とうに夜半を過ぎて


「ああら、だらしがないこと。……アビガはもう少し骨のある、肝の据わった子だと思っていたのだけれど」

 夫のオスワルド・ベルガンサ伯爵に両腕を捕らえられたまま、ぐずぐずと夏の薄手の絨毯の上に崩れ落ちて気絶してしまったアビガイル。

 それを目だけで追いながら、ニエベスはふふふ、と余裕の笑いをその表情に浮かべていた。

 ニエベスは二年ほど前、アビガイルをこのベルガンサ伯爵家に嫁がせ、自分はザイオンの奇術団コンチャイテラの魔女スネーフリンガとして、このハーマポスタールで動き始めてからは、この家とは関わりを持たないようにして来た。

 というか、計画ではザイオンの外交官と、そして何よりもトリスタン王子を手駒に使う予定だったので、今はまだ、アビガイルやその夫を利用する段階ではないだろう、と踏んでいたのだ。

 それが、トリスタン王子はオドザヤ、カイエンの側にいつの間にやら取り込まれており、オドザヤは一人前の皇帝として、自らの意志を持ち、動き始めてしまった。

 大公軍団の圧力と捜査が、魔女スネーフリンガを演じていたニエベス個人にまで及び、ザイオンとの関係も露見する寸前となり、隠れみのだった奇術団コンチャイテラも予定よりも早く、火事を偽装して解散する羽目になった。

 興行は百面相シエン・マスカラスが、この街の名士達の顔を「採集」し、今後の活動に活かすための時間稼ぎでもあった。だが、その百面相シエン・マスカラス自体が、大公軍団の手に落ちてしまった。

 百面相シエン・マスカラスが刺し殺したはずの大公軍団軍団長イリヤも、確実に死んでいたはずの傷から、何をどうやったのかは謎のままだが、元気に生き返って来てしまう始末。

 その上に、皇帝の結婚式のパレードの工作にも失敗したのだ。

 皇配となったザイオンのトリスタン王子に大怪我を負わせ、結婚式の後半を台無しにすることには成功したが、皇帝のオドザヤは怪我ひとつ負わずにぴんぴんしていると言うではないか。そして、それには大公カイエンの身を捨ててもオドザヤを守ろうとした行動があったのだという。

 そう考えていくと、ここ一年半の桔梗星団派の工作は、実は裏目に出てばかりだったのだ。

 この点では、カイエンやオドザヤ、つまりは皇宮と大公宮の守りの固さに彼らは跳ね返されたのだが、彼らは挫けるわけには行かなかった。彼らの背後には螺旋帝国を背後にもつ、桔梗星団派が、党首のチェマリがどっしりと立っていた。失敗続きとあれば、今度は自分たちが「始末」されかねなかった。

 だから、パレードの襲撃に失敗したのち、馬 子昂マ シゴウは無表情のまま、

「トリスタン王子はもう役に立たない。それなら、他の貴族を積極的に取り込むことだ。それには、まずは田舎に逼塞させられた、あの、モリーナ侯爵やカスティージョ伯爵を利用するしかあるまい。彼らと同調した貴族達も再び一丸となって動いてもらわねば。つまりは貴族の権益を守り、民衆の中に花咲き始めた開明的文化を憎むだけが目的の、外国勢力や時代の流れになど目も向けることのない、旧態依然とした時代の見えない、盲目同然の保守的貴族どもをけしかけていくしかない」

 と決めた。

 そこで、ニエベスが思い出したのが、細工師ギルドを動かし、カスティージョ邸を襲わせ、細工師ギルドに大量の死者を出させて民心を揺るがそうとした、あの事件の時に利用した、妹のアビガイル・ベルガンサ伯爵夫人だったのだ。


「アビガイルを部屋へ……女中に見張らせておけ」

 オスワルドは、膨らんだ色の悪い顔の頰をぶるりと震わせながら、覇気のない声で執事に命じた。だが、執事にアビガイルを委ねた時の彼の表情には、意外なことに、かすかな微笑みと、明らかにアビガイルを気遣うようなそぶりが見えた。

 それから、オスワルドはこの部屋へ入って最初に座ったきり、微動だにしていないニエベスの方を見ながら、今度は愛想笑いのような表情を顔に貼り付けて、それまでアビガイルが座っていた椅子に腰掛けた。

 その脇で、中年の執事がアビガイルを軽々と抱き上げると、さっさと部屋を出て行く。

 執事が出て行くと、ニエベスとオズワルドの鼻にふわっと残ったのは、花の爽やかさと甘い黒苺のような果実の絶妙に混ざった香り。それはアビガイルの付けていた香水の香りだっただろう。

「あら。アビガったら、さすがに裕福なベルガンサ家の奥様だけのことはあるわね。アルタミラーノにいた頃はこんな練れた香水は使ってなかったわ。オスワルド様がお使いのお店かしら?」

 元はスライゴ侯爵夫人だけあって、ニエベスの鼻は確かなようだ。オスワルドはくんくんとあまり上品ではない仕草で香りを追っていたが、やがて合点がいったらしい。

「ああ……。これならば、この家に嫁いできてから、私が連れていった店のものでしょう。調香師が客の元からの体の匂いに合わせて、それに好みをもきちんと聞いた上で調香してくれるのですよ。……皇帝陛下や大公殿下も御用達の店のものです。ニエベス殿もお使いになられたことがあるのでは?」

 そう言って、オスワルドが言った店の名前は、確かに皇宮御用達の高級店で、ニエベスにも聞き覚えがあった。

「あれがここへ嫁いできた時につけていた安物の香水はひどいものでしたよ。少しの時間でも嗅いでいると頭が痛くなりそうだった。そもそも、傷物の娘を嫁がせようというのに、図々しく結納金を払えと言うのを、ニエベス殿に上手くあしらっていただいて。アルタミラーノ子爵家はウェント伯爵家とは違って……アビガイルの義父の代での浪費でこのハーマポスタールの屋敷を維持するのがやっとでしたから。領地の方では小作をほとんど手放していたとおっしゃっていましたねえ」

 この話ぶりだと、ベルガンサ伯爵オスワルドは、アビガイルとニエベスの関係はもちろん、もう知っているようだ。

「……そうですの。財産がほとんどないのでは、ねえ。もうアルタミラーノにアビガイルを置いておいて、アルタミラーノ女子爵にしても意味がなくなりましたから、オスワルド様にお願いしたんですのよ。……あの子、アルタミラーノでは養父の子爵に酷い目に合わされておりましたし……」

 ここまでの話だと、オスワルド・ベルガンサにはアビガイルを妻として引き受けても美味いところは何もない。考えるまでもなく、これは変な話だった。なのに、オスワルドには不満そうな様子はない。

 それどころか、先ほど運ばれていくアビガイルに見せた表情からすると、この結婚は上手くいっているとさえ見えた。

 ニエベスとオスワルドは、この辺りで先ほど執事が持ってきた茶菓が手付かずのままであったことに気が付いたらしい。二人は、しばらくの間、この家で一番高価な茶器に淹れられた、これも最高級の夏の紅茶を気取った手つきでカップを持ち上げ、賞味しているようだった。

 その間に、ニエベスはそっと部屋の中にぐるりと目を回した。危険は感じない。

 部屋はアビガイルの居間だと聞いたが、壁紙は夏に入る前に貼り替えられたらしく、真新しい今年流行りの緑がかった軽い青だった。調度品も若い女主人の部屋らしく、軽やかな曲線の中に草花の文様が精緻に彫り込まれたものだ。小卓の上のランプも、花模様のロマノグラスの色に、少しだけ桃色が入っているのも好もしい。

 そんなニエベスの目線に気が付いているのかいないのか。

 カップの茶を半分ほど飲むと、オスワルドはふと思い出したように話し始めた。

「……しかし、アルトゥール殿はさすがでしたな。賢明にも、五年前のあの騒動の前に、スライゴ侯爵家の動産はほとんど外部に移しておられたとか。さしものサウル陛下も、スライゴ侯爵家の領地や屋敷は取り上げられたが、金銀の方はとっくに……。先帝陛下は御不審を持たれたかもしれないが、もう後の祭りでしたな。アルトゥール殿にはお気の毒な、極めて厳しい御沙汰であったが、あのような非道な試練を乗り越え、今、こうして奥方のニエベス殿はハーマポスタールに戻っておられる」

 先帝サウルの沙汰を、「非道な試練」と言ってのけたオスワルド。その辺りに彼と今のニエベスとの関係性がありそうだった。

 ニエベスは怪しげな微笑を浮かべたまま、ただ黙ってうなずいている。スライゴ侯爵家の莫大な動産はすべて、桔梗星団派に取り込まれて活動資金となっていた。

「最初に、桔梗星団派と聞いた時には、螺旋帝国め、気の毒なニエベス様を利用して、ふざけたことを仕掛けて来よるわ、と思いましたがね。大元に前大公殿下がおわしますとなれば、話は別の別でございますよ」

「あら。その前大公殿下は今や、大逆罪の大罪人。皇統譜からも名前を消されてしまわれましたわ。それなのに、いいんですの?」

 それでは、このベルガンサ伯爵は、ニエベスが取り潰されたスライゴ侯爵夫人であり、ウェント伯爵家の娘であることはおろか、今は前大公アルウィンの桔梗星団派にあること。そして、この帝都ハーマポスタールで反皇帝の活動を、それも螺旋帝国を背景とし、他の外国とも連携して行なっていることも知っているというのだろうか。

 恐らくはそれこそが、彼が結婚しても何の旨味もないアビガイルとの結婚を承諾した理由につながることなのだろう。

「……前の大公殿下は、お若い頃は下街で享楽されたとか聞きますが、大公になられてからは、我ら上位貴族の意を汲み、桔梗館で同志を集め、来るべき日への準備をなさっておられたと聞きます。それに引き換え、先帝サウル陛下は、我ら譜代の貴族に冷たい方でした。何か少しでも不行跡や間違いを見つければ、得たりとばかりに家ごと取り潰され、皇帝直轄領に変えていかれた。皇宮への実入りを増やすためにね。……一方で、あの忌々しい読売り! あのような下賤の者どもが我ら貴族を批判し、噂の種にして嘲笑うのには目をつぶっておられた!」

 それまでは機嫌良さそうに話していた、オスワルドのむくんだような色の悪い顔が、かっと紅潮していく。

「先先帝のレアンドロ陛下は、帝都の賎民どもを一掃なさったというのに! サウル陛下の影響は、今のオドザヤ陛下、それに大公殿下にまで及んでおります。大公などは、下賤な新聞屋どもを自分の手足のように使っている節さえあるとか。異国人の女が産んだ皇子なんぞよりは、女でもあの方達の方がマシかと思ったが……。今となって思えば、オドザヤ陛下の即位前に、元老院議会を召集させた、モリーナ侯爵、カスティージョ伯爵は正しかった! あの方々の失脚の際にも、あのくそ忌々しい新聞屋どもが広めた記事があったのですから!」

 ニエベスは意地悪く話を繋げて見せた。

「ふふ、でも、あのお仲間からも落伍者は出ておりますわよ。……モンドラゴン子爵。大公殿下がご自分でひどい醜聞を流して、盾になられたお陰でいまだに表沙汰にはなっておりませんけれど、あの方、オドザヤ陛下の……なのでございましょう?」

 オスワルドは驚きもしなかった。

「証拠はないながら、口さがない御婦人たちの噂話では、それで間違い無いようですな。皇帝陛下のご結婚前から、ウリセス・モンドラゴンは親衛隊長とはいえ、夜もろくに自分の屋敷へも帰らずの献身ぶりであったとか。ご婚礼のパレードで皇配のトリスタン殿下が大怪我をなさった今、オドザヤ陛下の周囲からあの男が離れることなど、ないに等しいとも言われておりますな」

 ニエベスはにたり、といやらしいほどに歪んでつり上がった口角を、かろうじて着ているドレスの袖口で隠した。

「そうそう、去年の夏、変な服の大流行がございましたわね。ほら、御婦人がみんな、ベアトリア風の胸のすぐ下で切り替えのある重たいドレスばかり着るようになって。あれも、オドザヤ陛下の周りに近い女官や貴族の奥様たちから広がったそうではないですか」

 この事は、男のオスワルドには気が付いていなかった事らしい。彼は不審そうに眉をひそめた。

「そう言えば、アビガイルもその頃、せっかくの細い腰を隠す、無様なドレスを着ていましたな。野暮ったくて、まるで臨月の妊婦みたいだからやめなさい、と注意したことがある」

「そう、それですわ、オスワルド様。私、スライゴ侯爵夫人でした頃は当時のオドザヤ第一皇女殿下のお友達の一人でしたの。それも、一番信頼されておりましたのよ。ですから、オドザヤ陛下のお好みはよく知っております。すっきりとして華美でない、割ときっちりした意匠のドレスをお好みでした。まあ、あれから何年にもなりますから、お好みが変わられたのかもしれませんが、それにしても、あのベアトリア女の姿を率先して真似なさるとは到底信じられませんでしたわ」

 ニエベスの話は、意図的に一つの解答へとオスワルドを誘導していくようだ。

「本当に! あのベアトリアのドレスというのは、若い未婚の娘でも臨月の妊婦みたいに見せてしまいます。ベアトリアではふくよかな胸を強調するとか、脚を長く見せるとか、背が高く見えるとか申しますそうですけれど。きつくて体に悪いコルセットこそ女性の健康を損なう、などとも強弁するそうですわ。それにしても、あんな不恰好な代物を、あのすっきりとしたお姿のオドザヤ陛下が公式の場でもお召しになったなんて、本当なんですの?」

 ニエベスは皇宮で行われる行事にも、宴にも出られる立場ではないから、そういう場に妻のアビガイル共々、顔を出していたはずのオスワルドに迫るのである。

「そう言えば……その通りでした。何の集まりだったか。あの大公殿下までもがあの格好で現れて……ええ、髪もベアトリア風に複雑な三つ編みで後ろで束ねてね。同じようなお姿の陛下と並んでいらした……」

「あらまあ! あの大公殿下まで? あの方、いつも制服姿でいらして、ドレスも……ノルマ・コントでしたかしら、洗練された粋な意匠のものをお召しになっておられたのに……」

 ニエベスはそう言ったが、その時には彼女の話の「落とし所」に気が付いたのか付かなかったのか、オスワルドのたるんだ顔の中の、鈍そうだった目が異様な輝きを放ち始めていた。

「皇帝陛下……モンドラゴン……。あの、無様なベアトリア風のドレス……。おお、そうだ去年の初め、私があの離宮でお会いした時の陛下は、あんな無様なご格好ではあられなかった。それより、むしろ……」

「むしろ? 何ですの」

 ニエベスはわざとらしく何も知らない体で聞く。彼女はオスワルドが去年の始め、まったく違うオドザヤを見ていることを知っているのだろう。

「去年の始め、オルキデア離宮に手入れがされて、そこで陛下が夜な夜な、選ばれた上位貴族の当主たちを集めて秘密の会合を持たれていたのです。『太陽の女王の結社セナクロ・ソラーナ』とか呼ばれていたな。皇帝直下の貴族連合の話し合いの場だと言われて、私にも二、三度、お呼びがかかったっけ。……あの時の陛下は、ああ、なぜ今まで思い出さなかったのだろう! 美の化身のようなあのお姿。艶冶えんやで大胆な薄い絹地のドレスを纏って、我らにお優しいお言葉をかけられて……。そばにはあのモンドラゴン子爵が、夜会服姿で付き従っていた。あの集まりは、何月だっただろう? とにかく、春のうちに突然、終わりになったことは確かだ。そして……」

「そして、皇帝陛下は大胆な薄い絹地のドレスをおやめになって、あの重苦しい、ベアトリア風の、まるで若い女を妊婦みたいに見せるドレスに変えられたのですわ」

 この、ニエベスの囁くような声は、ゆっくりと、まるで毒の塗られた小さな矢のように、オスワルド・ベルガンサ伯爵の耳に突き刺さって行った。男の彼にも、ここまで話が揃ってくれば、オドザヤへの疑惑は明らかだった。

「まさか……まさか! そんなことがあるわけが……」

「モンドラゴン子爵が、陛下のお側を離れなくなったのも、それくらいの頃からじゃありません? ああ、そういえば、大公殿下の愛人とのご乱行の醜聞が読売り各紙を彩りはじめたのも、あの頃でしたわねえ」

 そう囁いたニエベスを見た、オスワルドの目は驚愕と、恐怖、そしてそれ以上に彼を揺さぶる、疑惑にぐらぐらと揺れていた。

「そうだ。あのオルキデア離宮の会合は、お開きになった後にも残る者が幾人かいる、とも聞いていた……」

「そうなんですの? ねえ、それは、その幸運な男性の名前は、だあれ?」

 ニエベスはここぞ、とばかりに言葉を挟み込んだ。この男の次の獲物は、このすぐ先に出てくるはずの名前だった。

 だが、オスワルドはニエベスの注視の中で、首を振った。

「知らない。ただ、ザイオンの外交官はもうすでにあそこに呼ばれて来たことがある、と聞かされた。私が知っているのはそこまでだ」

 ちっ。

 ニエベスは音は出さなかったものの、舌打ちしたい気分だった。あれだけ苦労して、やっと見つけたアビガイルの引き取り手だったが、こうした「工作」に積極的に使えるような機転は働かぬ男だ、と今の返答でわかったからだ。

 不満を抱く貴族どもを扇動するには、幾人か保守的な考えの貴族、それもモリーナ侯爵やカスティージョ伯爵の派閥にいたか、近いところにいた貴族の当主が必要だった。だが、この男はそれには向いていないようだ。

 若き女帝の怪しげな集まりに招待され、そこで女帝の怪しげな男性関係の断片たりとも目にしていながら、この男はそれ以上を知ろうとはしなかったのだから。


 五年前、スライゴ侯爵家と、実家のウェント伯爵家は二つ一緒にサウルによって取り潰され、ニエベスの夫のアルトゥールと、兄のアナクレトが死を賜った。

 その時すでにニエベスは身ごもっており、親族の田舎屋敷で軟禁状態のまま、アルットゥを産んだ。その後、そこを桔梗星団派の助けで逃げ出し、落ち着いてからふと思い出したのが、生まれてすぐに引き離され、アルタミラーノ子爵家へ養女に出され、実子として育てられているはずの双子の妹、アビガイルのことだったのだ。

 ニエベスはすぐにアルタミラーノ子爵邸に手を回し、まだ十七で、子爵家には他に子がいなかったため、女子爵となるべく婿取りする前のアビガイルの様子を探った。

 そこで明らかになったのが、妻に先立たれたアルタミラーノ子爵が、養女のアビガイルにもう何年も前から手を出していたことだったのだ。このことはさすがに他家に漏れてはいなかったが、もし漏れでもしたら、実は領地の小作農をほとんど失い、手元不如意のアルタミラーノ子爵家に来てくれそうなのは、爵位目当ての大商人の息子くらいだっただろう。

 ニエベスは密かにアビガイルと会うと、驚くアビガイルに、自分は夫も婚家も失ったが、今、復讐のために動いている。助けてくれる者たちがいるのだ、だから、私を助けてくれるなら、お前もこの家から他の、それも格上の貴族の家に嫁がせてやろう、と世間知らずのアビガイルを簡単に説得してしまった。

 そして、ニエベスはアビガイルに似合いの貴族の息子を物色したのだが、意外に適当な若者は見つからなかった。

 ニエベスが目をつけた中には、例えば、ザイオンの外交官官邸でのトリスタンのお披露目の仮面舞踏会で、フランセスク・バンデラスと決闘騒ぎを起こしたジャグエ侯爵家の息子たちもいた。

 だが、貴族社会では十五でスライゴ侯爵家へ嫁いだニエベスのように、早くから婚約者が決まっているのが普通だった。御多分に洩れず、ジャグエ侯爵家の兄弟にも、もう婚約者が決まっていた。それに、子爵家の娘に侯爵家では家格が合わない。

 十七のアビガイルと釣り合いそうで、婚約者のいない適齢期の子爵か伯爵家の貴族の後継。それも、持参金を期待できないどころか、逆に結納金をよこせと言うに決まっている、貧窮したアルタミラーノ子爵家の娘をもらってくれそうな相手は、やはり相手の方にも問題がある場合に限られているようだった。

 ニエベスが、もうしようがないと、後添い探しの中年、老年貴族を視野に入れ始めた時に、候補に上がって来たのが、このオスワルド・ベルガンサだったのだ。

 外見はたるんで魅力に欠けるが、伯爵家の長男である彼には、いくつも婚約話があった。なのに、彼は自らいくつかの話を反古にしていた。それも、勝手に自分一人で断ってしまったので、先代伯爵はオスワルドを一時は廃嫡しようとさえしていた。

 ニエベスが彼に目をつけた時、ちょうどオスワルドは「これが最後」と父伯爵の言った相手を自分で相手の屋敷へ乗り込んでまで断り倒し、父伯爵は怒りのあまり卒中を起こして寝たきりになっていたのだ。

 それは、まだニエベスがザイオンから来た奇術団コンチャイテラに合流し、魔女スネーフリンガとしてこの街に「登場」する少し前のことだった。

 ニエベスはすぐにオスワルドの周囲、特に彼の身の回りの世話をしている従僕を抱き込んだ。

 そこでわかった事実は、オスワルドが実父にも言えずに隠していた秘密だった。


「どうやら、ニエベス殿がアビガイルを私に娶らせ、やらせたかったようには、私は動けなかったようだね」

 自分の考えに沈んでいたニエベスは、オスワルドが考え込んでしまった自分に言って来た言葉に、はっとして目を上げた。その目は、二人の間の小卓に置かれたランプの光の中では、緑色っぽく見えた。

「……でも、アビガイルは返しませんよ。アビガイルは、私の秘密を知って驚きはしたけれど、『そうですの、却ってせいせいしましたわ。私、閨のことはもう沢山ですのよ』って言ってくれましたから」

 今度こそ、ニエベスは絶句した。

 秘密。

 ニエベスは自分がオスワルドの「秘密」を知っているなどと態度でも言葉でも見せたことはない。だが、このオスワルドの言い方からすれば、ニエベスの演技は最初から彼にはお見通しだった、と言うことだ。

 実は、オスワルド・ベルガンサが婚約を自ら無理矢理に破棄し続けていたのは、彼が完全に男性として不能で、それを誰にも知られたくなかったからだったのだ。

 ニエベスは彼の従僕を金と彼女の手管で抱き込んで、それを知った。その上であえて、ニエベスは自分が元、スライゴ侯爵夫人であることを知らせて秘密裡に面会し、オスワルドにアビガイルが養父の玩具にされていることを明かした。

 そして、彼女ならば、もし結婚後、夫婦としてあまり上手くいかなくとも、有り難いと思いこそすれ、不満に思ったりなどしないだろう、それくらい妹は傷ついている。妹を任せられるのはあなただけだ。妹を伯爵夫人として引き受けてくれれば、妹は伯爵が何をどうしようとも文句など言いはしない。

 そんな風に、オスワルドの秘密を知っていることは隠したままに、ニエベスは話を進めていったのだった。

 それは、暗に「夫として男として役立たずのあなたに不満を言わず、妻に手を出すことがなくとも秘密を漏らしたりもしない、適齢期で外見も申し分もない貴族の令嬢は、このアビガイル一人くらいしかいませんよ」という意味だった。

 そうだった。それなのに、今、ニエベスの前でオスワルド・ベルガンサは変貌を遂げていく。

「でも、いいでしょう」

 固まったニエベスの目の前で、オスワルドのたるんだ顔が微笑みを浮かべる。

「先ほど申しましたが、私は前のサウル陛下の我ら貴族への冷たいあしらいも、今のオドザヤ陛下がサウル陛下から受け継いだ、卑しい民草にへつらうようなまつりごとも好ましくは思っておりません。今までは、処世術として、ぼうっとして見えるものも見えないよう、目立たぬように努めて参りましたが、これからは見えるものはよく観て参りましょう」

「桔梗星団派……後ろに螺旋帝国があるというのはいただけませんが、我ら貴族の権益を守り、我が物顔で知った風な口を叩く民衆どもを大人しくさせるまでは、共闘できるところもありましょう。党首は兄君のサウル陛下とは不仲だったという、前の大公殿下なのですしね。彼の方が死を偽られてこの国を離れたのも、兄君のサウル陛下に殺されそうになったからだ、とも聞きますよ」

 今や、この場の主導権はニエベスから、完全にオスワルドに移っていた。

 ニエベスの青ざめた顔を見るともなく見据えながら、オスワルド・ベルガンサは、はっきりと言い切った。

「民衆どもがおのれの分を知り、我ら貴族に歯向かわず、大人しく我らの支配の下に在る。それが、このハウヤ帝国の在るべき姿です。秩序をただし、先先帝レアンドロ陛下の時代の、在るべき元の姿に戻すまでは、私はあなた方に協力する、と誓いましょう」

 まさに、彼の言っていることは「復古主義」とでも言うべき考え方だった。自分たちにとって生きやすかった過去の時代へ時間を逆戻りさせようという、頑なな考えだ。

 そこまで言い切ると、オスワルドは小卓の上の呼び鈴を鳴らした。すぐに部屋に現れた執事に、彼はこう命じた。

「こちらのご婦人を客室へご案内しろ。もう真夜中だ。いつまでも窓から光の漏れているのも、この非常事態宣言の下ではまずかろう」

「承知いたしましてございます」

 執事は静かに答えると、椅子の上で固まってしまったようなニエベスの手を取り、彼女に有無を言わさぬ力で彼女を立たせると、ニエベスを糸で操る人形のようにくるりと部屋の扉の方へ回すと、そのまま、廊下の奥へと引っ張っていくのだった。 

  

 

 

    



「参ったなあ。見失っちまったよ」

 ヴァイロンとの模擬試合で、彼に膝をつかせたトリニは、黙って庭の奥へ向かって一人で歩いていってしまった。

 アメリコはトリニの背中に、何か言いようのない感じ、何か言いたくとも言葉がなくて話せないような苛立ちを感じて、なんとなく彼女の後を追いかけたのだが。

 背の高さゆえか、体の鍛え方の違いか、はたまた持っている身体能力の差か、アメリコはどれもすべてトリニに劣っていたからか、たいして行かない間にトリニの背中を見失ってしまったのだ。

 大公宮の奥庭で見事に迷ったアメリコは、大きな常緑樹の真下で立ち止まった。

「ええっと」

 彼が思い出そうとしたのは、あのオドザヤの婚礼のパレード襲撃事件があった後、大公宮に泊めてもらった時のことだ。

 彼は大公のカイエンの護衛騎士であるシーヴと同じ部屋に入れてもらったのだが、なかなか眠れなかった。

 大公宮の敷地の中にある宿舎に部屋を持つシーヴだったが、あまりにも深夜まで居残った場合には、奥殿に泊まることもあった。その方が、翌日、カイエンの共につくのに時間がかからなかったからだ。

 だから、シーヴの方は慣れたもので、制服を脱いでシャツ一枚で寝台に横たわると、すぐにすうすうと健康そうな寝息が聞こえて来た。

 アメリコがやっと眠りについたのは、もう真夜中どころか明け方に近い頃で、そして、彼はふんわり柔らかい寝台にも寝具にも慣れていなかったからか、二、三時間もしないうちにぱっちりと目が覚めてしまったのだった。

 仕方なく、寝台の上でもじょもじょしていると、もう先から目覚めていたらしいシーヴが、よっこらせ、と先に身を起こしてしまったのだ。

「……まあ、眠れない気持ちはわかるよ。しょうがないから……ふわぁあ、その辺の庭でも歩こっか?」

 捨て子同然だったので、誕生日もわからず、多分、カイエンと一つ違いくらい、というシーヴは二十三歳ということになっている。カイエンの十九の誕生日の日から、彼の誕生日も同じ十二月九日ということになっているからだ。

「は、はい。……すみません、こういうとこ、慣れてなくて……」

 アメリコはあくびをしながらも、にこやかにアメリコに気を遣ってくれるシーヴの浅黒い顔を見ながら、大公殿下のすぐそばにいつもいるにしては、偉そうぶってないし、感じがいいやつだなあ、と感心していた。

 アメリコはシーヴと同じ歳だったし、平民なのも同じだったが、育ち方は違っていた。

 シーヴは物心ついた時にはもうザラ子爵家に引き取られていて、彼の出自……ラ・カイザ王国の直系の末裔……ということを知る、当主のヴィクトルの薫陶を受けていた。そして、十四でこの大公宮へ入り、以後、カイエンの護衛騎士として付き従ってきた。だから、貴族社会のことも熟知していたし、皇宮や大公宮で、この国一番の奢侈しゃしの数々も見てきた。武術の腕の方も、トリニだのヴァイロンだのと比べられなければ「普通の人間的には優秀」だった。

 一方でアメリコは海のそばで生まれ、海で船に乗ってそのままグレコ船長の船の乗員となり、「小僧」と呼ばれる少年水夫から叩き上げ、海賊と戦い、海の上と港での商売だけを見て生きてきた、まあ、よく言えば「海の男」だった。大きな街に長く住んだこともなかったし、ましては宮殿なんぞとは無縁の人生だったのだ。

「そうだろうね。でも、ここは『こういうとこ』の中じゃ、一番、俺たちみたいなのでも居心地のいい場所だと思うよ。ここには平民の幹部も住んでいるし、大公軍団は殿下以外はみんな平民の集まりだからね」

 シーヴはそう言いながら、部屋の窓のカーテンを開けた。そこに見えた空は、まだ曙の赤紫色からほんの少しだけ青い空が見えだした頃合いだった。

 そして、二人一緒に各々の制服に着替えると、部屋に備え付けの水差しと洗面器で顔を洗い、静かにまだ日が昇っていくらも経っていない庭の方へ出て行ったのだ。

 あの時、確かにシーヴは、

「ああ、あっちは殿下のお住まいになっている奥殿だから、入らないで。ね、木がうまく植えられてて、建物の中が簡単に見えないようになっているだろう? 昨日の夜、君が通された殿下の書斎なんかも、あっちなんだよ。まあ、君は目立つし、もう、呼ばれて入っていく分には大丈夫だろうけど」

 と、言ってから大公宮の奥殿を離れ、本殿の方へと案内して行ってくれたのだ。だから、アメリコは奥殿からカイエンの奥の謁見の間などがある本殿、それからカイエン達の仕事の場である、大公宮表に繋がるあたりまでの地形は分かっていた。

 だが、空が暗い夜となると、かなり見た目の感じが変わって見える。

 アメリコが大きな木の下で、自分がトリニだったら、どっち方向へ行くかな、などと考えていると、すぐ近くに複数の人の気配がした。

「誰だ!」

 鋭い声で誰何されて、アメリコはびくっとしながらもすぐに背筋を伸ばして、相手が目前に出てくる前に敬礼していた。

「じ、自分は、本日の昼から大公殿下のご用事でここへ呼ばれて参りました、海軍のデメトラ号、グレコ船長以下、三人の中の一人、下士官のアメリコ・アヴィスパ・ララサバルであります!」

 相手は明らかにこの大公宮の夜警で、二人一組で警備に当たっているようだ。手にランプを持ち、腰の剣の他に、刺股のような長い棒を持って、治安維持部隊の制服を着ていた。

 彼らはランプをかざして、アメリコの着ている制服、珈琲色の顔に黒い少し縮れた髪、それにランプの光の中でも青々としている目立つ目の色まで確認すると、すぐにアメリコ自身についての警戒は解いたようだ。

「うむ。通達のあった海軍下士官で間違いないな。だが、今宵は奥殿での宴の後、客殿に宿泊、と聞いている。それが今頃、なぜこんなところをうろうろしておる?」

 三十過ぎに見える夜警の疑問は、奥殿から庭へ一人で出て来た、アメリコの行動の方に移ったようだ。なるほど、大公宮の警備体制はしっかりしている。

「え? それはええと……」

 アメリコが答えに詰まった時だ。

 ざっ、と大きな音を立て、いや夜警に気付かせようとわざと音を立てたのだろう、隣の木の枝を潜って、そこに出てきた者があった。

「すみません。その人、きっと私を追っかけてきたのだと思います」

 アメリコの背後から聞こえてきたのは、彼が追いかけていたまさにその人、トリニの声だったから、アメリコも夜警も驚いた。

「君は……トリニ・コンドルカンキ隊員か。君も今夜は奥殿泊まりの中に入っていたな。それにしても、夜中にこんなところを歩き回るのは感心しないな。奥殿での御集りごとはもう終わったのか?」

 トリニは女性隊員の第一期生だし、その武勇のほどを知らない隊員はいない。それでも、さすがはイリヤ以下の徹底した管理体制の中で訓練されているだけあって、夜警の方も納得するまでは引き下がりそうもなかった。一人が奥殿の方へつながる小道へ、確認するべく、走りだして行った。

「いいえ。さっき見たところでは、まだ大公殿下の御食堂の灯りは点いたままでした。まだ、残っておられる方々がいらっしゃるのでしょう。……私は少し頭を冷ましたかったので、庭に出ておりました」

 トリニはそう答え、いくらも待たぬうちに奥殿の様子をうかがいに行った隊員も戻って来た。

「奥殿の御食堂には、まだ灯りあり。人の声も聞こえた。……コンドルカンキ隊員、もう君もそこの海軍下士官を連れて、奥殿へ戻れ。向こうでもご心配なさっておられるかもしれん」

 アメリコは内心で、夜警の一隊員までもがカイエンの気持ちを忖度することに驚いた。実際にカイエンは二人のことを心配してはいた。ただ、結果的には「大丈夫だろう」という方向でまとまっていたのだが。

「わかりました。……お手数をお掛け致しました」

 トリニはそう言うと、ごくごく自然にアメリコの腕を引っ張って奥へ向かって小道を歩きだしていた。

 なぜ、アメリコが「頭を冷やしに出て来た」トリニを追っかけて来たのか、ということはうやむやになったので、アメリコはふう、と息を吐いた。

 彼の腕を掴んでいるトリニの手は、体の大きさに比例して大きいようで、アメリコの腕を長い指がしっかりと巻き取っていた。

「あの、あのさあ……」

 アメリコはまた夜警にぶち当たったら厄介だとの気持ちもあって、トリニに話しかけようとしたが、トリニはぱっと振り返り、そのアーモンド型の目尻の切れ上がった目でアメリコの青い目を一瞥すると、首を振って歩き続ける。トリニの薄い茶色の目は、ヴァイロンやガラ、猫のミモのように夜でも普通に見えるかのように、薄く光っているようにも見えた。

 実際に、トリニはアメリコには見えない道筋の先も見えているようで、星光だけでも、歩きかたに危なげなところはまったく無かった。

 やがて、トリニは大公宮の奥殿の、食堂へと続く中庭が見えて来たあたりで歩くのをやめた。

 その理由は明白で、少しひらけたその場所は先ほど、トリニとヴァイロンが立ち会った場所よりは建物から遠かったが、どうやら薔薇をアーチ状に作られた柱に伝わせた場所のようで、星明りでも小さく咲いた薔薇を見ることができた。

 もっとも、薔薇は春秋の花で、それも蔓状に這う薔薇は春が主だった。夏に咲くものはあまりなく、あっても小さかったり、貧相な一重花だったりした。

 それでも、薔薇の香りだけは確かで、アーチの真ん中には観賞用の大理石造りのテーブルと椅子が置いてあった。

 トリニは、そこまで来ると、やっとアメリコの腕を離してくれた。そのまま、彼女は大理石の背のない椅子の一つに座り込む。アメリコもそうなっては仕方なく、小さな丸いテーブルを挟んだ向かい側に腰を下ろすしかなかった。

「ねえ、あんた、何歳?」

 いきなり、トリニがそんなことを聞いて来たので、アメリコは青い目を限界まで見開いた。

 そんな顔をすると、一気に彼の顔は幼く見えた。元々、男としては大きな方ではないし、顔立ちも青い大きな目以外は、小さくまとまった感じなのだ。船乗りらしく、顎のあたりには短く髭を整えているが、これは仲間内では「似合わないからやめろ」と言われてばかりで、剃ってはまた生やし、何か言われてはまた剃る、の繰り返しだった。

「ええ? えっと、二十、三だけど」

 アメリコがそう答えると、トリニは薄い茶色の切れ長な目を見張ったようだった。

「へえ、私と同じ歳なんだ。確か、シーヴさんも同じだったなあ。大公殿下は一つ下だったっけ」

 アメリコは内心でちょっと驚いていた。最初に会った時の印象からか、ヴァイロンに膝をつかせるほどの凄まじい武道の持ち主ゆえか、年上だと信じきっていたのだ。

「あんた、ずっと船乗りなの? だったら、海賊と戦ったこともあるんでしょう?」

 アメリコの驚きをよそに、トリニはテーブルに肘を突き、手に自分の顎を載せるようにして、アメリコの方へ乗り出して来た。

「え? う、うん。そうだけど。初めて小僧として船に乗ったのは、十三、だったかな。いくつか船を渡り歩いて、十六で水夫として乗り込んだのが、今のデメトラ号だ。そりゃ、ラ・ウニオンの内海を商売しながら航海してりゃあ、海賊にも遭うさ。南のネグリア大陸の沿岸沿いに航海した時は、海賊の船団に囲まれて、もうダメだと思ったこともあった」

 アメリコは、その時のことを思い出して、ぶるっと震えが来た。あの時、逃げ切れたのは、デメトラ号にもう大砲が装備されていたからだ。相手の海賊船団はまだだったから、船に乗り込まれる前に、大砲を打ちまくりながら囲みの一方をぶち破って逃げられたのだ。

「じゃあ、人を殺したことも、あるんでしょ」

 アメリコは何とは無しに話の先は予想していたが、改めてトリニが固い声でこう聞いて来た時には、なんだか胸騒ぎがするような、はらはらした感じがして、ごくりと息を飲んだ。

「あ、ああ。あるよ、ある。って言うか、甲板使いの小僧として乗り組んだ船が海賊とぶち当たった時に、もう訳も分からないで短刀を振り回しているうちに、てえのが最初だったな」

 アメリコはそう答えながら、トリニの身の上について、ようやく考えが至っていた。

 トリニの父親が螺旋帝国からの亡命者で、それも元は将軍だった、ということはさっき初めて聞いた。だが、彼女自身は普通の家の娘として育ったらしいことも。

 そして、一人っ子の女子ではあったが、体格にも恵まれ、螺旋帝国の元将軍、それも武道を極めた軍人だった父親から、すべての技を受け継いでいることも。

 卓越した体幹と武術を持ちながら、今まで殺し、殺されるような場面には立ったことがない、ということも。

「俺はそんなんで、ガキの頃だったから、それ以降は自分が生き残るためだからって、いや、そんな言い訳もなくって、そういう場面になっちまえば普通に敵をやっちまってな」

「そうか。きっと、ザラ大将軍とか、コロンボ将軍とか、ヴァイロン様やイリヤ軍団長とかも、最初はきっと必死で……生き死にの境目で乗り越えちまったんだよね。そうして、戦って生き延びて来られたんだ。それでも、戦が終われば、ああして普通の人間として、普通に生活していらっしゃる。非常時と普段の日常との切り替えに困ってなんておられない。そんなこと、私もわかってるんだけど」

「あ、ええと、それはちょっと違うと思うけど」

 アメリコは自然にそう言ってしまってから、後悔したが、もう遅かった。

「なにが! 何が違うの? アメリコ、教えて」

 はっとして顔を上げ、アメリコを見据えたトリニの目は生真面目すぎた。それを見ていて、ああ、そうか、とアメリコはやっと言葉を見つけた。

「ええと、最初に自分を弁護しておくけど、俺は自分が殺したくて殺した、ってことはないよ。それは多分、あんたが言ってた人たちも同じだと思う。あー、でもあの変な喋り方の大公軍団の軍団長さん? 美男子なんてレベル、はるかに超えちまってて、すげえきれいっていうか、男の俺でも、なんか体のあちこちがこそばゆくなって、頭がグラグラしそうな顔してる人さ。あの人、恐怖の伊達男ってあだ名なんだってな。本当にいざとなったら怖いんだろうなあ、あの人。あの人だけはちょっと違ってそう。そんな感じした。だけどあの人でも大公殿下の言うことは聞くんだろ? だったら、そう危ない人でもないのかな。こっちがおとなしくしてれば、だろうけど。でも、他の方々は俺と同じだと思うよ。ウチの船長も、先輩のガストンさんも」

 トリニは黙ってアメリコの話の先を待っている。

「よく、手を汚す、とか言うけどそれって違うと思う。俺たちの手は最初っから、それこそ生まれた時から汚れてるんだよ。ある意味じゃ、動物も同じだ。必要なら殺す、それはもう逃げられないことなんだ。生きている限りは」

「動物は、食べるため、身を守るために殺す。それと同じだって言うの?」

 アメリコは曖昧に首を振った。

「動物は恨んだり、憎んだり、根に持ったりしないだろ? だから同じじゃないよ。俺たち人間は恨むし、憎むし、根にもったら殺すまで追いかける。だから、きっと、そういう瞬間には、そういうのを断ち切るために殺すんだ。その瞬間で判断して。……後で、必要なかったと思うこともあるだろう。でも、生き死には一瞬だ。いちいち、考えちゃいられない」

 トリニは黙って聞いていた。

「でも、中には、殺した相手に、もういない亡霊に、自分の心の中の惑いに苦しむ奴もいる。そういうのも俺は当たり前だと思うよ。だけど、そういう状態になれるのは、もう最後の殺しからかなりの時間を生き延びて、もうこの先、殺さなくていいって決まったやつだけじゃないかな。上手く言えないけど」

 トリニの記憶の中で、彼女によく似た顔や姿をしていた父、赫 赳生カク キョウセイの声が響いていた。

(この世から戦いが、戦争が、争いが消えるまでは、我らは自分が手にかけた人々のことなど顧みない。だが、それらが最後に行われたのち、長い時間を生きられたなら。もう、戦場へは戻らなくていいと知った時には、戦士たちは苦しむのだろう。今の私のように。夢にうなされ、自分の血まみれの手の幻影に怯え。だが、それは、生きている人間故に、あるべくしてあることなのだ)

 トリニの記憶の中の父は、平和なハーマポスタールの街に溶け込んでいた。そして、妻のマリアと娘のトリニとの生活を幸せだ、と常にそう言っていた。だが、彼の心は、病死した妻の後を追うようにあの世へ行くまで、苦しんでいた。

(トリニ、すまない。私は螺旋帝国に禍根を残して逃げてきてしまった。あの禍根は、きっと根を張り、時代を再び戦乱の世に変えようとするだろう。それは、このパナメリゴ大陸の西の端のハウヤ帝国までも襲うかもしれぬ。……その時に、お前が今、ここで平和の中で死のうとしている私のように苦しまないでいてくれることを、私は、願っている)

 トリニの父は、トリニが戦場へ出て、人を殺すような事にならないように、と祈りながら死んだのだ。

 トリニは臨終の時の父の顔を忘れることが出来なかった。

 父、赫 赳生カク キョウセイは間違いなく、知っていた。トリニが自分と同じ道を歩むことになることを。そして、いざという時に、娘と共に戦えずに死んでいく自分を悲しんでいた。それだけは間違いがなかった。

「ありがとう、アメリコ」

 トリニはアメリコの青い目をまっすぐに見つめていた。もう、星明りの暗さに慣れたアメリコの目にも、トリニの真剣そのものの目の色はちゃんと見えていた。

「私が上手くできるかどうかは分からない。でも、私は何があっても生き延びて、父の禍根を断たなきゃならない。迷いはあるし、戸惑いも消えないけど、私はもう自分の技の招く結果を恐れて太極を見失うことはない。すべての争いごとが終わって、私が苦しむ時代になる、それは考えてみれば、私にとっては苦しみとなっても、世界にとってはいいことなんじゃないかと思う。だから、やっと得心できた。……ありがとうね」

 トリニ自身は気が付いていなかったが、彼女の目からは、いく筋かの涙が頰に伝って落ちていた。彼女自身には、自分の流した涙の理由も分からなかっただろう。

 それを、どうしていいのか分からないまま、アメリコは黙って見ていた。だが、トリニに自分の言いたかったことが完全に伝わったことだけは、彼にも分かっていた。

 そして、近い未来にまた海へ出て行くとしても、この時のトリニの顔だけは忘れられないだろう、と確信しても、いた。また会うことがあれば、もっと彼女の心の近くへ寄り添いたいものだとも。







「ああ! 二人とも、どこへ行っていたんだ」

 カイエンは、ふわっといきなり闇から出てきたように、トリニとアメリコが戻ってきたので、思わず、責めるような声をかけてしまった。

 トリニとアメリコが、中庭の方からカイエンの食堂へ戻ると、そこにはまだ七、八人が残っていて、まだ静かに酒を飲み、つまみをつまみながら、親密な話をしているらしかった。

「遅かったんで、てっきり逢引きかと思ったぜえ」

 冷やかすように言ったのは、ジェネロ。

「にゃーう」

 トコトコとトリニの足元へ歩いて行ったのはミモだ。そのまま、トリニが抱き上げるまで、足元に絡みついて離れない。

「そう言えば、トリニの家のパンキンは元気か?」

 カイエンはヴァイロンとイリヤの二人に挟まれてソファに座っていたが、もうかなり酒が入っているようで、声の調子が普段よりも明るく、いつもは死人のような土気色の顔も、頰に赤みがさしている。人前だというのに、片手をヴァイロンのそれに載せ、その大きな手のひらに何やら文字のようなものを書いているように、指を動かしているのは、何を心に思い描いていたのだろうか。

「はい。コロコロ太っておりますが、元気にしております。……こちらのミモちゃんは細身で優雅ですけれど、うちの猫は抱き上げるとずっしり来ます」

 トリニの顔にも、つられたように笑みが戻った。

「そうか。……トリニの悩みは、アメリコが晴らしてくれたのかな?」

 カイエンは大して意識もせずにそう聞いたのだが、周囲のヴァイロンをはじめとする男たちは、一瞬、はっとした様子だった。

「はい。……大公殿下、帝都防衛部隊隊長ヴァイロンさま、このトリニ、もう迷いはございません」

 それは、こういう生真面目な人間模様には、いつも一歩、間を置きたがるイリヤまでもが緊張するような一瞬だった。

「それなら、私の大公軍団、特に治安維持部隊はもはや最強だな。トリニ、候補生も入れて、現在の治安維持部隊から、皇帝陛下の護衛に、もう一名、選んでおいてくれ」

 だが、カイエンの言ったことは、まったく別のことだった。

「武術の腕だけじゃないんだ。人間の心の動きを、なんと言ったらいかな、言葉の端々から汲み取れるような、そんな女性隊員はいないかな?」

 オドザヤの周囲には、ルビーやブランカのような腕に自信の隊員だけではなく、女官長のコンスタンサや、腹心の侍女のイベットもいる。だが、ある程度、大公軍団員としての訓練も受けた女性隊員がいれば、鬼に金棒だろうと思ったのだ。

 これに、トリニは意外な人物の名前を挙げた。

「それなら、現在、訓練中のマリソル・ロメロ・ジョルトが適任だと思います」

 これには、すぐにイリヤが反応した。

「あらあ。それって、さっき俺が話題に出した、お医者の娘で薬だのなんだのに詳しい子じゃない。国立医薬院に入りたかったけど、女だから入れない、って言ってた子。あの子、人間観察も得意なんだぁ?」

 イリヤはマリソルの顔つきを思い出そうとするように、鉄色の目を細めた。

「ああ! あの子、なんだかうちのせんせーに似てると思ってたのよねぇ。ちっさくて陰気な見かけなのに、話し出すと元気そうになって、言うことがいちいち、すっごい論理的なの。医者になりたかったって力説してたし、あれじゃあ、普通にお嫁にいって子供産んで、なんてのは無理だよなあ、って思ってたのよ」

 カイエンはイリヤの言葉を聞きながら、マテオ・ソーサに似ている論理的思考で、医者になりたかった娘、と聞いただけで興味を持った。

 それに。

 マリソル。

 カイエンの失った最初の女友達。死ぬまで、国立医薬院へ入り、医師になりたいと言っていたというマリアルナと名前が似ている。

 マリアルナの「ルナ」は「月」だが、マリソルの「ソル」は「太陽」だ。

 彼女こそは、今は亡きマリアルナの代わりに彼女のしたかったこと、医師となり、人々を助けたいという志を、いつか受け継ぐものなのではないか。

 カイエンは、酔いの回って来た頭を冷やすために、ごくごくと水を飲みながら、その名前を心に刻みつけた。


 マリソル・ロメロ・ジョルト。


 それは、カイエンと彼女の終生を共にあった、大公軍団の女性隊員たちの名前と並んで、女大公カイエンの時代の「星の女神たち」の一つとして後の世に数えられることになる名前だった。

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