巻き起こせ恐怖の再臨
秩序を破壊しようとする者たちは、民衆を巻き込んだ
その発想は、秩序ある社会のあちこちに危険をばら撒き、穴を開け、そこから黒い触手を広げていくというものだ。
秩序を守ろうとする者たちは姿の見えぬ破壊者たちの、予見出来ない邪な
だが、それは無理なことだ。困難なことだ。
大きな象は体の隅で動き回り、毒針を刺す小虫を一つ一つ、殺していかねばならない。
つまり、先攻も攻撃の主導権も、当初は破壊者たちの側と決まっているのだから。
殺しが起きる前へと時間を遡り、犯人を捕まえることなど出来はしない。
そして、秩序を守る側は、自分たちの後ろに山と控えた
破壊者たちには大勢いる民衆の命など、大事の前の小事でしかない。
守護者が民衆を守りきれなくなったときが秩序が崩れ、倒れ始める時だ。
彼らは破壊者たちを懐に入れぬため、機敏に動く悪賢い悪魔の足を切るために、民衆の生活を縛る。
彼らはその上で積極的に撃って出て、破壊者たちを取り囲み、攻撃するしかないからだ。
だが、それはきっと長引く。
そうなれば、民衆の我慢はそう長く続きはしない。
待ち構えていた破壊者たちは、哄笑しながら民衆の不満に火薬を投じるだろう。
悪人どもが襲って来たら、いつでもより強い秩序の守護者がそれを迎えうち、ねじ伏せてくれると思っている。
だが、そんなことが実現するのは夢物語の中だけのことだ。
いつか、民衆は窮屈な生活を強要するなと叫び始める。
そして、それまでの守護者を圧政者と呼び始める。
ああなんということだ。
その時から、それまでは民衆のためにあった、その守護者も変質し始める。
そうなったら、もう時代は転覆するよりほかにはない。
破壊者と守護者の位置さえひっくり返る時が来るのだ。
そんな歴史、そんな繰り返し。紐解く歴史書にいくらでもある出来事。
なのに、人々は繰り返す。
そして。
……満を持して。
「あれ」が混乱の巷へ登場する。
あだ名は
それは世界をその手のひらにのせ、一世を風靡する。
あだ名は
ギザギザの歯の並ぶ口から、咆哮する言葉はただ一つ。
「世界を手に入れたい」
カイエンは自分とイリヤの銀の懐中時計の件で、骨董品店「
実のところ、カイエンの銀時計の謎探しなど、根っこから吹き飛ぶような報告が、大公宮へ戻ったカイエンの元まで上がってきたので、カイエンはもうこの件に心も時間も裂いている余裕はなくなってしまう。
それは、以下のような順で押し寄せてきた一連の事件の続報だった。
大公軍団は一月一日に、軍団長のイリヤが襲われて、次にはイリヤ襲撃犯人を尋問中の、治安維持部隊長の双子の兄、マリオもが襲撃された。弟のヘススに化けさせられていた男と、数人の仲間は捕縛できたが、その混乱でイリヤを刺した
この時、大公軍団は、失態に継ぐ失態を重ね、かなりの打撃を受け、捜査上の暗礁に乗り上げてもいた。
イリヤを襲った
その理由は、捕縛した彼らに施された、巧妙な変装を取り去ってしばらくして判明した。
彼らはすべて、以前、治安維持部隊に逮捕されたことのある凶悪犯の前科者だった。それも、ハーマポスタールの南西の沖合にある、通称「
これがいち早く判明したのは、大公軍団にあの“メモリア”カマラという特殊能力者がいたからだ。彼はここ数年に起きた凶悪犯罪の犯人すべての顔を見せられ、そしてスケッチするとともに記憶させられて来たからだ。
これ以降、カマラはその自宅から家族から、彼の仕事の間じゅう、ずっと警備が付くこととなる。彼に何かあれば、大公軍団の捜査能力は冗談ではなく、半減するだろう。
それはそれとして、終身遠島処分となっていた彼らが、どうやってハーマポスタールへ戻っていたのか。
この事実は、判明すると同時に大公宮のカイエンのところまで、最優先で上がってきた。
だが、その頃はまだ、カイエンもそしてイリヤも安静を言い渡されていた時期だった。
後から思えば、イリヤの襲撃もまた、時期を計って行われたもの、と言えなくもなかったのである。
大公軍団軍団長のイリヤがまだ仕事に戻れない状況の中、治安維持部隊長の双子は、もちろんすぐに「監獄島」へ使いの隊員を乗せた船を走らせた。
そして、慌てて戻って来た隊員が告げた事実は、凄惨を極めた。
この「監獄島」での惨劇の情報が、大公カイエンの元に上がって来たのこそが、カイエンが「
監獄島には、現在、土着の民はいなかった。
元は少ないが、漁民の村があったのだが、罪人が送られ、島自体が巨大な監獄の役割を持たされた歴史とともに、善良なる住民達は島を出て行ってしまったのだ。その際には、保証金が出たと言われている。故郷を捨て去って、他の地でやり直すための金だ。
だから、双子が送った隊員が見た風景には、幸運と言えるかどうかはわからなかったが、民間人の姿はなかった。
そこで、上陸した隊員たちが見たのは、皆殺しにされた看守と罪人達の骸の山だったのだから。
それも、昨日今日のものではない。
島のあちこちで倒れ、そのまま腐乱し、白骨化している遺体はもはや、元が看守だったか、罪人だったかの区別が、その残された衣服の切れ端でやっと分かる、という状態だった。真冬の今なら、すぐにこんな状態にはならない。
殺戮は恐らく、秋より前に起こったものと思われた。
この状況では、すぐには死者の数が、送られた罪人の数と合っているかの確認も取れはしなかった。
これには、報告を受けたカイエン以下、皆が、頭を抱えるしかなかった。
とにかく、看守の総数と、罪人の頭数の確認をしなければならなかったが、それも沖合の遠島での事だ。すぐに結果が出てくるものではなかった。
もちろん、監獄島からは毎月、定期の報告が上がって来ていた。
この島とハーマポスタールとの間には、月一本ではあったが、定期便が存在した。
だが、島の様子では、島側はかなり前に外部の勢力によって制圧、支配され、定期便の行き来もまたその支配下で適当に島側で誤魔化されていたと考えるのが、順当だろうと想像された。
定期便の報告もまた巧妙に、島からの定期便の着く沿岸の港で渡される書面そのものが、島でか船中でか偽造され、ハーマポスタールへともたらされたものだったのだ。
「では、では……何人もの遠島の罪人、それも凶悪犯が島からいなくなっているとしても、今すぐには確認はできないということか?」
カイエンは報告に来た、双子の弟のヘススの前で、思わず、見せられた書類を机の上に取り落とした。
敵側のやり口の、いつも考えもしない場所から斬り込んでくる手口の狡猾さ、抜け目のなさ。いったいどんな頭がこんな悪巧みを考えつくのか、と呆れる気持ち半分、暗澹たる気持ちが半分だ。
もちろん、カイエンの頭の中に第一に浮かんだのは、あのアルウィンの顔だった。だが、彼女とてももはや唯一人アルウィンだけの思いつきで、去年から今までのすべてが仕組まれたとは考えてはいなかった。敵は新たな悪い「頭脳」をどんどん手下に取り入れているのだろう。
「はい。島の罪人から幾人が敵方に取り込まれたのかも……すぐには確認できません。ましては、個人を特定することなど……」
真っ黒な目を悔しそうに伏せ、首を振るヘスス。彼ら双子が、こんなにも暗澹とした表情をしたことが、今までにあっただろうか。
事態はかなりの危険度を示していた。
と言うより、今まで数ヶ月、カイエンたちの知らないまま、その危険はこの帝都ハーマポスタールにあったのだ。
いく人とも知れぬ凶悪犯が、野放しになっているのだから!
「なぜだ!」
カイエンは、ヘススに言ってもしょうがないことは分かっていた。
それでも、言わずにはいられなかった。
「なぜ、我々はいつまでも後手後手に回ってばかりなのだ……。どうして、どうして!」
ヘススは黙っている。それより他に、彼とても取るべき態度はなかった。誰にとっても気持ちは同じだった。
「いや。これは我々の側があまりにも彼らの、彼らのやり口を知らなすぎたのだ。どこからどんな人間を引っ張って来て、仲間に取り入れ、そして走狗に使おうとしているのか。……だが、もうはっきりした。彼らは、手を汚すことに慣れた人間を寄せ集め、このハーマポスタールを徹底的に恐怖の巷、市民たちが毎日の生活の不安におののき、暴力に怯える街にしてしまいたいのだ。そのためには、出来うる手段はなんでも使ってくる。そして、その上に桔梗星団派や、ベアトリア、新生螺旋帝国の外交官、そしてスキュラやザイオンが仕掛けてきていることを考えれば、治安を悪化させた上に、政治不信を……この国の政体をも揺るがそうというのだろう」
カイエンがそこまで言うと、ヘススは言いにくそうに、彼の意見を言葉にしたのだが、それはその日のうちに宰相府のサヴォナローラと、元帥府のエミリオ・ザラからも、ほぼ同じ文言での知らせとなって現れた。
ザラ大将軍の方は、わざわざ、大公宮のカイエンのところまで自らやって来た。
ザラ大将軍エミリオがその時、大公宮の表のカイエンの執務室で言ったことを引用すれば、それはこう言うことであった。
「……事態は急激に動き出しましたな。と、言うよりも、去年までの事件は奴らの『実験』とでも言ったものだったのでしょうな。小手調べと言ったものだったのでしょう」
ここまで、ザラ大将軍が口にした内容だけで、カイエンはもう耳を覆いたくなった。では、これからが「本番」なのだ。
エミリオ・ザラは、皺深い顔に苦笑いのような表情を浮かべている。
カイエンよりもずっと年長の彼だ。こうしたことも、まったく予想していないことではなかったのかもしれない。それでも、彼は有効な対応をオドザヤに具申することは出来なかったことになる。そこには、彼なりの忸怩たる想いもあるのだろう。
「彼らはこれからハーマポスタール市内の不満分子や、様々な、今までは表出することが出来ず、隠れていた数々の不穏な思惑を持った分子と連携し、起こす『事件』をより規模の大きなものにしようと計ってくるでしょう。それを抑止するには……。こちらが軍や大公軍団を個別に、通常の範囲を侵さずに動かしていたのでは、これからもずっと先を取られるでしょうなあ。こういう、敵方の狙いはすでに昨年のあれこれから見えていたことでしたが……」
ここまで言って、ザラ大将軍は、一旦、言いにくそうに口を閉じた。
「これから申し上げることは、もう、あの宰相にも言いましたわい。あの男ももう、覚悟ができたでしょう。歴史に名宰相どころか、間抜けな亡国の宰相、市民弾圧の宰相と書き記されるかもしれん、いや、そっちの方が濃厚になった、という覚悟がですな」
カイエンは執務机の向こうに座っている、ザラ大将軍の顔を、はっとして凝視せずにはいられなかった。
「亡国」と、今、エミリオ・ザラは言ったのだ。では、事態は最悪の場面としてそこまでを想定せねばならないということなのだろうか。
ザラ大将軍は、カイエンの表情の変化にすぐに気がついた。
「……いや、『亡国』は言い過ぎでしたな。このハウヤ帝国には、いまだ四大アルマも健在。地方の領地を持つ貴族たちも、それぞれに軍勢を持っております。そう悲観すべきではない。ですが、このハーマポスタールが崩れるようなことがあれば、国体は揺れるでしょう。今ここで、この段階で我々のできる対策は限られておりますが、今すぐにそれは実行せねばならないでしょう。ですがそれは、いまだ外の勢力の動きを俯瞰して見ることのない市民からすれば、表面上、市民生活の自由を制限し、権利を拘束するものに見えてしまうでしょうな。だから、あの宰相や、現場の官吏なんぞはその矢面に立つことになりますからな。あの者には、覚悟の時でしょうて」
カイエンは緊張した。
彼女とても、歴史書を愛読するくらいだ。こうした場合に今までの体制を守ろうとする側がする方策を知っていた。
そしてそれが、市民生活を窮屈なものにし、守っているはずの市民たちの不満をあおる結果となることを、もう、知識としては理解していた。歴史上、そういう駆け引きを何度も乗り越え、国々は国体を維持して来た、ということも。
何を使い、どこから、何を仕掛けてくるのかわからない敵。
その敵は、わかりやすい外国からの侵略者、目に見える軍隊などではない。見えないうちに、人々の生活の合間を縫って、街を、国を揺るがそうという影のような存在なのだ。
その影の先へ回ろうとすれば、それまで普通だった平和な市民生活を圧迫するような、極端な政策が必要になってしまう。
それをなんとか回避しようとして、皇宮でも大公宮でも、今まで、後手後手の対応にならざるを得なかった。
彼らとても、何もまだ知らない市民たちに、保護と防御という名の下に、窮屈な思いをさせるのは忍びなかった。そしてそこから吹き上がってくるだろう「不満」という結果の渦をかわす決心がつかないままに、ここまで来て来てしまったのであった。
「夜間の行動を制限するとか、ある程度以上の数の人間が集まるのを禁止したり、制限したり、ということですね。市内への出入りの検問を厳重にし、下町には検問所を設け、人々の行き来を制限する。そうしないと、奴らの使っている人間を、市民と区別して、あぶりだすことなど出来ない。特に下町の……職業ギルドに所属していない、町の人別帳にも載っていない人たちへの扱いをどうするか、ですね」
カイエンの言葉を聞いた、ザラ大将軍の顔つきは、いっそ静かで落ち着いたものだった。
「さすがに、こうした場合に取られて来た政策については、よくご存知ですな。それについては、これから緊急に対策を練らねばならんでしょうが、まあ、一番最初は、今は任意で作らせている自警団、あれを
そう。
ハウヤ帝国の帝都、ハーマポスタールは、近隣各国の首都と比べて、あまりにも広く、人口も多い巨大な街なのである。
「あの、
そこで、ザラ大将軍は天井を見上げて、考える顔になった。
彼が、こうして大公宮へ報告がてらやって来たのも、実は元帥府の自分の執務室ではいい案が出てこなかったからなのかもしれない。
「宰相のところで、官吏たちを集めて、まずは職業ギルドの長や、街の顔役を集めての説明会を実施。それから、下町の方の対策を練るはずです。各神殿にも声かけして、信者や近隣の管理や警備、いざという時の逃げ場所としての機能を持てるようにしてもらわにゃならんですな。……やることはいくらでもあります。徐々に取り組めばいいかと思っていたが、もう、そんな猶予はなくなってきたようです」
「そうですね。こちらも、市民の不満の矢面に立つ覚悟をしなければならない時が来たようです」
カイエンはとりあえず、大公軍団の方で対応できることを進めることを約束し、近いうちに皇宮で大々的な対策会議を開くことで合意し、ザラ大将軍は帰って行った。
ザラ大将軍が出て行った扉へ向かって、カイエンはこう言わずにはいられなかった。
「なぜ、平穏な生活を守ろうとする側が、市民たちの生活を縛らねばならなくなるのか。そして、その結果として歴史は何を語っているのか。……私たちはその轍を踏んではいけない。だが、だが……」
出来るのか、自分は。宰相のサヴォナローラと同じように、歴史に悪名を残す覚悟があるのか。
カイエンはふう、とため息をつきながら、執務机の椅子に背中を預けるしかなかった。
そうしてみれば、一月一日から起こったあれこれは、大事の前の「かわいらしい出来事」としか思われなかった。
大公軍団を支配するイリヤを失わずに済んだことはもちろん、いいことだったのだが。問題はそれに付随して起こった個人的な出来事の方だ。
「……浮かれていたな。こんな大事の起きている中で、見事に馬鹿で間抜けな浮かれ方をしていたもんだ。事件の重要さに気を回すこともなく」
そう呟いた途端に、カイエンの頭の中に浮かんだのは、リリやヴァイロンや、イリヤや……そして彼女の守らねばならない身近な人々の顔だった。
彼女はなるほど、この街、ハーマポスタールの大公だった。彼女の仕事はこの街を守ること。
だが、その中には、間違いなく身近な人々の顔も入っているはずだった。
「私の大公としての仕事は、一人では出来ない。国を守ることも、街を守ることもその中の一面。そして、そのために私は私の近しい人々を守れないなどということがあってはならない」
自分勝手かもしれない。でも、近しい人が一人、また一人と消えていくような未来は、彼女の大公としての未来としてもいい未来ではないだろう。
すべての人々を守ることなど出来はしない。そんなことはわかっていた。
個人としては無力。何を守る力もないカイエンだった。
だが、彼女はこの街の大公だった。
この大公宮の主人だった。
「落ち着け。私は、私は一人じゃない」
カイエンは胸元に垂れている、「星と太陽の指輪」の片割れ、星の指輪を黒い制服の上から掴んだ。
その指輪の残りは、オドザヤが持っている。彼女達はこの国の行く末を、二人で共に背負って行くはずだった。
だがこの時、そのオドザヤの身辺には、もう敵の魔手が伸びて彼女を捕まえてしまっていたのだ。カイエンはいまだ、それを知らない。
「みんなと一緒に行くんだ。私には出来なくとも、私たちには、きっと、出来る」
その思いと言葉を、カイエンはこれから先、何度も自分で確認することとなる。これは、その始まりの始まりだった。
怪我の体を大公宮の奥殿で養っていた軍団長のイリヤが、押しとどめる外科医と奥医師を振り切って、彼の職務に戻ったのは、カイエンが、なすすべなき自分の弱さ、拙さを嘆く声をあげた、その数日後のことだった。
一応は、日にちは一月の下旬となっていた。
イリヤは本来なら腹腔まで達する刺し傷で、死んでいたところなのだ。蟲が内部の修復をしたために、筋肉組織までの刺し傷で済んだとは言えども、まだ腹の傷は直接、普通に触れるような状態ではなかった。
最後にはしぶしぶ、了承してくれた外科の医師は、
「普通の仕事ならまだしも、軍団の仕事だ。まー、戦場じゃ、このくらいで復帰する剛毅な兵士もいないことはないけど。……腹帯はしっかり巻いときなさいよ。柔らかい皮だけれど、蒸れるといけないから毎日、下のさらしは変えてね」
と厳命して行った。
それを見送ったイリヤの頭は、もう戦闘態勢に入っているようだった。
「……なるほどねぇ。そういうことかぁ。こりゃもうとっくに、あの陰険なグスマンのおっさんだけの知恵じゃねーな。あの
腹に穴が開き、血まみれになった制服の代わりに、自分の宿舎から持って来させた、替えの真っ黒な大公軍団の制服に身を包んでいくイリヤ。
それまで寝ていた、カイエンの子供の頃の部屋の寝台の横で、最後に制服の裾の長い上着の革ベルトを締めながら。
そのまだ怪我人の青白さを残したイリヤの顔が、にやにやとうれしそうに微笑むのを、カイエンと、治安維持部隊長のマリオとヘススの双子、帝都防衛部隊長のヴァイロン、大公軍団最高顧問のマテオ・ソーサ、無位無官のガラ、それにカイエンの護衛騎士のシーヴが、薄ら寒い表情で見つめていた。部屋の隅では、執事のアキノが無言に無表情で控えていた。
性格にも言動にも、大いに問題のある男ではあるが、こうなった今、この街を守るのに、この男を外すわけにはいかなかった。
イリヤはその職務にかける情熱でも、成果でも、自分の職務へのプライドの高さでも、今までのすべての大公軍団軍団長の中のどの軍団長にも劣ってはいなかっただろうから。
「奴らの一致した目的は、この国、いや、まずはこのハーマポスタールを、どんなぶっ飛んだ手でも使って崩すことなのねぇ。それも後先顧みず。はいはい。俺は自惚れてましたぁ。とんでもなく頭お花畑でしたぁ。でもまー、それも腹ぁ刺される前までの、うすら馬鹿でグスのろまな、可哀想なくらい阿呆な俺っちまでで、止めさせていただきましょ。これからの俺は、前より黒ーい、悪ーい軍団長になりますよ〜」
「おい、イリヤ……」
カイエンは、頭のてっぺんから真っ黒な蒸気、いや瘴気でも吹き出しそうなイリヤの様子に、大丈夫か、と声をかけようとした。
カイエンと教授だけは、イリヤのそれまで寝ていた寝台の横に椅子を持って来させ、そこに座っている。他の連中はその周りに棒のように突っ立っていた。
「あらぁ。我が愛しの殿下ちゃんは、俺様をご心配してくれますかぁ。それなら、頑張る俺ちゃんにご褒美ちょうだい!」
ご丁寧に、両手をカイエンの目の前に突き出してきての、この返事には、カイエンももはや声も出なかった。
恐ろしいイキモノに好かれたものだが、この際は、頼もしいと思うべきだろう。横からヴァイロンの唸り声が聞こえた気がするが、こっちはとりあえずは無視だ。
イリヤに関しては、カイエンが持っているような、これからの自分たちの仕事への、ためらいや引け目など微塵も見えはしなかった。
「大丈夫ですよぉー。要は悪巧み対策だもん。それなら、俺様に足りないとこは、俺様以上の悪人呼んでくればいいだけよ。つまりは、こっちも悪い奴らを上手く利用すればいいのよぉ。まー、後々、責任問題になるかもだけど、その時は俺ちゃんが全部背負って死ねばいいだけでしょ?」
(いや、それでは相手方と同じレベルには立てても、それ以上にはならないんじゃあ)
通俗小説だけでなく、歴史書の愛読者でもある、カイエンはそう言おうとした。だが、そんな心配はいらなかったらしい。
「あははっ。殿下、今、俺のこと、それじゃ向こうの悪いやつと同じだって思ったでしょ? えへへへへ。そのくらいは俺にも分かるよぉ」
どうもこの男、カイエンへの告白以来、もともとぶっ飛んでいた頭のネジが、ポンポンといくつも飛び去ってしまったようだ。
頭蓋骨の間から、それまで隠しおおせていた本性が、なけなしの人間性という抑止力の及ばなくなった隙間からこぼれ落ちるままになった感がある。頭のキレは変わらないのかもしれないが、この物言いでは説得できる相手も、この突拍子もなさと不気味さに逃げ出すのではないか。
「そ、そうか」
「そうなんですか?」
「腹の傷よりも頭の方が心配だな」
「今さら、極悪人ぶっても無理があるぞ」
「「失敗は許されないのですよ」」
「君、大丈夫なのかね。……念願かなったからって、浮かれすぎだよ」
カイエンもシーヴも、ヴァイロンも、ガラも、双子も、教授も、まだ疑わしそうな顔つきだったが、次のイリヤの言葉を聞いて、皆の表情が引き締まった。イリヤの言おうとしていることが、至極まともな方向へと進んで行きそうな予感がわいてきたからだ。
「悪い奴って言ってもぉ、あの宰相さんみたいな聖人君子崩れのワルじゃ、敵の奴らの仕掛けてくる、悪人揃い踏み状態で仕掛けてくる事件の穴を塞ぎきれないよねぇ。そこで、思い出して欲しいんですよぉ」
イリヤは得意そうに、大公軍団の制服の胸もと、軍団長の制服の胸に刺された、精緻な海の波の文様の刺繍のあたりを叩いて見せた。軍団長の彼の制服の上着の合せの一番上には、彼の鉄色の目のような
「俺には大公軍団軍団長、って肩書きの他に、もう一個、肩書きがあるでしょ? みなさん、もうお忘れのようだけどぅ?」
その言葉を聞いた途端、座っていたカイエンと教授以外の人間が、思わずイリヤの方へ一歩、踏み出していた。
「あっ!」
ハーマポスタール傭兵ギルド長。
このハーマポスタールで、正規の兵士ではなく、貴族の私兵や設置したての海軍に採用される船乗りたち、それに大公軍団の隊員すべてが所属するのが、ハーマポスタールの傭兵ギルドだ。
イリヤはこれを、大公軍団軍団長の椅子と一緒に、前の軍団長のアルベルト・グスマンから引き継いでいる。
名前は仰々しいが、実態は正規兵になれないが腕に覚えのある兵士を、帝国軍以外の場所に斡旋している団体だ。
イリヤが傭兵ギルドの事務処理なんかをしているはずがないから、他に事務所なり専属の雇い人なりがいるのだろうが、迂闊なことにはカイエンはそっちのことには、てんで無頓着に来てしまっていた。
後で聞いてみれば、何と、大公宮表の自分の執務室で仕事をしながら、同時に傭兵ギルドの事務所とのやりとりも、至極真面目にやっていたのだという。それでは、目の下のクマが消えることなどなく、宿舎へ帰る暇もないのは、当たり前といえば当たり前だった。
「要は危ないとこへの人材派遣が仕事だからねぇ。まあ、あのカスティージョのおっさんみたいに、傭兵ギルドを通さずに家に郎党抱え込んだりしてない、普通のお貴族様ん家はうちを通して雇うしね。だからお貴族にもお得意様がいるし。人材確保の方面では、ヤクザの親分にお世話になることもあるしね。その関連で、
「なるほどね」
ここで、教授が感心したように呟いた。
「桔梗星団派が、螺旋帝国から亡命させた外国人を使ったり、北のほうでスキュラがあんな行動に出たり、ザイオンが外国からの芸人なんかを装って人数を入れて来たのは、こっちに傭兵ギルドの頭である、君がいたからなんだね。つまりはハウヤ帝国人で使えそうな人間の背後には、ややこしいハーマポスタール裏社会の人脈があって、ぎっちり抑えを効かせている、というわけだ」
教授がそう言うと、イリヤはへへーん、と笑み崩れた。顔色が白くなって、やややつれたその顔は、美貌の破壊力が青天井で急上昇しているので、さすがの教授も目をそらし気味だ。
「わかるでしょー? これで俺がまだ、あの『盾』の頭も続けてたら、この国本当に風前の灯火だったのよ。ここはみんな、殿下に感謝しましょーね」
えっ。
と、カイエンは頭から血の気が引いた。
数日前までのイリヤとの間のあれこれには、こんな国家存亡の危機に繋がる危うい綱引きがあったと言うのか。
「だって俺、国のことなんか、ほんとはどーでもいいもん。俺が大切なのは、殿下とー、後は俺の、俺にしかできない究極のお仕事のことだけですもん」
そして。
このイリヤの台詞が、すべてを物語っていた。
イリヤはアルウィンのことを、「怪物」と呼んでいたが、実はイリヤ自身も立派に人でなしの「怪物」の一人なのだ。
彼の中で「特別」、「しなきゃならない」と決められたものだけが、彼にとっての「大切に守らねばならないもの」つまりは正義なのだろう。
「……まあいい」
前にも、そんなことを言ったような気がしたが、カイエンはここは任せよう、と思った。
後になって、カイエンがゾッとしたのは、イリヤがカイエンには「自分のことを好きになってほしくない」と言っていたことだ。
あれを聞いた時には、何を勝手なことをほざくのか、と頭に血が上ってとんでもない所業に出てしまった。
結局、カイエンはイリヤを好きになっていたらしく、恐らくはそれはカイエンの初恋で、それはイリヤにも伝わったわけだが、これがイリヤにもたらした「変化」はどういう方向へ向かうのか。それは、カイエンが「好きにはならなかった」場合とどう違ったものなのか。
イリヤという「危険物」の正体が明らかになるに連れて見えてくるのは、イリヤの「気まぐれ」とでも言うしかない変節は、彼の内部の精神的な方向性と一緒に、切り替わるものなのかもしれない、と言うことだ。
独特ではあるが、イリヤのカイエンへの気持ちは六年前から変節していない。
ヴァイロンとは理由は違えど、彼がカイエンのために生きる、という一点では、イリヤはヴァイロンと同じ部分があるのだろう。
生真面目なカイエンは、それを自分は利用しようとしているのではないか、と思わないでもなかった。
だが、事態はもはやカイエンにそういう悩みを許してくれないところまで来ていた。
「私には、お前の力が必要だ」
カイエンがそう言うと、もう勢い余って部屋の扉に手をかけそうになっていたイリヤは振り向いた。
その顔に、自信ありげな、いやーな、それでいてなんだか吹っ切れたような、無駄に爽やかな微笑が浮かぶのを、多分、その時カイエンの周りにいた男たちはこう思いながら見ていただろう。
「あまり自惚れないことだ。殿下の足を引っ張ったら、許さない」
「ええっ!」
一番素直なシーヴは、自分の考えたことを、太い声が同時に言ってのけたので、驚きの声を上げてしまったが、他の男どもは、慌てなかった。
「ヴァイロン君の言う通りだよ」
病室だった部屋を出ていくイリヤの背中へ、カイエンと並んで椅子に座ったまま体を後ろにねじ向けた、マテオ・ソーサの言葉がこつんとぶつかって廊下に落ちた。
「……慎重にね。君が死ぬのは、まだかなり先にしなきゃいけないよ」
その同じ頃。
大公軍団帝都防衛部隊が交代で張り込んで見張っていた、ザイオンから来た宝石商人がついに動き出した。
ロシーオたちが、ハーマポスタール市内へ入る前の検問所で見つけた、宝石商だというザイオンのトリスタン王子によく似た風貌の中年男。
彼は、郊外の宿に入ったのち、そこに腰を落ち着けてしまった。市内の金座にある有名な宝飾店へ、持参の宝石を持ち込むと言っていた男は、革鞄の中身を宝飾店へ持ち込むこともなく、宿からもろくに出ないまま、何日もを無為に過ごしていたのだ。
彼がやっと腰を上げて宿を出、向かったのはハーマポスタールの
その日、彼を見張っていたのは、大公宮の影使いであるナシオやシモン、それに彼らと連携できる身軽さを持った女性隊員のロシーオではなく、アレクサンドロとあと二人の帝都防衛部隊の隊員だった。
一人は黙ったまま、ザイオン人の宝石商の男が動き出したことを、近所の大公軍団治安維持部隊の署へ報告に走った。この近在の署にはとっくにこの件について、帝都防衛部隊と連携して動くよう、通達が出されていた。
「まあ、あのおっさん自身は普通の人間みたいだから、追っかけるのは難しくないだろう」
アレクサンドロは、残った隊員に向かって、こう言いながら後をつけ始めた。もちろん、二人ともに制服姿などではない。その辺の市民と同じような、冬のハーマポスタール市民のなりだ。
何度か見張りについて観察していた、影使いのナシオとシモンが言うには、
(足運びなどを見ると、軽業師か……何かな、柔かい筋肉を使う動きに特化した仕事をして来た男だ。あの踊り子王子の父親、ザイオンのシリル・ダヴィッド子爵だと言うなら、それもうなずける。前のザイオン駐在外交官の話じゃ、チューラ女王の愛人だと言うダヴィッド子爵は、元はと言えば、舞踏一座の
と言うことだった。だから、アレクサンドロはそれほど心配してはいなかった。
そして。
ザイオンの宝石商人は、広場に出ると、ハーマポスタールの
こうした場合に好都合なことに、ハーマポスタールの辻馬車は、乗り合いで安い代わりに、行き先の方向が決まっている馬車ばかりだ。いつの頃からか、辻馬車の
この利点は、そのまま、追われるものと追うものの、追う側の利点でもあった。
宝石商人の乗り込んだ辻馬車の、そのすぐ後に来た同じ番号の辻馬車に、アレクサンドロともう一人の隊員が吸い込まれる。
二台の馬車は、ハーマポスタールの通りを郊外から、
やがて、宝石商人が馬車を降りたところ。そして、そこからしばらく歩いて進んで行った先。
それは、金座の宝飾店の前ではなく、中央街に近いは近いが、職種はまったく違う商店の前だった。
「えっ」
アレクサンドロともう一人の隊員は、宝石商人が扉を開けて入って行った、その店の看板を通りの端っこから見て、意外そうな声をあげた。
それは、一軒の大きな薬物商の前だった。
それも、小売りというよりは卸をしている、問屋である。
アレクサンドロともう一人の隊員は、思わず顔を見合わせた。
そこは、まったく彼らのマークしていなかった場所だったのだ。
表の入り口から入って行ったのは、中年のザイオンの宝石商人。
同じ頃。
薬物商の裏口から、人目をはばかるように入っていく、二人連れがあった。
一人は、平凡というよりは心がけの悪さが表情に出ているような、醜いと言っていい中年女。だが、彼女の着ている地味な色のドレスや持っている鞄などは上品で、上等なものだ。
その後ろにお付きの者のようにくっついて、裏口を入っていくのは、背の高い、金髪の若い女だった。もっとも、二人とも、目深に冬の厚い布地にレースのベール付きの帽子を被っていたので、表情などは見て取れない。
「おや。ジョランダ義姉さんじゃないか。今日は、早かったね」
やや薄暗い裏口の側の、店の奉公人たちの食事などを用意する台所から顔を出したのは、太り肉のこれも中年の女だった。
「ああ。気が急いてね。後宮の皇后宮にいた頃よりは、出入りも自由になったけど、そう長い時間は居られないしねえ」
ああ。
そう言って、帽子をとった顔。
それは、皇太后アイーシャの従姉妹で第一の侍女、あのジョランダ・オスナのよじれたような印象の、狂信者じみた目だけが光る、暗くも恐ろしい顔だった。
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