男たちの使命


「あんた、お義姉ねえさんが来ましたよ」

 ハーマポスタールの中心街セントロに近い、薬物問屋や料理用の香草などを扱う店の立ち並ぶ通り。

 そこに並ぶ店々は、長屋のように繋がっており、広い表通りに向かってが店舗、裏通りに裏口や搬入口を持っている。店の間口に対して、両側を通りに挟まれているために、建物の奥行きが非常に長いのが特徴だ。そして、日当たりの悪くなりがちな店の奥に光を届けるため、長い奥行きの真ん中あたりに、中庭を設けている店が大半だ。

 通りの真ん中に、どっしりと店を構えた薬物商店は、表通りでは店も開いているが、鞄や籠を背負って家々に常備薬を売りあるく、薬売りなどに薬を卸す問屋の方に重きを置いているように見えた。

 ジョランダは金髪の背の高い女を引き連れて、素早く裏口から店の中へ入ると、しっかりと、古びた、だが分厚く大きな木製の扉を閉めてしまった。

 入ったところは薄暗いタイル張りの床で、すぐ奥が店の奉公人たちの食事などを用意する台所になっていて、ちょっとのぞくと幾つものかまどから煙が立っているのが見えた。

「ああ、まさに約束の時間通りだね、姉さん。例のは用意してあるし、手紙にあった人も、ついさっきやって来て待っているよ」

 妻に呼ばれて、すぐに奥から出て来たのが、この店の主人なのだろう。彼が毛織物の上着のポケットに懐中時計を戻した手つきからいって、この計画は極めて綿密に時間を計って行われたものらしい。

「……ああ、お前はちょっと奥へ行っておいで」

 ジョランダによく似た金壺眼かなつぼまなこの、冴えない容貌だが、姉よりは人相のいい中年男は、慌てたように妻を奥へ追っ払うようにした。

 こんなことはいつものことなのか、太り肉の妻女の方は、ジョランダにちょっと目を当ててから奥へと消えていく。

 この様子から見るに、ジョランダはこの店の主人の実の姉であるらしい。

 皇太后アイーシャの従姉妹である、ジョランダ・オスナの実家は、大きな薬物商であったのだ。

「ああ、それじゃあ、姉さんは荷物をさっさと包んじまっておくれ。……そっちの、あなた様はこちらへどうぞ」

 聞くと、ジョランダの方は勝手知ったる様子で、店の違う部屋へと消えていく。それはいつもの手順らしく、彼女の動きには迷ったところは微塵もない。

 ジョランダの弟らしい、店の主人に連れられて、ジョランダと離れて金髪の若い女が入って行ったのは台所の奥、表の店に抜ける中庭の手前の階段の下の暗い部屋だった。

 中庭には石畳が敷かれており、花壇が設えられ、二階から花の鉢がいくつも吊り下げられていた。荷物の搬入のためだろう、そこへ繋がる廊下は店がわも裏口側もかなり広い。それは中庭に繋がった小さなトンネルのように見えた。

 階段の下の部屋にはもう、さっき主人が「手紙にあった人」という男が、たった一つの小さな窓の側の粗末な木の椅子にかけて待っていた。

「ああ!」

 彼は主人と一緒に入ってきた金髪の女の姿を見るなり、椅子から勢いよく立ち上がった。それはもちろん、ザイオンからやって来た宝石商人に他ならなかった。

 宝石商人、それはもちろん、ザイオンの女王チューラの愛人、ダヴィッド子爵シリルだった……は、店主には目もくれなかった。

「トリスタン! ああ、私の子!」

 そう、掠れた声で叫ぶように言って、シリルは店主の後ろについて来ていた、金髪の背の高い女に抱きついたのだった。



 シリルを追って来ていた、アレクサンドロともう一人の隊員は、宝石商人がマークしていなかった薬物商の店に吸い込まれるのを確認すると、すぐに二手に分かれていた。

 こうした時の定石通りに、アレクサンドロはもう一人を店の裏口へ回らせたのだ。それはいわゆる籠抜け、店の中を通り抜けて裏口へ抜ける手や、中で違う人間と入れ替わる手などを予測したからに他ならない。

 だが、それは先に仕掛けていた側には、すでに折り込み済みのことだった。

 表通りから、薬物商の裏手に回った隊員は、勢い込んで通りの角を曲がったとたん、「やられた!」と思ったが、もう遅かった。

 狭い裏通り。その店々の裏口の並ぶ側との反対側は狭い運河となっていた。運河の向こうはこの辺りの商店の倉庫街の倉庫の背中である。ハーマポスタールの発達した運河は、裏通りに面して繋がっている。それは物資の搬入搬出を考えてのことだ。

 狭い通りには人っ子一人いなかった。

 運河の上にも、見える範囲に舟の姿は見えない。

 これは、いくら裏通りとはいえ、帝都ハーマポスタールの中心街に近い地区ではありえないことだ。実は、ほんのちょっとまで、道の両側でそれぞれ喧嘩騒ぎと、荷物を満載した荷馬車の転覆騒ぎが起きていた。その騒ぎが、表通りの薬物商店へ金髪のザイオンの宝石商人が入ったのとほぼ同時に、きれいに片付けられた直後だったのだ。

 帝都防衛部隊の隊員は、日中、こんな場所の通りに人っ子一人見えない、その異様さにすぐに気が付き、本能的に踵を返そうとした。ここまでは厳しい訓練の賜物だったかもしれない。

 だが。

 彼が振り返った先に見たのは、荷物を満載した荷馬車が角を曲がって来るところだった。

 彼は何か叫び、荷馬車の御者も慌てた様子で手綱を引く。計算されたようにやってきた馬車だったが、御者の様子を見れば、それは偶然の事故とも思えた。

「!」

 隊員は叫び声を上げる間もなく、荷馬車に跳ね飛ばされた。

 長屋のように連なった店々は、非常に奥行きが長い。

 だから、表通りまで、この裏通りでの事故が伝わるまでには、しばしの時間を要した。

 それは、私服の隊員を跳ね飛ばした荷馬車が、驚いたのか最初からの計画だったのか、いわゆる「当て逃げ」をして行ったからである。

 かわいそうな隊員は気を失ったまま、通行人が戻るまでの間、そこに倒れたまま放置されていたのだった。



「あーあー、お父さんは、相変わらずだねえ」

 店主について来た、金髪の背の高い女は、抱きついて来たシリルをほとんど同じ背丈の体で受け止めると、暢気な声をあげた。

 その声は、地味だが優雅なドレス姿とは一致しない、男の声だ。

 ジョランダの連れて来た若い侍女はトリスタンの変装だった。元から女の踊り子に化けて市内の広場で踊るほどだから、トリスタンが女に化けるのはそれほど難しそうではない。

 だが、皇宮の皇太后アイーシャのそばに仕える侍女に化けるとは。

 いつの間にトリスタンは、いやザイオンは、アイーシャの腹心の侍女であるジョランダに目をつけ、そしてこんな役割に使えるような、ある程度の裏を見せてもいいと判断するほどのお仲間として取り込んでいたのか。

 それは、トリスタンが馬 子昂シゴウや、ニエベス、アルットゥらの桔梗星団派の息のかかった人間とすでに繋がりを持っていたことを考えれば、そう無理な話ではない。皇太后アイーシャの兄は、桔梗星団派のアルベルト・グスマンである。従姉妹のジョランダと繋がりがあったとしても不思議ではなかった。

 ジョランダはもちろん皇宮から来たのだが、トリスタンの方は、どこかで合流したということだろう。

「トリスタン、お父さんはね、お前にぜひ、あの踊りを……」

 シリルが早速、という様子で言いかけた言葉を、トリスタンはもう、彼の取り扱いに慣れたものの気安さで、やんわりと、しかし確実にぶった切った。

「ああ、ああ。わかってるよお父さん。そっちは後で。官邸の方で落ち着いたらね。……まあ、お父さんにしては時間通りに、ぴったりやって来れたもんじゃないか。さすがに時計くらいは持ってたみたいだね。あの、お父さんのご存知のオリュンポス劇場が大公軍団にバレちまったからね。あそこで落ち会えなくなって悪かったね」

 トリスタンはそこまで言うと、店の主人の方へ横柄な態度で顎をしゃくった。

「すまないけど。……着替えが終わるまで外で待っててくれるかな?」

 そう言うトリスタンのきれいに化粧した顔は、大柄な女だということを除けば、きれいな若い女にしか見えなかった。

「ああ! はいはい、それはもう」

 薬物商の店主は、たっぷりと鼻薬を嗅がされているのだろう、そそくさと部屋を出て行く。

 その背中を見送って、トリスタンはシリルに向き直った。

「お父さん、この店はもう大公軍団にバレただろうからね。もう二度と使えないんだ。まあ、いずれは薬の方から足がつくかもだけど。まあ、その時には、この店とさっきのオバさんに全部引っ被ってもらうんだけどね……」

 トリスタンは小声で恐ろしいことを、さらりと言うと、悪そうに真っ赤な舌をちょろりと出した。

 そんな、大きな悪戯小僧のようなトリスタンを、シリルはかわいくてしょうがない、という目で眺め回した。

「なんだか生き生きとして、元気そうだな。この街には面白いことがたくさんあると見える」

 シリルは息子とよく似た顔を笑みくずれさせたが、トリスタンはもう、自分の着てきたドレスを脱ぎ始めていた。

「お父さん、話は後、あと! ほら、すぐにこのドレスに着替えてよ。僕とお父さんは体格が同じだから、ちゃんと着られるはずだから」

 トリスタンの言いようからすると、二人はここで入れ替わる手はずらしい。

「お父さんはそれでいいが、お前はどうするんだい?」

 シリルの方は心配そうにそう聞いたが、トリスタンはなんでもないことのように、白い手をふわふわと振った。

「僕の方は、全然違う顔と姿で出ていくんだ。僕が来る前にこっちで用意しててくれた……ほら、あのコンチャイテラとかいう奇術団の、百面相シエン・マスカラスが、僕を平々凡々な薬屋のお客さんに作ってくれることになってるんだ。だから、僕はゆっくり帰るよ」

 ということは、ここに百面相シエン・マスカラスも来ている、ということだろうか。

 そして。

 大急ぎで着替えたシリルと、こっちも用意されていた薬の包みを受け取ったジョランダが、薬物商の裏口から顔を出した時、裏通りにはもう人通りが戻っていた。それどころか、裏通りでは荷馬車と通行人……それはあの気の毒な帝都防衛部隊の隊員だったのだが……の接触事故が見つかり、騒ぎになろうとしていたのだ。

 二人はその騒ぎに紛れて、あっという間に人混みに紛れてしまった。

 表通りに残っていたアレクサンドロの方は、まだ裏通りでこんな出来事が起きているとは気付いていなかった。それくらい、この一幕は手際よく行われたのだ。

 もちろん、ジョランダはこの「お買い物」だか、「短い宿下り」だかに皇宮の馬車など使わなかった。

 彼女はさっさと道を歩いて、大きな通りに出ると、すぐにハーマポスタールの、やや高台になった、皇宮や貴族の屋敷の連なる山の手方向へ向かう辻馬車に乗り込んでしまった。

 一方で、ジョランダの後ろについていたはずの、分厚い生地の冬の帽子から金髪をのぞかせた背の高い女、つまりはシリルは、いつの間にかジョランダから離れていた。

 こっちはこっちで、同じ山の手ではあるが、皇宮とは違う方向へ向かう番号の馬車に乗り込んでしまう。

 そして。

 女に化けたシリルが、馬車を降り、懐から出した紙切れを見ながらたどり着いたところ。

 それはまさしく、ザイオンの外交官の官邸の裏門だった。裏門はそのまま高い漆喰の壁に繋がっていて、通りからは中の様子はまったく見えない。

「ああ、よかった。馬車の番号を間違えたんじゃないかと、気が気じゃなかったよ」

 シリルの姿を見つけるなり、ザイオン官邸の裏門の番兵は黙って裏門を開け、彼の姿は冬の午後の薄寒い光の中、ハウヤ帝国の中にありながら、大公軍団などの捜査の及ばぬ場所の中へ、静かに吸い込まれていったのだった。

 ザイオンの外交官官邸には、治安維持部隊の隊員が張り付いていたから、この様子は一応、捜査日誌に書き込まれた。だが、これと薬物商での出来事がすぐに関連付けられることはなかった。皇宮から実家の薬物商へ入って行ったジョランダと金髪の大柄な女をアレクサンドロたちは見ていない。そして、出ていく姿も見てはいなかったのだから。


 それより少し前。

 薬物商の表を見張っていた、アレクサンドロの方は、薬を買うには長すぎる時間が過ぎても、宝石商人が出て来ないので、思い切って店の中に入って行った。内心では、「これは籠抜けをされたな」と舌打ちする気持ちだった。裏口に回していた隊員は何をしていたのか。

 店に入ると、案の定、「あの方なら、腹が痛いと言うので薬を飲ませ、裏の部屋で休ませていたら、いつの間にか消えていた」と店の番頭が真顔で話す。

 その様子では、番頭は本当に親切心でそうしたようだ。帝都防衛部隊に選抜されるまでは、治安維持部隊隊員として街中で働いていたアレクサンドロの目でも、番頭が嘘をついているとは思えなかった。

 確かに、シリルは店の表から入り、裏へと続く中庭のそばの部屋に案内されている。店の者たちは裏から入って来たジョランダやトリスタンとの一幕は見ていなかった。

 裏通りで帝都防衛部隊の隊員が荷馬車に跳ね飛ばされた事故も、荷馬車はいわゆる当て逃げで、どこの商店のものとも特定することは出来なかった。目撃者もいない。あらかじめ計画されていたものとも、偶発的な事故とも、なんとも言えない状態だった。

 だから、大公軍団としてもこの薬物商を積極的には疑わなかったのである。

 いや、さすがに何か関連があるのでは、と今後の捜査対象には入れた。だが、そこがアイーシャの侍女であるジョランダの実家である、という関係性はすぐに露呈するようなものではなかったのだ。

 というのは、ジョランダはまだ大公妃時代のアイーシャの侍女となるに際し、とある下級貴族の養女になっており、もし、裏口から入るジョランダが目撃されていたとしても、「オスナ」と言う姓と、この薬物商の家の姓は一致しなかったであろうからだ。そして、今日、裏口から入ったジョランダとトリスタンを、アレクサンドロたちは見てはいなかった。

 トリスタンが言っていた通り、彼らはいずれはこの薬物商も、ジョランダも、罪を着せて放り出すつもりだったのだろうが、今日この日の結果だけを見れば、最悪、ザイオンとの関係を疑われるのは薬物商だけだったのである。







 ジョランダが皇宮へ戻っていった頃。

 皇宮ではオドザヤが忙しい公務の中、午後のお茶の時間を迎えていた。

 午後のお茶の時間は、ハウヤ帝国の貴族の間ではもう定められた習慣となっていたが、生真面目なオドザヤはいつもなら宰相サヴォナローラとともに、皇帝の執務室で慌ただしく済ますことが多かった。

 監獄島デスティエロの事件が判明したこともあり、近く、宰相府、元帥府、大公軍団で出来得る対策を協議することになっていた。皇帝のオドザヤとしても、皇帝直属の親衛隊の指図は彼女が直接、行わなければならなかった。その上に、彼女としては妹のアルタマキアのこともあり、今は真冬でこう着状態の、北のスキュラでのことも頭を離れなかった。

 スキュラの方は、泥炭加工業者たちの村で保護ざれているらしい……という情報ももう、古くなった情報なのかもしれなかったが……アルタマキアの行方がつかめれば、春になると同時に開戦、ということも考えられた。

 国の内外に難題を抱え、即位してたった半年あまりにして、オドザヤは後から後から起きる事件に、心休まる時間もなかったのだ。

 そんなわけで、この日は殊更に疲れを感じていたこともあり、それに、気に入りの侍女のカルメラがわざわざ、

「新しい茶葉が入りましたので、お部屋でお茶になさったらいかがでしょう」

 と、迎えに来たこともあって、オドザヤは彼女の寝室や化粧室のそばにある、皇帝の個人的な居間へ戻っていた。

「この頃、お疲れのようですからよろしいでしょう。ごゆっくりなさって来られませ」

 と、宰相のサヴォナローラも言ったし、女騎士上がりの護衛である、リタ・カニャスも勧めたので、オドザヤはカルメラに手を取られ、ゆうるりと皇宮の廊下を歩いて来たのだ。

「表ではなんだか、怖い事件ばかりが続いているようですが、こういう時こそ、お心が休まるお時間をしっかり持たれるべきですわ」

 オドザヤが居間の、中庭に向かって置かれたソファに座ると、すぐにカルメラがイベットに合図して、紅茶のポットやカップ、それに焼きたての茶菓子をのせたワゴンを引いて来させる。

 女騎士のリタ・カニャスはなんだか青ざめた顔つきで、黙って居間の外へ出て行く。多分、気を利かせて部屋の外でオドザヤの休息が終わるのを待とうと言うのだろう。

 ガラス窓の外は、白っぽい、灰色がかった青空で、中庭には真っ赤な椿カメリアの花が咲き乱れていた。

 この部屋は、先帝のサウルが使っていた部屋だから、庭の花や樹木、窓から見える造作なども彼の好みのままだった。思えば、赤い椿カメリアは、サウルとアイーシャが出会うことになった、あの冬の夜を思い出させる小道具だったが、オドザヤはそんなことにはまるで気が付いていなかった。

(あれは月明かりの明るい、晩餐会のあとのことだった。まだ庭に椿カメリアの真っ赤な花が見えた頃だ。私は、皇宮の中庭の隅で、真っ赤なドレスにほつれた黄金の髪をまとわせて、踊り狂うアイーシャを「見た」) 

 カイエンへのサウルの遺言書に、克明に書かれていた、あの情景。

 それは、実の娘であるオドザヤへの遺言書には書かれていなかったのである。

 サウルの心情としては、深い事情を子供の頃から聞かされて育った姪のカイエンには言えても、ずっとアイーシャがカイエンの母であることを隠して育てて来た、実の娘のオドザヤには言いにくいことだったのであろう。

「せっかくですから、お茶がおすみになったらお着替えをあそばしましたらいかがでしょう? 朝からずっとそのような沈んだお色のドレスでは、お気持ちも変わりませんもの」

 カルメラはかわいらしい顔に微笑みを浮かべて、オドザヤに言う。

 この時代、貴婦人は一日に何度も着替えることが普通だった。

 まず、貴婦人というものは宵っ張りで、夜会などもあるので、起きる時間が遅い。起き出してしばらくして昼食のためのドレスに着替え、茶会でもあれば午後にかけてまた着替える。そして、夕方には晩餐や夜会に備えて着替えるのが常だった。

「そうね……」

 オドザヤは貴婦人たちとは違って、朝早く起きる。ふと、今、自分が着ているドレスの色味と布地を見て、オドザヤは今日初めてそれを見たような気持ちがした。今朝も慌ただしく支度をしたので、彼女はカルメラとイベットが持って着たドレスに、盲目的に袖を通したのだった。

 それは、薔薇色と言うには灰色が混ざって白っぽい色で、桃色と言うにもくすんだ色の、だが光沢のある生地に、重なる花びらにも、穏やかな波の寄せる様にも似た文様の織り込まれたものだった。

 季節柄を考えても派手な色はおかしかったし、オドザヤの年齢に合わない老けた色味ではなかったのだが、中途半端な色味と感じられないこともなかった。

「そんなお色味では、気持ちも沈んでしまいますわ。あなたたち、もっと明るい色のドレスを用意して。ああ、そろそろまた仕立ての部屋の者を呼んで新しいのを作らせなくては!」

 自分が朝、オドザヤの元に選んで持って来たドレスなのに、そんなことはもう忘れた、とでも言うようにまくし立てるカルメラ。

「そうですわ。皇宮の仕立て部屋の者たちは年配のお針子ばかりが幅を利かせております。ですから、どうしても意匠が古臭くなります。今度、外から若い仕立て屋をお選びになったらいかがでしょう? 大公殿下も、クリストラ公爵夫人も、身分にこだわらず、ノルマ・コントとやらいう若い仕立て屋をご贔屓にしていらっしゃるそうですし」

 喋りながらも、カルメラはオドザヤの前に、彼女お気に入りの、外側が空色一色で、小鳥と小花模様が白い内側いっぱいに描かれたカップを置いた。その中に、薔薇の香りのする、だがやや毒々しい紅色の紅茶が注がれる。

「そうなの? そう言えば、お姉様のお衣装はいつも伝統に法っておられながらも斬新だわね。叔母様も、新年の舞踏会の時のドレス、とても素敵でらっしゃったわ。……エルネスト様と踊られた時のお衣装、お二人とも、すっきりしているのに目が離せないような粋な意匠で。お色もはっきりしてらして。……それに比べると、私の衣装は確かに、地味で野暮ったいかもしれないわね」

 オドザヤは、そこまで呟くように言って、ふと、まだ元気だった頃のアイーシャの衣装を思い出した。

 粋というよりは、派手な色み。装飾過多でただただ豪奢。ちょっとオドザヤの目から見ると下品な気さえするほど、アイーシャの選ぶドレスや装飾品は、派手好みだった。慰問などに出かける時には、地味ななりもしていたけれど、帰ってくると必ず「こんな地味なドレス、二度と着たくない」などと言っていたものだ。持ち前の美貌で、どちらもちゃんと着こなしてはいたけれど。

 皇宮の仕立て部屋のお針子たちは、ああしたアイーシャの両極端な衣装選びに慣れてしまっているのだ。

 でも、今はそれどころじゃないわ。

 カイエンは暗殺未遂事件があって、彼女をかばって代わりに刺された大公軍団の軍団長は生死の境をさまよったとか聞いている。アマディオ・ビダルのコンドルアルマ将軍の任命式のために行った元帥府では会ったが、カイエン自身は事件後、皇宮へは一度も上がって来ていない。

 さっき執務室で別れた宰相のサヴォナローラも、いつも通りにきちんとした身なりで、顔つきも穏やかだったけれど、なんだか少し痩せたようにも見えた。オドザヤが執務室を出る時、彼の護衛をしている、あの、オドザヤがどうしたことか印象的に思って覚えている、カイエンの護衛騎士とよく似た若い武装神官が、心配そうに彼の側へ来ていたっけ。

 オドザヤは、カルメラにつられて浮いた考えでいっぱいになりそうになった頭を、無理矢理に現実へ引き戻した。

「これは? 新しいお茶なのね」

 オドザヤはカップを下の皿ごと持ち上げ、窓から入る冬の陽に透かすようにして見た。

 カルメラはカップと揃いの小皿に、茶菓子を取り分けながら、にこにこと応じる。その様子は主人を思いやる健気な侍女としか見えなかった。

「お気付きですか。いつもの薔薇の花を入れた紅茶なんですが、これはそれに滋養強壮にいい、枸杞くこの実の砂糖漬けを入れたものですわ。ですからほら、お色が紅色で、きれいでございましょう?」

 オドザヤはカルメラの言葉を聞きながら、カップに口をつけた。ふわっと鼻をくすぐる香りは、薔薇の香り。だが、舌にのせ、喉を通った時に感じた甘みは、この頃、疲れを見せた時にカルメラが勧める、あの真っ赤なとろりとした薬草酒に似ている気もした。

「……甘い。砂糖漬けだけでこんなに甘いの?」

 オドザヤはそう聞いたが、カルメラはもう別の話を始めてしまっていた。オドザヤは気が付いていなかったが、本来ならば主人である彼女が話題の主導権を握っているはずだった。だが、思い出せば彼ら主従の間では、いつでも話題を振ってくるのはカルメラの方だった。

「陛下、ご存知ですか。トリスタン殿下が近く、家柄の優れた方々をお集めになって、ザイオン外交官官邸でご挨拶の御披露目をなさるそうですわ。我が国ではスキュラでのことがございます折から、大々的にはなさらないそうですけれど。なんですか、こんな時期に重なってしまったのは残念ですけれど、こちらへは遊学のためにお越しだとか。それで、しばらくの間はご滞在になるので、近くに外交官官邸のお外にお屋敷を探され、移られるそうです」

 そんなことは、表のサヴォナローラたちからは一言も聞いていなかったので、オドザヤは白皙の額にしわを寄せた。

「遊学!? どこからそんな話を! だって、ザイオンからは三人の王子の肖像画と一緒に……」

 オドザヤはあの見合い話を思い出し、はっとして声が大きくなったが、カルメラは動じなかった。

「陛下……それはそれですわ。あの方、きっと、陛下に気に入られたい一心でいらっしゃいますのよ。新年の舞踏会でも、なかなか陛下にダンスのお相手をお願い出来ず、後宮の皆さまなんかに次々とお声をかけられて。きっと恥ずかしがっておられたんですわね。良いではございませんか。お選びになるのは、間違いなく陛下の方でございます。ゆっくり焦らして差し上げればよろしいんですわ」

 これは皇帝であるオドザヤの前で、思い切ったことを言ったものだが、カルメラの言い方があまりにもしんねりとして断定的なので、オドザヤはカルメラの言ったことを責めるよりも、呆れて黙り込んでしまった。

「ああ、トリスタン殿下の御披露目には、名家の姫君が皆、揃い踏みでいらっしゃるんでしょうねえ。だって、外国の王族の方がこのハーマポスタールへご滞在なんて、久しくなかったことでございましょう? もしかして、大公殿下もお呼ばれになるのかしら。大公殿下は先日の事件で殿下をかばって怪我をなさったっていう、軍団長も憎からずお思いだっていう噂ですから、きっと、あの華麗なトリスタン殿下にもご興味を持たれているはずですもの」

「えっ」

 オドザヤは、最初は聞き流していたのだが、トリスタンと一緒にカイエンの名前が出て来た途端に真顔になった。

「カルメラ、どういうことなの? お姉様がトリスタン王子に何か……」

 オドザヤはカルメラほどにはあからさまな物言いは出来なかったので、やや歯切れの悪い質問となったが、カルメラは待っていました、とばかりにまくし立て始めた。

「あら。だって陛下。陛下もご覧になったことがございますでしょう? 大公軍団の軍団長といえば、『大公軍団一の伊達男』として有名な方。ずいぶんと前ですが、陛下が、コンスタンサ様と私をお供に、大公宮へお仕事をご覧になるためにいらっしゃった時、私も垣間見ましたわ。それに、確かこの皇宮へも先帝陛下がご存命の頃にいらしたことがあったはずです。平民なのに、どの貴族のご当主、ご子息よりも秀麗な姿でしたわ。あんな凄い美男子をお側においてかわいがっておられるんですもの。大公殿下は、こんな言葉は畏れ多いですけれど、いわゆる『面喰い』でいらっしゃるに違いありません」

 カイエンがもしここにいて、カルメラの言葉を聞いていたら、自分のことはともかく、オドザヤをたぶらかすなと、額に青筋を立てたかもしれない。だが、ここにカイエンはいなかった。

「……お姉様が、なに。 めん……く?」

 皇宮育ちで、カイエンのように通俗小説の大人買いをして読みふけったりするのとは無縁の、優等生のオドザヤはもちろん、「面喰い」などという言葉は初めて聞く言葉だった。

 カルメラはオドザヤが話にのってきたので、してやったり、とばかりに微笑んだ。

「面喰い、でございます。美男子好きのことですわ。思えば、今の帝都防衛部隊長、前のフィエロアルマの獣神将軍様も、たいそうな美丈夫でいらっしゃいますとか。ご夫君のエルネスト皇子殿下も、先帝陛下や大公殿下によく似てらっしゃって、それでいて男らしくて素敵な方。そんな美男子好みの大公殿下が、あのきらびやかなトリスタン殿下を放っておくとは思えませんわ。そうじゃございません?」

 カルメラは上手に、最後はオドザヤの意向を聞きたい、という形で話を締めくくった。

 どこからこんな話術を身につけたのかと、カイエンならば目を白黒させたに違いない。もっとも、下級貴族の娘たちなどにはこんな油断ならない、本心を見事に隠して他人を操る物言いを、年頃ともなれば身につけていることは珍しいことではなかった。

 彼女たちにとっては、恋愛での綱引きも、他の令嬢たちとの蹴落とし合いの競争も、すべては「幸せな縁談」や「玉の輿にのる」ための能力の一つだったのだ。

 不幸なことに、オドザヤはカイエン以上に世間知らずで初心だった。だから、彼女はカルメラの言っていることをほぼ、額面通りに受け取ってしまった。

「お姉様が、トリスタン様を……?」

 その時、オドザヤの頭に蘇ったのは、新年祝い兼、トリスタン歓迎のために行われた、あの舞踏会でのことだった。

 トリスタンが一向に自分にダンスの申し込みをせず、後宮の妾妃たちとばかり踊っているのに耐えきれず、途中で中座したオドザヤだった。そして心を整え、女官長のコンスタンサとともに、会場へ戻る途中で見た光景。

 それは、うぶなオドザヤが見ても、カイエンを挟んで彼女の正式な夫であるエルネストと、トリスタンがばちばちと火花を散らしているようにしか見えなかった。

 黙ってしまったオドザヤの様子を、新しくお茶を注ぎながら観察していたカルメラは、なおも言葉を重ねるのだった。

「トリスタン王子殿下は、この皇宮へご挨拶にいらっしゃる前に、大公宮へおとりなしのお願いに行かれたそうですもの。大公殿下もトリスタン殿下を気に入られて喜んで動かれたに違いありません。巷では大公殿下のことを、女艶福家とか申しているそうですが、まさにそうでいらっしゃるのかもしれませんわねえ」

 その時、オドザヤの頭に回っていたのは、あの時、大公宮の大公の食堂で行われた、カイエンとリリの誕生日の時の情景だった。宴の途中で席を外したカイエンは、しばらくしてトリスタンを伴って戻ってきたのだ。

 トリスタンの踊りを見守るカイエンの顔は、彼の踊りの素晴らしさに感嘆しているように見えた。

 実際にカイエンはトリスタンがオドザヤに及ぼす影響など未だ考えも及ばず、ただただ踊りの芸術的な見事さに見入っていただけだったのだが、今、改めてその様子を回想したオドザヤには全然違うように見えて来ていた。

(お姉様、私、あの方と今すぐ結婚したいとか、そんなことまでは考えていません。自分の立場も、今のこの国の状況も、理解しているつもりです。ただ……)

 新年を祝う舞踏会の後、夜明けにカイエンを自室に招き入れて言った言葉。

 そして、あの時、カイエンが言った言葉。

(そうです。私には、今の陛下のように、誰かを想ったことがない。ご存知のように、ヴァイロンとのことはサウル伯父上が決めたことでしたし、エルネストとの結婚は、国同士のことですから)

 オドザヤは、ぎゅっと心臓をつかまれたような気がして、思わず、ドレスの上から胸元を手で抑えた。

 カイエンは言ったのだ。自分は誰かを想ったことなどない。エルネストとのことも、ヴァイロンとのことも、他人がお膳立てしたことだから、と。

 では、カイエンはトリスタンのことはどう思ったのだろう。今、どう思っているのだろう。

「あっ」

 オドザヤはきしり、と自分の心臓が軋む音を聞いたような気がした。

 ああ。まさか。

(お姉様も、トリスタン王子に興味を持たれていた。だったら、きっとトリスタン様を私から取り上げてしまうわ)

 カルメラは、オドザヤの顔が青ざめ、ドレスの胸元を握りしめた拳が震える様子を、静かに見ていた。

(だって、お姉様はもう、男の方を知っているのだもの。誰かを想ったことがないとおっしゃってはいたけれど、お姉様は私と違って、男の方を振り向かせる方法をご存知なのだもの)

 嫌だ!

 オドザヤは心の中で叫び声をあげていた。さすがに、実際に声に出すのははしたない、という分別ははたらいていた。だが、思考の方は元々のオドザヤの慎重さ、素直さ、おおらかさとは違って、あまりにも感情的で短絡的だった。

 実は、それはこの頃オドザヤがカルメラに盛られていた、あの甘ったるい薬の作用だったのだが、まだそんなことにオドザヤが気が付くはずもなかった。

(どうしたらいいの。お姉様に彼の方を渡さないためには、どうしたらいいの)

 オドザヤの考えはそこで凝り固まったまま、ぐるぐると果てしなく巡り続けるのだった。






 一方。

 同じ頃。

 監獄島デスティエロの事件が発覚すると同時に、職務に復帰した大公軍団軍団長のイリヤは、外から大公宮表の自分の執務室へ戻って来たところだった。

 傭兵ギルドの人脈を駆使して、ハーマポスタールの裏社会を牛耳る面々に、逃げ出した囚人たちを見つけたら教えて欲しい、出来たら確保もお願いしたい、と根回しをして来た帰りだった。こればかりは、治安維持部隊長の双子にも出来ないことだったのだ。

 そこには、彼の仕事とはまったく関係ない人物が、彼の侍従を引き連れてどっかりと待ち構えていた。

 部屋の外で、大公宮表の侍従長のベニグノが困り果てた顔で待っていたから、イリヤはすぐに異常事態を察知することが出来た。

「軍団長殿……」

 ベニグノは何か言いかけたが、イリヤはそれを手で制した。

「あああ……。そうなの。わかったから、みなまで言わないでいいよぉ。あー、もう、忙しいのにめんどくさいねえ」

 イリヤにはこの事態は想定内のことだった。近いうちにそいつは自分の前に現れる、とは思っていたが、表の執務室にまで押しかけてくるかどうかは微妙だ、と思っていたのだ。

 その人は、大公軍団の仕事には無関係な人物で、本来ならイリヤの執務室などに現れるはずのない、やんごとない身分の人間だった。

「はいはい、お待たせしましたねー」

 イリヤがどうでもいい口調でそう言って、自分の執務室の扉を開いた先には、思っていた通りの人物が待ち構えていた。

「おう。死に損ないの軍団長様のお帰りを、お待ち申し上げておりましたぜ」

 イリヤの執務机の前に椅子を持って来て座っていたのは、意地悪そうな笑みを浮かべたエルネスト。そして、その脇に体全体から「お忙しいところに申し訳ない」という確固たる意思を放って立っていたのは、エルネストの侍従のヘルマンだった。

「ヘルマンさんだっけ? お疲れ様ですねぇ」

 イリヤの方は、エルネストの方は完全無視した格好で、執務机の向こうの自分の椅子に座り込む。その様子は、この部屋の主人は自分だ、と誇示しているようだった。顔にはこれ以上ないくらいの作り笑いが貼り付けられている。

「で、皇子様には、何の御用でわざわざ、こんな薄汚い部屋にお越しでしょう? ご存知のとーり、今、俺は瀕死の怪我をおしての勤務の上に、超忙しいんですよぉ。手短かにお願い致しますねー」

 この、小馬鹿にした物言いにも、エルネストは顔色ひとつ変えなかった。

「なるほど。ご主人様のご寵愛をいただいたとなると、態度もでかくなったもんだな。……いや、態度がでかいのは元からか」

 これを聞くと、イリヤはおもむろに机の上の書類の山を、両手で左右にかき分け、空いた場所にどっかと組んだ長い両足をのっけて見せた。大公軍団軍団長とはいえ、イリヤは貴族でもない平民だ。普通なら異国の皇子の前でそんな態度が通用するはずはなかった。

「はいはい。態度はこの通り、大きなもんでございますよ。さっき言ったでしょ。……用件は手短かに願いますよぉ」

 イリヤはエルネストの皮肉に動ずるどころか、売られた喧嘩は買う、という態度だ。だが、これにもエルネストは薄笑いを浮かべて応じた。

「……その様子じゃ、もうやったのか」

 この、色々とこじらせているエルネストにしては、直球すぎる質問には、イリヤもそれほど回りくどい言い方は選ばなかった。

「そんなの、あんたに言う必要ないじゃん。ここでの『ご主人様』は殿下だもん。シイナドラドの時とはわけが違いますよぉ」

 この時、イリヤは初めてエルネストの一つだけの黒い瞳を直視した。

「ここでは、やるもやらないも、殿下が決めるのよ。そうでしょ? まさか、まだそれが分かってなかったのぉ」

「エルネスト様……」

 ここまで聞いているだけでも、やりきれなくなったのか、侍従のヘルマンはエルネストを押しとどめるように言葉を挟んだ。だが、エルネストが引き下がるはずもない。

「じゃあ、あのヴァイロンの野郎に続いて、おまえもカイエンの男に名乗りをあげたってことだな」

 イリヤはこれにはうれしそう、と言ってもいい顔つきでうなずいたものだ。

「はいはい。殿下とはお互いの気持ちの確認もすんでますよぉ。ああ、ヴァイロンの大将との話し合いもすんでますぅ。後ろ暗いとこは微塵もないのでありますよー」

 これを聞いて、初めてエルネストの顔つきが変わった。

「ケダモノとも合意済み、ってわけか。さすがに伊達男だ。やるとなったら素早いもんだな」

 エルネストも、改めてイリヤの鉄色の目を凝視した。

 そのまま、しばらく黙っていたが、やがて、エルネストは一回、目を閉じてイリヤから視線をそらした。

 そして、口を開いたときに出て来た言葉には、さしものイリヤもちょっとびっくりした。

「……分かった。それじゃあ、しょうがねえ。俺の出る幕なんぞ、ここじゃ最初っからなかったしな。こりゃあ、俺ももう、次の方向へ目線を変えなきゃならねえな」

「次の方向?」

 吸い込まれるようにイリヤが問うと、エルネストはまだ曖昧な表情ながらもうなずいた。

「おまえも知っての通り、俺もまだカイエンを諦めきれちゃいねえ。でもな、俺には……シイナドラドの皇子である俺には、ここに来る前から、いつかは振り向かなきゃならねえ仕事と事情があるんだ」

 これを聞くなり、イリヤの顔から、にやついていた雰囲気がきれいに消えた。

 イリヤには明らかに、エルネストの言うことに心当たりがあったのだ。

「皇子様にも使命があるってことねぇ。で、それに突入するとなれば、この国やら殿下やらには、さよならしなきゃならないってことでしょ。……俺としては願ったり叶ったりだけど、でも、今すぐに行くのはやめてよね」

 イリヤがこう言うと、エルネストは意外そうな顔をした。

「なんだよ。邪魔者には早く消えて欲しいんだと思ってたけどな」

「一回、殿下の婿としてここに来た以上、殿下の役にはたってもらいますよぉ。なのにまだあんた、ろくに殿下の役にたってない。そんなんじゃ、困るのよね」

 イリヤは、遠くを見つめるような目になった。それを、エルネストとヘルマンの主従が、じっと見ていた。

「俺が死ぬまでとは言わないわ。でも、この国がどうなるか先が見えるまでは、ここにいてもらうよぉ。あんたの使命を始めるのは、それまで待ってもらいたいねぇ」

 そして、イリヤが次の言葉を言った時、エルネストは初めて見るような目で、イリヤを見直したのだった。


「殿下の最後を看取るのは、ヴァイロンだよ。それはもう、あんたにも分かってるんじゃない? そして、新しい時代を開く前に殿下の前で死ぬのが俺なのよ。で、あんたは。あんたはどうするの? あんたは、何を殿下に持って来るの? 何を、殿下にもたらすために生まれて来たの?」


 エルネストが再び口を開くまでには、しばらくの間が必要だった。

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