞こうとしていた侍従の左顔面から首にかけては血まみれになっている。カイエンは当たるように狙ったつもりではなかったので、内心で冷や汗をかいた。まぐれでも頭にでも当たっていれば、証言が聞けなくなるところだった。

「……まぐれだろうが、耳を吹っ飛ばされたこの曲者は、その場で動けなくなっていた。音でも驚いただろうからな」

 冷静に分析して見せたのは、無論、ガラだ。

 身動きの取れない侍従は、まだ若いと言える年齢の男だ。

 それが、ぶるぶる震えながら、引っ張り込まれた部屋の中を小さな目で小動物のように見回している。そこにカイエンとモンドラゴンの顔を見ると、その震えは頂点に達した。

 聞いたこともない轟音で驚かされた上に、直後には自分の顔のすぐ横を通り過ぎて行った「何か」に耳を吹っ飛ばされたのだ。それだけでも未知の恐怖に慄く心に、自分の任務の完全な失敗を悟ったのだ。

 今、この曲者侍従は、こうなってもなお、雇い主が助けてくれると思っているのだろうか。それとも、もうこれで自分はおしまいだ、という絶望があるのだろうか。カイエンには後者のように思われた。

「ガラ、ナシオ、この男は影使いか? それとも覗き見を命じられただけの素人か?」

 カイエンが聞くと、ガラもナシオも、いとも簡単に答えた。

「完全な素人だ。あんたに気配を悟られ一発食らうほどのな」

「何か武術の心得があるとも思えません。逃げようとしただけで、反撃しようとはしませんでした」

 大公のカイエンが来ると言うので、モンドラゴンの部屋を覗いて話の断片なりとも聞こうとしたのだろう。だが、なるほど、この男を侍従として皇宮へ送り込んだ者は、そこで失敗したらどうなるか、自分の名前が男の口から出るに間違いない。……そんなことにも頭の回らない種類の人間だと言うことだ。いや、こんな小者が何を喋ろうと、どうとでも誤魔化せるとたかをくくっているのか。

 どっちにせよ、この男も素人だが、雇い主も桔梗星団派などではなさそうだ、とカイエンは思い、頭の中で漠然と思い浮かべたのは、まず、この部屋の主人であるウリセス・モンドラゴン子爵夫人のシンティアだった。だが、彼女の周囲には今も帝都防衛部隊の見張りを付けてある。その目を盗んでこの男を送り込んだとなれば、それはそれで厄介なことだった。 

「殿下! 廊下の方から宰相様のご一行が駆けつけて来てます。中に入っていただいてもいいですか」

 カイエンの方が大丈夫と見ると、すぐに執務室の入り口の方へ向かっていたシーヴが、廊下に面した扉から外を見ながら声をかけて来た。

「ああ、いいぞ。……さっきの短銃の音は皇帝陛下のお住まいまで聞こえたかな?」

 カイエンはガラが子猫でも扱うように、侍従の衣装の襟元を掴んで引きずって来る男の方を見ながら、シーヴに尋ねた。カイエンの行き先を知っているオドザヤに聞こえれば、びっくりして飛んで来かねない。

 シーヴはなんでもないことのように、静かな言葉で答えた。

「ここは奥に近いとはいえ、表の海神宮ですから、大丈夫でしょう。聞こえても、女官長のコンスタンサさんが止めてくれますよ」

 カイエンは無言でうなずいた。そのためにコンスタンサにはモンドラゴンとの『会談』のことは大体の話をしてあった。覗き見をしに来る者が出て来る可能性も。

 音が短銃の音だと知れるのも、それほど問題ではなかった。大公のカイエンが、率先して鉄砲や短銃を自分の大公軍団から、味方の近衛、フィエロアルマなどに広めようとしていることが知れれば、相手も躍起になるだろう。

 そして、オドザヤに反感を持つ貴族たちの中には、大公自ら短銃を撃って曲者を撃退したとなれば、怖気付く者も出て来るに違いない。

 昔は政敵を、密かに相手のところへ潜り込ませた者に毒を盛らせて殺したり、自分の郎党を使って、外出中に油断したところを討ち果たす、というような方法も行われていたと聞く。

 だが、もうその頃からは時代が変わってしまっている。

 今の多くの貴族の当主たちには、彼らの先祖が常套手段として使っていた、「その手」の知識ややり方などは直接には伝わっていないだろうと思われた。

 それに、今、街中で事件があれば、まずは治安維持部隊が出て来る。捜査されれば、昔のようにうやむやには出来ない。その上に、捜査の結果を携えて、近衛が出動して屋敷を囲めば……最悪、その家は断絶である。

 そうした点から、カイエンは今日、ここへ短銃を持ち込んだ以上、必要があれば迷わずにぶっ放すつもりだった。

「宰相様には武装神官のリカルドがくっついて来てます。……警備の親衛隊員もこっちへ向かって来ますが、そっちはどうしますか?」

 カイエンに尋ねるシーヴの声はくそ落ち着きに落ち着いている。彼も修羅場をいくつもくぐり抜けて今に至っているので、慌てた様子は微塵もない。シーヴが恐怖に我を失ったのは、去年の正月にイリヤがカイエンを庇って腹を刺された時ぐらいだろう。

「モンドラゴン!」

 カイエンは青緑色の目を見張って、まだ棒立ちになっているモンドラゴンへ大きめの声で声をかけた。

 はっとして、カイエンを見たモンドラゴンへ、短く命じる。まるで、自分が彼の直接の主人である、皇帝のオドザヤであるかのように。

「扉の外へ出て、お前の部下の親衛隊員に、陛下の身辺とこの海神宮全域の閉鎖を命じてこい! 終わったらこの部屋へ戻れ」

 モンドラゴンは真っ青な顔だったが、さすがに一瞬だけカイエンを「俺はお前の臣下じゃない」とでも言いたそうな顔で見た。だが、彼女の厳しい、そういう表情になると先帝サウルによく似て見える顔を見ると、ハッとした様子で黙って扉の外へ急ぐ。

 カイエンは、この時はっきりと「自分の顔は亡きサウルをよく知る者相手に対しては、威圧的に映るのだ」と知った。

 モンドラゴンと入れ違いに入って来たのは、長い筒型の褐色の神官帽が一際目立つサヴォナローラと、武装神官の出で立ちの、シーヴと同じ色の髪や肌色のリカルド、そしてどこからか合流した、あの先帝サウルにその最期まで仕えていた、初老の侍従、モデストの四人だった。

「大公殿下、驚きました。まさに殿下の予想通りでしたね。……お言いつけ通り、モデストを連れて来ました。どこの家の紹介で侍従に上がった者か、この『皇宮の生き字引き』なら知っているでしょう。侍従長はお飾りで、実はこのサウル陛下の傍付きだったモデストの方が、細かいところは抑えているそうですから。コンスタンサ殿が皇帝陛下の女官長になる前から、この皇宮の表裏を行き来していた者ですしね。きっと、サウル陛下はわざとこの者を平の侍従のままにしておいたのでしょう。その方が、この皇宮全体を自由に動けますからね」

 いつもなら皮肉交じりに言いそうな台詞だったが、今日のサヴォナローラは真剣な顔だった。

「こっちも、陛下の婚礼以来、慌ただしく動き回っているが、向こうもそれは同じだろうからな。ああ、モデスト、お前は今、ここの宰相が言った通り、この皇宮の生き字引の一人だ。新しく入った侍従なんかの顔や紹介元なんかも把握していると言っていたな」

 昨日の茶会の準備の中、カイエンはモデストからそんなことまで聞き出していたのだった。

「はい、大公殿下。……おお、そこの侍従でございますね」

 モデストはガラを見るのは初めてだろうが、ちらとガラの真っ青な目を見ると、その「正体」を悟ったらしい。ナシオの方は臙脂色の制服を着ているから、そのまま親衛隊員と思っているのだろう。

「ああ、この者ならば……」

 モデストがそう言いかけると、猿轡をかまされ、縛り上げられた若い侍従は、抑えているナシオの腕をひっぺがそうとするように暴れようとする。だが、芋虫のように手足を使えないように縛り上げられた姿では、どうにもならなかった。

「モデスト、ちょっと待て。モンドラゴンが戻って、扉が閉まるのを待とう。……ガラ、周囲の物音に注意してくれ。必要なら、ここから移動して構わない」

 カイエンがそう言うと、ガラはだまってうなずいた。彼の耳や鼻は犬並みだから、どこかの影使いが潜んでいても聞き分けられるだろう。それは影使いのナシオもほぼ同じだ。

 カイエンはもう立っているのには疲れたので、モンドラゴンの執務机の前の安楽椅子の方向を横に九十度ずらして座り込んだ。シーヴがカイエンの後ろに立ち、サヴォナローラとリカルドは、カイエンの前にナシオに引きずられてきた侍従の反対側、つまりは割れた窓と庭を背にしてに立った。モデストはカイエンの傍に控えた。

 モンドラゴンが戻り、彼が自分の執務机を背にして立つと、ガラが音もなく動いて、執務室の扉を背中にして壁のように立つ。

 そうすると、捕まった侍従の四方を皆が囲む格好となった。

「……モデスト、いいぞ。話してくれ」

 カイエンが促すと、モデストはちょっと頭を下げてから、静かな、だが断固とした自信に溢れた声で言い切った。

「この者は、オスワルド・ベルガンサ伯爵の紹介で入ってきた者でございます。……いいえ、最近のことではございませんし、この者、一人だけでもございません。皇宮の侍従はだいたい上位貴族の後ろ盾がございます。女官は男爵以下の下位貴族の娘が多いですが、中には下位貴族の養女として入る大きな商家の娘などもおります。そして、皇帝陛下への『お目見え以下』の下働きには出入りの御用商人の紹介で入る平民もおりますが……」

 うううーっと、縛られた侍従が唸り声を上げたが、誰もそっちを見る者はいなかった。

「ベルガンサ伯爵家か……」

 カイエンは現在のベルガンサ伯爵とは直接の面識がなかった。いや、皇宮の新年の宴などの大きな催しで会っていたかもしれないが、すぐには顔が思い出せるような特別なことは今までになかった。つまり、誰かに紹介されたりして話したこともなかったのだ。

 すでに去年のうちに、皇宮からはモリーナ侯爵家と、カスティージョ伯爵家の紹介で入ってきていた侍従や侍女、下働きの者までが解雇されていたことは言うまでもない。

「……ベルガンサ伯爵。確か、当主はオスワルド・ベルガンサ、と言いましたね。陛下の御即位前に召集された元老院大議会では、どっちつかずの日和見の中立勢力だったはずです。もう、そういう家にも敵の手は伸びているということですね」

 サヴォナローラが苦々しい顔と声でそう言うと、意外なことに、モンドラゴンが口を挟んできた。

「……そう言えば、妻のシンティアと、ベルガンサ伯爵夫人アビガイル様とは年齢も近くて、親交があったはずです。モンドラゴン子爵家も、ベルガンサ伯爵家も、家柄としてはかなり古い家ですが、同じようにまだ後継の子に恵まれておりません。そんなこともあって、話が合うところがあったのかもしれません……」

 そう言うウリセス・モンドラゴンの顔は今や、蒼白を通り越した土気色で、まるで死人のようだ。カイエンならいつもこんな顔色だから、誰も心配なぞしない。だが、モンドラゴンは親衛隊長で今やこの国の皇帝の愛人だ。カイエンも他の皆も、モンドラゴン個人への心配はしなかったが、彼に今の職責をこれ以降も全うしてもらわねば困るので、そっちの方向からはやや心配な気持ちにはなった。

「シンティア夫人のところへは、誰だかは明白に出来なかったが、他家の夫人から怪しい占い師が紹介され、それにそそのかされて夫人が陛下の結婚式で騒ぎを起こす手はずだったと聞いている。その情報はモンドラゴン子爵家に大公軍団うちから貼り付けていた者から話が伝わり、シンティア夫人には替え玉を立て、結婚式には出られないように計らった。……それにしても、ベルガンサ伯爵家という新しい名前が出て来たからには、すぐにも調査を入れる必要があるな。うちの帝都防衛部隊からも監視を付けよう」

 カイエンがそう言うと、モンドラゴンはがっくりと首を折ってしまった。

「しっかりしろ、モンドラゴン! お前には陛下の周辺を今以上にしっかりと守ってもらう必要があるのだから。それに、陛下と……その、オルキデア離宮の会で、親しい親交があった貴族の名前も今、ここで聞いておこう。ベルガンサ伯爵はその中に入っているのか? 親衛隊員の方は、お前の方でも調査を入れたようだが、私の方からも宰相の方からも隊員の背後関係を洗っている。今のところは問題ある隊員は排除されている。だが、今ここで新たにベルガンサ伯爵家関係の者も排除する必要が出てきた。他にも同じようなことをしようとする貴族が出て来るだろう。いたちごっこだが、首謀者が誰か分かり、どこの家が賛同しているのかだけでも把握できれば、こちらの周囲から彼らの目と耳を排除できる」

 カイエンは一度、言葉を切って考え、一言付け足した。

「汚い手だが、ベルガンサ伯爵と、あと何家かを反オドザヤ皇帝陛下と確定できれば、彼らを排除することで、他の弱腰な上位貴族どもは、反逆者「遊び」なんざ放り投げて、今の地位を守る方へ自然に動いていくだろう。モリーナ侯爵とカスティージョ伯爵が反逆罪寸前の「所業」で、自領に逼塞させられたのは周知の事実だ。モリーナ、カスティージョ陣営と、今、どこまでベルガンサが繋がってるのかは分からないが、この勢力を組織化させてはいけない」

 カイエンは言いながら、モンドラゴンとサヴォナローラを自分が座っている安楽椅子の方へ手招いた。オドザヤがオルキデア離宮で関係した上位貴族の当主たちの名前を聞くためだ。

 ベルガンサ伯爵家の紹介の侍従は、ナシオに命じて、一旦、部屋の外の控えの場所に引っ張って行かせた。

 そこで聞かされた名前は、カイエンが漠然と思っていたよりは少なかったが、それでも油断ならない名前がいくつか含まれていた。幸いなことに、オスワルド・ベルガンサ伯爵は、オルキデア離宮の催しには招かれたが、オドザヤと二人きりになったことはなかったらしい。もしも、ベルガンサ伯爵がオドザヤと深い関係になった貴族達のリストに入っていたら、オドザヤの秘密、去年の密やかな出産のことも、もう疑い始めている可能性が高くなる。

 カイエン達はアベルの件では、決して相手に付け込まれるような「証拠」は残していない。だが、産婆のドミニカ・ホランなど、アベルの出生を知るものは確実に街の中に存在するのだ。

 カイエンは専門家として、ドミニカ・ホランの腕と、彼女が今までに、たくさんの女性達の秘密の出産に関わって来たこと、秘密を墓場まで持って行くだろう頑固さ、頼もしさから、彼女自身を疑うことはしなかった。

 それでも、彼女の周囲の安全と、敵方に目をつけられることを恐れ、ドミニカ・ホランの助産院には、帝都防衛部隊の隠密部隊の特別な警護を付けていた。

 それは、女性隊員に警護を任せることだった。

 警護のついでという訳でも無いが、緊急時にお産の手伝い、または産婆が駆けつけるまでの処置が出来るように、見習いをさせるというのが建前となって、特別な警護対象であることを誤魔化せるからだ。

 こうなって来れば、ドミニカ・ホランの警備の増強も必要になってくるかもしれない。だが、表立って警備するわけにもいかない。

 カイエンはとりあえず、ベルガンサ伯爵の入れた侍従が覗き見をしていたことは、伯母のミルドラの方へ直に知らせに行くことに決めた。先ほど聞いた、オドザヤと関係があった貴族の名前もだ。こればっかりは書状には出来ない。

 そして、ミルドラなら、オドザヤと関係した貴族達の「弱み」でもなんでも、その奥方達から引っ張り出して来られるだろう。無いなら、こっちから工作をかけるまでだ。

 サヴォナローラの方は、名前の上がった貴族の家の後ろだてでこの皇宮に仕えている侍従や女官のリスト作りから始め、出来ればこちら側に引き入れ、逆にこちらの間諜として使いたいという考えだ。際どい方法だが、上手くいけば敵方のかなりの名前がつかめるだろう。

「大公殿下。今日のこれは今や氷山の一角に過ぎないでしょう。……こうなっては、領地に逼塞させたとはいえ、モリーナ侯爵、カスティージョ伯爵と意向を同じくする貴族はベルガンサ伯爵家以外にもいるはず。それをあぶり出し、大人しくさせた上で、その上でこちら側に付いてくれる貴族を……しかと確定せねばなりません」 

 サヴォナローラはこのハウヤ帝国の宰相といえども、貴族ではなく神官だ。彼の知己から貴族の反オドザヤ勢力を特定することは難しい。それだけに、彼には焦りがあるのだろう。もっとも、アストロナータ神殿の大神官であるロドリゴ・エデンは、星教皇であることが明らかになったカイエンに臣従しているが。

 貴族階級で熱心なアストロナータ教徒、海神オセアノの代表的な信者の方は、彼ら神官たちによって、ほぼカイエン側に取り込みが終了していた。

 カイエンは、ナシオが先ほどの侍従を部屋へ戻すのを待って話を進めた。

「そうだな。……まあ、とりあえず、この侍従は大公軍団うちで尋問していいか? 皇宮にも親衛隊にも尋問の仕事が出来る者がいるだろうが、こういうことに関しては、うちにその道の『専門家』がいるからな。あいつに任せれば、今日中にもこの侍従の知っていることは全部吐かせられるだろう」

 カイエンが言外に言った「専門家」には、その場の皆に心当たりがあった。

「あー、かわいそう。イリヤさん、去年の新年にお腹刺されて死にかかってから、留置場に顔出すだけで、どんな凶悪犯罪者もあることないこと全部吐く、って有名ですもんねぇ」

 事実だけを淡々と呟いたのはシーヴ。

「確かに。きれいに微笑んでいる顔が最高に恐ろしい人ですからね。地獄の黒天使とはああいう者なのでしょう。どの神様がお造りになった顔かは存じませんが、あんなものをこの世に送り出した神様は罪なことをなさったものです。……あの御仁の前では、今度のことだけでなく、背後のお家の秘密などまで吐いてしまうでしょうからね。外側とは反対に、中身は苛烈というか、大公殿下には申し訳ございませんが、邪悪極まる地獄の悪魔の一人か、その一歩手前とも言うしかない御仁ですからね」

 サヴォナローラがイリヤを評してこんなことを言えば、弟のガラまでも普段は重い口で、曲者侍従の首根っこを、猫でもぶら下げるように引っ張り上げて付け足すではないか。

「その悪魔だか黒天使を、地獄の一歩手前で抑えているのが、ここの大公殿下だ。……おい、お前の尋問になぞ、ここの大公殿下は立ち合わん。皇帝陛下のご婚礼以降、ご多忙だからな。だから、お前にできることは、大公軍団軍団長の前で聞かれたことには全部、答えることだ。雇い主の家庭のことも、知ってることはさっさと吐いて、自分の安楽を得ることだぞ」

 ベルガンサ伯爵家を背後に持つという侍従はここまで聞いて、自分がどこの誰に尋問されるのか、理解してしまったらしい。大公軍団軍団長、「恐怖の伊達男」の美貌とその恐ろしさは、このハーマポスタール中に知れ渡っている。

「んんーッ! むぐぅ! ウゥううううう〜」

 彼はもがきにもがいて、「今、今、ここで話します!」とでも言いたそうだったが、もう、その時には彼のことから皆の関心は他の方へ行ってしまっていた。

「モデスト、他の、ベルガンサ伯爵家由縁の侍従や女官の氏名がすぐにわかるか?」

 カイエンが聞けば、モデストは即座に自信ありげにうなずいた。

「それは話が早い。まずはこの不審な侍従と背後が同じだということで、彼らすべてを拘束しましょう。大公殿下、そちらの者共の尋問も大公軍団でお願い致します。そういうことは私には出来ませんし、ここの親衛隊の尋問も、地下の首斬り役人の拷問も、あの御仁の率いる大公軍団のそれにはかなわない。早ければ早いほど、次の手が手早く打てるのですから」

 サヴォナローラがそう言った時には、もう、カイエンはシーヴとガラ、それにナシオに引っ立てられた侍従を従えて、立ち上がっていた。

「モンドラゴン、この部屋の『裏口』はどこだ? 私たちはそっちから出させてもらう。お前は親衛隊隊員でベルガンサ伯爵家に関係ある者を探して秘密裏に拘束しろ。こっちでも同じことを試みるが、ベルガンサ伯爵家以外の名前が出てきたら、すぐにここの宰相と、私の方へ知らせるように」

 この頃にはもう、モンドラゴンも普段の冷静沈着な親衛隊隊長に戻っていた。

「……承知致しました。すぐに取り掛かります」

 言いながら、モンドラゴンは自分の執務机の後ろ、皇宮の内部構造図の貼られた壁の脇にある、重々しい色合いのカーテンの方を指し示した。

「裏口はあちらです。もう、とっくにそちらの宰相閣下の弟殿はご存知でしょうが」

 皮肉を口にする余裕も出てきたらしい。もちろん、サヴォナローラだけでなく、弟のガラもまた、大公宮同様にこの皇宮の構造も、隠し通路もすべて知り尽くしていた。

 そうして、カイエンは短銃を制服の長い上着のベルトの下に巻いた、特別な革のベルトに取り付けた革製のホルスターにしまい込むと、シーヴとガラ、それに捕まえた侍従を軽々と肩に載せたナシオを引き連れて、モンドラゴンの執務室の裏口から出て行ったのだった。







「なんと! ベルガンサ伯爵までも!?」

 集まった高貴な身分の男女の中で、一人だけの男性が声をあげた。

 それは、ベルガンサ伯爵家の紹介で皇宮へ上がっていた、一人の侍従が大公と親衛隊長の会談を盗み聞きしていたところを捕縛されてから数日後のことだった。

 つまりは、カイエンがトリスタンを囲んだ皇宮でのお茶会の翌日、モンドラゴンの執務室を覗いていた侍従を捕まえて行ってから数日後のことだ。そこに集まった彼らの話題はまさにそのことであった。

 それはもうかなり暑さの増した八月の夕方。

 この日から、約二ヶ月ぶりに非常事態宣言が解かれ、夜間のコロニア間の外出禁止令は残っていたものの、人々はほっと胸を撫で下ろしたところだった。

 帝都ハーマポスタールの山の手。皇宮のある丘の方に近い場所にある、近くの上位貴族の屋敷と比べても、一際目立つ、重厚で広大な屋敷。周囲を囲む庭も広く、屋敷の中の様子は鬱蒼と茂った森のような木々に阻まれて塀の外からは窺い知れない。

 まさしくそれは上位貴族の中でも最高位の三大公爵家に次ぐ家格の「侯爵家」にふさわしい威容だった。

 ハウヤ帝国の「侯爵家」は、元は代々の皇帝のもと、「大公」になった皇帝の弟か妹の子供が、大公家が「世襲」ではないが故に、爵位を与えられて出来た家が多い。

 この屋敷、カレスティア侯爵家もそうした祖先を持つ貴族であった。

 ちなみに同じ「侯爵」でも、モリーナ侯爵家はハウヤ帝国の始祖、シイナドラド皇子だったサルヴァドール大帝が、ラ・カイザ王国を滅ぼし、この地に国を建てた時に味方についた土豪が始祖だ。

 フィデル・モリーナは、元はフランコ公爵家の庶子で、現当主のテオドロ・フランコ公爵の庶兄だ。先代のフランコ公爵が、彼をモリーナ侯爵家の養子に出したのは、モリーナ侯爵家がそう言う歴史の長い貴族であることがあったのだろう。それは、領地が北方にあるために領地経営が苦しく、しかし由緒正しい三大公爵家であるフランコ公爵家を、脇から支えてくれるだろうと期待してのことだったらしい。

 だが、フィデル・モリーナは、嫡子で公爵家を継いだ弟、テオドロとは不仲だった。

 フランコ公爵家が「北の貧乏公爵」と影で言われるほど、農業の実入りが少なく、ぎりぎりの領地経営をしている間でさえそうだったのだ。

 今、フランコ公爵家は北の元自治領スキュラを領地に組み入れ、豊富な泥炭や石炭を手に入れた。モリーナ侯爵家の所領に「逼塞中」のモリーナ侯爵には非常に面白くない話なのに違いなかった。


 話を元に戻そう。

 カレスティア侯爵家の広い屋敷の二階。

 一階にある公式な応接間ではなく、当主であるカレスティア侯爵個人の居間のテーブルを囲んでソファに座っている人々は、このハーマポスタールでも有数の「高位貴族」の人々だった。

「ええ。驚きましたわね、お兄様」

 そう言ったのは、このカレスティア侯爵家から、フランコ公爵家へ嫁いだデボラだ。今、カレスティア侯爵アンブロシオの左右に座っているのは、その夫人と妹である。

 夫人はスサーナと言い、もう三十代も半ばだが、幾人もの子供がいるようには見えない、若々しさを保った貴婦人だ。だが、出身は意外にも準男爵家という貴族階級では最下層の家で、カレスティア侯爵とは身分差を超え、政略ではなく恋愛結婚をした、と結婚当時は「世紀の玉の輿」として噂になった女性だ。

 確かにそれはもっともなことで、侯爵家の子弟が、準男爵家の娘などと「出会う」ことなどほとんどあり得ないのだ。準男爵家の娘とは言っても、モンドラゴンの実家のように貧窮していない豊かな家では、娘一人で外に出すことなどほとんどない。

 その点では、庶民の娘の方が、「侯爵様」と会う機会は多かったかもしれない。その昔、下町の病院を「慰問」したアルウィンがアイーシャと出会ったように。

 アンブロシオとスサーナの「出会い」は、なんとアストロナータ神殿だったのだという。今も昔も、夫婦二人ともにかなり熱心なアストロナータ信教の信者なのである。

 確かに、大人しく柔らかな色調で整えられた、この居間の中央には、アストロナータ神の絵が掲げられ、暖炉の上には大理石の神像が置かれていた。カイエンやミルドラがこのカレスティア侯爵夫妻を信用しているのは、フランコ公爵夫人デボラの実家の兄夫婦であることもあったが、二人が熱心なアストロナータ教の信者である、という事実もあった。言うまでもなく、現在のアストロナータ教の最高位、星教皇はカイエンなのだから。

 スサーナは髪も目の色も漆黒で、肌の白さが際立って目立つ。顔立ちはやや南方系を思わせるきっぱりした目鼻立ちだ。

 その横に並んだ、アンブロシオ・カレスティアと、妹のデボラ・フランコ公爵夫人は、それとは正反対の印象を見る相手に与える。

 二人ともに、薄い茶色の髪に、若草色の目をしており、その顔立ちにも尖ったところがなく、柔和でほんわりと見え、妹のデボラの方はややぽっちゃりとして見えるほどだ。

 だが、デボラはともかく兄のアンブロシオの方は、家柄が古くて由緒正しいだけでなく、三大公爵家の一つであるフランコ公爵家に妹を嫁がせる前から、見かけによらぬ切れ者と影では噂されていた。

 アンブロシオ個人に言わせれば、それは「大失敗」であったのだが。

 彼自身は、見かけの温和な様子に中身も一致していると余人には思わせておきたかったのだ。

「これは……桔梗星団派……あのアルウィン様の手の者たち、もうかなり上位貴族を取り込んでいると見るべきですね。今、お聞きした、その、皇帝陛下とオルキデア離宮で……との方々のお名前も、これは敵方に漏れないようにしないと……」

 そう言いながら、アンブロシオが見やった先。彼の真向かいに座っているのは、アストロナータ神像のように整った、表情がないと、まさしく彫像のように冷たい美貌の持ち主だ。彼女は彼が今、口にした名前、今やこの国の大逆罪人で、皇統譜から名前も削られた先代大公アルウィンの姉に当たる。

「ええ、そうですとも。私は不肖の弟アルウィンのせいで、サウル兄上亡き後、あれが確実に死ぬまで、これから先もずっと耄碌することも、うっかり死ぬことも出来ませんわ。ですから、こちらのデボラ様、サンドラ様と共に、上位貴族のご夫人方の集まりには積極的に参加して、探りを入れておりますのですけれど……。皇帝陛下と『ご親密なご関係』があった方々、まあ、数人でよかったわ……の方は早々に確実にこちらに取り込む工作をせねば、と言うのが、宰相とカイエンの考えです」

 アンブロシオ・カレスティア侯爵の前に座っていたのは、ミルドラ・クリストラ公爵夫人。元は先帝サウルの妹の皇女は、隣に座る、やや年長の前バンデラス公爵夫人サンドラの方をそっと見た。

 サンドラは今度、オドザヤの皇配となったトリスタンの、公式には叔母に当たる。元は女王チューラの皇配ユリウスの妹だ。それが、父がハウヤ帝国へザイオンの外交官として赴任している間に、先代バンデラス公爵とこのハーマポスタールで恋に落ち、結婚。 

 この「恋愛結婚」にも、カレスティア侯爵夫妻同様、間違いはなかったようで、先代バンデラス公爵には、彼女以外、側女も愛人もいなかったという。厳密にそれが本当かどうかは分からないが、現バンデラス公爵ナポレオンの弟や姉妹は、すべてがサンドラの産んだ子である。

 サンドラは結婚以降、ずっとハウヤ帝国南方のバンデラス公爵領で暮らして来た。

 若くして故郷を離れた彼女は、遠いザイオンの実家よりも、もうバンデラス公爵家への帰属意識が強いらしい。船に乗り、海に出ることも多いバンデラス公爵の妻として、大家を政治的にも、経済的にも切り盛りしてきた女傑と言えた。

 今は彼女も、ミルドラやデボラ同様、領地を守る三大公爵がこの帝都ハーマポスタールに残した「人質」である。サンドラの場合、孫息子、バンデラス公爵ナポレオンの長子であるフランセスクを伴ってハーマポスタールへ上がってきて、もう二年もここに留まっている。

 そのバンデラス公爵領には、このハウヤ帝国の四大アルマの一つ、コンドルアルマが、新将軍のアマディオ・ビダルに率いられて駐屯していた。アマディオ・ビダルは「からくり人形アウトマタ」とあだ名される変人だが、ずっと前将軍のカスティージョ伯爵の下で副官を勤めていた男だ。

 彼は将軍の任に就くと、すぐにカスティージョの郎党上がりの軍人を排除し、バンデラス公爵に図って、モンテネグロの闇の顔役達に押し付けてしまったという。

 カイエンたちはナポレオン・バンデラス公爵本人はもう疑ってなどいなかった。だが、モンテネグロはラ・ウニオンの内海の海賊上がりの作り上げた、ラ・ウニオン共和国に対する最前線だ。バンデラス公爵が軍事的、政治的に苦しい立場に立たされることも考えに入れ、コンドルアルマを駐屯させたのだ。

 サンドラは息子の立場も、この国の現在の状況もよく飲み込んでいたから、二年前にここへ来てからはもっぱらミルドラと行動を共にすることが多かった。ミルドラは皇帝のオドザヤの伯母にあたる。つまり、サンドラは「バンデラス公爵家は、皇帝陛下や大公殿下の側である」と身を以て示して来たことになる。

「あら。私はほとんど役に立っておりませんのよ。結婚してからずっと、モンテネグロのバンデラス公爵領で暮らして来ましたから、なかなか、このハーマポスタールで社交を広げることも出来なくて。いつもミルドラ様、デボラ様にくっついて、なんとかやって来たまでで……」

 北のザイオン生まれで色素の薄いサンドラだったが、顔つきは息子のナポレオンと同様に、直線的で厳しいとも言っていい顔立ちだ。そんな顔立ちでこのような殊勝な言葉を重ねてると、かえって凄みが感じられる。

「あらあら、ご謙遜を。この二年でもうすっかり、ハーマポスタールの社交界に溶け込んでいらっしゃいますわよ」

 ミルドラもそんなことは承知だから、言い方もさばさばしたものだ。サンドラとは現公爵夫人と先公爵夫人の違いはあっても、同じような地位になるので、あちこちでの集まりではほとんど同席して来たのだ。

「ハーマポスタールはまさに夏の社交の季節です。非常事態宣言も解かれましたしね。私たちも、あちこちに招かれて忙しくなるでしょう」

 そこで、ミルドラは息を整えるように、一回、話を切った。

「……先日、カイエンから来た使いによれば、カイエンと親衛隊長のモンドラゴン子爵との『会談』を覗き見し、聞き耳を立てていた侍従が捕縛されたとか。それがベルガンサ伯爵家の紹介で奉公に上がった侍従だったそうですわ。手っ取り早く、大公軍団のあの悪魔みたいな軍団長が自ら尋問を手がけたら、ベルガンサ伯爵家の内情やら、他の同じ穴のムジナらしき貴族の名前まで、一晩も保たずに吐いたそうです」

 大公軍団の軍団長と言えばイリヤのことで、彼が先年からカイエンの愛人の一人に収まったらしい、というのはもうこの頃にはハーマポスタールの人間、上から下までが周知のことになっていた。

 それとともに、イリヤが「大公軍団の恐怖の伊達男」として知られる「恐ろしいまでのやり手」であることも、下町の似顔絵屋で、歌劇役者の似顔絵と一緒に似顔絵が売られるほどの美貌も、上位貴族にまで知られるようになってしまっていたのだ。

 オドザヤとトリスタンの結婚披露のパレードでは、大公カイエンを自分の馬に乗せて警備に当たっていたから、元フィエロアルマの将軍だった帝都防衛部隊隊長ヴァイロンと共に、もはや「帝都の最強の用心棒」的に下々では人気になっているらしい。だが、それは一方では上位貴族には面白くないことに相違ない。イリヤもヴァイロンも、大公軍団の幹部と言っても「平民」なのだから。

 デボラとサンドラ、それにスサーナはミルドラの話を用心深く黙って聞いていたが、アンブロシオ・カレスティア侯爵は違っていた。

「そうなれば、もちろん、皇宮に上がっている、ベルガンサ伯爵の紹介の他の侍従、侍女、下女などまで、すべてお調べがあったのでしょうね?」

 そう、ミルドラに確かめるアンブロシオの顔つきは、すでに厳しいものに変わっていた。兄のこういう顔はあまり見たことがないのか、妹のデボラがびくりと身を竦ませた。妻のスサーナの方は、夫のことだからよく知っているのだろう。その女らしく、だがきっぱりとした顔には微笑みがあった。

「ええ。でも、そちらからは大公軍団で最初に取り調べた侍従の吐いたこと以外の情報はなかったようですわね。……ただ、オスワルド・ベルガンサ伯爵と、夫人のアビガイル様のご結婚には他の貴族の媒酌人はいないそうですの。それに、ベルガンサ伯爵は、それまでにいくつものご縁談があったのに、自らお断りになられていたとのこと。これは、私どもの中でも噂が色々出ておりました。そして、やっとご結婚して数年になられますが、お子様もおありではありません。でも、その理由は、覗き見で捕まった侍従が執事から漏れ聞いたとかで……要はベルガンサ伯爵には……ええと、その、男性として……問題があるんだそうですわ」

 ミルドラが言いにくいことを言い切って見せると、遠慮がちにだったが、デボラも口を挟んだ。

 本当なら、デボラはフランコ公爵夫人でありながら、いまだに子に恵まれない自分を思い起こしたかもしれない。だが、彼女はそういう自分の「事情」には頓着しなかった。

「夫人のアビガイル様のご実家、アルタミラーノ子爵家もあまりいい噂を聞きませんでしたわね。アビガイル様が伯爵家へ嫁がれてしばらくして、ご当主のアルタミラーノ子爵はお亡くなりになりました。アビガイル様の他には、後を継ぐ男子も養子も、女子さえもいなかったことから、アルタミラーノ子爵家は取り潰しになりましたわ。まあ、それまでにもうほとんど、ご領地の土地の権利も売り尽くし、このハーマポスタールのお屋敷を維持するのも難しくなっていると聞いておりましたけれど。それが、アビガイル様がベルガンサに嫁がれてからは、ご領地の方は無理でも、こちらのお屋敷は修理も入って最低限の子爵家としての格好はつけられるようになっていたのに。……お気の毒に、アビガイル様のお母上はご実家の居候になっているとも聞いております」

「なるほど、珍しいことではないが、嫁入りを条件に、ベルガンサ伯爵が支援していたと見るのが普通でしょう。と、なれば夫人のアビガイル様はベルガンサ伯爵の『ご事情』を知った上で嫁がれたと言うことになります。ん? なんだかおかしいですね。若くて、それも普通以上のご容姿と言われていたアビガイル様は一人子だった。となれば、婿を探すのが普通でしょうに」

 アンブロシオが話しながら、眉を潜めた時だった。居間の扉をほとほとと叩く音が聞こえて来たのは。

「なんだ?」

 アンブロシオは扉越しに、少し大きな声で尋ねる。その声音には、もう召使いの用件が分かっている響きがあった。 

「お客様がお着きでございます」

 用心深く、客の名を出さずに静かに入って来た、この屋敷の執事の後ろに見えたのは、ザラ子爵ヴィクトルの顔だった。

「遅くなりまして申し訳ございません、侯爵閣下。弟の方から色々、聞き取って来ました上に、今度、我が家から一人、使用人を大公宮へ送り込む手はずであったのが、今日にあたりまして」

 カイエンのシイナドラド行きの先導役もした、ヴィクトル・ザラ子爵は、言うまでもなくこの国の大将軍、エミリオ・ザラの兄に当たる。もう、五十の坂はとうに越えているだろう。だが、弟のエミリオよりも彼は若く見えた。

「おお、そうでしたか。ザラ子爵家は『影使い』養成で定評がありますからな。今でも皇宮や大公宮の影使いはザラ子爵家出身のものが多いと聞きます。だからこそ、皇帝家の信任も厚いのですから。その上に、今や、このハウヤ帝国の大将軍を輩出した、武門の家でもあります。と、なりますと、子爵殿、今日も我々の知らぬ情報をお持ちのようですな」

 ザラ子爵は、先にミルドラとサンドラの方へ会釈し、アンブロシオと妻のスサーナ、それに妹のデボラの座った方へも会釈すると、一つだけ空いていた、窓を背にした一人がけのソファに座り込んだ。

「ベルガンサ伯爵のことは聞きました。そうなりますと、もう、夫人のアビガイル様のご実家、アルタミラーノ子爵家の話も出ておりますでしょうか」

 ヴィクトルがそう聞くと、待ってましたとばかり、アンブロシオは笑顔になった。

「素晴らしい! さすがはヴィクトル殿だ。ちょうどいい所でちょうどいいお話を持って来てくださったようですね」

「そうですか。アンブロシオ様のご期待に添えるかどうかは分かりませんが、これは、今日から大公宮へ送り込んだ影使いが、最後に当家にもたらしてくれた情報でして……」

「まあ、それなら、ちょっとカイエンから聞いたわ。女の影使いを、それもザラ大将軍ご秘蔵の者を、大公宮へ貸していただけるそうですのね。その者が調べて来てくれたのでしょうか」

 ミルドラがそう言うと、ヴィクトルは静かにうなずいた。

「はい、ミルドラ様。……我が家の影使いの中でも随一の『組』でございました、東西南北、それに中央の五人組の一人です。東西はシイナドラドで殉職いたしましたが、南北は大公宮へ送り込んでおりました。その残った一人でございます」

 そこでもう一度、執事が入って来て、ヴィクトルの前に茶菓を置いて出ていくのを待って、ヴィクトルは再度、口を開いた。

「話がアビガイル伯爵夫人のことに至っていたと言うことは、オスワルド・ベルガンサ伯爵の『秘密』も、もうお話に出たのでしょうね。今は後継がおらずに取り潰しになりましたが、アビガイル様のご実家のアルタミラーノ子爵家が没落を免れていた理由も」

 皆がうなずくのを見て、ヴィクトルは話を進めていく。

「アビガイル様は、なかなかの美貌で、アルタミラーノ子爵家が普通の状態でしたら、縁談は引く手数多だったはずです。でも、それは『婿取り』であるはずでした。彼女は一人子だったのですから。なのに、彼女は実家に後継がいないにも関わらず、ベルガンサ伯爵家に嫁ぎました。貴族の媒酌人も立てずに。……これには、彼女の側、アルタミラーノ子爵家の事情もあったというのです」

「すっかり没落して、手元不如意となっていたということの他に?」

 アンブロシオが聞くと、ヴィクトルは深くうなずいた。

「はい。アルタミラーノ家はなくなり、使用人も散り散りになりましたが、その中の幾人かから事情が聞き取れたそうです。……これが、なかなかに悲惨な話でしてね」

「あら、それは女の社交場でも出てこなかったお話ですわね。……ああ、それだけの秘密だったということですか」

 ミルドラがそう言うと、サンドラもデボラもなんとなく、話が生臭い方向へ行くのであろうと想像が出来た。

「はい、ミルドラ様。……そもそも、アビガイル様は他家で生まれてすぐ、アルタミラーノ子爵家に養女として引き取られたのだそうです。そして、驚かないでくださいませ。その生まれた家というのが、あの、ウェント伯爵家だというのです」

「ええっ」

 これには、女たちだけではなく、アンブロシオも驚きの声をあげた。ここまでの情報は、皇宮の覗き見で捕まった侍従は知らなかったのだろう。これは、間違いなく新しい情報だった。

 ウェント伯爵家。

 それは、五年前に皇后アイーシャに取り入り、間違った情報を信じこませ、当時のフィエロアルマ将軍のヴァイロンを罷免させ、そのまま大公カイエンの男妾に落とす、という前代未聞の事件に関わった当事者二人の一方の名前だ。

 あの事件で、ウェント伯爵アナクレトは、スライゴ侯爵アルトゥールとともに、先帝サウルから死を賜ったのだ。もちろん、二つの家はサウルによって取り潰された。今、その領地は皇帝直轄領になっている。

「ヴィクトル殿、待ってくれ。確か、あの時処断されたスライゴ侯爵の夫人、ええと確か、名前はニエベス殿と言ったか、は、ウェント伯爵の妹だったな?」

 ヴィクトル・ザラは落ち着いた、静かな声で答えた。

「はい、そうでございます。それだけではございません。スライゴ侯爵家へ嫁がれたニエベス様と、ベルガンサ伯爵夫人のアビガイル様は同じお歳だと言うのです。そして、ウェント伯爵家では、双子は忌み子として、片一方は養子に出されるのが常だったのだそうです」

 そこまで聞くと、アンブロシオの居間に集まった皆が息を呑み、その場は静寂に包まれた。誰もがもう、同じ結論に達していた。

「……先年噂になった、ザイオンから来たという奇術団コンチャイテラに居たという、白髪の女奇術師、スネーフリンガが、実はスライゴ侯爵の子を身籠もったまま、軟禁先から消えたというニエベス殿だと大公殿下と大公軍団では確信していた、と聞いている。しかし、スライゴ侯爵家もウェント伯爵家も、使用人まで散り散りになり、裏は取れずじまい。それでも、ニエベスの声を知る大公殿下は間違いないとおっしゃったと」

「その、ニエベスとアビガイルが同じ年となれば、二人は双子だったというわけね」

 アンブロシオとミルドラの声は、囁くように小さかったが、その場の皆の耳にはしっかりと聞こえた。

「アビガイル夫人は、ウェント伯爵の妹だったということか。ん、ヴィクトル殿、それだけではないようだな」

 この言葉を聞くと、ザラ子爵ヴィクトルは、痛ましいものを前にしたような顔つきになった。

「ええ。……アルタミラーノ家に仕えていた者によれば、アビガイル様は、その、十になるやならずの頃から……公的には実の娘として届けられていたにも関わらず、アルタミラーノ子爵のおもちゃにされていたようだ、ということです」

「なるほどねえ。それじゃあ、婿養子が必要でも、何かと難しかったのでしょうね。私もおんなじような感じだったけど、そんなこと気にしないって言って、ヘクトルがもらってくれたのは、幸運だったってことね」

 ミルドラがこう言うと、さすがにその場の空気が凍りついた。皆がミルドラの結婚前にあったことは知っていたからだ。

 ミルドラと兄のサウルとの醜聞が流されたのは、サウルの死からまもない頃のことだった。

 しかし、クリストラ公爵もミルドラも悪びれずにどんと構えていて、人々の付け入る隙はなかった。

 だが、今度の、このベルガンサ伯爵夫人アビガイルの方は、「昔の醜聞」だけで済む話ではなかった。

「元スライゴ侯爵夫人のニエベス様から、双子の妹のアビガイル伯爵夫人を通じて、ベルガンサ伯爵にはもう、桔梗星団派の手が届いているということですわね」

 スサーナが、初めて言葉らしい言葉を挟むまでもなく、皆がもう理解していた。

「……ヴィクトル殿、大公殿下にはもうこのことは?」

 ヴィクトルはしっかりとうなずいた。

「はい。うちの最後の精鋭で、この事実を引き出して来た影使いを、今日から大公宮へ送り込みましたから、直接、話はお聞きになれるでしょう」

「カイエン達は、まだベルガンサ伯爵は泳がせておくつもりでしょう。芋ずる式に他の怪しい上位貴族も引っ張らなくてはなりませんもの」

 ミルドラが言うまでもなく、カイエンは同じ頃に同じ事実を聞かされていた。

「非常事態宣言が解かれた今、きっと大半の貴族達は能天気に夏の社交を始めるでしょう。私たちに出来ることは、そこでの情報蒐集ですね」

 そう言うアンブロシオに、他の五人は表情を引き締めるのであった。






「ああ、お前がセレステ、か」

 同じ頃、大公宮の奥の書斎にいたカイエンの元へ、ザラ子爵家から、一人の女が新しいここの奉公人として挨拶に来ていた。

「はい。中央セントロのセレステ、と申します。これより、我が身をこの大公宮、いいえ、大公殿下にゆだねるよう、命じられて参りました」

 カイエンは執事のアキノこそ、一応はそばに侍らせてはいたが、書斎のソファに座って、くつろいだ雰囲気でこの「影使いの女」を出迎えた。

 だが、ザラ子爵家から派遣されて来た、この影使いの女の声は固かった。

 この女、セレステが実はザラ大将軍エミリオの長年の愛人である、ということを知っていたカイエンは、そっとアキノと目配せした。男の目のない方が話しやすいだろうと思ったのだ。

「失礼いたします」

 だが、アキノがそう言って書斎から出て行っても、セレステの無表情な顔は変わらなかった。

 カイエンはナシオやシモンから、このセレステは男に化ければ彼らにそっくりに見え、女として化ければカイエンの侍女にもなりおおせる、と聞いていた。

 この時、セレステは後者の扮装でカイエンの前に現れた。

 確かに、髪の色やら榛色の目などは、ナシオ達にそっくりだ。だが、女の、それも貴族の家の侍女のようなドレスをまとい、きれいに化粧した顔は年齢不詳の美しさで、オドザヤという絶世の美女を妹に持つカイエンさえも圧倒するようだ。

 ナシオやシモンの「仲間」で、あのエミリオ・ザラと「長い」とあれば、もうとっくに三十にはなっているのだろう。

 だが、化粧で作り変えられた顔は、カイエンと同じくらいの年齢にさえ見えるのだった。

「すごいな」

 カイエンが正直な感想を口にすると、セレステの無表情にやっと、なにがしかの感情が通り過ぎた。だが、それだけだ。

 自分からそれ以上、話を続けるつもりは毛頭ないらしく、セレステは俯き加減に、カイエンの前でソファに座ることもなく立ち尽くしている。確かに、背の高さもナシオ達と同じくらいありそうだった。

「まあ、まずはそこに座らないか? その様子だと、ザラ大将軍の元を離れるのは、不本意だったようだな?」

 カイエンがそこまで言った瞬間だった。

 カイエンに見えたのは、その場の空気をぶわっと巻き込んで動いた、セレステのドレスの裾。

 そして、次の瞬間には、ソファに座ったままのカイエンの目の前にセレステの顔があり、カイエンの首に何か冷たいものが押し当てられていた。

「……そこまで知っていて、私を引っ張り込んだのか。大公であるあなたを守る者など、私を選ばずとも幾人でもいるだろう。……形ばかりの異国人の夫でも、最強の獣人の男妾でも、やり手で顔のいい曲者の愛人でも! 護衛の騎士だっているはずだ!」

 カイエンは悟った。

 この女は確実に怒りに燃えている。だが、その怒りをザラ子爵家の誰にも、長くそばにいたエミリオ・ザラにさえも言えずにここへ来たのだと。

「あのな……」

 カイエンがそう言いかけた時だった。

 いつの間に、どうやってそこに現れたのか、カイエンにはまったく分からなかった。

 声に気が付いてそっちを見たら、そこにいたのだ。

「……セレステ! その刃物をのけろ。今すぐそうしないなら、俺がお前を殺す」

 目の色を確かめるまでもなく、そこに降ってわいたのは、影使いのナシオに相違なかった。

 セレステはカイエンの目の前で、きれいに化粧した顔の口元を、ぐいっと歪めて見せた。

「なんてこった! シモンが抜けて帝都防衛部隊の子持ちの女隊員と結婚した、って聞いた時も驚いたけど、ナシオ、お前もかい? ……でもこの女は、いくら元は皇女様の大公殿下でも、もう何人も男を喰って来たアバズレだよ。いくら今まで素人の女を知らなかったって言っても、お前は極端すぎるね。いい加減に目を覚まし……」

 セレステはわざとナシオを煽るために、そんな台詞を選んだに違いない。カイエンにあまりいい印象を持っていなかったこともあったのかもしれない。

 だが、その言葉へのナシオの反応は、セレステの予想しないものだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る