第六話 失楽の王
シーヴの回想
その日。
その日は、皇宮で新年の宴を兼ねた、絢爛たる舞踏会が催された、
まだ、新年を祝う人々の熱気も冷めやらぬ、その日の夕方。
シーヴが馬に乗ってこの場所、新開港記念劇場の裏手へ駆けつけた時、もう大公軍団軍団長のイリヤは、近所の署の隊員と名乗った男に横腹を刺されて、石畳の上に転がっていた。
周りでは、すでに取り押さえられた犯人らしい男の周りに、治安維持部隊の隊員たちが群がり、手足を押さえつけ、自殺されないように無理やりにその口の中に布切れを押し込んでいるところだった。
イリヤの上半身は、石畳の上にべったりと両膝をついて座り込んだ大公のカイエンによって、後ろから抱え込まれるようにして支えられていた。
そのカイエンの背中はぐらぐらしていて、小柄な彼女だけでは、大柄な重たい男の体を支えきれないように見えた。だから、シーヴは馬から飛び降りるなり、ゆらゆらと危なく揺れ、傾いでいたカイエンの体を、外側から抱えるようにして彼女を助けた。
それから。
イリヤはシーヴにも、そしてカイエンにもよく分からないことを途切れ途切れに話したのち、カイエンへの別れの言葉と共に目を閉じてしまった。
「ちょっと! イリヤさん!」
シーヴがそう叫んだ時には、もう、イリヤの体からは一切の力が抜け出てしまっていた。
それを認識した途端、シーヴは頭にかあっと血が上り、心臓が壊れそうな速さで鼓動し始めるのを感じた。
シーヴの知っているイリヤという男、大公軍団の軍団長で、傭兵ギルドの総長を勤めていた男は、殺されてもなかなか死んでくれそうもない、恐ろしく生き汚い男だった。死さえも、とぼけた顔とふざけた台詞で遠ざけてしまいそうな男だったのに。
だから、こんなふうに血の気のない、真っ白な顔で横たわっている姿など、シーヴには悪夢でも見ているとしか思えなかった。
そして、悪夢は彼の目の前で、今も継続中なのだった。
彼の腕の中で、カイエンが凄まじい叫び声を上げたのだ。
その声の恐ろしさは、周りを取り囲んだ治安維持部隊の隊員たちをも凍りつかせ、皆の心臓を一瞬、止めたかもしれない程だった。
そして、恐怖はそれだけでは終わらなかった。
「えっ? で、殿下っ」
ぐったりと重たい「モノ」と化してしまったイリヤの胸の上へ、彼を両腕に抱えていたカイエンまでもが、崩れ落ちるように頭から倒れ込んでしまったのだ。
カイエンもそうだが、シーヴは人が死ぬところを見たのは初めてではない。カイエンだって、これがよく知っているイリヤでなかったら、こんなに極端な反応はしなかっただろう。
シーヴの腕に、イリヤだけでなく、気を失ったカイエンの重みまでもがのしかかって来た。そしてシーヴはその重みとともに、不意に凄まじい疎外感と喪失感が、冷たい死神の息吹となって、背中から脳天まで駆け上がったのに驚愕し、直後には恐怖していた。
イリヤもカイエンも、ぴくりとも動かない。
ここ数年、彼は大公宮の中で生きて来た。その彼が日常、いつも行動を共にしていたのは、もちろん、護衛騎士として仕えているカイエンだった。だが、それを抜いたら。
次によく話していたのは、顔をよく見たのは、誰だっただろう。
大公軍団員ではあったが、最初からカイエンの護衛騎士として大公宮内部に勤めていたシーヴには、「同僚」とか、「同期」と言える隊員がいない。
大公軍団の中で、よく会い、会話して来たのは、と思い出してみれば、それは……。
(……もしかしてイリヤさんか?)
日常、カイエンのそばにいつもいる彼が、頻繁に会っていた軍団員と言えば、大公軍団の上の方の人たちばかりだ。団長のイリヤ、治安維持部隊隊長のマリオとヘススの双子。三年前からは帝都防衛部隊隊長となったヴァイロン。
その中で、一番、親しくて馬鹿なことでも平気で話せて、と考えれば、恐ろしいことには、それは
シーヴには家族と言える者がいなかったが、どうやらイリヤもそれは同じようで、執事のアキノと共通する郷里に帰るところを見たことはない。知り合って六年ほどになるが、親兄弟の話が出たこともほとんどなかった。
イリヤは近頃、ひとり者のまま三十路に突入したと嘆いていたから、たぶん二十二歳くらいのシーヴとは、かなり年齢が離れている。一緒にどこかへ行くとかいうことも、仕事の多忙さからして、そうそうありもしなかった。
だが、シーヴはイリヤの執務室へは、結構顔を出していたし、イリヤがシーヴに仕事の愚痴をこぼしたりすることもあったのだ。
シーヴは仕事以外の時間のイリヤをよく知っているわけでもなかったし、シーヴも人のことは言えなかったが、イリヤにはそう親しい友人というものもいなないのでは、と思うこともあった。
シーヴは、彼の後ろの方から聞こえて来た、馬車の音を耳ではとらえながら、そんな、イリヤに関するとりとめのないことを考え続けていた。
「おい! しっかりしてくれ! あんたまで倒れそうだぞ!」
シーヴは、周りを取り囲んだ隊員たちに心配され、両肩を揺さぶられながら、だが、依怙地にイリヤのことを思い出そうとした。愚かなことだが、思い出せるうちは、イリヤの魂が体から抜けることはない、とでも思っていたのかもしれない。
さすがに、他に今、彼にできることがあったのなら、その任務をこなしただろう。だが、大公宮から外科の医師を乗せた馬車を先導してここまでやって来たシーヴには、他に今、出来ることは無かったのだった。
(イリヤさんと初めて会ったのって、あの日、イリヤさんが殿下に挨拶に来た日だったかなあ)
シーヴの胡桃色の瞳の焦点が合わなくなり、滲んだようにぼやけた。
それは、たった六年前のことだったのだが、随分と昔のことのように感じられた。
シーヴがハーマポスタール大公カイエン殿下の護衛騎士になったのは、カイエンが十三歳、シーヴはたぶん十四歳頃のことだった。
シーヴは、ハウヤ帝国の始祖、第一代皇帝サルヴァドールがこの地に帝国を築くに当たって、この世から消し去られた、ラ・カイザ王国の、直系の子孫である。
だが、それから三百年の間、差別されて来たラ・カイザ王国の生き残りたちは、賎民として差別され続けて来た。今も生き残っている者たちは数も少なく、もはや、差別があったことさえ忘れ去られようとしていた。
だから、シーヴも定住できず、あちこち放浪する民の中で生まれ、そして、彼がまだ赤子の頃に、おそらく両親は死んだか、生きていたとしても、彼を捨てたようだ。
だから、彼は自分の誕生日を知らない。
どういう
ヴィクトル・ザラは子爵家の主人で、その母親も貴族の娘の正妻だったが、弟のエミリオ・ザラ、今の元帥大将軍の方は妾腹で、その母親は帝国の北方、プエブロ・デ・ロス・フィエロス……獣人の村の出身だった。
獣人の村の人々には、風土病のように、体内に「蟲」という寄生器官を持って生まれてくるものが多かった。エミリオ・ザラもその一人だった。
同じように体内に「蟲」を持つカイエンが、大公アルウィンの元で生まれるまで、彼らは普通の「同郷者」としての関わりしか持っていなかったのだが、カイエンの誕生以来、獣人の村の人々は「名もない結社」を形作った。
その中心人物が、エミリオ・ザラで、彼によってシーヴは大公宮へ送り込まれたのだ。
シーヴは、今に至るまで、どうしてザラ子爵が自分を拾い上げたのか、どうしてザラ大将軍が自分を大公宮へ送り込んだのか、そのあたりの事情は知らされていない。
普通なら、もっと知りたがるのだろうが、シーヴはそういう性格ではなかった。
彼は自分の生まれについては自覚はしていたが、特別だとも思っていなかったのだ。世話になった子爵家が、必要があって自分を大公宮へ送り込んだ。シーヴにとってはそういう認識だけで、知るべき時が来れば、理由は知らされるだろう、と思っていた。
恐らくは、シーヴがこういう性格だったから、ザラ子爵もザラ大将軍も、彼を大公宮へ送り込んだのだろう。
シーヴが大公宮へ連れてこられた頃、まだ前の大公、アルウィンは大公として現役だった。まさか、それから二年のうちに自分の死を偽って姿を消すとは、当時のカイエンにもシーヴには考えもつかないことだった。
カイエンは次期大公として育てられ、教育されてはいたものの、まだ世間のことも、皇帝一家に連なる一員としても、何も知らない一人の頭でっかちの少女でしかなかった。
それでも、カイエンはシーヴを身分の離れた召使いだと、邪険に扱うこともなく、アルウィンもまた、カイエンと年の近いシーヴを、飼い猫をかわいがるようにではあったが、目にかけてくれた。
アルウィンは滅多に皇宮へ上がることもなかったが、それでも他の貴族たちとの「お付き合い」は無難にこなしていた。それで、大公宮で集まりが開かれることもあった。
だが、娘のカイエンの方は、いわゆる「ご学友」のような取り巻きもおらず、出かけていく先は、伯母のミルドラ・クリストラ公爵夫人の元くらいだった。それも、ミルドラたちが帝都ハーマポスタールに来ている、社交シーズンだけのことだ。
カイエンがもっと子供の頃には、遊び友達として集められた、貴族の子弟たちがいたのだそうだが、皆が皆ではないにせよ、カイエンの脆弱な体……特に不自由な足のことで彼女に嫌な思いをさせたらしい。
たった一人、仲の良かったリオハ伯爵家の令嬢、マリアルナとも、カイエンの次期大公としての教育や、彼女の淑女教育が始まるとともに疎遠となり、付き合いは書簡が主となってしまった。
だから、カイエンが十三になる頃には、彼女の周りには父のアルウィンと、アキノとサグラチカの夫婦を代表とした召使いたち、それに家庭教師が数名、それとシーヴくらいしか、親しい者などいなくなっていたのだ。
そんなカイエンの暮らしは、自然と大公宮の中だけのものになっており、護衛騎士として連れては来られたものの、シーヴにはカイエンのそばに突っ立っているしか、当分、やることはなかった。
それでも、四季は移ろい過ぎていった。
七年前、まず、カイエンの螺旋文字や螺旋帝国の知識の教師だった、頼 國仁が「故郷へ帰る」と暇乞いをした。実際には、彼は大公宮からは出て行ったものの、螺旋帝国へはまだ帰ってはいなかった。だが、その「事実」がカイエンたちに認知されたのは、ずっと後のことだ。
それから半年も経たないうちに、今度は、アルウィンが病に倒れた。
これもまた、数年後には真実が判明することとなるが、彼は桔梗館での怪しい活動が、兄の皇帝サウルに露見しそうになって逃げたのだった。頼 國仁は、その後、アルウィンを螺旋帝国まで案内したのだろうと言われている。
アルウィンが死を偽って消えた後、カイエンはすぐに次代の大公殿下となり、たった十五歳で大公軍団を率いることとなった。
実際のところ、アルウィンは大公軍団の治安維持部隊の仕事になど、まったく関心はなく、大公軍団のすべては当時の軍団長アルベルト・グスマンによって管理されていた。
本当なら、アルウィンがいなくなっても、老練なグスマンがそのままその職にあれば、カイエンもまたアルウィンのように、大公軍団の制服を着ることなど滅多にない、という大公でいられたかもしれない。
いや、グスマンならば、決してカイエンをアルウィン以上に軍団に関わらせないようにしただろう。これは何もアルウィンとグスマンの時代のことだけではなく、その前の大公の時も、その前の前の大公の時も、同じだったのだから。
だが。
アルベルト・グスマンは、アルウィンが佯死すると、あっけなく自分の地位も仕事も投げ打ってしまった。
実際には、逃げたアルウィンのそばにいたのだが、表立っては彼は妻の経営していた女郎屋の主人に収まり、軍団を去ったのだ。
もちろん、当時まだ十五歳だったカイエンは、アキノを通じて「それは困る」と伝えた。
当たり前だ。その時の彼女には、まだ大公の地位も実感できていなかったし、実際の大公軍団の仕事についても何の予備知識もなかったのだから。
アルウィンの死と葬儀、大公位の継承とで、寝る間もなかったカイエンはここでも打ちのめされたのだ。
非礼極まることに、グスマンは新大公のカイエンに挨拶に来ることさえなく、さっさと大公軍団を出て行ってしまった。これには、当時、カイエンだけではなくシーヴも、子供だと馬鹿にしている、と憤ったが、どうすることも出来はしなかった。周りの大人たちが何も出来ずにいるのに、まだ十六の彼が出しゃばっても、どうにもならないことだったのだ。
彼らは本当にまだ、子供だったから。
そして。
いなくなったグスマンの代わりに、新大公カイエンの元へ挨拶に来たのが、新軍団長のイリヤだった。
あの日。
カイエンはシーヴを連れて、大公宮表の大公の執務室で、新軍団長を待っていた。どうしてだか知らないが、いつもはこんな時に必ずついてくる、執事のアキノは同席していなかった。
「殿下、どんな人だかご存知ですか」
カイエンもシーヴも、広い、そのころはアルウィンがほとんど使っていなかったので、机の他には何もないの同然だった執務室の広さを持て余していた。
そんな中で、執務机に向かって椅子に座ったカイエンの後ろに立ったシーヴがそう聞くと、カイエンは不機嫌そうに首を振った。
「一応は、軍団員のお前が知らないのに、私が知るはずがないだろう」
答えもそっけなかった。
カイエンは誂えたばかりの、大公軍団の彼女の黒い制服を、この日初めて着込んでいた。襟元や手首の折り返しの部分が固そうで、こういった服を着慣れてもいなかったカイエンは、無意識に襟元に指を入れ、少しくつろげようとしているようだった。
(なかなか来ないから、いらいらしてるんだな)
実は、シーヴはイリヤ本人は知らなかったが、さすがに情報は入っていたので、それをここで披露しておくことにした。
「あの。聞いたんですけど、かなり若い人みたいです。元々は、帝国軍にいたみたいで、四、五年前にこっちへ移って来たんだそうですよ」
カイエンには、シーヴの心遣いはすぐに伝わったようだ。ここ半月ほどでちょっと痩せた土気色の不健康そうな顔に、少しだけ微笑みのようなものが浮かぶ。
「四、五年? それでもう、軍団長なのか?」
カイエンの疑問は、残念ながら、シーヴの疑問でもあった。
「はい。辞めちゃったグスマンさんが、入団からずっとそばに置いて、仕事をぜーんぶ、教え込んだらしいです」
カイエンはすぐに、不審そうに眉根を寄せた。
「そんなことをして、周りの団員たちは文句を言わなかったのか? 明らかに依怙贔屓じゃないか」
生真面目一方のカイエンには、グスマンのやったことは納得のいかないことだったようだ。その点は、シーヴも同じだったが、彼の場合には、世の中にはそういうこともまま、見受けられるというくらいには世間を知っていた。
「そうですねえ。……そうそう、その人、すっごいあだ名がついてるんですよ」
カイエンの気を惹くように、シーヴはさりげなく話を誘導していった。依怙贔屓はともかく、シーヴが聞いたところでは、この人事に不満を言う軍団員はいない、とのことだったからだ。ならば、カイエンは新軍団長を受け入れる方向で迎えたほうがいい。当時のシーヴにはもう、そういうところを落ち着いて見る判断力が身に付いていた。
「あだ名……。どんな?」
カイエンはそれほど興味を引かれた様子ではなかった。だが、何にでも公平であろうとする彼女は、シーヴがせっかくくれる情報だから、ちゃんと聞こう、という気持ちを持っていた。
「それが、『大公軍団の恐怖の伊達男』って言うんだそうですよ」
シーヴもこの時はまだ、イリヤの顔を知らなかった。だから、彼はよほどお洒落に気を遣う男なのだろう、と思い込んでいた。
「大公軍団の……きょうふの、だておとこ? なんだ、それ」
聞いたカイエンも、その奇天烈な文字の並びから、一人の人間の姿形や性格性状を想像するのは難しかったらしい。恐怖と言うのは、グスマン直伝のあれこれ恐ろしい方法を駆使して、無理やりに犯人を追い詰める、との意味なのだったが、その実際の恐ろしさも、まだ見知っていなかった。
「なんでしょうね。俺に話してくれた人たちは、みーんな、納得していましたけど」
シーヴがこう返事した時、執務室の扉がノックされ、大公宮表の侍従が顔を出した。
「大公殿下。軍団長、イリヤボルト・ディアマンテス殿がお見えです」
カイエンとシーヴは、ふうっと息を詰めた。いよいよだ。
そして、侍従が脇に退くと、扉の上に長い影が落ちた。侍従の影の高さと比べても、かなりの長身だった。
部屋に入って来たイリヤは、すぐに顔を執務机の向こうのカイエンの方へ向けてきた。
その無表情な顔と鉄色の冷たい目は、何の感情も見せないまま、ふた瞬きほどの時間、カイエンの顔色の悪い顔の上から動かなかった。
自分よりも身分が上の人間を凝視するなど、貴族社会では許されるものではなかったが、実のところ、カイエンはこういう眼差しには慣れっこだった。
つまり、すでにアルウィンの顔を知っていて、初めてカイエンを見た者は、すべからくこういう目で彼女を見るのであったから。髪の色と年齢、性別という要素を抜き去れば、そっくりな父娘の容貌は、それほどに人々を驚かすものだったのだ。
すでに剣技や武道を学んでいたシーヴは、この時、理由は分からないながらも、ひやりとした。それは、その時のイリヤの無表情が、凍りつくように冷たく、厳しく見えたからだろう。
だが、次の瞬間に、イリヤはその厳しい様子を、いかにもわざとらしい作り笑いの中に引っ込めていた。
「お待たせしましたぁ。失礼しまーす」
そして、最初に聞こえて来た、その間延びした口調に、カイエンとシーヴは思わず顔を見合わせた。
あれ以降もイリヤ以外に、知ることはないままだが、こんなしゃべり方をする大人を、それまで彼らは知らなかったのだ。それは、アルウィンが時折口にしていた、下町で遊び呆けていた若い頃に覚えたという、半分やくざの兄さんのような乱暴な言葉遣いとも違っていた。
次の瞬間には、声の本体が窓の大きな、明るい部屋の中に入ってきた。
扉の前に立っていた時から、目には入っていたが、改めてその瞬間に、カイエンもシーヴもさっき話していた、あのあだ名の意味の後半が理解出来た。
それはもちろん、大公軍団の「恐怖の伊達男」の後半部分の方で、彼らが前半の方の真実を知るには、まだもう少し時間が必要だった。
今はもう、見慣れたので全然驚かないが、シーヴもあの時はびっくりした。
美男美女の多い貴族階級ならともかく、平民出身者にあんな顔を持つ男がいるとは思ってもいなかったからだ。
子供の頃、ザラ子爵家に拾われるまでは、賎民同様の生活をしていたシーヴは、最初にアルウィンとカイエンを見たときに、「さすがに皇帝家の血を引くような方たちは、外見からして違ったものだなあ」と思ったものだ。
神殿の神像のように整いすぎた顔かたち、汗などかいたことがないとでも言うような、無機質で不健康な肌の質感。そして、血の気の薄い肌の色。それは、街中の人々はもちろん、田舎の市場の中などでは決して見ることのないものだ。
だが。
この「大公軍団の恐怖の伊達男」とやらは、そんなシーヴの考えを、根っこから粉砕した。
イリヤの容姿は、肌の色こそ外で働いている者の、やや日に焼けた色ではあったものの、その他の要素では、カイエンたち上流貴族たちの顔立ちや外見をも超える、とっさには形容する言葉の出てこない感じのシロモノだった。
この日以降、シーヴは何度もイリヤの顔を見ることになったから、すぐにいちいち驚かなくなったが、この最初の日の驚きはかなりのものだった。
「はじめましてぇ。イリヤボルト・ディアマンテスと申します。大公殿下でいらっしゃいますねー。ああー、前の大公殿下に生き写しでおられるんでぇ、見間違いはしてないと思います〜。で、そっちの子は……ああ、護衛騎士やってるって子ですか。……そちらへ行ってもよろしいでしょうかぁ?」
そう挨拶らしきものと、言わなくてもいいことをわざわざ口にしながら、イリヤは満面の笑みを浮かべて見せたものだ。その、多分彼以上の者にはなかなか出会えないであろう、砂糖菓子のように甘い美貌の上に。
その破壊力は、見ているのが十六と十五の少年少女二人きり、というこの場には不必要なレベルに到達していた。
多分、イリヤは二十四くらいだったはずだ。そんな歳で大公軍団長になった者は、彼が初めてだっただろう。もっとも、何年もしないうちに帝国軍のフィエロアルマでは、彼よりも若い、史上最年少の将軍が誕生したのだが。
カイエンが返事をしないので、シーヴは心配になって、後ろからカイエンの顔をうかがった。
カイエンは十五のお年頃の女の子だ。その彼女に、この軍団長の姿は毒だったか、と思ったのだ。
だが、カイエンの表情は強張っていた。眉間にわずかに皺を寄せ、彼女は不審そうな眼差しを、イリヤへ向けていた。どう見ても、年頃の女の子が、凄まじい美貌の若い男に向ける顔つきではなかった。
後でカイエンにこの時のことを聞いたら、
(背筋がぞーっとした。せっかくあんなに美男子なのに、どうしてあんな気持ち悪い笑い方をするんだろうって。あの時からもう、イリヤの笑い顔は苦手なんだ。だって、いつも、へらへら笑ってる時はろくなことを考えてないだろう?)
と言っていたから、イリヤの「微笑み攻撃」は、残念ながら、最初っから不発だったことになる。
「入って。そして、その椅子に座ってくれ」
カイエンはそう言うと、彼女の執務机の前に置かれた椅子を指差した。
シーヴは、カイエンの物言いが普段からぶっきらぼうであることは知っていたから、彼女が男のような口調で話すのには驚かない。この時は逆に、「座れ」ではなく「座ってくれ」と言ったのを意外に思ったくらいだ。
だが、初めて会うイリヤの方は違っただろう。
「あー、それじゃぁ、失礼しまーす」
イリヤはちょっと驚いた顔をしたが、そのままやや猫背な長身を揺らすようにして、カイエンの前の椅子に座った。
挨拶に来ただけ、と主張するように、黒い制服を着ているきりで何一つ持ち物はない。
シーヴはこの頃はまだそんなに背も伸びていなかったから、イリヤの、大公軍団の丈の長い隊長職以上の黒い制服がこれ以上似合う人は他にいない、というほど高い身長を羨ましく思ったものだ。
椅子に座ってしまうと、イリヤはにこにこしているだけで、もう自分からは何も話そうとしなかった。その様子は、「高貴な方に自分からは話しかけられません」と主張しているようだったが、シーヴにもカイエンにも、「意地悪な大人が子供の出方を試している」と見抜かれていた。
だって、さっきまでは自分から、言わなくてもいいことまでペラペラとしゃべっていたのだから。
それでも、子供というのは大人ほどに、ずうずうしくはなれないものだ。
「……ずいぶんと遅かったな」
そう聞いたカイエンは、不機嫌そうな様子を隠すことが出来ていなかった。
「えぇー? すみませんねぇー。俺の方も、ろくに引き継ぎもなしで軍団長にされたんですよぉ。まー、今日は大きな事件が起きてないので、まーまー、間に合って来られたんですけどぉ」
まあまあ間に合う、って何だ。
シーヴは、イリヤの不遜な言葉選びとしゃべり方に対して怒るよりも先に、この男は何でこんな、カイエン様のご機嫌を逆撫でするようなしゃべり方をわざとするんだろう、と不審に思った。子供扱いするにしても、あまりに大人気ない、そう思わずにはいられなかった。
カイエンでなくとも、もっと大人でも、男でも、長時間耐えるのは難しそうだった。いや、大人だったら、それも貴族階級の人間だったら、もうすでに怒りに我を忘れていたかも知れない。
「まあいい」
カイエンは偉かった。足が不自由なことで、子供の頃から人間関係で辛い目に逢って来たカイエンは、我慢強かった。ここは、自分から怒り出したら負けだ、とも思ったのだろう。
「私が、カイエンだ。早速だが、私のしなければならない仕事の内容を教えて欲しい」
カイエンはすぐに用件に入った。
一年間、カイエンを見て来たシーヴには分かっていた。カイエンはさっきイリヤが遠回しに言った、「引き継ぎもなしで……」という言い訳を真面目に捉えたのだ。「小娘に関わっていられるほど、暇じゃない」と言外に言っているのに気が付いたのだろう、と。
カイエンがお姫様育ちなのに、大人の顔色をうかがう術に長けていることには、シーヴはとっくに気が付いていた。それは、あの優しげなアルウィンが、たまに機嫌が悪いと、けんもほろろな態度を取ることがあるからだった。そして、子供の頃に、学友として集められた貴族の子供たちの態度から、人の言葉や態度には、見えない裏があることを学んでいたのだろう。
しかし、イリヤは今度もまた大人気なく、しかも失礼千万なもの言いだった。
「あー、今日、お呼びになったのはぁ、そっちのお話でしたか。……それなら、前の大公殿下同様、
イリヤの言葉が切れると、部屋の中には沈黙が落ちて来た。
実は、この時点で、カイエンに何らかの新大公としての「抱負」があったわけではない。この時のカイエンにとって、「大公の仕事」というのは、すなわちアルウィンがしていたことであって、それ以上でもそれ以下でもなかったのだ。
そこへ叩きつけられた、このイリヤの人を馬鹿にしたしゃべり方と、きっぱりと言い切った内容は、そんなカイエンの生来の負けん気の方に火をつけてしまった。だが、火がついたからと言って、今まで何も考えていなかったのだ。すぐに反論する手立てが見つかるはずもない。
「……私の裁可や、署名が必要な書類などはどうする?」
それでも、何とか十五歳のカイエンは反論した。
シーヴは、はらはらしてカイエンの後ろから斜めに彼女の顔色を見ているしかなかった。普通の大人なら、言葉だけでも親切に答えてくれるはずだが、今までのイリヤの態度ではそれは見込み薄だった。
「ああー。それならぁ、週に何回か執事さんか侍従さんかに持って行かせますから、まとめてやっちゃってください。それなら簡単でしょ?」
……そして思った通りに、イリヤの返答は、直前の不遜な態度と主張の駄目押しだった。
カイエンでなくとも、この言い様には反発したに違いない。内容も言葉遣いも、あまりにも酷すぎた。
「な……」
カイエンは反射的に何か言い返そうとしたようだが、結局、何も言い返せなかった。
彼女なりに「大公としてしたいこと」、「するべきだと思っていること」が具体的にあったら、言い返せただろう。だが、この時のカイエンには何もなかったからだ。
他の貴族の娘たちなら、イリヤの言葉遣いとか、しゃべり方について憤慨し、わめき散らしたかも知れない。だが、カイエンはそれまでそんな風に、大人に向かって感情を爆発させたことなどなかった。一人っ子のカイエンは他の子供が、どんな風に感情を爆発させるのかも知らなかったし、大人に四方を囲まれて育った彼女は、極めて「物分かりのいい」お姫様だったのだ。
この時のことを思い出して、後でシーヴは気が付いたが、イリヤの方も大人と言っても、まだ二十代の半ばに差し掛かった年齢でしかなかった。意図があってしていたとは言っても、もっと年長のものたちから見たら、
(いい加減にしなよ、十五の女の子相手に……)
と呆れられたに違いない。
カイエンはそれ以上、この場にいることに耐えきれず、杖の握り手を引っ掴むと、音を立てて椅子から立ち上がり、部屋を出て行こうとした。泣いてはいなかったが、その顔は怒りで真っ赤で、いつもは病人のような顔色が常よりも健康そうに見えたほどだった。
だが、怒りは怒りとしてそうして燃え盛ってはいたが、それでカイエンの動きにくい右足が動くようになるわけではなかった。そして、あいにくなことに、カイエンの後ろにいたシーヴは、執務室の奥の出入り口とは反対方向に立っていた。
カイエンはそのまま、椅子の足に足を取られ、見事にその場で転んだ。悲鳴をあげるいとまさえなく。
執務室の机の周りには、分厚い絨毯が敷いてあったので、カイエンは顔面から床にぶつかったわりには、衝撃が少なく、怪我もせずに済んだ。
「えっ、うっそー。俺やりすぎたぁ?」
シーヴは即座に倒れたカイエンのそばに駆け寄った。そのシーヴが、同じように執務机の前の椅子から駆け寄って来たイリヤの口から聞いた言葉がこれだった。
シーヴはこの時まで、イリヤは演技して、わざとあの小馬鹿にしたようなあの変な口調と態度で話しているのだと信じていたのだが、この瞬間にそれは間違いであったことがわかった。それはまごうことなき本性だったのだと。
(いい大人が、それも男が、十五の女の子に大人げない。……要は、弱い子いじめだったのかよ!)
シーヴにはもう理解できていた。
二十四の男が、それも大公軍団軍団長が、十五のなりたての大公殿下に対して、「弱い子いじめ」。
ぎろり、と護衛騎士としての仕事を全うできなかったシーヴが、カイエンを抱き起こしながらイリヤの顔を睨みあげると、イリヤは小声にはなったが、なおもこう言ってのけたから、危なくシーヴは飛びかかって殴り倒そうかと思ったほどだった。
「ごっめぇーん。悪気は……ちょっとだけ、あったかもしれないけど。あの、大公殿下は、大丈夫?」
と。
シーヴはこの後、カイエンがどう言ったのかは、覚えていない。
(イリヤさんは、どうしてあの時、最初っから本性丸出しで、いじめるみたいに酷い言葉を選んで、殿下を追い込むような物言いをしたんだろう?)
それは、長いことシーヴの疑問だった。
あの時、イリヤが部屋に入って来た時から、普通の大人として振舞い、話していたら、カイエンはアルウィン同様、大公軍団の仕事に関わらない大公になったはずだ。
そして、グスマンに後を託された、そして実はアルウィンの桔梗星団派の一部として、カイエンを見張る「盾」を任されていた彼には、その方が都合が良かったはずなのだ。
なのに、イリヤはそうしなかった。
シーヴはあの時のことを何度か、思い出して反芻してみた。
あの時、イリヤはきっと部屋に入る寸前まで、普通の大人が、何も知らない貴族の女の子に言うように、丁寧に、親切に、あの奇天烈な自分の本性など見せることもなく、「高貴なあなたは、何もしなくともいいのです」と言うつもりだったのではないか、とシーヴはずっと疑っていた。
丁寧な言葉で言っていれば、カイエンは「そんなものか」と納得し、大公としての仕事に闘志を燃やすことなど、なかったかも知れないのだ。
そして実際にイリヤが言った言葉は、意味だけとれば、まさしくその通りの内容だった。
だが、同じことを言うにしても、あんな風に、カイエンの質問を意地悪な言葉で切り捨てる必要は、なかったはずなのだ。結果として逆効果になるようなことを。
すべてを第三者として見ていたシーヴには、カイエンの執務室へ入ってすぐ、厳しい目でカイエンをひと撫でしたイリヤの様子、あの厳しい顔が、直後に相手を小馬鹿にしたような微笑に変わるまでの一瞬に、イリヤの中で何かが変わったとしか思えなかった。
あの瞬間から、彼は自分に関してはカイエンに本性をさらけ出していた。もっとも、「盾」の頭であることは巧妙に隠し、グスマンの死を偽装までしていたのだから、行動の方は最近まで怪しかったが。
あの後、大公として治安維持部隊の仕事に顔を突っ込んでは失敗し、意気消沈していたカイエンを、生温い態度で見ていたイリヤの姿。あれも、「やめるならいつでもやめていいよ」と言っているようで、それでいてカイエンのやる気の邪魔をすることはなかった。
三年前の春に起きた、あのヴァイロンの事件以前は、カイエンはやる気はあるが、全然使えない大公殿下だったのだ。実際、イリヤの仕事の邪魔になっていたことも多かっただろう。
なのにイリヤはそれをほったらかしにしていた。助けもせず、文句も言わず。
きっと彼は、カイエンが諦めるのなら、そのまま「そうですか」と認めただろう。そして、二度とあの馴れ馴れしい話し方で、彼女に対することもなくなったのではないか。
ついでに言えば、三年前の事件以降、カイエンが大公らしい仕事ができるようになってから、目の下にクマを作って、過労死寸前の状態で真面目に働くことも、なかったのではないか。
すべては、シーヴの想像だった。
シーヴはいつか、イリヤが話してくれるのではないかと思っていた。
どうして、カイエンに対してああいう態度をとり続けてきたのか。
だが、もう、そのいつかは……。
(で、でも……いいか。最後に殿下……が、ちゃんと、元気に……生きて……る、とこ、見られて)
(じゃ、で、ん……か。お、れの、お……しご、と、はぁ……きょう、で、おわ、り……ね。じゃ、
シーヴの頭の中を、さっき、イリヤが最後に言った言葉が回り続けている。
きっと、あれがシーヴの知りたいことの答えの一部なのだ。自分の仕事は今日で終わり、それはそうなのだろうが、死ぬ前にわざわざ、そんなことをカイエンに告げる必要があるだろうか。
そこまで、ぼんやりと追憶の中で考えていた時だ。
「おい! シーヴ。しっかりせんか!」
皮膚をこっぴどく引っ叩く音が、シーヴの耳元で聞こえた。
そして、一瞬遅れてやってくる痛み。それは、シーヴの頬からやって来た。
シーヴの開いていた瞳孔が、すっと焦点を結び、眼前の人物を捉える。
「あ、アキノさん……」
周りはもう、薄暗くなりつつあり、すでに隊員たちはランプを灯し始めていた。
シーヴは慌てたように周りを見回し、自分が今も、カイエンとイリヤを両腕に抱え込んだままなのに気が付いた。
それでは、あれからそんなに時間は経過していないのだろう。
「外科の先生が今、来られる。お前はそのまま動くな」
ぼうっとしていたシーヴの横っ面を、思い切り張ったのは、どうやらアキノであったらしい。
「え? でももう、イリヤさんは……」
シーヴはぐったりとイリヤの胸辺りに崩れ落ちている、カイエンの体の脇からイリヤの体を支えていたから、もうその体からすべての力が抜け、温かみも失われつつあることを感じていたのだ。
シーヴの前で、アキノの最近、皺の目立って来た、それでも鷲のような鋭さを失っていない顔が、不敵な笑みのようなものを浮かべるのを、シーヴは不思議な気持ちで眺めていた。
アキノとイリヤは同郷で、あのプエブロ・デ・ロス・フィエロス……獣人の村の出身だ。だったら、こんなことになったイリヤを悼みこそすれ、笑うはずなどないのに。
「殿下は間に合ったのだな……このご様子では」
アキノは落ち着いた様子で、イリヤの上へ突っ伏したままの、カイエンの手首を取り、脈を診ている。
「……間に合ったって……」
シーヴはまさか、アキノは動顚のあまりおかしくなったのかと思った。
「殿下がここへいらしてから、こやつは死んだのだろう? だったら間に合ったのだ」
アキノの返事は意味不明で、シーヴはもう何がなんだか、わからなくなるばかりだった。
死んだのに、間に合うって何なのだろう。
ただ、首を振るばかりのシーヴの横で、馬車から飛び降りて来た、大公軍団所属の外科医が黒い鞄を慌ただしく開けていた。
「アキノさん、これか?」
(もう、手遅れですよ、先生)
その時のシーヴは、自分だけが何か、事態の認識を誤っているのだろうか、と不思議でしかたがなかった。
ただ分かっていたことは、六年前のあの日から、彼がイリヤに対して持ち続けて来た、あの疑問の答えを知ることはもう出来ない、ということだけだった。
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