楽園追放 2
私たちは楽園から追放された
私たちは禁断の恋の木の実を食べ
生まれて育った大切な場所を追われた
私たちはお互いに
お互いの胸の内の潜めた恋を
語ることはなく
人々の目から遠ざけようと足掻いた
だが
私たちの声音がため息が眼差しが
私たちの心の内を隠しようもなく暴き
私たちは楽園を追放されたのだ
娘たちよ息子たちよ
その胸の底に隠した想いを
おのれの愛する家族に晒してはいけない
その恋はお前たちをお前たちの家族の前から遠ざける
お前たちを楽園から追い払う
恋だけを胸に抱いて
死ぬまで生きていくことは出来ない
アル・アアシャー 「楽園追放」
「お姉様、私、あの方と今すぐ結婚したいとか、そんなことまでは考えていません。自分の立場も、今のこの国の状況も、理解しているつもりです。ただ……」
「ただ?」
カイエンもオドザヤ同様、どうしたらいいのか、確たる未来を見ているわけではなかった。
トリスタンのことは、ザイオンから持って来た縁談話であるが、この先、ザイオンとことを構える事となった場合、トリスタンがこちらにいれば、人質としての使い道がある。だが、これも勿論、いいことずくめなどではない。
ザイオンの方もまた、いつかハウヤ帝国と争う時が来ることは、予想しているはずなのだ。それなのに、トリスタンをあんな形でハウヤ帝国に秘密裏に入国させ、オドザヤに近付けようとしたからには、ザイオンにはカイエンたちの未だ考え及ばない、トリスタンの使い途があるのだろう。
ザイオンとハウヤ帝国が争う事態となった時に、オドザヤとトリスタンとの間に子でも出来ていれば、それも次の、より深刻な事態を引き寄せる呼び水となるかもしれないのだ。
カイエンが考え込んでしまい、オドザヤの返答を待っている風だったので、オドザヤは紅茶を一口飲んで、心を落ち着かせるようにして、言葉を選びながら話し始めた。
「私は、あの方のことを、もっと知りたいのです。確かに、あの方は秘密裏に、単独でこのハウヤ帝国へ入国し、踊り子に化けてハーマポスタール市内に潜伏していた方。……ザイオンの王子と言っても、きっと私などの理解の及ばぬ世界を見て来た方なのでしょう。人間の間の淀んだ部分を泳いできた方なのかも知れません。それでも、あのような踊りを、踊りで見る者の見ている世界を変えてしまうような、あんなことがお出来になるのですから。私は、その方の人となりを、もっと知りたい。今は、ただそれだけなのです」
オドザヤは「ただそれだけ」とは言っているが、彼女のような恋する乙女がその、「ただそれだけ」のために周りが見えなくなってしまったら、どうなるのか。
事実、トリスタンはオドザヤに思わせぶりな態度を取っただけでなく、カイエンにもちょっかいを出してきたのだ。一筋縄でいく人物ではないだろう。彼には隠された目的もあるはずだった。
カイエンは自分自身では体験したことのない事柄ではあったが、皮肉なことには彼女の愛する通俗小説には、そんな物語はいくらでもあるのだった。
カイエンはとりあえず、トリスタンがこの国へああいう普通でない形をとって、やってきたことについて、先に話すことにした。
「ザイオンが、チューラ女王の王配、ユリウス殿下の子である、第一王子ジョスラン、第二王子リュシオンではなく、愛人であるシリル・ダヴィッド子爵の息子である、第三王子のトリスタンを送り込んで来たのは、そのあたりの事情からでしょうね」
カイエンが言ったこと、トリスタンの父親は、公式には王配のユリウスだが、実際には違うようだ、ということは、すでにオドザヤへも報告してあった。これは、オリュンポス劇場を見張っていた、ナシオたちから報告を受けたことだ。
「ええ。もしかすると、私が……いいえ、母が平民出身の皇后であったことも、関係があるのかもしれません」
オドザヤが言ったことは、カイエンはほとんど意識していないことだったので、彼女ははっとして、横に座ってるオドザヤの、目のあたりに疲労を滲ませた顔を見た。
「まさか。まさか、陛下、今までにもそのようなことを……」
カイエン自身は、公的には祖父レアンドロ皇帝の末子の皇女、ということにされていたので、母であるアイーシャの出自について、当て擦られたり、賤しめられたことなどない。だが、まさか、オドザヤは違ったのだろうか。
「ないと言えば、嘘になりますわ。何よりもお母様ご自身がとても意識しておいででした。少しでもそんな風評が聞こえて来ると、ひどくお怒りになって。でも、お母様は平民から皇后になったということで、国民からの人気は高うございました。ですから、皇后としての地位は盤石でいらしたのです」
カイエンは今さらに、オドザヤの母譲りの輝く美貌と、一見大人しく大らかな性格の下に隠された、「彼女にはどうしようもないことから受ける他人の目線」に耐えて来た、哀しみと強さを感じていた。
「そうでしたか。私も、これがありましたから、色々言われて嫌な思いもしましたが、陛下も同じだったのですね」
カイエンは自分の、動きの悪い右足をさするようにしながら言った。
「ああ……」
オドザヤはオドザヤで、カイエンが不自由な足のことで色々言われてきたことへ、今さらに思いが至った、という顔をした。
彼女はカイエンと会うと、いつもカイエンの足元に気遣いを見せてくれていたが、そういう気遣いが出来るということは、彼女もまた、他人の何気ない一言で心傷つくことが多かったからなのだろう。
「お姉様、私、もうコンスタンサや、護衛の皆さんには伝えてありますの。……私が考えなしな行動に出ようとしていたら、どうか止めてちょうだい、って。馬鹿なことをしでかす前に、私を止めて、って」
カイエンは今晩、何度目かに唇を噛んだ。オドザヤは、トリスタンを知りたい、という欲求は抑えるつもりがないのだ。それは恋と憧れに目覚めた心では、自分が皇帝である、といくら思い定めても、止めることが出来ないほどの激情なのだろう。
カイエンは、ふと、オドザヤが羨ましくなった。
カイエンには、今、オドザヤが話しているような、その人を知りたい、少しでも近くにいたい、という気持ちを自らは持ったことがない。自分でも自分が止められない、でも、今の、恋に目の眩んだ自分が普通ではないことはわかる、という、悩ましくも自分では制御できない、そんな心持ちも分からなかった。
だが、そんなカイエンにも、オドザヤが、そうした「恋に目覚めた」女性としては非常に冷静に、自分の身分、立場を考え、自らを律しようとしていることは分かった。
カイエンが知ってるのは、まずは、先帝サウルの命令によって、それは裏では父のアルウィンが画策してのことだったが、いきなり始めることになった、ヴァイロンとの関係だ。
カイエンの方にはヴァイロンへの淡い親しみがあっただけだったが、ヴァイロンの方には、少年の頃、大公宮の裏庭で初めてカイエンを見た時から芽生えた心があった。そして、その時に、アルウィンによって強化されたその想いは、サウルの命令によってカイエンを得た瞬間から、彼の「唯一」の想いとなったのだ。
これは、ヴァイロンが獣人の血を引く男だったことが大きい。
彼にとっては、番いと認識した途端に彼のすべてをそれに捧げる、ということは理性ではなく、本能の問題だったからだ。
ヴァイロンの彼女への執着と、その激しい愛情。これには、カイエンもまた答える心があった。カイエンはシイナドラドから帰ってすぐに、ヴァイロンに吐露した心情がある。
(ご、ごめんなさい。……こんな失敗は、もう、これからはしないから。だから、私の側からいなくならないでくれ。お願いだ)
あの言葉に偽りはない。
女大公として立ったカイエンには、ヴァイロンの包み込み、しっかりと支え、守ってくれる手が必要だったのだ。彼の無償の愛情が心地よく、離れ難いものだったからということもある。雛鳥が母鳥に寄り添うように、カイエンはヴァイロンの包み込むような庇護を求めていたのだ。
だが。
ヴェイロンはともかく、カイエンの側には、「ヴァイロンをもっとよく知りたい」「いっときも離れずに側にいたい」「自分の方を振り向いて微笑んでほしい」「自分を拒否しないでほしい」などといった、今、オドザヤが覚えているような感情は、なかった。
あったのは、ひたすらに受け身の愛情だ。
そもそも、カイエンにはヴァイロンに恋をするような時間も、場面もありはしなかったのだ。
では、エルネストはどうか。
これはもう、不幸な出会い方をした、としか言いようがない。
これも、エルネストの側には、アルウィンから吹き込まれたカイエンへの興味があり、カイエンが星教皇になることが出来る存在である、そして、当時は慕ってもいたアルウィンの実子である、という下地があった。
そんな彼の前に、満を辞して現れたカイエンに、彼は一瞬で溺れてしまった。彼の場合にも、カイエンへの恋情というものは、アルウィンによって高められ、長い年月をかけて維持されてきたという面では、ヴァイロンと同じであったのだろう。
だが、当時のエルネストには、カイエンの意思など眼中にはなかった。彼は、溜まりに溜まっていた想いを、カイエンの肉体にぶつけることで確認しようとしたのだ。
これも、カイエンにとっては完全に受け身のことで、しかもこっちの場合には、カイエンの側には恐怖しかなく、後から愛情を感じるような余地が生まれる隙さえなかった。
カイエンも、今ではエルネストが自分に、ヴァイロンと同じ種類の執着を持っていることを知っている。形だけの夫婦として、形だけでも取り繕いながら、エルネストがアルウィンの側ではなく、カイエンの側にいるのは、カイエンがいつか自分の想いに応えるかもしれない、という淡い儚い望みがあるからなのだろう。
カイエンには、もう、そういうエルネストの心の中も見えていた。だが、それに応えることは出来そうになかった。それほどに、カイエンにとってはあの、シイナドラドで虜囚として扱われ、連日、エルネストの欲望に曝された時のことは、乗り越え難い嫌な記憶だったのだ。
頭ではわかっていても、エルネスト本人を見れば、その指先にでも触れようものなら、蘇り、襲い来るのはただただ、一方的な執着で囲い込まれ、無理やりに犯され続けた、あの何週間かの悲惨な記憶だった。思い出さないようにしても、こればかりはカイエンの自由にはならなかった。エルネストの側にはカイエンへの愛情がある、と知っていても、彼女にはそれに応えることは出来なかったのだ。
「お姉様?」
黙り込んでしまったカイエンを、カップをテーブルに置いたオドザヤが、心配そうに覗き込む。
カイエンははっとして、顔を上げた。窓の外からは朝の陽が差し込み、小鳥の声が聞こえる。いつもなら、そろそろカイエンが起床する時刻だろう。
「ああ、すみません。お話を聞いていて、なんだか羨ましく思えたものですから」
カイエンがそう言うと、オドザヤは琥珀色の目を見開いた。
「……お姉様が、私を?」
カイエンは深々とうなずいた。
「そうです。私には、今の陛下のように、誰かを想ったことがない。ご存知のように、ヴァイロンとのことはサウル伯父上が決めたことでしたし、エルネストとの結婚は、国同士のことですから」
カイエンはオドザヤにエルネストとの間にある、シイナドラドでの悲惨な出来事について話すつもりはなかった。あんな生々しく、今も心に血を流し続けているような出来事が、オドザヤの身には決して起こらないように、と願うだけだった。
オドザヤは、カイエンの言葉を聞くと、ちょっと意外そうな顔をした。
「あの、そんな、お姉様が?」
カイエンはしっかりとうなずいた。
「ええ。ヴァイロンとの間には、確かに今、愛情があると思います。ですが、私が彼を乞い願ったことはないのです。そんなことはないままに、始まったものですから。エルネストについては……これは政略結婚です。今の、シイナドラドでの内乱のことを思えば、シイナドラド皇王家は血族を絶やさぬため、二人だけの皇子の一人であるエルネストを国外へ出しておきたかったのでしょう。……それだけです。今後も、きっと変わることはない」
カイエンがきっぱりとそう言うと、オドザヤは黙ってしまった。
「ですから、今の陛下のお悩みに、私は答える術を持ちません。これは宰相も同じでしょう。あれは神官ですからね。もっとも、私よりもかなり年上だから、わかりませんか。意外に生臭坊主なのかもしれません。ですから陛下」
カイエンは、横に座ったオドザヤの方へ、半分体をねじ向けるようにして向き直り、彼女の細い手を取った。もう、二人ともに、夜会服に合せた絹の手袋は脱いでいる。
「トリスタン王子の件では、どうか年長の者たちの言うことを、忠言をよくお聞きください。ミルドラ伯母様も助けてくださるでしょう。私の元から派遣している、大公軍団員のブランカは子のいる母親ですし、ルビーも私などよりよほど苦労しているでしょう。女騎士のリタ・カニャスも、コンスタンサも、きっと助けになってくれます。私が出来ることは、皇宮前広場プラサ・マジョールの事件や、カスティージョ伯爵邸でのようなことが起きないよう、起きても十分に対応できるよう、心がけることです。これ以上、陛下のご心労を増やさぬよう、自分の職務を果たすことだけなのです」
カイエンは、最後の方は鼻と喉の奥がつまって、何かが込み上げてきそうになった。だが、それをオドザヤに見せるわけにはいかなかった。
「頼りにならぬ姉で申し訳ございません」
その時、カイエンに言えたのは、そんな弱々しい一言でしか、なかった。
新年の宴から、カイエンが大公宮へ戻ってきたのは、午前の半ばあたりの時刻だった。
カイエンは皇宮で新年の宴という名目の舞踏会になど出ていたが、大公軍団の仕事はこ一月一日も、変わることなく続いている。
新年の夜明けを広場に出て賑やかに過ごし、日が昇りきると各家庭へ帰って、新年の料理の食卓を囲むのが、このハーマポスタールの市民たちの常だったから、治安維持部隊でも、朝日が登り切るまでは大忙しなのだ。
それでも、そろそろ各署へ引き上げて来た隊員へは、形ばかりだが新年を祝う用意もされているはずだ。夜勤が終わって帰る隊員には、酒やら菓子やらの土産も用意されているはずだった。
だが、カイエンは大事件でも起きないかぎり、今日はこのまま休日にする予定だった。
大公宮奥の玄関の前で馬車を降り、護衛のシーヴを従えて玄関を入ると、そこには十年一日のごとく、執事のアキノが待っていた。
「お帰りなさいませ」
「朝食は、陛下のところでいただいてきた」
カイエンがそう言うと、アキノは時刻からそれを予想していたらしい。
いつもの新年なら、大公宮でも市内と同じように、新年の朝食はやや特別なものなのだが、今年はそんなこともない。
「では、お湯浴みのご用意が出来ております」
「うん」
カイエンはうなずき、自分の居住区の方へと続く廊下へ入っていく。シーヴはももう宿舎へ帰ってもよかったが、今日、カイエンが休日としっかり定まらないうちに帰ると、何かあった時にまた呼び出されるので、ちょっと考えた後に一緒についてきた。
いつもは、カイエンの休日はヴァイロンの休日となるのだが、今日ばかりはそれも普段とは違っている。ヴァイロンは帝都防衛部隊の方で、仕事中の隊員たちと新年を祝っているはずだった。
右側に大公宮の奥庭へと続く、長い廊下が繋がっている場所へ差し掛かった時だった。
「あれ? イリヤさん、こんな時間にこんなところでどうしたんですか」
一番最初に、その姿に気が付いたのはシーヴだった。裏庭に続く入口へ向かう廊下の向こうから近付いてくる長身に気が付いたシーヴは、やや怪訝そうな顔つきだ。
カイエンはやや近目だったったこともあり、シーヴよりも気がつくのが遅れた。アキノの方は老眼だろうか。
「えー。あれぇ、殿下は今お帰りですかぁ。……アキノさんごめん。裏の訓練場から戻る時、ここ通ると早いのよ。外を回ってると倍くらい時間がかかるんだもん」
アキノの鷹のような顔が厳しくなった。
「ここは大公殿下の書斎やお居間へ続く廊下だ。許可なく歩き回るものではない。最近、増長しているのではないか」
カイエンとシーヴは顔を見合わせた。アキノとイリヤが同郷……獣人たちの村プエブロ・デ・ロス・フィエロスの出身であることは知っていたが、アキノがイリヤをこんな風にたしなめるところは、あまり見たことがなかったからだ。
イリヤは今や、大公軍団の軍団長である。一方のアキノは二十年前から変わらず、大公宮の執事なのだ。
それでも、同郷人としてはアキノの方が先輩、ということなのだろう。
「あはあ。すみません、すみません。もうしません。じゃ、
適当な言葉を、おざなりに並べると、イリヤはカイエンとシーヴの脇を通って、さっさと大公宮の奥玄関の方へと歩いていく。
「あっ、殿下! それ、馬子にも衣装ですねぇ。あはは。いつもそういうなりでいればいいのに」
憎まれ口も忘れない。
あれで、あの大公軍団の恐怖の伊達男は、巷では若い女を中心に、中年女性にまで密かに大人気なのだという。
彼の似顔絵は、有名な役者や踊り子、女優や高級娼婦の似顔を売る店でも売られているらしいのだ。まあ、確かにその辺の役者風情では、彼の美貌にはおよびもつかない。
これは、カイエンが「
「困ったものだ」
カイエンはそう言ったが、横で、シーヴの方は不思議そうな顔をしていた。
「あれぇ。イリヤさん、普段はこういう時、
カイエンはシーヴの疑問には頓着しなかった。もう、疲れていたし、軍団長のイリヤがあの様子なら、今日は休めるだろうと判断したからだ。
「シーヴ、あの様子じゃ、今日はもう大丈夫そうだ。お前も帰って休め」
カイエンはそう言うと、シーヴを宿舎へ返し、アキノの先導で自分の部屋へと入って行ったのだった。湯浴みをして、着替えて、もうさっさと眠ってしまいたかった。
夢の中で、誰かが凄まじい、それこそ断末魔の叫び声とはかくや、と言う音量で叫んでいた。それは、悲痛と言うよりは、現実を受け入れがたい、とでも言うような、酷く痛々しい叫び声に聞こえた。
カイエンは飛び起きた。
寝巻きの背中といい、髪の毛の中といい、絞るような汗にまみれている。こんなことは滅多にないことだった。いや、病気で熱でも出していない限り、ありえないことだろう。
それほどに、あまりにも生々しい夢だったのだ。
寝室の窓とカーテンは閉められていたが、まだ、カーテンの向こうは明るかった。午後から夕方にかかる時間帯だろう。
三年前に、あの「桔梗館」のことを思い出し、まだ少年だったアルトゥール・スライゴがそこにいたことを思い出したのも、夢の中だった。
あの時は、夢で見た情景を忘れないよう、すぐにスケッチをしたものだったが。
今度の夢は、目が覚めても鮮明に覚えていた。すぐに忘却の海へ流れていきそうな危うさもない。
さっきまでの夢の中。
カイエンは真っ黒に磨り減った石畳の上に両膝をついて座り込み、なぜだか知らないが、仰向けに倒れているイリヤの上半身を腕に抱えて、なにか言っていた。その周りでは動き回る、黒い大公軍団の長靴がいくつか見えた。
何よりも凄まじかったのは、抱き起こしたイリヤの横っ腹から流れ出た、大量の血潮の生暖かく濡れた感触や、その匂い。そして、なにか苦しげに言っているイリヤの口から、大量に溢れ出た……真っ赤な血。
「なんだ、あれ」
イリヤの言葉は聞こえなかった。夢には音がなかったのだ。あれだけ鮮明な夢だったのに、音は一つも聞こえては来なかった。
カイエンには、あの場所がどこなのかが、わかっていた。
あれは、建て替えられた、新しい開港記念劇場の裏口だ。もう三年前、あそこでカイエンたちはアルトゥール・スライゴと対峙し、カイエンの庶子の弟、カルロスが命を落としたのだ。
そう言えば、新開港記念劇場が再開され、最初の演目が披露されるのは、今日、新年一月一日、だったのではなかったか。だとすれば、夢の出来事は、まさに今日を映していたのではないか。
だが、カイエンは夢の中で、大事な部分を見ることができなかった。
誰が、イリヤを刺したのか。腹に穴が空いて、血が流れていたのだから、彼は誰かに刺されたのだろう。
どうしてだか、夢の中でその前後だけが、切れ切れの場面で繋がっていて、カイエンには肝心の部分が見えなかった。
立ったまま、イリヤと話していて、不意に場面が飛んだ。次にカイエンが見たのは、背中を向けて立っていたイリヤが、横腹を刺されて彼女の方へ倒れてくるところだったのだ。
寝台の上に起き上がったまま、カイエンがどうしたものか、と考えていると、奥殿のリリの部屋の方がなんだか騒がしいことに気が付いた。リリの部屋は昔、カイエンが住んでいた大公の子女の住む区画にある部屋で、大公であるカイエンの寝室や居間から、裏の廊下を通ればより早く行くことが出来た。
カイエンは寝台から降り、すぐ横に立てかけてあった、室内用の杖を手にした。
よっこらせ、と立ち上がると、脇の
居間の方ではない裏扉から、裏の廊下へ出ると、女中頭のルーサが、リリの部屋の方へ向かうところに出くわした。
「リリの部屋か? どうしたんだ」
カイエンが問うと、ルーサはカイエンに丁寧に礼をしながら、早口に答える。
「あの、リリ様が、火がついたようにお泣きで……リリ様はほとんどむずかったり泣かれたりしないので、サグラチカ様も、乳母も慌てておりまして」
「リリが?」
カイエンも驚いた。リリはまことに奇妙な赤子で、ほとんど泣くことがない。お腹が空いたり、おしめが気持ち悪い時も、不機嫌そうな顔と声とで知らせてくる。そんな赤子が火がついたように泣いているとは。
「とにかく、見に行こう」
カイエンは右手でルーサの左腕をつかみ、左手の杖で廊下の床を蹴るようにして、早足でリリの部屋へ向かった。
もう、ずっとリリの泣き叫ぶ声は続いている。なるほど、あの声は普通ではない。
廊下を進むと、リリの部屋の扉の前で、カイエンの飼い猫のミモが、心配そうに「にゃーぅ」と鳴いた。
「リリ!」
カイエンがリリの部屋へ入ると、そこではリリを抱いた乳母とサグラチカがおろおろしていた。老練な乳母や、カイエンの乳母だったサグラチカをも慌てさせるほど、リリは激しく泣き喚いていたのだ。
リリの部屋は十五になるまでカイエンが住んでいた部屋だったが、今は壁紙も新しく張り替えられ、床の絨毯もかわいらしい薔薇色とピンクのものに敷き変えられていた。
部屋の中央に、小さな子供用のレースの布が天蓋から下がった寝台が置かれ、その周りにはソファや椅子、替えの服などが入った箪笥などが置かれている。窓も大きく、こっちの窓のカーテンはまだ引かれていなかったので、カイエンはここで初めて、大体の時刻を知ることができた。
大体、午後四時ごろだろう。そろそろ、冬の夕闇が近付く頃合いだ。
「カイエン様!」
サグラチカと乳母が振り向き、泣きそうな顔をカイエンへ向けた。
カイエンの足元には、一緒に部屋に入って来たミモがくっついている。
「どうした?」
カイエンにはそうとでも聞くしかない。ルーサと一緒に歩み寄ると、リリは乳母に抱かれたまま、小さな体を反らすようにし、手足を暴れさせながら泣いている。抱いている乳母はリリの小さな手で打たれ、足で蹴られて困り果てていた。
リリは普通の子よりも歩くのが遅く、この頃やっと掴まり立ちが出来るようになったところだが、そんな赤ん坊の手足でも、こうまで暴れられては抱いているのも一苦労だ。
「それが……お昼寝から目覚められると同時に、こうして泣き始められて」
「お昼寝の前にお乳を差し上げましたし、おしめも濡れてはおられません。これは急にお腹でも痛く……それにしてもこの泣きようは……」
サグラチカと乳母が、代わる代わる、カイエンに訴える。
カイエンが見ると、リリは顔を真っ赤にし、涙を吹きこぼれさせて凄まじい顔つきで暴れながら泣いていた。いつものご機嫌よくしているリリとは大違いで、これはどこか痛いとしか思えなかった。
「奥医師は呼んだのか」
カイエンはルーサに聞いた。彼女が廊下を戻っていたのは、医師を呼びに行った帰りではないかと察したのだ。
「はい。じきに到着されると思います」
「だー! だーっ! あー、ああー、かーい! かーいぃ! ゔぁーいぃい! えーりぃ!」
乳母の手の中で、リリは叫んでいたが、ふっ、と一瞬動きを止めた。そして、カイエンに気が付いたのか、今度はカイエンのいる方へ身をよじり、何かを訴えるように泣き続ける。
カイエンにも、サグラチカ達の狼狽と心配が伝染しかかっていたが、リリの鳴き声の中に、自分があやしている時にリリが言う、「かーい」と、ヴァイロンがあやしている時に聞く、「ゔぁーい」が入っていることに気が付いた。
「リリ、かーいはここだ。どうした? 何か言いたいことでもあるのか」
カイエンはリリへ手を伸ばしながら、ふと、さっき見た生々しい夢のことを思い出した。そして、生まれてくる前のリリが、自分のあの恐ろしい夢の世界にいたことも。
あの、深緑と青黒い何かと、そして暗い灰色の渦が混ざり、内側で何かが蠢いているような、ドロドロした水のよどむ沼。白い睡蓮が淀みの中から這い出るように咲いていた、静寂が支配する、あの場所。
そこから這い上がってきた、二人の双子のようにそっくりな、小さな、小さな少女。元気な方のリリは、もう一人の瀕死の少女を生かすために、自分の右側の琥珀色の目をくり抜いたのだ。
まさか、さっきの夢も。
リリは一緒に見ていたというのだろうか。
「リリ、リリ! お前も見たのか? さっきの夢を、お前も見ていたのか」
リリの部屋のソファに座り、乳母からリリを受け取ると、カイエンが分かったのか、リリは叫ぶのをぴたっとやめた。そして、涙でいっぱいの灰色と琥珀色の猫のような瞳を、必死な様子でカイエンへ向けて来たのだ。
「見たんだな? お前もあれを。あれはなんだ? あの夢はまさか……」
(本当に起こることなのか)
カイエンは再び、夢の中での血の色と、その感触を思い出して身震いした。
イリヤとは、朝、この大公宮で別れたばかりなのだ。
そして。
「かーい、たい、へ、ん。だ……よ。かーいの……が、しん……じゃ、うよ。かーい、かーい、に、し……で……でき、な……のよ」
カイエンは、腕の中のリリが、確かに言葉を発するのを聞いた。
それは、途切れ途切れではあったが、ちゃんとした言葉として聞くことができた。
カイエンの周りで、サグラチカと乳母、それにルーサが、驚きに声を失っている。リリは、十二月の九日に満一歳になったばかり。こんなまとまった言葉を話せるわけがないのだ。
「しな、な……うぃよ、う……かーいの……む、を、……うご……し、て」
だが、二つ目の音葉は、意味が通らない。
「リリ、イリヤのことか? さっきの夢のことを言っているのか」
カイエンがリリの、必死に動かしている唇を読みながら、小さな小さな手を握ると、リリはふん、ふん、と顎を動かした。
「いりや、い……しぬ、よ」
リリは、イリヤ、とはっきり言った。そして、死ぬよ、とも。
カイエンはもう、立ち上がりそうになっていた。
カイエンとリリ、一人だけならともかく、訳も何もわからないながら、夢で出会った二人が、同じ夢を同時に見たのだ。それには、大きな意味があるはずだった。
リリにはわかるのだ。あの、先ほどの夢が本当に起こることだと、確信しているのだ。カイエンには、それだけははっきりとわかった。
「リリ、ありがとう。私は行く。リリは、ここで待っておいで」
そう言うと、カイエンは乳母にリリを抱かせ、サグラチカとルーサに命じていた。
「聞いただろう? リリは普通の赤ん坊じゃないんだ。おまけに、私がさっき見た夢と同じ夢を見たらしい。私はすぐに出かける。ルーサ、馬車の用意を頼んで、シーヴの宿舎へも伝えてくれ。間に合わないだろうから、後から来るようにと!」
ルーサは、シイナドラドへも一緒に行き、苦難を超えてきた仲間だ。いくら不可思議に思っても、カイエンの言うことに口を挟むようなことはしなかった。
「はい。あの、でもどこへ?」
カイエンはサグラチカに掴まって、自分の寝室へ戻りながら、叫んでいた。
「新開港記念劇場の裏だ! あそこで今、なにか起こっている。そこに多分、イリヤがいて……」
そこまで言って、カイエンは一回、言葉を切った。次に出てきた言葉は、今度は囁くように小さかった。
「誰かが、軍団長を……イリヤを殺そうとしている」
カイエンはサグラチカに手伝ってもらい、ものすごい速さで支度を整えた。
アキノにもうリリの部屋へ向かっているはずの奥医師と、それに外科の医師を呼んでおくように言い、何事かと後宮から出てきたエルネストとヘルマン、それにアルフォンシーナに、「リリを守っていろ」と命じた。
影使いのナシオかシモン、そうでなかったらガラがいればよかったのだが、誰もいなかった。仕方なく、カイエンは今日の後宮の番人だった、女騎士のナランハを馬車に同乗させて、一路、新開港記念劇場へと馬車を駆けさせた。
カイエンの乗った馬車が、新開港記念劇場の裏手に着いた時には、もうあたりは薄暗くなりかけていた。
カイエンが見た夢の通りに、もうそこには大公軍団の治安維持部隊員たちが集まり、なにやら動き回っているところだった。
カイエンは馬車を降りると、真っ先に人並みはずれて背の高い、だがちょっと猫背な、そして真っ黒な大公軍団の制服の襟章や肩章、飾り刺繍などが華やかな、軍団長の制服姿を探した。
カイエンがイリヤを見つけたのと、イリヤが意外そうな声をあげたのは、ほぼ同時だった。
「あれえ。どうしたの? なんで、ここの事件がわかったんですかぁ」
イリヤは、新開港記念劇場の真新しい、前とは違って、大理石の貼られた瀟洒な裏口に、支配人らしい男と一緒に立っていた。
カイエンは、左手の杖の石突をガチガチと石畳にぶち当てながら、イリヤの方へ急いだ。女騎士のナランハも青い顔でついて来る。
イリヤの側には、この近所の治安維持部隊の署員らしい男が、手帳を片手に立っていた。
「そんなことはどうでもいい。ここで、何があったんだ?」
カイエンは、イリヤの前に立つまでの距離も惜しいとばかりに、歩きながら聞いた。
「ええー? 今日、ここの劇場は建て替え後初めての興行でしょ。そこへ、変な落とし文があったっていうんですよ」
「落とし文?」
カイエンはやっとイリヤの前に着いた。横で、署員が驚いた顔で見ている。彼は、この近所の署員である、と小さな声で名乗った。
「前の劇場みたいに、また燃やしてやるって。放火の予告みたいですねー」
カイエンは眉をひそめた。
「それは確かに事件だが、どうして軍団長のお前自ら、出て来たんだ?」
イリヤは意外そうな顔をした。
「だってここ、三年前に燃えたのは、うちの捜査って言うか、あの人がらみの事件だったでしょ? 火をつけたのは、
放火予告。
それで、軍団長のイリヤをおびき寄せようとしたのか。カイエンはそう考えて、即座にその考えを否定した。放火予告くらいでは、普通であれば、軍団長のイリヤがわざわざ出てくるはずがない。
だが、現にこうして来ているじゃないか。カイエンはそうも思った。
つまりは、誰かが狙ってるのだとしても、今日ここにイリヤが来るか来ないかは、賭けでしかない。
「なんなんですぅ。俺が来るのがおかしいなら、事件のことも知らないのに、おれの居場所を嗅ぎつけてくる殿下も、おかしいですよぉ」
イリヤは不審に思っている様子だ。それはそうだろう。ここへ来たカイエンは明らかに、イリヤを探していた。その様子をさっき、彼は見ているのだ。
カイエンでは埒があかないと思ったのか、彼はカイエンの後ろの女騎士のナランハの方へ目をやった。
「それにぃ、シーヴはどうしたの? あいつ、護衛でしょー?」
そして、イリヤが透かすように長身を伸ばして、ナランハの後ろの方を見るような動作をした時だった。
カイエンは、見た。
切れ切れの夢の中では、見えなかったその場面を。
まさに、その時。
イリヤの視線が、一瞬だけカイエンから外れた瞬間だった。
彼女とイリヤの横に立っていた、開港記念劇場のそばの治安維持部隊の署員である、と名乗った隊員が、魔法かなんかのような手つきで、制服の袖口からナイフを取り出し、光るそれを持った腕が、カイエンの懐へ刺さって来るのを。
男は体ごと突っ込んでくるような、鋭い動きでカイエンの方へ向かってきた。もとから、人三人分くらいの間しか空いていなかったから、もう一瞬後には、ナイフはカイエンの体の前まで迫っていた。
(えっ)
刺されるのは、自分だったのか。
カイエンは、恐怖の中でそう思った。自分は、リリの話したかったことを、曲解していたのか。
でなかったら、あの夢は、カイエンをここに誘い出すために、誰かがカイエンとリリに見せたものだったのか、とも疑った。
それならもう、取り返しがつかない。
カイエンとリリは、見事に騙されたのだ。
だが。
カイエンには、ナイフを避けるような身のこなしは出来ない。ただ、光るナイフの光芒が、自分の胸元へ飛び込んで来る、その軌道を追うだけだった。
その時、不意に、カイエンの視界が真っ黒に彩られ、カイエンはその影に後ろへ押しのけられた。
カイエンはすでに自分は刺されたのだな、と思った。きっと、自分は石畳の上へ倒れているところなのだろうと、そう思ったのだ。
肉にナイフが刺さる、嫌な音がした。
ほぼ同時に、ナイフを持っていた男が、蹴り飛ばされて石畳の上へ吹っ飛んでいた。
「そいつ、逃すな、確保! 自殺させるな!」
イリヤの命じる声が聞こえ、その途端にカイエンの目の前の真っ黒な壁が、ぐらりと崩れて、彼女の目の前に押し寄せてきた。大きな声を出した途端に、ナイフが刺さったままの腹の傷から血が吹き出したのだ。犯人を蹴り飛ばした勢いを、傷ついた体はもう支えることが出来なかったのだろう。
ナランハが何か叫んでいる。だが、ナランハはカイエンの後ろにいて、イリヤにつられて後ろを振り返ったところだったので、動くのが遅れてしまった。
「あっ」
目の前に真っ黒な大公軍団の制服が倒れてきて、広い背中がカイエンの顔面から胸あたりに激突し、そのまま、カイエンにはその重量を支えるすべもなかったので、彼女は黒い制服の背中もろとも、後ろ向きに倒れた。
かろうじて左手に突いていた杖に力を入れ、一瞬だけ転ぶ勢いを殺せたので、カイエンは頭からではなく、腰から崩れるように石畳の上へ尻餅をつく形となった。
周りで見ていた隊員たちには、他の情景も見えていた。倒れたのがイリヤで、彼は自分ではもうどうしようもなく、後ろへ倒れ込みながらも、自分が倒れる勢いを、なんとか殺そうとしていたことを。
「あうっ! つッ!」
それでも、二人分の体重とともに、石畳に叩きつけられる勢いは凄まじく、カイエンは一瞬、痛みで気が遠くなった。尻餅をついただけでなく、直後にイリヤの背中が眼前に倒れてきたので、一緒にカイエンの上半身も倒れ、今度は背中を打ち付けることとなった。
腰骨や背骨が折れたのではないかと思うほどの激しい痛みだったが、そんな痛みも、次の瞬間には吹っ飛んでいた。
倒れて来たのがイリヤであることは、あの夢を見たカイエンには、もう、間違いのないことだったからだ。
「おい、イリヤ!」
カイエンとイリヤでは、かなりの身長差があるから、カイエンの顔に激突したのがイリヤの背中だったのだが、カイエンはすぐにイリヤの下から這い出すと、石畳に両膝をついて、彼の倒れた上半身を支えようとした。
「団長! しっかりしてください!」
周りで、この近所の署員たちが、叫ぶ。
「いや、動かしちゃいかん。出血が……」
カイエンはようよう、石畳に膝をつくと、倒れたイリヤの上半身を後ろから抱えるようにしているしかなかった。
「ナランハ、馬車を!」
痛みの中で、カイエンは振り向きもせずにナランハに指示していた。ナランハがカイエンの乗って来た馬車の方へ走っていく。
カイエンが改めて見るまでもなく、イリヤの横腹には、ナイフが深々と刺さっていた。決して小さいナイフではない。ナイフを抜かれていたら、血管がいくつも傷つき、あっという間に大量の出血となっただろう。
イリヤは、刺した署員を突き飛ばすとき、ナイフを抜かれないように、自分で掴んだらしく、ナイフの柄にはイリヤの蒼白な長い指が絡みついて離れなかった。
「まさか……私がここに来なければ、イリヤは刺されずに済んだのか……」
カイエンの呟きは、彼女の腕に支えられているイリヤにも聞こえたかもしれない。
だが、倒れているリヤが言った言葉は、まったく別のことだった。
「……うゎ、すごい。……はたき落とすの、もう、間に合わないわ、って思って……あー、ダメだ、殿下死んじゃう、って、思ったのにぃ。無意識で自分の体で庇っちゃうなんて……う、嘘でしょ。洗脳っておそろ……し……。さすがは、あの人、あの……怪物、の、まほう……だ」
イリヤの言葉は、そう言っているうちにも、どんどん弱くなり、途切れ途切れになっていく。
カイエンの胸元で、なぜかイリヤはナイフを握っていない方の手で、カイエンの腕を引き剥がそうとする。だが、もう腕に力が入らないのか、指はカイエンの手の甲の上をゆらゆらと撫でていっただけだった。
「動いちゃだめです!」
「しゃべっちゃダメですよ!」
脇で、犯人を抑え込んでいる署員たちが叫ぶ。
イリヤが刺さったナイフの柄をを抑えているのを見ると、一人がカイエンの脇から手を入れて、ナイフが刺さったままの傷口の周りに布切れを置き、両側から抑えて止血しようとする。
一方で、他の隊員たちは医者を呼び行こうとする。
その時、馬の蹄の音がして、馬から誰かが飛び降りた。
「イリヤさん!」
カイエンは振り向くこともできなかったが、それは間違いなく、シーヴの声だった。
「イリヤさん、後ろから馬車で、外科の先生がくることになっているから! 気を確かに! 眠っちゃダメだよ!」
シーヴの声が近付いて来て、すぐにカイエンの横へ来たかと思うと、そっとカイエンの脇からイリヤの体を一緒になって支え始める。
イリヤは、もう、そんなことも見えす、聞こえもしないようだった。
「く……首が飛ぶ……んじゃなかったのぉ……。じゃあ、アレ、親切な、未来のげ……幻覚じゃ……なかっ……」
「おい! しゃべるんじゃない!」
カイエンは叫んだ。イリヤが今、何をいっているのかわからない。もう、イリヤにはこの世とは別の世界が見えているとでも言うのだろうか。
その時、ごぼりと音がして、イリヤの口から大量の血が溢れ出た。
「ああ!」
カイエンはやっぱり、あれはただの夢ではなかった、という諦めのような気持ちで喉が締め付けられるような心地がした。そして、喉の奥から絞り出したため息で、喉の奥が塞がれる息苦しさと。
昼間の夢で見た光景と、寸分違わぬ映像が、目の前を流れていく。
そして。
音のない夢の中では、聞こえなかった、イリヤの言葉が、最後にカイエンの耳へ刺さって来た。
「で、でも……いいか。最後に殿下……が、ちゃんと、元気に……生きて……る、とこ、見られて」
カイエンは言葉が出てこなかった。
そんなカイエンの方へ、なぜだか知らないが変な、生ぬるい微笑を浮かべたイリヤが、満足そうに囁く。
「じゃ、で、ん……か。お、れの、お……しご、と、はぁ……きょう、で、おわ、り……ね。じゃ、
(えっ?)
カイエンとシーヴの目の前で。
鉄色の瞳の上に、真っ白で透き通るような瞼がかかり、一瞬でイリヤの体から力が抜けた。まるで、水を撒かれた火のように、もしくは、体を巡っていた
「ちょっと! イリヤさん!」
カイエンの真横でシーヴが叫んだが、もうカイエンはろくに聞いていなかった。
カイエンの腕にかかっていた彼の重みが、とてつもない重さとなる。それまでは重傷の中でも意識があった体から、一気に全部の力が抜けてしまったからだ。
それは、死体の重さだった。
人は、死ぬと筋肉の緊張が解け、生きている時よりも重く、運びにくくなる。
途端に、カイエンはものすごい音量の、それこそ断末魔の人間があげるような、悲痛な叫び声を聞いた。
そして、それが自分の上げた声だと、夢の中で聞いた声と同じだと気が付くのと同時に、腹の奥で何かが「どくん」と、二番目の心臓のように蠢き、動き出すのを感じていた。
(かーい、かーい、に、し……で……でき、な……のよ)
リリはそう言った。
(かーいの……む、を、……うご……し、て)
その続きを、カイエンは膝の上のイリヤの上に、身を折り曲げ、ばったりと倒れこみながら聞いていた。
(リリはそこまで行けないから。あたしは大公宮ここで待ってるよ)
そして、カイエンの目の前が、今度こそ意識と一緒に塗り替えられ、真っ暗になった。
第五話「不死の王」 了
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