榛色とエテロクロミア


 ヴァイロンの誕生日と、ロシーオとシモンの結婚のお披露目が行われた夜。

 とうに夜半を過ぎた時刻。

 ハーマポスタール市内はまだ非常事態宣言下にあり、夜間外出禁止令が出ていたので、もうその時刻ともなるとコロニア間の移動は出来なくなっていた。

 これは基本的に皇宮や大公宮に近い、ハーマポスタール市内の高台にある貴族たちの住むコロニアでも同じことで、そのため、この夜は大公宮内に自分の住居や部屋のない、ザラ大将軍をはじめとする客人たちは大公宮内の客殿に案内されて行った。

 リリはサグラチカに連れられてもっと早くに自分の部屋に下がっていたし、同じようにロシーオの息子のティグレも、母のロシーオと新しく父親になるシモンに抱かれて、シモンがこの大公宮で使っていた部屋に下がっていた。この二人と息子一人は、ロシーオの実家のそばの「マリーナおばさんのププセリア」で挙式と披露宴を行ったのちは、ロシーオの実家に入ることになっている。

 もともと事情があって、母親一人でティグレを産んだロシーオは実家の母親にティグレを預けて実家から帝都防衛部隊に通っていたし、ロシーオの母はそこで煙草屋を営んでいたのだが、それもロシーオが帝都防衛部隊に入ってからは、それで生活を立てる必要も無くなったので、気楽にやっていたところだった。

 店は通りに面した格子のついた窓辺で細々と営んでいたもので、その奥の家自体は早くに亡くなったロシーオの父親の持ち家だった。父親の生きていた頃は雑貨屋だったから、家の間口もそれなりにあり、奥には猫の額ほどではあったが中庭もあり、雑貨屋だったところをロシーオ夫婦の部屋に作り変えれば、三世代同居にも問題はなかった。

 そこはあの、アルフォンシーナやシリル、それにシリルが引き取ったアベルなどの住む、アパルタメント・サントスにもほど近い。ということは、コロニア・ビスタ・エルモサの治安維持部隊署にも近いということで、何か厄介ごとが起こっても安心なところだったので、シモンは妻の実家に入ることになったのだ。

 シモンとロシーオが出て行ったのが最後で、後にはまだ呑み足りないか、喋り足りない連中が残った。

 その日は、よく晴れて星空も見事だったので、カイエンをはじめ、ヴァイロンやイリヤ、シーヴにリカルド、ルビーなどの若い者たちや、フィエロアルマの将軍ジェネロなどは食堂に残っていたのだ。

 その面子は、オドザヤの婚礼以降の騒ぎで働き詰めの面々だったが、一方で、「気の置けない関係」の面々でもあった。

 リカルドとルビーは若輩者だし、カイエン達とは身分上もそう親しい間柄でもないが、シーヴが残っていたことが大きかったのかもしれない。それに、年齢的には彼らが一番、カイエンに近いのだ。

 ガラは教授とともに、後宮の部屋に下がり、同じく鉄砲を使った用兵について、宴の間中質問ぜめにあっていた、エルネストとヘルマンの主従も部屋に下がってしまっていた。

 マリオとヘススの双子も、「昼間の侵入者の尋問結果も聞きたいですし、朝からは仕事に戻らないと」と言い残して、彼らがこの大公宮で泊まる場合に使う部屋に下がって行った。

 ジェネロの副官のチコとイヴァンは空気を読んだのか、「飲み過ぎ、食べ過ぎでもう眠いですわ」などと言い訳をして、客殿へ案内されていく海軍のデメトラ号のグレコ船長や、士官のガストン達と共に下がってしまっていた。

 トリニは先ほどの中庭でのヴァイロンとの練習試合の後、大公宮の建物の方へ歩いていき、その後をなぜか、海軍下士官のアメリコが追って行ったのだが、彼ら二人はそのまま消えたきりだ。

「……大丈夫かな。トリニもこっちの奥殿の方には、それほど慣れていないだろう? アメリコなんか、庭で迷ったら……」

 カイエンは一応、ここの主人だからそう気にした。

「アメリコの方は、皇帝陛下の婚礼のパレードの後の聞き取りでここに泊まった時に、緊張しててなかなか眠れないみたいで、朝も早くに目が覚めちゃったんです。俺もそれで目が覚めちゃったんで、朝ご飯前にその辺を案内したから、大体はわかってますよ」

 そう答えたのは、アメリコが戻ってくるのが遅くなったら、もしかすると今夜も彼と同部屋になるかもしれない、シーヴだった。

「大丈夫よ。ガラちゃんとナシオはせんせー寝かしつけたら戻って来るだろうし、庭で迷ってても警備の誰かに見つかるわよぉ。それにー、トリニもアメリコ君もお年頃なんだから、野暮はなしにしましょ」

 脇からこの大公宮の中にある宿舎に住むイリヤも、同じようなことを言ってなだめたので、カイエンは確かにそれはそうだ、と思うことにした。

 トリニが普通の女子隊員だったら、いくら訓練を受けているとしても心配になっただろう。だが、さっきのヴァイロンとの模擬試合を見る限り、そんな心配はなさそうだった。アメリコだって疑ったらかわいそうではある。

 確かに大公宮の中の夜間警備員の数は、前よりも増員されていたし、まさかアメリコが彼女に襲いかかったとしても、彼ではトリニに勝てようはずもない。トリニが夜の庭園内を「警備」してくれている、と考えれば、普段より安全なくらいだろう。

 そういうわけで、食堂の、もう涼しい夜風が入るようになった窓際のソファの真ん中のテーブルには、執事のアキノによって新たに運び込まれた酒のつまみに、各種の酒類の瓶が立ち並んでいたのだった。

 向かい合った、三人掛けの長椅子には、片一方にカイエンを真ん中にしてヴァイロンとイリヤ。

 向かい側の三人掛けにはジェネロを中心に、こっちは緊張した顔で、ルビーとリカルドが座っている。この席におさまるまでには、ジェネロの、

「おめえら二人は、皇帝陛下と宰相の護衛だろう? それならこの国の四方の防衛の一旦を担う俺なんぞに遠慮するこたぁねえ。そうだろ? 陛下や宰相閣下に何かあったら、この国はどうなるか分からねえんだからな」

 という言葉が必要だったが。

 シーヴはリカルドの横にソファを持って来て座っていた。そっち側は庭へと続く大窓が開いていたから、彼はソファを、風の通りを邪魔しないようにかなりリカルドの方へ寄せていた。

「ああ、戻ったのか。……先生は?」

 カイエン達がそれぞれに飲み物を取り、先ほどの宴の前菜とはまた違った、「酒のつまみ」の皿を前に飲み始めていると、すぐにマテオ・ソーサを後宮の自室へ送って行った、ガラとナシオが戻ってきた。なぜか、ガラの腕の中には、カイエンの飼い猫のミモがいる。

 ナシオの方は、今日、結婚を祝福されたシモンとは違い、未だこの大公宮の「影使い」であることに変わりなかったから、闇の中へ戻って行きたかったのだろうが、なぜかガラはシモンの首根っ子を押さえるようにして連れ戻って来たのだ。

「むにゃーん」

 するりとガラの手から抜け出したミモが、まっすぐにカイエンの膝目指して歩いて来る。ミモももう三歳くらいになるが、ほっそりとして手足の長い体型は変わらない。 

「本当のところは、こちらに残りたかったみたいだが、『四十路のおじさんが若者達の語らいに無理やり混ざるわけにも行くまいからね』と言っていた」

 ガラはカイエンの問いにそう答えると、一人がけのソファを二つ、カイエン達の向かいあう三人掛けのソファの、部屋の奥側へ引っ張ってきて、ナシオと並んで座った。窓の側ではなく、食堂の奥を背中にした形だ。

 普段なら、こんな語らいの席に引っ張ってこられることなどないナシオは、そうされる意味がまだ腑に落ちないらしく、遠慮がちに黙礼しながら座る。それでも表情はいつもの通りで茫洋としている。その、なにも考えていないかのような様子は彼にはもう身についてしまったものだ。

 そう言えば、ロシーオとの結婚を機に影使いであることをやめたシモンの方は、ぎこちないながらも宴の最中にはわずかに笑みのような表情も見て取れた。

 だが確かに、カイエンを囲んだ面々の中で、未だ影使いであるナシオがここに混ざるのは、今までだったらあり得ないことだった。

「あーら。せんせーったら嫌味ねえ。コロンボ将軍と俺っちはもう三十過ぎてるもん。『若者』でもないわよう。俺はまだ三十の方に近いけど、将軍様の方はもう四十路の方に近いんじゃないのぉ?」

 ガラと並んで座ったナシオの席は、イリヤのすぐ隣だ。しかし、イリヤはナシオのことは何も言わず、教授の言ったという「年齢」の方に、恐らくはわざと大げさに反応した。これには、ジェネロも苦笑するしかない。

「言うねえ、伊達男さんは。そうそう、俺ももう三十六だよ! さんじゅうろく! 確かにもう四十路の方に近えや。……子持ちの所帯持ちだしな。ああ、将軍様はやめてくれよ。それこそ若いもんが喋りにくくならあ。……ジェネロさん、とでも呼んでくれよ。これからはな」

 最後の、「これからはな」のところで、ジェネロがイリヤの、今夜も変わらず男には鬱陶しいだけの甘々な笑顔を意味ありげに見ると、イリヤの方もさすがに老獪でジェネロの意図はすぐに伝わったようだ。

「あらん。お名前呼びしていいのぉ? それじゃあ、俺のことも『イリヤさん』でいいわよぉ」

 ハウヤ帝国四大アルマ、フィエロアルマの将軍となれば皇帝の直臣であり、帝都の治安を預かるとは言え、大公の私兵集団の長でしかない陪臣のイリヤの方が地位は下だ。それに、今度のオドザヤとトリスタンの婚礼のパレードの警備などで連携したことがあるとは言え、個人的な付き合いなどはまったくない。

 いつもの変な口調を変えることもなく、さっさと「いいわよ」などと言ってのけた、イリヤとジェネロの間に挟まっていると言えば言えるのが、実はヴァイロンだ。

 カイエンはもちろん気がついていたが、彼はこの頃、イリヤのことは名前で呼びつけである。

 イリヤの方は前は「大将」などと読んでいたが、カイエンとのことがあって以降は、「ヴァイロンさん」だ。軍団長のイリヤの方が地位は上だし、年齢も上だからおかしな話だが、イリヤ的には、ヴァイロンは元はフィエロアルマ将軍であり、「カイエンの最初の男」であるからには一応の敬意を「格好だけでも」付けているつもりなのだろう。

 カイエンはそんなことを考えながらも、ジェネロとイリヤが形だけでも親しげに振る舞うのはいいことだ、と判断していた。今ここにいる面々にはこれからオドザヤや自分の周りの仕事を、しっかり連絡を密に取りながらやってもらう必要があったからだ。

「まあ、先生は陛下や私の警備の方には関係ないから、遠慮してくれたんだろう。年齢は方便だよ」

 カイエンがそう言うと、ガラの横に居心地悪そうにしていたナシオが、少しだけ身じろぎした。シモンが抜けた今、大公宮の「裏」の警備が不足することと、今夜の宴の居残り的集まりとの接点が見えたのだろう。

「……カイエン様、皇宮の陛下周りに派遣しております、ここにいるルビーと、今一人はブランカですが、もう一人は増員したいとおっしゃっておられましたね。それに、宰相閣下の周囲の警備の様子も確認したいとも」

 気を回して、話を進めたのはヴァイロンだった。

「シモンちゃんが抜けちゃったから、ここの裏の警備はガラちゃんとナシオちゃんにだけになっちゃうしー。まあ、殿下ちゃんの警備はシーヴくんが体を張ってくれるとして。でも、ちょーっと俺っちやこっちのヴァイロンさんは、心配なんだわ。ここの大公宮の奥の方も、これからは変な奴が今日みたいに潜り込んで来ることもあるだろうし、影使いさんの増員がまずは必要ね」

 話を引き継いだイリヤがそこまで話すと、カイエンの護衛騎士のシーヴがちょっと意外そうな顔で口を挟んだ。

「……やっぱり、俺だけだともしもの時、俺が先に狙われたら、ですよね。今日の昼間の短銃、あんなので襲われたら俺が殿下を庇っても……」

「向こうが複数で距離をとって襲ってきたら、ね。まあ、シモンのことがなくっても、今からの情勢だと人手不足ってことよ。で、さっきザラ大将軍閣下にはもう話したんだけどー。さすがは抜け目ない爺さんだから、もう話の先まで考えて来てくれててさー。ザラ子爵家の影使いから一人は確実に回せるだろうって。それが、女の子らしいんだけどね。……ナシオは知ってるんじゃない? セレステ、って言うんだって。元は東西南北の四人の真ん中で、真ん中セントロのセレステ、って言ってたんだって?」

 この名前を聞くと、ナシオはなんとなく嫌そうな感じで顔を上げた。東西南北の東西の二人は、カイエンのシイナドラド行きの共についていて、向こうで殉職した。そして今度、南のシモンが抜けたとあれば、もう残るのは北のナシオ、彼一人であるはずだったが、もう一人いたとは。

 普段は表情など見せない彼も、今夜のこの集まりの主旨を理解するとともに、落ち着きを取り戻したようだ。

「確かに。セレステなら存じております。……ですが、あれは『女の子』などではございません。シイナドラドへの随行から外されたのにも訳がございます」

 この答えには、カイエンのみならず、他の皆も興味を惹かれたようだった。ナシオが真面目な顔で言うにしては、内容がちょっと変だったからだ。

「ああ! そうか。東西南北の真ん中、で五人組だったなら、ザラ大将軍は、シイナドラドのあの時も五人揃って貸してくださったはずだな。南北の二人だけになってからも、大公宮へは二人だけお寄越しになった。彼女を外したのには理由があると言うことか?」

 カイエンが皆の疑問を代表してそう聞くと、シモンはなんだか眩しそうにカイエンの顔をまっすぐ見ないようにしながらも、答えだけはしっかりとして見せた。

「……はい。セレステは、その、旦那様……大将軍閣下のご身辺での、特別なお役目を兼ねておりますので」

 一瞬。いや、しばらくの間、と言ってよかっただろう。

 そこにいた、イリヤも含め、決して察しの悪くない面々までが、目をぱちぱちとさせたまま、言葉も出せずに静止してしまったのは。

 それが動き始めたのは一斉だった。

「ええー! うっそー!? 生涯独身のおっさんにもアレはいたんだー。ちっとも知らなかった!」

「そ、それはまさか……いや、いてもおかしくはない、な。うん、当然と言えば当然だ」

「そうか、なるほど。決まった方がおられたのですね……」

「……俺、知らなかったです」

「あれまあ。まあ、お独り身であっても、そっちはまた別、か」

「なるほどな。……東西南北の中央セントロとなれば、腕も確かだろうな」

 イリヤから始まって、カイエン、ヴァイロン、シーヴ、ジェネロ、そしてガラ、とザラ大将軍をよく知る面々も、ナシオの言った意味が腑に落ちると、次々に驚きの声をあげた。

「にゃぉん!」

 よくわからない顔なのは、ルビーとリカルド、それに猫のミモだけだ。ミモは、「なんだよー、俺の分からないこと話すなよー」とばかりに、カイエンの黒い制服の胸元の大きな濃い紫の紫水晶アマティスタのボタンにじゃれついてきた。

「え、ちょっと待って。あのおっさ、いや大将軍閣下には、そんな掌中の玉的、お大切な手駒を、こっちに出してくれる、ってえのぉ? ナシオたちのお仲間なら、昨日今日のアレじゃないでしょうに!」

 イリヤが珍しくも、言葉を濁し気味にそう聞けば、ナシオは静かに顎を引いた。

「……そういうことになるのかと」

 カイエンはどうしても気になったので、そこで口を挟んだ。

「ナシオ、お前たち東西南北の四人は、他人なのに四つ子のように感じが似ていたな。髪の色やら目の色も似てて。その、セレステ、も、お前たちに似ているのか?」

 この質問の答えは、ナシオたちをよく知る皆も興味があったらしく、いつもは人の視線など集まることのないナシオの顔に、いくつもの視線が突き刺さった。

「……確かに、人の印象に残らぬ姿かたち、という面では似ております。男装すれば我らに混じっても見分けがつかぬほどです。ですが、あれは……セレステは女です。化ければ大公殿下の侍女にもなれるでしょう」

 化ければ。

 カイエンはナシオたちに似ているという女を想像しようとしたが、うまく出来なかった。男装すれば彼らに混じって区別がつかず、女としては長年、あのザラ大将軍の愛人兼、影の護衛として付いていた女。女として魅力がないはずがない。

 だから、急にそのセレステ、に皆は興味津々な思いにかられた。

 それにしても、ザラ大将軍は思い切ったものだ。自分の長年の影使いの護衛で……恐らくは長年の「愛人」でもある女を寄越してくれると言うのだから。

「ザラ大将軍には、明日、ここを出られる前にお礼を申し上げねばな。……まずは、直に会ってみてからだが、女性とあれば私の護衛を頼むことになるのかな? 皆、大公宮の裏の警備の方へは、他に心当たりはないか」

 カイエンがそう聞くと、手を挙げたのは意外な人物だった。

「あー、それなら、さっきヴァイロンともちょっと話してたんですけど、うちから一人、出してもいいかな、と思ってます」

「ジェネロ……まさか本気か」

 ヴァイロンが、言い出したジェネロの顔を見ながら、そう言ったからには、その「候補」はヴァイロンがフィエロアルマの将軍だった頃からいる兵士なのだろう。

「ああ、そのまさか。フィエロアルマが軍として行動するとなったら、返してもらうかもしれねえけど、今はまだ軍隊の出番じゃないからな。御察しの通り、……エステファノ・ピオスだよ。あいつは元々、目や耳が普通と違うってんで斥候役に使ってたんだからな」

 新しく出て来た名前に、カイエン達がどんな人物かと固唾を呑んで聞いている間も、ジェネロは普通の感じで話し続ける。

「それに、あいつなら今、大公軍団で新聞社から引き抜きかけてるっていう、新聞屋が伝令に使ってる『軽業小僧』どもにも負けねえ身軽さだろ? 実際、あいつは軍隊の公募より治安維持部隊に応募した方がよかったかもしれねえ。今は、身軽な斥候役も用無しだから、フィエロアルマの中の憲兵役をやってる。でも、自慢じゃねえけど、あんたの時代っから、フィエロアルマは根がクソ真面目な奴が集まるみたいなんだよな。その点、カスティージョが自分の私兵を送り込んでたコンドルアルマなんかとうちは雰囲気が違うんだ。だから暇だ暇だってうるせえんだよ。まあ、コンドルアルマも『からくり人形アウトマタ』が将軍になっちゃあ、徹底的な実力主義に変わってんだろうけどな」

 ヴァイロンは表情も変えなかった。

「そうだろうな。先年、皇太后陛下の御葬儀の後、バンデラス公爵と共に南下して駐屯してからは、軍紀も厳しくなって、違反者は容赦無く解雇されていると聞いている」

 これは、宰相府、元帥府からカイエンも聞いていた。ただ、解雇される前に脱走したり、解雇された軍紀の守れない落伍者が地下に潜るのではないかとの懸念もあった。その後の話では、違反者の数は激減したとも、地元モンテネグロの闇街の大立者らが使い捨ての駒として引き受けた、とも言われていた。

 ハウヤ帝国の置かれた状況は、三大公爵へは逐一、密使が送られており、そのあたりのことはバンデラス公爵とアマディオ・ビダルに任せてはいたのだが。

 カイエンは今ここにいる連中には、知らせてもいいだろうと、つい昨日、皇宮の宰相府で聞いて来た話を伝えることにした。ルビーやリカルドはもう知っていることだ。

「三人の公爵には、陛下の婚礼での事件はいち早く知らせてある。すでに早馬で返信も来ている。北のフランコ公爵は旧スキュラの平定も済み、今は落ち着いているとのことで、東のクリストラ公爵はドラゴアルマ共々、ベアトリアへ密偵を出して様子を探らせているそうだ。南のバンデラス公爵からもラ・ウニオン共和国に特別な動きはない、と知らせが来ている。……例の鉄砲と短銃の件をこちらから問い合わせようと思っていたが、さすがに抜かりがなかった。向こうからすでに出来得る限りの手を使って、入手に努めているとの一文があった。ラ・ウニオン共和国とこれが元で揉めないようにする方が厄介だそうだ」

「ラ・ウニオン共和国の方が、集められる数は多いでしょうねえ。ただ、連中は海の上が生活の場、戦いの場、ですからね。公爵様やなんかは、鋳造はモンテネグロの鍛冶屋や大砲の製作所に現物を持ち込むつもりでしょう。今日の試し撃ちのあれ、鉄砲も短銃も、ハーマポスタールの鍛冶屋ギルドに持ち込むんでしょう?」

 こう、聞いて来たのはジェネロだ。さすがは一軍の将で、もう軍に配備するまでの方へ頭は向かっているようだ。

「ああ。陸戦でも大砲はベアトリア戦線で使い始めていたから、このハーマポスタールにも、東の国境のクリスタレラにも、大砲の鋳造所はあることはあるんだ。後は、ヴァイロンやジェネロは詳しいだろう、刀剣や槍なんかで特注品の精密なのを手がけている鍛冶屋の中で、若いのが何人か、興味を示しているらしい。これも急がないとな」

 まあとにかく。

 カイエンは腕を組んで、頭の中を整理しながら話をまとめた。

「じゃあ、私の護衛の増員にはザラ大将軍のところから、セレステを。この大公宮の奥の裏の警備には、フィエロアルマからエステファノ・ピオスを派遣してもらう。最後は、陛下の身の回りだな」

「トリニは割けませんよぉ。本人も街中の治安維持が目的で入って来たんだし。春募集の中にちょうどいいのがいるかもしれませんけど。女性隊員志望者、意外に最初っからお上品な子が多いしね。商人の娘さんとか、ああそうだ、今回、お医者の娘で薬だのなんだのに詳しい子が入りましたよー。国立医薬院に入りたかったけど、女だから入れない、っての。確か、トリニも前はそうだったんですよねぇ? もし、訓練で落伍したら、ほら、大きな声じゃ言えませんけど、ドミニカ・ホランさんの産院を紹介しようと思ってるんですぅ」

 イリヤはさすがに候補生の方の情報もしっかりと把握しているようだ。どこにそんな時間があるのか、とカイエンは不思議に思うが、数年前のように目の下にクマを作っているようではない。腹を刺されたり、カイエンの愛人に納まったりする中で、彼は自分の仕事を少しずつ、部下に振り分ける術を身に付けたらしい。

 前はなんでも自分で目を通し、管理せねば気が済まなかったのだが、そんなことをしていたら、「死ぬに死ねない」と悟ったのだろう。

 ドミニカ・ホランは、去年のオドザヤの秘密出産に関わった産婆だ。大公軍団の外科医が「すごい腕前」と言いきる腕の産婆で、かなり大きな産院を経営しながら弟子を育ててもいる。

 だが、カイエンの耳に残ったのは、イリヤの言った中の「国立医薬院に入りたかったけど、女だから入れない」と治安維持部隊に志願して来た、という隊員候補生の方だった。

(マリアルナ……)

 国立医薬院に入りたかったけど、女だから入れない、と言っていたという、カイエンの唯一の幼友達。

 彼女が死んで、もう五年が経った。

 カイエンのために集められた貴族の子女の中で、唯一、カイエンの足のことで意地悪なことをしなかった、リオハ伯爵家の令嬢、マリアルナ。彼女がたった十七で亡くなってもう、五年になるのだ。  

 カイエンはこの五年で、すっかりこのハウヤ帝国での発言力や権力が変わっている。

 五年前はまだ名前だけの飾りの大公でしかなかった。だが、あの十八の春から、カイエンは変わった。

 今では、皇帝オドザヤの姉として従姉妹として、国立医薬院への女子の入学を提案することもできる立場となっていた。ついつい、目先に起きる事件に目も体も向いてしまっていたのだ。

 カイエンは黙ったまま、ぐびり、と黄金色のロン酒にレモンを絞り、炭酸水で割ったのを飲み込んだ。今すぐには無理だが、隙を見てこの話をオドザヤに具申してみるべきだろう。出来ることは出来る時にやるべきだった。

 すでに大公軍団という一種の「武装集団」が女子を受け入れて数年経つ。

 当初は想定されていた問題もあったが、実現してみればさしたる問題も起こらず、女性隊員への評判はすこぶるいい。それも女性の市民のみならず、特に高年齢層では男女ともに「親切で、気配りが利いている」と評価も高いのだ。

 トリニやロシーオ、ルビーのような男顔負けの肉体的強さを誇る女性隊員へは、若い娘たちからの人気も高い。イリヤの似顔絵が似顔絵屋で人気なのは有名だが、最近はトリニを筆頭とする女性隊員の似顔絵も需要があるらしい。

 新任女性隊員の中には、

「私は不美人で、体が大きくて今まで辛い思いばかりだったけれど、志願してよかった。訓練は辛かったけど、体を鍛えたら心も強くなって、自信がついたから、別の自分になれた」

 と、事件現場でカイエンにわざわざ言いに来た女性隊員もいるのだ。その女性隊員は今、街中の署で一緒に働く男性隊員といい仲になっていると、後で聞いた。

 マテオ・ソーサによれば、男性隊員の方も、女性への見方が変わって来ているという。教授は、

「女性隊員採用による、男性隊員および世論の変化、とでもいう題名で論文が書けそうですよ」

 とか言っていたっけ。

 カイエンが黙っているのを、左右のヴァイロンとイリヤはそっと見ていたが、ジェネロの周りのルビーやリカルド、それにシーヴの方は、もう別の話題に花を咲かせているようだった。



 カイエンは、ロン酒をちびちび飲みながら、左右に座ったヴァイロンとイリヤの差し出す皿から、もう腹いっぱいのはずだったのに、燻製のハムだの、チョリソーだの、楊枝に刺さったオリーブだのをつまみながら、しばらくぼうっとしていた。

 大公宮やカイエンの警備の件はなんとか話がつきそうだったし、食堂に置かれた大時計の時刻はもう、真夜中を回っていたが、みんなまだお開きにする気持ちにはならないようだった。

「へー、だからシモンさんとナシオさんはよく似てるんだ。兄弟かと思ってた。……さっきの話の時は事情をよく知らないから、俺だけ蚊帳の外だったじゃないか」

 そう言って、シーヴの頭を親しげに小突いたのは、サヴォナローラの護衛の武装神官のリカルドだ。ルビーの方は治安維持部隊から派遣されているから、大公宮の奥のガラと影使い二人の仕事のことも知っているだけは知っていた。

「ああ、そうだね。あんただけは部外者だったね」

 ルビーのやや酔いの回った言葉を聞くまでもなく。

 確かに、さっきのザラ大将軍の所の東西南北の影使いの話は、リカルドにだけはよくわからなかったに違いない。

 カイエンは、はっとして顔を上げると、急に思い出してシーヴに向かって口を開いた。

「そう言えば、シーヴ。お前、宴の時にシモンの食べ物の好き嫌いを知っていたな。後でおかしいと思ったんだが、お前もナシオとシモンとの区別がつくんだな?」

 カイエンが思い出したようにシーヴにそう聞くと、他の面々は、不思議そうな顔をしたが、当のシーヴは「ああ!」と言った様子でうなずいた。

「それなら、俺も気が付いたのは最近なんです。多分なんですけど、ナシオさんもシモンさんも両手利きなんですけど、元々の利き手は違うみたいだなーって、使用人食堂で食べているの見てて気付いたんです。それからは手元を見てるとすぐにわかるようになって……」

 懸命なシーヴは、ナシオとシモンの元々の利き手がどちらかについては言及を避けたので、やや強張った顔で見守っていたナシオは安堵の息を吐いた。それにしても、たかが影使いをそこまで観察しているシーヴの眼力には驚いていた。それは他の皆も同じだったらしい。

「あれ? 今、殿下、お前『も』って、言いませんでした? じゃあ、殿下もナシオさんとシモンさんの違いに気が付いてんたんですか」

 だが、シーヴの凄さはそこで止まらなかった。凄まじく注意力のいいシーヴは、カイエンの言った言葉への注意力も普通ではなかった。

 カイエンは内心で焦りまくっているナシオの目の前で、あっけなくうなずいた。

「ああ。それならずいぶん前から私も二人の違いを見つけていた。……おかしいな。私は少し近目なのに気が付いているんだから、他のみんなも気が付いていると思っていた」

 このカイエンの言葉には、いの一番にイリヤが飛びついた。その様子では、彼自身は気が付いていなかったらしい。と言うか、区別しようともしていなかったのかもしれない。

「と言うと! 殿下ちゃんには、目につく部分でここのナシオくんと、シモンくんの区別がついていた、と言うことですかぁ?」

「ああ、そうだが。イリヤたちは本当に気が付いていなかったのか?」

 カイエンが意外そうな顔つきでそう返すと、ヴァイロンもガラまでもがうなずいたから、カイエンの方が驚いた。

 カイエンはもう、ここまで言ったんだから、いいか、とぶっきら棒な言い方で残りも一気に言ってしまった。

「だって、……目の色が、違うじゃないか」

 えっ。

 ナシオは今度こそ、その場から逃げ出したくなった。皆の視線が自分の顔、それも目に集まったからだ。

 特に、イリヤなどは座っている場所が近かったせいもあり、ソファから立ち上がってそばに寄ってきたから、ナシオは影使いともあろうものが、恐怖で心臓が止まりそうになった。

「ええー? 殿下ちゃん、これって榛色はしばみいろってやつでしょ。シモンも同じですよぉ。薄い茶色にちょーっとだけ緑色みたいな感じが入ってるの。ハーマポスタールじゃ、よくある目の色なんだよね。んん? あれっ、そう言われてみれば、ちょっと……」

 カイエンにとってはもう当たり前だったので、彼女はあっさりと種明かしをしてしまったのだ。影使いがナシオ一人になった今、利き手はともかく、こっちは黙っていなくともいいだろうと思ったこともある。 

「何かの本で、大昔、女の仕事は狩猟よりも森での果物採取が主だったから、女は男よりも色に敏感なんだとか読んだことがあるが、本当だったらしいな。イリヤ、意識してそばで見ればわかるだろ?」

 イリヤは感心したようにこくこくと自分の顎を動かしながらも、ナシオの顎にまで手をかけて来たから、ナシオはもう本当に殺されているような気持ちになった。接近距離で見せられるイリヤの顔は美しいというよりも、ただただ怖いだけだ。それも、ナシオのような立場の男にとっては。

 もっとも、そこは影使い最後の意地で、ナシオは表情筋はぴくりとも動かしてはいない。

「ふわー、殿下ちゃん、絵が上手いだけあって色に敏感なのねー。これは気がつかないよぉ。ナシオ自身はさすがに気が付いてたみたいだけど。……こいつの目、右目だけ榛色でも違うんだねー。下半分、全部が深緑色なんだ。うん、左目は全部が茶色で緑がちょっとだけ入ってる感じだけど、右目はきっかり半分が暗い緑なんだわ。でもよく区別できるねー。さっきの女の方が、っての本当だわ。……リリちゃんもそうだし、俺は直に見たことないけど、皇子様エルネストが元は黒と灰色で左右色違いの目だったんでしょ? なんだっけエテロ……」

虹彩異色エテロクロミアだ。珍しいが、ナシオのもその中に入るのかな。……なんだか、私の周囲には多いなあ」

 カイエンの言葉を聞きながら、ナシオはイリヤを突き飛ばして逃げ出したいくらいだったが、意地悪なイリヤは余計にナシオの顎にかけた手指に力を入れたようだった。

「榛色の目ってのは、不思議なもんなんだなー。光の加減で茶色にも緑色にも見える。でも、ナシオみたいに部分的に色が違っていれば、色に敏感な人には区別できるってわけかー」

 イリヤはやっとナシオの顎を離してくれたが、その時、そっと信じられないくらい低い声でこう言ったのを、ナシオ一人だけが聞いていた。それは、なんと、彼ら影使いだけが出来るはずの、一方向にだけ聞こえる声の出し方で言われたのだ。イリヤは、いつも間にやら影使いの技を会得していたらしい。


「……殿下ちゃんに区別してもらってたからって、いい気になるなよぉ。殿下ちゃんが無意識に選んでても、殿下ちゃんが自分の気持ちに気が付くまでは、お前はただの裏方の影使い。お前の同輩のセレステちゃんとやらとは違うんだからねぇ」


 長年、ザラ大将軍の愛人だったセレステ。

 それゆえにシイナドラドへの任務からも、この大公宮に送られる人員からも外されて来たセレステ。

 それとは違う、とイリヤはナシオに凄んで見せたのだ。

 前に、モンドラゴン子爵家の監視要員だった時に、シモンに指摘された、ナシオの想い。それはシモンからも「ガラと軍団長イリヤにはバレているだろう」と言われたものだった。

 カイエンの隣へ戻って行くイリヤの背中を見送りながら、ナシオは改めて恐怖し、心に戒めた。

(大公殿下ともあろうお方が、俺のような者をそこまで見ていてくださっただけでも、幸せなことなのだ。使命とおのれの願望を混同してはいけない)

 それでもナシオは、ジェネロと、

「そういえば、ジェネロの目も灰色がかった緑色だったなあ」

 などと話しているカイエンの声だけを聞きながら、わずかに心が温まった気持ちもしていた。闇を這い回るのが仕事の影使いがそんな気持ちでいたら、すぐに死んでしまうぞ、と思いながらも。

 イリヤはきつく釘を刺しては来たが、この大公宮の警備から外すとは言わなかった。

 だったら、彼がやるべきことは決まっていた。

 セレステが来るとなれば、まず、女のセレステがカイエンの護衛としてシーヴとともに仕えることになるのだろう。それならば、彼はフィエロアルマから増員されるという、エステファノという男と共に、帝都防衛部隊とも連携し、この大公宮の裏をしっかりと守るだけだ。

「そう言えば、イリヤの目も緑色の一種だし、トリスタン王子なんかも緑色だなあ」

 カイエンは一人黙って、水を流し込むように、だが自然にロン酒を飲んでいるナシオの胸の内まではわからなかった。イリヤが意味深な行動を取ったとも思っていなかった。イリヤなら、興味があれば擦り寄っていく、と思っていたから。

 ただ、ヴァイロンはイリヤの行動から、もうナシオの事情を悟っていた。だが、表情一つ変えず、言葉も挟まない。

 だから、他のジェネロやシーヴ、ルビーやリカルドにはこの一幕の意味するものはまったく伝わってはいなかった。


「あれ? そういえば、他にもいたな……」

 その時、カイエンがなぜかナシオの目の色の件から、ふと思い出していたのは、あの、魔女スネーフリンガ、つまりは元スライゴ侯爵夫人ニエベスの目の色だった。

 それは、まさに「虫の知らせ」の一種だったかもしれない。

 治安維持部隊で確保し、尋問した時に、カイエンは直に彼女の顔を、それも間近で見ている。スネーフリンガは決して自分がニエベスであるとは認めなかったが、あの目の色は確かに榛色だった。それも、緑の範囲が大きめの。

 だから、夜のランプの光の中で、魔女スネーフリンガを演じている時には、目の色が緑色にも見えたのだろう。

 ニエベスが今や、馬 子昂と共に桔梗星団派として動いていることは疑いがない。

 最後に彼女の動きが垣間見えたのは、親衛隊長のウリセス・モンドラゴン夫人、シンティアとの接触だった。

 あれ以降、シンティアの身辺には大公軍団の監視がついており、夫の不貞を疑って半狂乱のシンティアは、お家の名前を心配する使用人達によって軟禁状態のままと聞いている。

 だが、いつまでもシンティアを他の貴族の夫人たちの輪から遠ざけておくわけにもいくまい。

 今は夏、非常事態宣言さえ解ければ、貴族達には社交の季節なのだ。

「ナシオ、モンドラゴン子爵邸の様子はどうだ? シンティア夫人は相変わらずか?」

 だから、カイエンがナシオにこう聞いたのも、偶然だった。


 同じ頃、そのニエベスは、再び社交界に入り込み、暗躍しようとしていた。

 それも、彼女にとっては最後の手段、最後の味方、最後の砦に住む、彼女の「半身」の元へ戻って。







 ベルガンサ伯爵夫人アビガイルは、その夜、彼女の居室の居間へ、濃い灰色の帽子とベールで顔を隠した一人の婦人を迎え入れていた。そこには彼女と客以外、召使いの一人もいない。

「こんな夜中じゃないとね。それにしても、外は外出禁止令でしょ? よくここまで来られたわね」

 アビガイルの話し方は、親しい友人か、兄弟姉妹と話しているようだ。それに対して、相手はふふふ、と忍び笑いを返した。

「あら、アビガイルは苦労した割には無邪気ねえ。ずっと、ここの執事さんのお部屋で待ってたのよ。あはは、知ってる? 他人のお屋敷を自由にしたければ、まずは執事を抑えるものなの。有能なら有能なほど、引き込めればなんでも出来るのよ」

 その声。

 その声は、奇妙なことにベルガンサ伯爵夫人とそっくりだった。

 それをカイエンが聞いていたら、すぐに正体がわかっただろう。

 帽子とベールを取った下にあったのは、真っ白な髪に、真っ白な顔。その顔色は地の色らしく化粧気はない。唇だけが薄桃色に色付いていた。

 榛色の瞳は、夜のランプの元では緑色に光る。

「ニエベス……。貴女がいくら未亡人だからって、うちの執事は四十過ぎよ。いくら、私やこの屋敷を利用したいからって、あんなのとやったの?」

 台詞はやや蓮っ葉で下品なところもあったが、それは相手との距離感の近さによるものなのだろう。二人は貴婦人らしい言葉遣いを気にすることなく話せる間柄なのだ。

 絹すれの音とともに、ランプの光の中に入ってきた姿は、二十歳前後の若い婦人だ。それも、伯爵夫人だけあって、着ているドレスも金のかかったものだ。時間的にはもう、寝巻きにガウンに着替えていてもおかしくなかったが、彼女はしっかりとドレスアップしたまま、女客をここへ迎え入れたのだった。

 髪の色は褐色で、それをきれいに頭頂部まで巻き上げている。まだ若いだけに、やや派手なそんな髪型もよく似合っていた。元からきれいな肌の上に化粧した顔は白く、華やかで美しい。やや切れ長な目に、細く細く弓なりに整えた眉、ランプの光の中で瞬く目の色は、茶色とも緑ともつかぬ色合いだった。

 アビガイル・ベルガンサは、ニエベス、それはまごうことなくあの奇術団コンチャイテラの魔女スネーフリンガ、アルットゥの母親の、元スライゴ侯爵夫人ニエベスに違いなかった……を安楽椅子に腰掛けさせると、自分はその前に仁王立ちになった。

「どうなのよ?」

 アビガイルは座ったニエベスの上にのしかかるようにして、真っ赤な唇の端を釣り上げた。それは自分のうちの執事をたらしこんだ女を責めているのではなく、単に興味津々なだけに見えた。

「……やったといえば、やったのかしら。私は服も脱いでないけれど。私にはアルットゥがいるもの、もう子供なんかいらないわ」

 ニエベスの答えは、小憎らしいほど落ち着いていた。

 それにしても、この二人は髪の色以外はよく似ていた。特に声はほとんど同じだったので、もしここに第三者がいたら、同一人物の一人芝居にさえ聞こえただろう。

「あっら、そーお。それでえ? 一昨年の、あの、細工師ギルドの連中にカスティージョの屋敷を襲撃させた時以来のご無沙汰じゃないの。今度はなーに? いくら生まれは一緒の姉妹だからって、見返りもなしに大逆罪の罪人の組織に肩入れなんかしないわよ! そうそう、前の時はお礼にアルタミラーノのお義父様をうまいこと消去してくれて、ありがとうね。あいつが生きている限り、夫にいつバレるかって生きた気持ちもしなかったからね。金はせびられるし!」

 アビガイルはそこまで一気に、ニエベスの脳天へ言葉を浴びせると、しゅっとドレスのスカートをさばいて向かい側の安楽椅子に腰掛けた。二人の間には、ランプの載った小卓があるきりで、茶菓の準備もない。

 今のアビガイルの話からすると、彼女は一昨年、カスティージョ伯爵、当時のコンドルアルマ将軍の屋敷へ押しかけた細工師ギルドの連中と関係があるらしかった。

「……うふふ。アビガイルは相変わらずねえ。私と双子だとはとても思えないわ。今はこうして、髪の色も変わっちゃったから、明るいところで並んでても大丈夫かしら? 私をまだ恨んでいるの? ウェント伯爵家じゃ、女の双子は忌み子だからって、子供のないアルタミラーノ子爵家に生まれたまま養女に出されたこと。でも、記録上はちゃんとアルタミラーノ子爵の実子になっていたんでしょう。だから、私がアルトゥールと共に粛清されて、別邸で監禁になって、実家のウェント伯爵家が取り潰しになった時も、あのサウル陛下に関係はバレなかったんじゃないの!」

 アビガイルはゆっくりとドレスの中で足を組むと、ニエベスの真っ白な顔に見入った。

「ふん。あんたが格上のスライゴ侯爵夫人になった時は、殺してやりたいほどだったけど、ああしてウェントの家ごと消えて無くなった時は溜飲を下げたもんよ。それがまさか、変な組織に入って戻ってきて!」

「でも、あの時、養父のアルタミラーノ子爵の玩具にされていた貴女に、このベルガンサ伯爵家との縁談をまとめてあげたのは、私よ! もう結婚して二年? もっと? 夫君はちょっと気の回らない方だから、貴女が処女じゃなくても、フリだけでごまかされちゃったんでしょう? 夫婦円満、でも子供は出来ないみたいねえ。さすがにそっちは魔女の私でも良薬の持ち合わせはないわ」

 二人の会話からすると、ニエベスとアビガイルはもともとは双子の姉妹で、アビガイルは生まれてすぐに養女に出され、そこで養父に性的玩具にされていたところを、桔梗星団派の工作員としてこのハウヤ帝国へ戻ってきたニエベスによって、このベルガンサ伯爵家に縁付くことが出来たらしい。

「そのお礼はもう済んだはずよ。……あの細工師どもに、カスティージョが殺しに来るぞって耳打ちした、顧客の貴族の夫人たちに出所不明の話をうまいこと撒いてやったじゃないの!」

 たった一つのランプの光の中で、アビガイルは正面のニエベスの白い顔を睨みつけた。

 あの、カスティージョ邸の襲撃事件では、カイエンが細工師ギルドの長から、「顧客の貴族の奥様たちから、カスティージョが郎等とともに、細工師が軒を連ねる街を襲うと聞いて、襲われる前にやったのだ」と聞き出していた。

 だが、その後、オドザヤとサヴォナローラが、一人ずつ貴婦人たちを召し出して聞き取りを行ったのだが、噂の出所はついに掴めなかったのだった。

 今の双子の姉妹の一幕を見れば、その黒幕がアビガイル・ベルガンサ伯爵夫人だということになる。

「うふ。アビガイルはアルタミラーノでひどい目にあったというのに、まだまだねえ。そうよ、それをやったのは貴女なの。それ、今、オドザヤ皇帝陛下にお知らせしたら、どうなるかしら? 私は組織の隠れ家がこのハーマポスタールにたくさんあるから、なんでもないわ。でも、ベルガンサ伯爵夫人の貴女は逃げる場所はないわねえ」

「ニエベスッ! あんた!」

 もう、伯爵夫人らしい言葉遣いも何もあったものではなかった。アビガイルは、白い額に青筋を立てて、椅子から立ち上がり、ニエベスの細い襟首に手をかけ、締め上げようとした。

 だが。

 アビガイルは出来なかった。

 彼女の両腕を、背後にいつの間にか迫っていた者が、がっしりといましめていたのだ。

「きゃあっ!」

 思わず振り返った彼女の榛色の目に映ったのは、そこにいるはずのない人物の姿だった。

「あ、あなたっ!? オスワルドっ、なんで!?」

 アビガイルがそこに見たのは、彼女の「夫」、ベルガンサ伯爵その人の姿だったのだ。ぽってりずんぐりと太って、表情もぼんやりした、三十歳前後の、貴族によくいる型の男。

「あはははっ」

 身動きのできないアビガイルの目の下で、ニエベスは心底、面白そうに笑っていた。

「オスワルド様は、最初っから私たちの味方よ。だから貴女を嫁がせたの。これからがこの国は面白くなるんだからあ! 貴女も、夫君と一緒に楽しみなさいな!」

 話についていけず、ぐずぐずと床の絨毯の上へ崩れ落ちていくアビガイル。だが、夫のオスワルドは、まだ彼女の両腕を掴んだまま離さない。

「ア、アビガイルは、いいお姉様を持っている、ね。お姉様は、前の皇帝陛下がすっかり弱体化させてしまわれた、僕ら貴族階級の復権に熱心であられるんだよ。だって、スライゴ侯爵とウェント伯爵の事件は、あんまりだったからね」

「……お姉様はご苦労なさって、ご子息を育てていらっしゃるんだ。お前もお助けするんだよ」

 アビガイルの、ニエベスと同じ榛色の目が絶望に曇る。

 ニエベスの嘲笑が響く中、ゆっくりと部屋の扉が開き、執事がこの屋敷で一番高い茶器に、最高の茶葉を入れて捧げ持って入ってくる。

「ね、アビガ。貴女は私のかわいい妹なんだもの。お姉様の邪魔なんか、しないわよねえ? それどころか、お姉様の味方をしてくれるはずよ!」

 ニエベスは余裕綽々で畳み掛けた。

 アビガイルはぶるぶると両腕を震わせながら、怒りを、叫び出しそうになる自分を抑えていた。だが、ふっと俯いた彼女の顔は、ニエベスにもオスワルドにも、そして執事にも見えなかったが、わずかに歪んでいた。

 昏い微笑みのような表情で。

 アビガイルが悲鳴を上げ、夫の腕にくずおれるようにして失神したのは、その直後のことだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る