カルナヴァル前夜


 オドザヤは皇宮という彼女の宮殿で、一人、漂っていた。

 あの日。

 六月の夏至の日に戴冠し、皇帝となったあの日からずっと。

 現世に居ながらに、皇帝という至高の地位にあってさ迷い、漂っていたとしか言いようがなかった。

 それは、まだ十八、十九の身にはあまりにも思い重責だったから、と慰めてくれる人もあっただろう。一方で、もう大人なのだから、そして女の身で皇帝として立つと決めたのだから、しっかりしろ、と責める向きもあったに違いない。

 とにかく、彼女が、自分の足で立っているという実感を持てないままに、半年余りの日々を過ごして来たということは間違いがなかった。

 そして、彼女は独りぼっちだった。

 父サウルはすでに病でこの世を去り、母アイーシャはもう回復の見込みのない廃人と化して、寝台という現実社会最後の彼女の牢獄に閉じ込められている。

 先帝の第一皇女だったオドザヤの、母の違う妹二人は、一人は同盟国ネファールの王太女として彼の国へ去り、もう一人は今、北のスキュラで虜囚となっている。先帝のたった一人の男子、一歳になったばかりの弟のフロレンティーノともまた、母親が第三妾妃のマグダレーナだったこともあって、会う機会がそれほどあるわけではなかった。

 そして、唯一、母を同じくする、親子ほども年の離れた妹、リリエンスールは今、姉で従姉妹の大公カイエンの下で養育されていて、極々たまにしか顔を見ることもない。

 そんな彼女オドザヤの、たった一人の、姉。父親同士は兄弟、生みの母親は同じアイーシャの。

 それが、この帝都ハーマポスタールの大公、カイエンだった。

 カイエンのことは、つい先年まで、祖父である第十七代レアンドロ皇帝の、一番下の妾腹の皇女だと聞かされていた。そして、祖父の死後、独身の叔父アルウィン大公に引き取られたと。だから、叔母で従姉妹のような存在だと思っていたのだ。

 それが二年前、サウルとアイーシャの話を偶然、聞いて知った。

 カイエンは母のアイーシャが、最初の結婚……それは叔父のアルウィンとの結婚だったのだが……で産んだ娘だと。自分とは父方からすれば従姉妹、母を同じくするという意味では姉妹であると知ったのだ。

 叔母から従姉妹、そして姉で従姉妹と。

 オドザヤの人生の中で、カイエンはどんどん彼女に近しい存在へと変化して来た。

「お姉さま、お姉様」

 親しげに呼びかければ、カイエンはいつも人懐こそうな笑みを浮かべて、オドザヤを見てくれたものだ。

 サウルの長女であり、上に兄弟のいないオドザヤは、従姉妹だと思っていた頃から、カイエンには姉に対するような親しみを感じていた。

 自分を始め、妹のカリスマもアルタマキアも、父であるサウルにはちっとも似ていない。

 そんな家族の中で、カイエンだけは父サウルや叔母のミルドラ、叔父のアルウィンなどの「一世代前」の大人たちと似た姿をしていたからかもしれない。

 だが、カイエンの人となりをよく知っていたわけではなかった。それは、年に何回も会えない存在だったからに他ならない。カイエンがなぜ、あまり皇宮へ上がって来ないのか。その理由を知ったのもまた、カイエンが母アイーシャの産んだ娘だったと知ったあの時だった。

 でも、あの日、真実を確かめに訪れた大公宮で、二人で泣きながら抱き合った日から。去年のサウルの病の発覚、それから間もない死から始まった、オドザヤの激動の一年余りの間、カイエンは影に日向にオドザヤを支えようとしてくれた。

 即位の日。あの夏至の日の真昼の太陽の下、群衆の歓呼の声にのまれ、オドザヤはバルコニーに出て行くことが出来なかった。

(オドザヤ! オドザヤ! 我らが娘! 我らが女神! 太陽の娘よ!)

 あの幾千もの市民たちの歓呼の声。

 自分はあのような激しい声に、人々の期待に応えることが出来るのか。

 オドザヤにはとても無理なことに思えた。何よりも、あんな轟くような「時代の声」を受け止めることになるなどとは、思ってもみなかったのだ。

 あの時。

(いや! お姉様、怖い! あの叫びを聞いて! 私、あの人たちに答えるなんて……。怖いわ。怖い! 私は女神なんかじゃない! 私はあの人たちの求めるような……)

 あんなことを言って、怖気づいたオドザヤだった。

 その時、

(陛下。さあ! バルコニーへ出て、市民たちの声に答えるのです!)

 カイエンはそう言って、彼女をあの真昼の真っ白な太陽の下へ、引っ張り出してくれたのだった。

 カイエンの方は、

(私は、お前をこの新しい時代に売り渡すよ。……私は決して、矢面には立たない卑怯者だ)

 と自嘲していたのだが、そんなことはオドザヤには分かるはずもなかった。

 それから。

 それからも、カイエンは皇帝としてのオドザヤを支えようと心を砕いてくれていたと思う。

 オドザヤにとってのカイエンは、いつでも冷静で優秀な、自分とは違って子供の頃から帝王教育を受けてきた、半分、頼りになる兄のような、揺るぎない存在だった。寄りかかっても許される存在だとオドザヤは無意識に思ってしまっていたのかもしれない。

 オドザヤが、一目見ただけであのトリスタンに心奪われてしまった時も。カイエンはオドザヤの話を親身になって聞いてくれた、とは思う。

(私には、今の陛下のように、誰かを想ったことがない。ご存知のように、ヴァイロンとのことはサウル伯父上が決めたことでしたし、エルネストとの結婚は、国同士のことですから。……ですから、今の陛下のお悩みに、私は答える術を持ちません)

 だが、カイエンがそう言った時、オドザヤは初めて理解したのだ。

 カイエンもまた、弱い女の部分を持っていることを。決して、成熟した大人の女などではないことを。完璧に自分を守ってくれる存在などではないと。

 オドザヤはカイエンが、自分のトリスタンへの気持ちを理解し、一緒に悩んでくれると信じていた。どうしたらいいのか、今までのようにはっきりと示してくれると思い込んでいたのだ。

 だが、カイエンは今度のことでは、オドザヤのそんな気持ちを「私にはわからない」という言葉で、言わば切って捨てて行ってしまった。わからないからと言って逃げたのだ。

 そうなればもう、オドザヤの心に寄り添って、共に歩いてくれる者などいなかった。

 カイエンは叔母のミルドラや、護衛に付いているルビーやブランカ、それにリタ・カニャス、女官長のコンスタンサなどの名前を挙げたが、オドザヤにとって彼女らは、カイエンのように心の中身をさらけ出して話せるような距離感の存在ではなかった。

 だから、あれからオドザヤは仕方なく、ぽつり、ぽつりと身近な侍女のカルメラやイベット相手に心から零れ落ちる思いの片鱗を零して行くしかなかったのだ。

 そうしていたら、意外にも一番身近な侍女のカルメラが、オドザヤの気持ちをしっかりと受け止め、気を遣ってくれるようになった。彼女は自分の初恋の話を、恥ずかしそうに話し、オドザヤを慰め、仕事で疲れたオドザヤに元気の出る薬草酒やお茶を勧めてくれる。

 カルメラが勧める薬草酒は、最初は昼間からそんな、薬とはいえ酒になったものを飲むのには抵抗があった。だが、飲んでみればその薬効は素晴らしく、オドザヤは疲れを癒して心穏やかに政務を取れるようになった。

 確実な結果が伴えば、そして、それが何回も重なれば、人は容易く相手を信じてしまう。

 堅実な娘であったはずのオドザヤにとっても、それは同じだった。皇宮に奉公していても、カルメラはその生まれ育ちから、オドザヤよりは世間を知っていた。

 一方、支配的な母、アイーシャの膝下で育ち、ほとんど皇宮から出ることもなく育ったオドザヤは、どうしたって世間知らずであった。母のアイーシャは平民出身だ。アルウィンと結婚するまでは、貧乏官吏の娘として育ったのだから、いくら我儘で独善的であっても、アイーシャだったらカルメラの親切と献身に見せかけた悪意に、気が付いたかもしれない。

 だが、オドザヤには無理だった。

 だから。

(美男子好みの大公殿下が、あのきらびやかなトリスタン殿下を放っておくとは思えませんわ。そうじゃございません?)

(大公殿下もトリスタン殿下を気に入られて喜んで動かれたに違いありません。巷では大公殿下のことを、女艶福家とか申しているそうですが、まさにそうでいらっしゃるのかもしれませんわねえ)

 というカルメラの言葉は、そのまま真実としてオドザヤの心に根を張ってしまった。

 そこへもたらされたのが、トリスタンが正式に彼のお披露目と挨拶を兼ねた「仮面舞踏会マスカラーダを開催する」という話だったのだ。

 それには、子爵以上の上位貴族は皆、夫婦とその子息子女まで招待されているのだと言う。招待されなかったのは、皇宮の高貴な婦人たち……つまりは皇帝のオドザヤと、後宮の妾妃たちだけ、と言うことらしかった。

 もちろん、これはザイオンの外交官官邸で行われる催しであったから、ザイオン側が彼女たちを招待など出来る性格のものではなかった。皇帝や皇后、皇帝の後宮の美姫たちが、臣下や外国人の催す宴に正式に出ることなどあり得ない。


「そう。じゃあ、お姉様のところへはご招待があったのでしょうね」

 オドザヤは仮面舞踏会マスカラーダのことを、午後のお茶の時間にカルメラから聞くと、反射的にそう尋ねてしまっていた。

 待ってました、とばかりに滔々と説明を始める、カルメラの不自然さに気付くこともなく。

 どこか、心ここに在らず、といった面持ちで聞いていたオドザヤは、カルメラの声が急にひそひそ声になったところで、はっと現実に戻ってきた。

「……ですから陛下。そうすれば、陛下もトリスタン王子殿下の仮面舞踏会マスカラーダを見聞にいらっしゃれるかもしれませんわ」

 えっ。

 オドザヤはきっと、思いきり怪訝そうな顔をしていたのだろう。

「あらいやだ。陛下ったらぼうっとなさって」

 カルメラはかわいらしい顔を、満面の笑みで飾っていた。その笑みの中で、目だけは冷たい光を放って異質だったのだが、現実にいながらにして、半分、中空に浮かんでさ迷っていたようなオドザヤが、気が付くはずもなかった。

「毎日、ご政務で休むいとまもないほどなのですもの。息抜きもなさらなくては。……大丈夫です。大公殿下もクリストラ公爵夫人もお出かけになられるんですもの。危ないことなどあるはずもありませんわ」

 それはそうかもしれない。しかし、皇帝がお忍びで異国の外交官の公邸で開かれた宴に出るなど、もし世間に知られたらどうなるのか。皆はどう思うのか。そんなことについては、カルメラは一言も言おうとしないのだ。

 カルメラはオドザヤの返事も待たず、くるりと振り返ると、後ろに控えていたもう一人の侍女のイベットに命じていた。

「陛下の御髪のお色はあまりに輝かしくていらっしゃるから、このままではすぐにばれてしまうわ。もったいないことですけれど、染粉で無難なお色に染めた方がいいわね。イベット、用意しておいてちょうだい。お衣装も工夫しなければ。ああ、大丈夫よ。ご招待は二月の半ば。まだお日にちはあるのだから」

 そこまでイベットに命じると、カルメラはふわっとオドザヤの方へ顔を戻した。

「招待状の方も抜かりはありません。私の実家は男爵家ですけれど、付き合いが広いのが自慢です。招待されたお家の中には、御夫人が病気だったり、お嬢様がご病弱だったりするお家もございます。私も一緒に参りますから、ご心配には及びません。何もかも、このカルメラにお任せあれ」

 一気にそこまで言ってしまうと、カルメラはオドザヤの返事も待たず、オドザヤのお茶のカップに新しく熱いお茶を注ぎいれた。

「本当にお疲れでいらっしゃいますのね。さあ、いつもの薬酒が参る前に滋養のあるこちらのお茶をお召し上がりください。……これは血液の循環を良くするそうです。ささ、こちらのお茶菓子とご一緒に」

「ええ。そう、そうなの……」

 何が「そう」なのかも、よくわからないまま、オドザヤは満たされたお茶のカップに口をつけていた。

 この頃では、カルメラの勧めるものを、彼女はそのまま飲み込むようになっていた。

 そう、それはカルメラの言葉を、みんなそのまま受け入れるのと同じように。

「そうね。それがいいわ」

 何がいいのかも分かっていない。それなのに、オドザヤの唇は勝手に言葉を紡ぎ出す。はたから見ていれば、それほど不自然に見えない。そこが危ないのだが、オドザヤ自身にそんな判断がつくなら、カルメラの思い通りにされたりはしないのだ。

 薬と甘い言葉、巧妙にそれまで信頼していた人物を遠ざけていく手口。今までも歴史の中で、こうした高貴な密室で、同じような罠に陥る支配者はいただろう。オドザヤもまた、独りぼっちの寂しさにつけ込む悪意のるつぼに、まんまと陥ろうとしていた。

 その時、オドザヤの脳裏に、一瞬だけ浮かんで消えたのは、カイエンの顔だった。土気色の病人のような顔の色。その顔は、悲しげにしかめられていた。まるで、その時のオドザヤの無気力な様子を責めるように。陥ろうとしている罠に気がつかない愚かさをなじるように。

 オドザヤは額を抑え、首をねじるようにして幾度も振り、カイエンの幻影を振り払った。

(いいのよ。お姉様は何人も男の方を手玉にとっておられるのだもの。その上に、私のトリスタン様をも狙っておられる方なんだもの)

 カイエンの面影を振り捨てたオドザヤが、言い訳のように考えたことは、そんな取ってつけたような理由でしかなかった。 

 そんな彼女の様子を、カルメラの冷たい目が観察していることなど、オドザヤは気付きもしなかった。







 皇帝の女官長、コンスタンサ・アンヘレスは賢明なだけでなく、ものごとの真実を見抜く炯眼の持ち主だった。

 そうでなくては、今のこの地位はなかっただろう。

 彼女が、十代でこの皇宮に平の女官として上がってから、もう、三十年あまりの年月が経っていた。ついに結婚することもなく、後宮の女官長から皇帝付きの女官長となった彼女の、それまでの経歴に曇ったところは一点もない。

 馬鹿正直だけでは、女官長まで出世することなど出来はしない。だから、彼女もここまで来るのには、いくつもの試練を乗り越え、時には汚い手も使ってのし上がってきた。それでも、彼女の糸杉のように伸びた背筋、姿勢のいい姿に歪んだところがないのは、彼女がその職務においては確固たる信念を貫き、潔癖なまでにおのれを律して来たからだ。

 そんな彼女が、最近、気になってしょうがないのは、皇帝のオドザヤの様子だった。

 外見的には、変わったところはない。それどころか、一時の緊張した様子がなくなり、落ち着いた表情をするようになっていた。顔の色艶も良く、薔薇色の頬は健康そうだ。この頃の事件続き、毎日の政務の大変さを考えれば、もっと疲れた様子でもおかしくはないのに、この頃は前よりも元気そうに見えるほどなのだ。

 それが、長年、後宮で皇后のアイーシャや、妾妃たちの様子に目を配って来た彼女に、違和感を感じさせていた。ここのところずっと、彼女はその理由について一人、自問自答を繰り返していた。

 そして、そのことに気が付いたきっかけは、久しぶりの宿下がりで見た、老いと病に蝕まれた、実家の長兄の姿だった。

 コンスタンサとは十も年の違う一番上の兄は、先帝サウルが患ったのと同じ、内臓に出来た腫瘍で余命いくばくもない状態だった。そのために強い痛みを訴えていたため、医師は最後の手段として麻薬による鎮痛を施していた。

 もちろん、兄の妻や息子もそれに同意し、少しでも安らかな死を念じているようだった。

 コンスタンサが兄の枕頭に座ると、兄は黄ばんでやつれ果てた、艶のない顔に微笑みさえ浮かべて見せた。言葉の調子は落ち着いていたが、半分うつらうつらしているようで、言葉は上っ面だけを追っているようだった。

 そして、兄の目は潤んで遠くを見ているようで、輝きはなく、死んだ魚の目のように生気に欠けていた。起きてはいるが、心はここにはない、そんな感じにも見えた。

 コンスタンサが気が付いたのは、オドザヤと死の床にある実兄の目の色、というか目の光の感じの相似だった。

 生気に欠け、どこか他の世界を漂っているような、頼りない感じ。

 それは、言葉には出来ない些細な違和感だった。

 だが、間違いなくその違和感にはある確信が伴っていた。

 病気の兄はともかく、オドザヤは健康な若い女だ。薔薇色の頰をした、病とは無縁の若さを誇っているはずなのだ。それが、年老いて病身の、鎮痛薬で小康を得ているだけの兄と同じ目をしている。鎮痛剤で頭の深いところは眠っているような。

 おかしい。

 コンスタンサは、そう確信するとすぐに、オドザヤの近くに侍る者たちを呼び出すことにした。

 コンスタンサはまず、後宮の女官長であった頃からの顔見知りである、後宮の女騎士からオドザヤの警護に抜擢された、リタ・カニャスに話を聞くことにした。

 リタ・カニャスはもう中年に差し掛かった女で、後宮の女騎士としての仕事の真面目さと勤勉さから、コンスタンサが選んでオドザヤの警備につけた者だ。

 だが、コンスタンサはすぐに、呼び出されて彼女の部屋へ入って来たリタの顔色がひどく悪いのに気が付いた。

「忙しいところ、すみませんね。ちょっと聞きたいことがあるの。この頃の皇帝陛下のことなんだけれど」

 コンスタンサがそう言った時には、もう、リタ・カニャスの顔色はどす黒く変わっていた。

「はあ、なんでございましょう」

 返事もはっきりしないもので、コンスタンサはこの段階でもう、リタ・カニャスは何かを知っていると確信していた。そして、今ここで何を聞いても、真実を話す可能性はゼロだ、ということにも。

 コンスタンサの知っている、リタ・カニャスはきびきびとして反応が早く、いつもきっぱりしていて、相手の考えていることにまで頭の回る賢さがあった。何か後ろ暗いところがなければ、顔色を変えることなどないだろう。

 そして、受け答えが曖昧なのは、リタが知っていることはコンスタンサには絶対に話せないことだ、ということだ。自分からそれを話すつもりがないということだ。

「何か、前と変わったことはないかしら? どんな些細なことでもいいんだけれど。私はどうもこの頃、陛下はひどくお疲れの気がするのよ。お元気そうなご様子を見せようと周りに気を遣っておられるのではないかしら」

 毎日の政務の時間の長さを考えれば、オドザヤは疲弊しておかしくない。見た目は健康そうに輝いているのが本来はおかしいのだ。コンスタンサは、初めに同意しやすい話を出して見せた。思った通り、リタはこれには簡単に同意した。

「はい。私もそんな風にお見受けしております……。お労しいことで……」

「そう。あなたもそう思うのですね。でもね、これは大変なことですよ。私たちで気をつけて、お助けしなければ。ねえ、あなたは私よりも陛下のお側近くで支えているのですから、何か、気が付いたことはない? 夜よくお眠りになれないとか、頭痛がおありだとか。きっと、周りに気を遣われて、我慢されているのだと思うのですよ」

 コンスタンサは勤めて優しく問いかけた。

 だが、リタの返答は頑なだった。

「女性の身で、皇帝としてのご政務に励んでおられます。お疲れになられるのもごもっともなこととお察し申し上げます」

 コンスタンサは、これはいけない、と思いながらも重ねて尋ねてみた。

「そうね。それで、最近、特に何か気になったことはない? 些細なことでもいいの。前と違っておられるところはないかしら」

 だが、コンスタンサの思惑に、リタはまったく乗っては来なかった。それどころか、正反対の言葉を紡ぎ出したのだ。

「女官長、陛下におかれましては、お疲れのご様子は見られますが、ご自分から午後のお茶のお時間をたっぷりとられたりして、お身体を休めるよう、努力しておいでです。侍女たちもお身体にいい茶や菓子などを工夫しているようですし、まずはもう少しご様子を見られましてはいかがでしょう。なにせ、御即位あそばしてまだ半年でございますれば」 

 この言葉を聞いて、コンスタンサはもう、オドザヤの周囲で何か変わったことがあったことには確信を持った。そして、この女騎士のリタ・カニャスは何か知っているということにも。リタは話しすぎたのだ。

 しかし、今、ここでいくらこの女を問い詰めても、何も吐くことはないということも分かっていた。恐らくはリタは誰かに弱みでも握られて懐柔されているのだろう。

 この女に真実を語らせるには、こちらとしても、この女を追い詰める材料が必要なのだ。

「わかりました。もう下がってよろしい」

 そして、扉の向こうへ消えていくリタ・カニャスの後ろ姿を見送りながら、コンスタンサはもう、次に呼び出すべき人間の方へ頭を切り替えていた。

 オドザヤの警護を担当している、残りの二人。

 ルビー・ピカッソと、ブランカ・ボリバル。

 この二人はリタとは違うはずだった。それは、この二人は大公軍団から派遣されている人間だったからだ。それも、大公のカイエンが、その人となりと腕前を見込んで送り込んで来たのだから。

 コンスタンサの呼び出しに応じてやって来た、ルビーとブランカは、コンスタンサから、リタ・カニャスが聞かれたのと同じように、「この頃、オドザヤの周りにいて、変わったことや気が付いたことはないか」と問われると、顔を見合わせた。 

「あの。皇帝陛下は、この頃、香水をお変えになったように思います」

 最初にそう言って口火を切ったのは、ブランカの方だった。

「あっ」

 ルビーもはっとしたような顔になったのを見れば、彼女にも心当たりがあるのだろう。

「少し前まで、陛下は甘いといえば甘いですがすっきりとした、芍薬ピオニーの香水を好まれておられたと思います。ですが、この頃はもっと重くて甘ったるい感じの香りをまとっておられます」

「あれは、薔薇? でしょうか。そう言えば、大公殿下も薔薇の香りを好んでおられますが、殿下のはもっと爽やかな……」

 コンスタンサは静かに口を挟んだ。

「大公殿下のお好みの香りは存じています。あれは白薔薇の香水で、このハーマポスタールでも有名な店の調合したものです。涼やかな白薔薇の香油に、最上級のダマスコ薔薇の香油と、ほんの少しだけ白檀と杜松ネズを混ぜたものだそうで、純粋な花の香りの後に落ち着いた香りが残ります。皇帝陛下の芍薬ピオニーの香水も、同じ店の調合したもので、少しだけジャスミンの香りを入れているとうかがったことがあります。……確かに、この頃、陛下のまとっておられる香りは、あれとは違っているようですね」

 コンスタンサはブランカの方をまっすぐに見た。

「あなたは確か、ザラ大将軍のお母上や、大公宮の執事と同郷と言ってましたね。それに故郷にお子さんを置いて奉公しているとか。さすがですね。女はもともと、匂いには敏感なものだけれど」

 私は気が付いていたかもしれないけれども、気にしてはいなかったわ。

 コンスタンサが言外に思ったことは、ブランカにもルビーにも伝わったらしい。

「最近、皇帝陛下がお使いの香りは、確かに芍薬ピオニーではありませんね。あれは、薔薇とも少し違うようです。かなり甘い香り。皇太后陛下もあの香りはお使いではなかった……」

 コンスタンサは今までにアイーシャや、後宮の妾妃や皇女達の使っていた香水の香りを頭の中で反芻してみたが、オドザヤのまとっている甘ったるい香りには覚えがなかった。

「香水を変えられたということ、出入りの商人が勧めたというよりは、侍女が新しいものをお勧めしたと考えるのが普通でしょう。陛下の周りにあの香りを使っている方がいない以上、後宮のどなたかがお勧めしたとは考えにくい。……ありがとう、ブランカ、ルビー」

 その時、コンスタンサの頭に浮かんだ顔は、オドザヤの侍女のカルメラと、そしてなぜかアイーシャの侍女の、あのジョランダ・オスナの顔だった。

「今、私があなた方に聞いたことは、陛下にも陛下の侍女たちにも漏らさないように。ああ、大公殿下へは今日、私に聞かれたという事実だけお話しして。あちらも今、取り込んでおられるだろうから、今日すぐでなくてもいいわ」

 そう言ったコンスタンサだったが、言いながら、ふわっと襲ってきた不安な気持ちにはっとなった。

 今すぐ自分は大公宮へ行くべきなのではないか。

 だが、コンスタンサにあるのは、オドザヤの香水が変わったようだ、という事実でしかなかった。

「私の方でも、もう少し、調べてみるわ。あなたたちも陛下のご様子に目を光らせてください。なんだか、気にかかってしょうがないのよ」

「わかりました」

 ブランカとルビーにも、コンスタンサの心の中の葛藤が伝わったのだろう、二人はすっと顔を引き締めた。

「心してかかります」

 そう言ったのは、ルビーの方だった。

「お願いね」

 そう言いながら、コンスタンサはオドザヤの侍女のカルメラを呼び出そうか、と思い、そしてそれに難色を示す自分の中の反対派の意見を聞いていた。

 ルビーやブランカは、オドザヤの警備係だから、オドザヤの政務には付いて回るが、オドザヤが自室に入ってしまえばもう、付いていることは出来ない。そこから先は、侍女たちの仕事の場なのだ。

 そして、カルメラはオドザヤがまだ皇帝サウルの第一皇女で、皇太女でなかった頃からの側仕えだ。

 それを、コンスタンサが皇帝の女官長としての権限で、皇帝の意思も計らずに解雇することは出来なかった。ごり押しして、オドザヤとの間に隙が出来れば、今度はコンスタンサの地位が危うくなる。

 長い目で見れば、コンスタンサが今の地位を離れなければならなくなるような、危険な賭けに出るのは得策ではなかった。

 証拠だ。

 コンスタンサは自分に言い聞かせた。

 オドザヤの身近で蠢動する、あの女たちの尻尾を掴まなくてはならない。

 敵はおそらくもう、リタ・カニャスをなんらかの方法で味方に引き入れている。おそらくは何か本人か身内かの弱みを握っているのだろう。

「急がなければ」

 コンスタンサはそう呟くと、オドザヤ付きの侍女、下働きの女中たちの顔を思い浮かべていた。口が固そうで、まだ向こうに取り込まれていない女を、一刻も早くこちら側に引き込まなければならなかった。

 そんなことを考えねがら、コンスタンサが本音の部分で、踏み潰し、消し去ろうとしていたのは、カルメラの顔ではなかった。

「ジョランダ……あの悪魔め」

 コンスタンサほどの人間が、憎々しく思い出していたのは、アイーシャの従姉妹にして侍女のあのジョランダ・オスナの、ねじれたような醜悪な顔だった。







 一方。

 同じ頃、大公宮には、普段そこを仕事場にはしていない人々を含めた幾人かが、裏のカイエンの書斎に雁首を揃えていた。

 イリヤ相手に、シイナドラドにもうじき引き起こされる事態を、うっかりと漏らしてしまった皇子様への非公式な「査問会」が開催されていたのだ。話の内容によっては、ことを公にした方がいいかもしれない。だが、それにはまずは話を詳しく聞くことが前提だった。

 ここの主人、大公のカイエン。

 宰相サヴォナローラ。

 元帥大将軍エミリオ・ザラ。

 そして、大公軍団の最高幹部の面々が揃っていたのは、軍団長のイリヤがもう知っているということが大きかった。大公のカイエンだけが知っていても、彼女の仕事は大公軍団を動かさねば成り立たない。エルネストがカイエンの夫であり、大公宮にいる以上、彼に危険が迫るようなことになれば、直に動くのは大公宮の面々なのだ。

 軍の方はザラ大将軍がいるから問題ない。官吏たちへの方は、宰相のサヴォナローラが判断することになるだろう。

 だから、そこには軍団長のイリヤに、治安維持部隊の双子、それに帝都防衛部隊のヴァイロンと、最高顧問のマテオ・ソーサ、それにガラまでが居並んでいた。

 無位無官のガラがここに呼ばれたのは、彼だけが生きてホヤ・デ・セレンから戻ってきた、カイエンのシイナドラド行きの随行員だったからだ。彼だけが、エルネストが話すだろう、今のシイナドラドの国内の様子や、ホヤ・デ・セレンの様子について、見聞したことがあったからである。つまりはエルネストの話に嘘偽りがあっても、ガラ以外にはそれを指摘できる者はいなかったからだ。

 この大公宮が査問の場所に選ばれたのは、皇宮でこの査問会を行えば、官吏たちに知られる可能性があったからだ。すでにオドザヤはカイエンを通じて、話の概ねのところは知っているので、詳しい話は宰相のサヴォナローラを通じて伝えればいい。皇帝が大公宮へ赴いたとなれば、痛くない腹を探られかねない。そして、大公の婿であるエルネストを皇宮へ呼び出すのは避けたほうがいいのでは、との配慮の末に決まったことだった。

 今日ここに集まった連中の知りたかったことといえば、とりあえずはシイナドラドが「封鎖」されるというエルネストの言葉の真意を正すことだった。エルネストがその後、どこへ何をしに行く「使命」を持っているのかは、このことを聞いた後に聞けばいい。

 つまりは、エルネストがイリヤに拷問されても言えない、と言ったことを無理矢理にでも引き出すのが目的だった。

 そのために、シイナドラドの外交官、ニコラス・ガルダメスもまた、この場に引っ張り出されてきていた。こっちも、皇宮へ呼び出せば、「すわ、シイナドラドで何かあったか」という憶測を産む可能性を考えてのことだった。

 皇宮の表には、親衛隊の警備がある。皇帝オドザヤの警備こそ、カイエンが大公軍団から派遣している、ブランカとルビー、それに後宮の女騎士だったリタ・カニャスに任されているが、それ以外の場所ではサウルの時代と変わりなく、親衛隊が詰めていたから、外国の外交官が出入りしたとあれば記録に残るし、その理由をいたずらに推測される危険性もあった。

 カイエンの書斎で、書斎の執務机に向いて座ったカイエンと、周りを取り囲むように椅子を持ってきて座った、サヴォナローラやザラ大将軍、それにイリヤ、マリオ、ヘスス、ヴァイロン、それにマテオ・ソーサ。

 エルネストとガルダメス伯爵は、カイエンたちと向き合う形で、並べて座らされていた。エルネストの背後には、いつものように影のように気配のない侍従のヘルマンが控えていた。侍従といえども、エルネストの唯一の侍従である彼は、この度明らかになった事情についても承知していたから、そこは問題なかった。

 書斎の扉の外では、カイエンの護衛騎士のシーヴと、この大公宮の執事であるアキノ、それに影使いのナシオかシモンが番兵となって控えているはずだった。

「シイナドラドでこれから勃発すると仮定されている事態……それに、ホヤ・デ・セレンの封鎖とやらについて、もう少し詳しく話してもらおうか」

 カイエンがそう言って、話を始めると、カイエンの周りを鬱陶しく囲んでいる男たちから緊張した雰囲気がにじみ出てきた。

 特に難しい顔をしているのは、宰相のサヴォナローラと、大公軍団顧問のマテオ・ソーサだろう。

 二人がそんな顔をしている理由は、それぞれに違っている。

 サヴォナローラは政治的な理由だろうが、テオ・ソーサの方は戦術学の専門家として、ホヤ・デ・セレンの封鎖という異常事態をどのようにして実行するのか、という具体的な方法を知りたい、という故なのだろう。

「わかったよ。もう、ガルダメスとも話して、覚悟は決めた。洗いざらい喋るから安心しな。……でも、ホヤ・デ・セレンの封鎖の方法については、話してもあんたらにはちょっと想像がつかないだろうと思うけどな」

 今日も黒っぽい……だがやや青みが入った衣装に身を包んだエルネストは、やや自堕落な様子で椅子にそっくり返っている。その横で、顔自体はエルネストに類似した、シイナドラド 皇王家の面影を見せるニコラス・ガルダメスが、こっちは真っ青な顔をして小さくなっていた。

「シイナドラドには、大きく分けて二つの民族がいるんだ。一つは俺やこのガルダメスみたいな、黒っぽい髪の色に、灰色っぽい目の色の……まあ、貴族階級の上の方を占める、皇王家の血を引く血族連中。そして、もう一方は、この……俺の侍従のヘルマンみたいに、髪も目も色素の薄い、ザイオンの連中と同じ民族に属する連中の二つにだ」

 エルネストはそんなところから話し始め、この二つの民族はシイナドラドの階級でも二分されるということ。そうした中、もう何百年、もしかしたら千年単位の間、二つの民族は混血をあまりしないままに存続し、小さな衝突はあったものの、大きな内政の憂慮となることはなく、続いてきたこと。

 それでも、百年ほど前に一度、東側の国々に刺激されて、反政府組織が形成されたため、シイナドラドでは鎖国政策を取り始めたこと。国内に彼らを見張るための砦を築き始めたこと。

 そして、易姓革命を成し遂げた螺旋帝国の新皇帝、ルビを入力… 革偉カクイが、ザイオン系の民族の中でも、皇王一族への不満分子のグループに極秘のうちに資金援助をし、革命の方策を授け、過激な思想を煽り出したこと。

 それを察知した皇王側が、内戦を恐れて、国民の国内移動を制限する政策に出たこと。

 それより以前に先代の星教皇が亡くなり、星教皇のなり手がいないまま、空位が続いたこと。そんな時、星教皇になれるシイナドラド皇王家の血筋を残すため、歴代の皇帝にシイナドラド皇女の血を入れ、保持してきたハウヤ帝国に嫁いだファナ皇后から、星教皇の条件に合致する、カイエンの誕生が密かに伝えられてきたこと。

 そこまでの話は、少なくともカイエンやサヴォナローラ、それにザラ大将軍には、先帝サウルと共に、一度は話し合ったことのある内容だった。

 エルネストの方も、そこまではすらすらと、まるで歴史の講義でもするような口調で話していた。

「それで、内戦を覚悟したシイナドラド皇王が、自分たちの住むホヤ・デ・セレンを守るために、その、『封鎖』とやらを企んだ、というわけか?」

 カイエンはいい加減長い話に、口を挟むこともなく大人しく聞いてはいたが、さすがにここへきて、こう言葉を挟まずにはいられなくなった。

 それは、サヴォナローラやザラ大将軍、マテオ・ソーサなども同じだったようだ。

「そこですね。封鎖と言っても、反政府組織は螺旋帝国からの資金援助で軍備を整えて迫っているのでしょう? それを防ぎきれるような方法があるのですか。長城ムラジャ・グランデのような壁でも、大砲の攻撃にさらされれば、いつかは壊れて侵入を許すでしょうに」

 サヴォナローラのその言葉は、皆のその時の疑問を代弁するものだっただろう。

 この頃、国をまたぐような戦争の時代は終わっていたが、南方諸国の海軍がシイナドラド由来とも、螺旋帝国由来とも言われる兵器として、火薬を用いた大砲を実戦に配備し始めていた。陸での戦争ではあまり活躍していなかったが、南方の海での海戦では主力兵器として使われ始めていた。

 そうした知識は、だいたい、皆の頭にあったから、サヴォナローラの質問には皆が同意を示した。

 だが、それに対するエルネストやガルダメスの返事は、しばらくの間、聞こえてこなかった。

「どうした……?」

 長い沈黙に、とうとうカイエンはしびれを切らした。

「ここまで話して、だんまりか。そもそも、イリヤが言っていたが、螺旋帝国の皇帝は、どうしてそこまでして、ホヤ・デ・セレンを狙っているんだ?」

 カイエンがここまで言っても、エルネストはしばらくの間、強情そうに黙りこくっていた。

 だが、それにもついに終わりの時が来た。

「皇子殿下、恐らくは完全にはご理解はいただけないでしょうが、まあ、言葉にしてお話はしてみるしか、ないのではないのでしょうか。もう、私どもは故郷へは戻れないのですし……皇王陛下もこれはもう仕方がない、とお許しくだされますでしょう。何しろ、こちらには星教皇猊下がおられるのですから」

 エルネストの横で、それまでただ、「皇子の言われていることは正しいです」と保証するように、うん、うん、とうなずき続けるだけだった、ガルダメス伯爵がそう言うと、やっとエルネストは顔を上げた。

 そして。

 ぽつりぽつり、とエルネストが語り始めた話は、そこで聞いていた面々にとっては、相当に奇怪で、しかも不可思議な物語となった。

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