皇子様の世にも稀なる恐怖の趣向


 ハウヤ帝国の東の端、クリストラ公爵領。

 大城のあるクリスタレラに、その隊商が到着したのは、十二月も下旬にかかった頃のことであった。

 ザイオンの東南側にある、砂漠の国からザイオン経由でベアトリアを通過してきたという、その隊商には、一見しただけでも雑多な民族、国籍の人々が連なっていた。

 隊商というのは、本体はパナメリゴ街道を行き来する運送を生業とする一団で、旅を安全、確実にするのが仕事だ。契約した商人が荷運びを頼むのだが、中には商人自らが品物と共に加わることもある。

 この一団の構成員として旅をすれば、野盗などの被害に遭いにくいことから、個人で旅をするものや、行商人、楽団や芸人なども金を払って旅程を共にすることも多かった。

 国境のクリストバルの検問所の係官は、この隊商を率いる隊長には見覚えがあった。なので、隊長の差し出す手形を確認すると、すぐに、後に続くこの隊商に連なる人々の手形の検査にかかった。

 通常ならば、こうした手順は、隊長に信用があれば多少は甘くなるのだが、今のハウヤ帝国は国境での検問を強化していた。それは勿論、北でのアルタマキア皇女の事件と、自治領スキュラの「独立宣言」以降に始まったものだ。

 このベアトリア国境のハウヤ帝国最東端を領地とする、クリストラ公爵は、スキュラの事件の後すぐにハーマポスタールからクリスタレラへ、単身戻っている。クリストラ公爵家の軍団は、それからずっと準臨戦態勢で領地内を守っているのだ。

 国境のクリストバルは、故郷紛争前はベアトリアの国境の街で、クリストフォロと言ったのだが、国境線が書き換えられると共に、その名を改めることとなった街である。

「次!」

 絹織物の行商人が、馬に引かせた自分の荷駄と一緒に検問所を通った後に、検問所の係官の前に現れたのは、ザイオンの東側の小国から来たという芸人の一団だったが、なぜか、彼らの手形や運んでいる楽器などへの検問には時間がかかった。

「今回は、いやに厳密だねえ」

 この芸人一座の座長は首を傾げたが、これは第三王子のトリスタンが行方不明、とザイオン大使が騒ぎ出した時すぐ、サヴォナローラは街道沿いのアストロナータ神殿の武装神官たちの連絡網に、

(ザイオン方面から来る芸能関係者の検問は厳しくするように)

 との命令を走らせたので、それがこのクリストバルにも届いていたことからだった。

 それでも、芸人一座の手形の改めが終わると、次に進み出て来たのは、肩に背負った皮袋の他に、厳重に革のベルトと、錠前で固められた革鞄を持った、中年のしなやかな体躯の大人しそうな男だった。

 毛皮の裏打ちのついた、革の帽子を取ると、現れたのはやや長い、青みがかった金色の髪だ。

「えーと、あんたは?」

 係官が男の差し出す手形を見ると、そこにはザイオンの宝飾品店のギルドの紋章が押されていた。

「ザイオンから来ました。東の国から渡って来た宝石を商う者です」

 聞かれる前に、抜かりなく答えた男の顔は白く、ザイオン人なのは間違いなさそうだった。目の色は、ちょっと変わった色味の鮮やかな緑色だ。

「一応、その鞄の中身を見せてもらおうか。……規則だからね」

 係官が手形の名前を確認してから、そう言うと、宝石商人は、落ち着いた手つきで四角い鞄の錠前を開け、ベルトを緩め、最後にぱかりと革鞄の蓋を開ける。

 そこには、いくつもの小さな皮袋に入れられた、紅玉ルビー青玉サフィオ、翡翠や瑪瑙などが詰まっていた。

 商人はいくつかの袋の中身を係官に見せ、係官は鞄の底まで改めた。そこには宝石だけしか入っておらず、もう一つの、この宝石商人の身の回りにものを入れてある革袋の方は、改めも簡単だった。

「通ってよし。……ああ、行き先はハーマポスタールだろうね?」

 宝石商人は、帽子をかぶり直していたところだったが、すぐに答えた。

「はい。金座の……商会へ運び入れます」

 宝石商人の上げた、ハーマポスタールの金座の宝飾店の名前は有名だったので、この田舎の検問所の係員も怪しまなかった。それほど、この宝石商人の鞄の中の宝石は品が良かったのだ。

「よし。通っていいぞ」

「ありがとうございます」

 宝石商人は、無事に検問所を出ると、すでに検問所を通過した隊商の一団の方へと歩いていく。

「うまくいったよ、トリスタン。お父さんは後二、三週間ぐらいでハーマポスタールへ着く。お前の方は上手くやっているのかな」

 金髪の中年男は、誰にも聞こえないように呟くと、西側に続く森林地帯を遠く眺めた。

「クリスタレラには、今日中に入れるんですか?」

 隊商の隊長に聞いた、今度の声は大きく、そしてはっきりしていた。

「どうかなあ。今回はいやに検査が厳しいからな。ま、スキュラでなんか起きてると聞いているから、厳しくしているんだろう。しょうがないね」

「色々、剣呑になって来ているんでしょうねえ」

 宝石商人、その正体はザイオン女王国第三王子、トリスタンの実父、シリル・ダヴィッド子爵であった。

 彼は自分の荷物を一台の馬車の中へ入れると、自分も宝石の入った革鞄を抱えて、馬車へと乗り込んだ。

「同じ冬なのに、この国には雪も降っていない。ハーマポスタールへ行くのは、もう二十数年ぶりかな。凍っていない海を見るのも、久しぶりだ」

 シリルは思った。そうそう、あの最後の旅の後、ザイオンのアルビオンで、女王に捕まってしまったのだった。

「いい音の鳴る石畳の広場があったなあ。まだ、変わらずにいてくれるといいんだが」

 今、彼の荷物の中には踊り靴は入っていない。

 そんなものが入っていたら、検問ごとに疑われてしまう。だが、ハーマポスタールの旧知のもとへたどり着けば、そんなものはいつでも誂えられるだろう。

 乾いた風の吹く薄青い空、西の彼方へ流れて行く雲を追う、シリルの作りもののような緑の目は、楽しそうに踊っていた。







 十二月の下旬に差し掛かった、ハーマポスタール。

 アルタマキア皇女がスキュラ北部の泥炭採掘の村で密かに保護されている、との情報が国境から、フランコ公爵の領地の大城のある、ラ・フランカを経由し、ハーマポスタールの皇宮へと届いたのは、つい先日のこと。

 宰相府のサヴォナローラは、元帥府のザラ大将軍、大公カイエンと図ったのち、皇帝オドザヤの裁可を受け、フランコ公爵とサウリオアルマのガルシア・コルテス将軍へ、皇女の身柄確保に動くように、との命を発した。

 真冬の間に、雪に慣れないハウヤ帝国軍を動かすのは難しい。

 だから、まずは影使いを先導にして、皇女の身柄を確保し、そのままハウヤ帝国側の版図へ連れて来られれば、それでよし。そうでなくとも、身柄さえ確保できれば、春になってから軍をスキュラへ動かすことも可能となる。

「アルタマキア皇女自らが、泥炭加工ギルドの支配する地域に逃げ込んで行かれた、というのには驚きましたね」

「ドネゴリアのイローナや、マトゥサレン一族の支配にも、隙が出て来た、ということだろうて。その間をついて、アルタマキア皇女に同情したのか、使い道があると考えた輩が、皇女を監禁先から抜け出させたのかもしれん。国庫の金の元である泥炭の輸出が出来ないのだ。泥炭加工の連中を手始めに、スキュラ国内から崩れてくれれば、楽になるのだがな」

 そう話す、宰相サヴォナローラと、元帥大将軍エミリオ・ザラは、北のスキュラ方面の問題には光が見えて来た、といった様子だった。

 そして、もう一方で。

 トリスタン王子歓迎の舞踏会は、恒例の新年の宴と一緒に行われることが決まり、それも十二月三十一日の夜から、来年一月一日の朝にかけて行われることとなった。

 先帝サウルの御世では、サウルの誕生日が一月十四日であったこともあり、新年の宴はその日に行われる慣わしとなっていた。だが、それまでの皇帝の御世では、一月の初めに行われていたものなのである。

 オドザヤが皇帝となって初めての「新年の宴」は、海神宮の「青藍アスール・ウルトラマールの間」にて、男爵以上の爵位を持つ全ての貴族家の当主とその夫人が招待されて行われることと決まった。

 新年の宴が、「舞踏会」となるのは近年、なかったことであるが、何代か前の皇帝の御世での前例がないことはなかったので、オドザヤの希望は受け入れざるを得なかった。


 カイエンは、そうした国の政治や催しの決定に関わりながらも、大公として大公軍団の仕事もしなければならず、多忙な日々を送っていた。

 そんな中、カイエンは時間を作って、伯母のミルドラの元を訪れていた。

 ミルドラが大公宮へ来ることはあったが、カイエンの方がミルドラの住む、クリストラ公爵家のハーマポスタールの屋敷を訪れることは滅多になかったので、これは恐らくは数年ぶり、もしかしたらもっとになるかも知れないことだった。

「伯母様、ごきげんよう」

 カイエンが通されたのは、公爵夫人ミルドラの居間で、それは広大な、樹木に囲まれた公爵邸の二階に当たっていた。

 扉を開けてくれた侍女は、すぐに下がってしまう。

「いらっしゃい。用件はわかっていますよ。どうぞ、そちらのソファにおかけになって」

 カイエンは、そう言うミルドラの声音に、わずかに苛立ちの空気を嗅ぎ取った。ミルドラにとっても、カイエンの持って来た「用件」は厄介なもの、と認識されているのだろう。

「失礼します」

 カイエンは、そっとミルドラの居間の様子を目で追いながら、指し示された、ミルドラのテーブルを挟んで向かい側のソファに座った。

 そのソファは、葡萄酒色の天鵞絨ビロードの張られた、腕木は木製で、きれいにニスの塗られた上品なもので、ミルドラの性格を表すように、意匠はやや直線的なものだ。

 部屋の窓は大きく、季節を意識した鈍い金茶色のカーテンが左右を囲んでいる。

 広い部屋の壁紙はクリーム色に細かい金色の幾何学模様を散らしたもので、足元には茶色に近い葡萄色の絨毯が敷かれていた。

 部屋の隅には、古びたオルガンが見える。

 カイエンは音楽楽器にはてんで不調法だが、ミルドラにはそちらの素養もあるのだろう。夫のクリストラ公爵も、笛の名手として有名だ。

 カイエンは仕事の合間を抜けて来たので、大公軍団の黒い制服姿だが、ミルドラの方は、芥子色の飾り気のないドレス姿だった。装飾品の類も少なく、それがミルドラの「普段着」とでもいうものなのだろう。

 カイエンが向かい側に座っても、ミルドラはしばらくの間、黙り込んでいた。

 その間に、控えめに扉を叩く音が聞こえ、侍女が茶菓を運んで来た。この屋敷には、ミルドラの次女と三女、バルバラとコンスエラの姉妹もいるはずだが、その気配はない。

 侍女が二つのカップに茶を注ぎ終え、部屋を出て行くと、カイエンはまず熱い紅茶を一口飲んで、心を落ち着けてから話し始めた。紅茶は秋摘みの濃厚な茶色のもので、やや渋みが強く、ミルクが合いそうだったが、カイエンはあえてそのままに飲んだ。

 最初に口にしたのは、今日持って来た二つのお願いのうちの、穏当な方からだ。

「伯母様、新年の舞踏会のことはお聞き及びでしょう」

 カイエンがそう言うと、自分も紅茶を一口飲んだミルドラは、鷹揚な様子でうなずいた。

「聞きたくなくとも、聞こえて来るわね。あの、あなたたちの誕生日の宴で、陛下はあのザイオンの踊り子王子に、すっかりお目を奪われておしまいだったから」

 踊り子王子。

 トリスタンが密かにこのハウヤ帝国へ入国し、踊り子として身を隠していたことは、大公軍団上層部と、宰相サヴォナローラに大将軍のエミリオ・ザラ、それに皇帝のオドザヤくらいしか知らないはずだった。だが、どこからかミルドラの耳には入っているらしい。

 恐らくは、昔、ミルドラの護衛騎士だったというザラ大将軍から伝わったものだろう。

 カイエンは、胸がちくりと痛んだが、そのまま最初の話題を進めて行った。

「私は、足がこれですから、とんと不調法なのですが、舞踏会では最初に女主人と、一番位の高い男性が踊ることになっているそうですね」

 ミルドラは当たり前だ、という顔だ。

「それで、今度の新年の宴の舞踏会ですが、まさか陛下が最初に踊るわけには参りません。そもそも、今度の舞踏会で一番、位の高い男性と言いますと……。これが……」

 カイエンが口ごもると、ミルドラはすかさず切り込んで来た。

「皇子様か王子様、というわけね」

 カイエンは冷や汗をかいた。

「はい。そして、女で一番上となりますと、陛下の次は……」

「あなたね、カイエン」

 ミルドラの返答は、カイエンの言葉にかぶるほどに早い。

「しかし、私は踊りなど」

「踊れないわね」

 ミルドラの頭には、もう、カイエンの持って来た一つ目の話題は見えているのだろう。

 本来なら、最初に踊るのは、カイエンとエルネストの「大公夫妻」しかいないのだ。一歩譲って、トリスタン「王子」を一番としても、女の方の一番はカイエンで変わらない。

「それで、あの、非常に苦し紛れの選択となりまして……」

 今度は、ミルドラは話の先を続けてはくれなかった。やはり、ミルドラは今度の件でのカイエンの失態を許してはいないのだろう。

「その、私の次となると、伯母様ご夫婦、クリストラ公爵夫妻ということになりますが、クリストラ公爵は今、ご領地クリスタレラへお戻りです。これはフランコ公爵夫妻も同じで、と、なりますと、甚だ異例のことなのですが……」

「嫌ですよ」

 汗をかきながら言うカイエンの言葉を、ミルドラは紅茶のカップを皿に戻しながら、途中でぶった切って来た。

「あんな、女の敵の変態と踊るなんて、ありえません」

 カイエンは一言も言い返せない。確かにあれは女の敵で変態だ。間違いない。

 それでも、オドザヤをいの一番に踊り子王子と踊らせるわけにはいかなかった。結果的に、途中でそういう事態になるのは目に見えていてさえもだ。

「あの、伯母様。そこをなんとか……」

 ミルドラは、ぎろり、と怖い目をカイエンへ向けた。その目は、カイエンと同じ色だったが、中に灰色の炎が燃えているようだ。

「なんとかもかんとかも、ないのでしょ! オドザヤ陛下を守りたいのは、あなただけじゃありませんよ。あの、ずうずうしい踊り子王子なら、舞踏会が始まったら、早々に陛下に『一曲踊ってくださいませ』と言ってのけるのは、確実ですよ! ザイオンからの国賓として扱う以上、もうこれはしょうがないわね。でもね、それもあのあなたとリリの誕生日のことがなかったら、こんなに気を揉むことはなかったの! そうでしょ!?」

 ひぃ。

 カイエンはソファの上で、肩をすぼめた。

 カイエンには女親というものがいなかった。だから、母親のような年齢の女性に怒られた記憶がない。

 ミルドラは伯母として、普通にカイエンに接してくれていたが、こんな風に叱責されるのは、初めてだった。

「……はい、それはもう、間違いのないことです」

 カイエンはもうこの件に関しては、四面楚歌で責め立てられていたから、泣き出したいくらいの気持ちだった。実は、今日ここへ来た、二番目の理由の方は、なんとかこの「大失態」を回復する術がないか、という相談だったのだが、この様子では無理そうだった。

 ミルドラは、しゅんとしてうつむいてしまったカイエンの、黒っぽい紫色の頭を、しげしげと見た。

「はあ。……今度のことが起こるまで、あなたがお兄様サウルや、あのくそったれの弟アルウィンのせいで、初恋も知らないまま、愛人だの夫だのを持たされて来たってのを、忘れていたわ。女の敵の皇子様はともかく、ヴァイロンとは仲睦まじげに見えたから、もう全部こなれた大人なのだと思ってしまっていたの」

 そして、次に口にした言葉は、もう怒りの色ではなく、憐れみの色を呈していた。

「あなたは自分から男性に、心ときめかせたことがまだないのよね、カイエン」

 これには、カイエンは泣きたいというより、胸が締め付けられるような気持ちだった。通俗小説でなら、いくらでも読んで来たが、実際にその、ミルドラの言う「男性に心ときめかす」気持ちを味わったことは本当になかったからだ。

「まあ、貴族の娘なんて、結婚前は男を取っ替え引っ替えで遊び呆けているか、何にも知らないままで結婚するか、両極端なんだけれどもね。そんな中、長女のアグスティナは見事に初恋が実って恋愛結婚したし、私もそうなんだけどね。ヘクトルに会った時、それまでの自分の間違いが、一瞬で理解出来たのだもの。まあ、私たちは運が良かったのでしょうね」

 ミルドラは兄のサウルとの醜聞を流されたことがある。それは、恐ろしいことに事実だったらしいが、その後、クリストラ公爵ヘクトルと出会ってすぐ、周囲の意見などは一顧だにせず、さっさと降嫁しているのだ。

「でもね、バルバラとコンスエラはどうなるかしら。コンスエラはともかく、クリストラ公爵家の後継になったバルバラはねえ。やっぱり家格の見合った方じゃないとね。アグスティナみたいに、地方豪族の男爵家の長男、というわけにはいかないわ。これは、ネファールの王太女になったカリスマ皇女も、今、北で困ったことになっているアルタマキア皇女も同じよ。こういう意味では、オドザヤ陛下も例外じゃないわ」

 身分と言うことなら、皇帝であるオドザヤの皇配は、上位貴族、それも公爵か侯爵家の息子か、そうでなければ外国の皇子王子しかありえないのだ。

 ネファールの後継となったカリスマも、スキュラの後継となるはずだったアルタマキアも、その点ではオドザヤと同じなのだろう。

「じゃあ、じゃあ、伯母様、今度のザイオンの王子の件は?」

 やや混乱したカイエンが、そんな言葉を呟くと、ミルドラはこれにははっきりと首を振った。

「しっかりしてよ、カイエン。あなたは恋知らずのお馬鹿さんでも、この国の大公なのよ。北のスキュラであんなことがあって、その背後にはザイオンが見え隠れしてるんでしょう? こんなご時世に、向こうから持って来た縁談なんて、リスクが高すぎますよ。まあ、ザイオンの王子を人質に取ったと思えばいいんでしょうけど、それなら、オドザヤ陛下は冷静にトリスタン王子を見られなくては駄目だわ」

 つまり、オドザヤの方から溺れて、首ったけになっては危ない、と言うことだ。

「ザイオン女王国の女王、チューラはバンデラス公爵のお母上、サンドラ様のお兄様を、国内から王配に迎えて、その他にも何人も愛人を抱えられているそうじゃない。伯爵だの子爵だのの称号を与えて、王宮に取り込んで飼っているそうよ。そして、王配殿下は特別、権力をお持ちではないと聞いているし、あのくらい徹底できなければ、女の支配者なんて勤まりませんよ」

 ここで、ミルドラはちょっと気の毒そうにカイエンの顔を見た。

「その点では、あなたはいいんですけれどね。ヴァイロンはあなたに夢中だし、それに、内心はどうだかしれないけれど、彼はあなたに同じ気持ちを返してくれなんて言わないでしょ。元から権力には欲がないしね。あの女の敵の変態皇子様も、本心からあなたに執着してるから、あなたに嫌われたくなくて、言うことを聞くようになったみたいだし」

「えっ。そ、そうなのですか」

 カイエンはなんだかどぎまぎして、ソファから腰を浮かしそうになった。

「そうでしょ。ああ、カイエン、あなたは早く初恋を済ませてしまった方がいいわね。もう、二十一になるのだもの。そんな弱点を持ったままじゃ、危なっかしくてオドザヤ陛下の補佐なんか任せられませんよ。とにかく、オドザヤ陛下が、あのザイオンの王子様に夢中になって、そのままご成婚、なんていう道のりだけは避けなきゃね」

 いつの間にか、最初の用件はそのままに、二番目の用件の方が先に進んでしまっていた。

「それには、どうしたらいいのでしょうか」

 カイエンがはっとしてそう聞くと、ミルドラはカイエンによく似た、太めでまっすぐな眉毛をぎゅっとしかめた。

「ザイオンには、政略結婚以上の目的がありますよ。策略結婚、とでも言うべきかしらね。とにかく、恋に目覚めたオドザヤ陛下には申し訳ないけれど、時間稼ぎをするしかないわ。その間にあの踊り子王子に醜聞の一つでも出てくれば、潔癖な陛下は一気に目がさめるかもしれないもの。まあ、でも今はそっとしておくしかないわね。でも、陛下の周りの者には、重々、言い聞かせて注意させないと……」

 カイエンはすぐに女官長のコンスタンサの顔を思い浮かべた。コンスタンサには、もうすでに話をしてあった。

 もっとも、あのカイエンとリリの誕生日の宴の時、オドザヤに付いて来ていたコンスタンサには、言わずとももう、そんなことは分かっていたようだったが。

「大公軍団から派遣している、女性隊員にももう、注意をしてあります」

 カイエンがそう言うと、ミルドラは大きなため息をついた。 

「そうそう、さっきのお話だけど」 

 カイエンは一瞬、なんの話だっけ、と思ったが、ミルドラに睨まれてすぐに思い出した。

 舞踏会で最初に踊るダンスの話だった。

「いいわよ。仕方がないわ。私ももう、いい歳のおばさんですからね。今さら、女の敵だの変態だのは怖くありませんよ。あっちも、おばさんに興味はないだろうしね。よござんす、あのイヤらしい男の手を取って踊りましょう。その代わり、カイエン、あなたも腹をくくりなさいよ」

(よござんす)

 こんな下町のお姐さんのような言葉を、ミルドラが口にするなんて。カイエンは目を白黒させた。

「はい、ありがとうございます」

 何をどのように「腹をくくる」のか、今ひとつわからないまま、カイエンはそれでもミルドラの手前、力強く頷くしかなかった。






 そして。

 時は十二月の三十一日へと進んでいく。

 北のラ・フランカから、アルタマキア奪還のその後の進展情報は、入ってこなかった。

 さすがにもう、ドネゴリアのイローナたちにも、アルタマキアが逃亡したことは知れているだろうが、再び敵の手に落ちた、との情報もまた、なかった。

 一年最後のその日。

 皇帝オドザヤの治世一年目の終わる日であった。

 海神宮の一番奥に造られた広大な「青藍アスール・ウルトラマールの間」には、男爵以上の爵位を持つ全ての貴族の家の当主と、その夫人が招待されている。

 一段高いところにある玉座には、眩しいほどに美しい皇帝のオドザヤが、あの立太子式の時を思い出させる、夏の海の青のような夜会服姿で座る。その周りには第一妾妃のラーラ、第二妾妃のキルケ、そして第三妾妃のマグダレーナが、それぞれに個性的な装いで取り囲んでいる。

 女性の夜会服は、上半身が体にぴったりとした細身の形で、胸元や肩までが開いた意匠のものが多い。スカートの方はやや膨らんだ形だが、ハウヤ帝国では、中に幾重にもペチコートを入れることはない。

 この日の女性陣の中で、一番膨らんだスカートだったのは、重厚で膨らんだスカートの形を守っている、ベアトリア出身のマグダレーナの装いだった。

 オドザヤの左側には、大公のカイエンが、彼女だけは椅子を用意されて座っており、隣にエルネストが立つ。

 この日、カイエンは彼女に一番似合う、明るい青紫色から深い紫までのグラデーションになった、螺旋帝国渡りの柔らかい最上級の絹地に、金糸銀糸で文様の刺繍された、細身のドレスを纏っていた。足のことがあるから、前の方は床ぎりぎりの長さだが、今日、踊る予定のない彼女であるから、後ろの方は長々とドレスよりやや濃い色合いの裳裾を引いていた。

 去年の新年の宴には、大礼服で臨んだが、今年は舞踏会なので、皆が大礼服よりも洒落て華やかな夜会服に身を包んでいた。

 カイエンたちの反対側には、クリストラ公爵夫人ミルドラ。

 フランコ公爵夫人のデボラと、前バンデラス公爵夫人のサンドラは、ミルドラのもう一段下に控えていた。

 冬のことだから、オドザヤ以下、皆が毛皮の肩掛けや、毛皮の縁取りのマントを纏っている。

 一段下がった場所のカイエンとエルネストの前あたりに、宰相のサヴォナローラと、ザラ大将軍。

 サヴォナローラはいつもと変わらぬ、褐色のアストロナータ神官の長い帽子と僧衣だが、ザラ大将軍の方は、洒落者らしく、粋な色と格好の正装に身を包んでいた。

 明るいランプが灯る巨大なシャンデリアの下、居並ぶ皇帝家の人々は、容姿が整った者ばかりであることもあって、いかにも豪華に、華やかに、そしてやんごとなき身分の高貴さで、広間に集う貴族たちを圧倒していた。

 高価なラピスラズリから作られた、青い顔料で塗られた壁と、鏡の張られた壁が互い違いに並べられた広間は、シャンデリアやランプの光を反射して、眩しいばかりに明るい。

 そして、いくつもある暖炉には、轟々と火が燃えているので暖かかった。

 時刻となり、皇帝オドザヤの言葉で、今宵の舞踏会の開会が宣言されると、すぐに国賓であるトリスタン王子が紹介される。

 トリスタン王子は、オドザヤの一段下に用意された、客用の椅子に案内され、まずは玉座のオドザヤの前に立って深々と丁寧な礼をした。

 だが、カイエンの見ていたところでは、何か言いたそうな様子のオドザヤの琥珀色の目と、目を合わせることもなく、トリスタンは妾妃たちや、カイエンたちの方へ礼をし、そして最後に広間の方へ黙礼してから席に着いてしまった。

 今日は前日の謁見の時の正装とは違い、彼も華やかで洒落た夜会服に身を包んでいる。

 男性の夜会服は、基本的には長めの上着と、その中に白い絹地のシャツ、それに細身のズボンだ。

 個性を出せる場所は、主に上着とシャツの襟元で、トリスタンも目の色に合わせたエメラルド色の上着、そして、レーズの流れるシャツの襟元には、先日の謁見の日にも見た、緑水晶の大きな襟飾りが光っていた。

 派手な身なりではあったが、青みがかった長い金髪と、白皙の美貌、それに引き締まった体つきは、その派手さをあっけらかんと来こなしていた。

 初めて彼を見る、多くの貴族たちがついたため息が、さざ波のように広間を寄せては返していく。

 そんな雰囲気の中、楽団が最初の曲を奏ではじめ、玉座とは反対側に色とりどりの正装で居ならび、注目する貴族たちの前に二人の人物が現れる。

 カイエンの横から動いて、ミルドラの前で優雅に手を差し伸べたのは、シイナドラド皇子のエルネストだ。

 玉座の下、このために広く空けられた場所へ、二人はあらかじめ決められた脚本通りに進み出ていく。

 ミルドラはカイエンと顔かたちが似ているし、体つきも同じように小柄なので、遠くから見ている者には、大公夫妻が出て来たように見えたかも知れない。

 だが、実際のこの取り合わせは、彼ら二人の本性を知るものにとっては、恐怖の組み合わせでしかない。カイエンは何か起きないかと、手に汗を握る心持ちだった。

 この夜も、エルネストは無彩色の組み合わせだったが、一切の色味を廃した黒から灰、銀色から白までのコントラストの強い色合いと、大胆な意匠は、かなりの長身である彼のような体格でなくては着こなせないものだった。

 もしも、カイエンがこの服を着たら、白と黒のぶち犬のように見えたかも知れない。

 一方で、ミルドラも、今宵はいつもの落ち着いた色味を廃していた。彼女がこの日のために選んだ色は、燻んだ赤で、ミルドラをよく知る貴族の夫人たちは、一斉にどよめいた。

 カイエンも、今夜初めて控えの間で会った時に驚いたのだが、その色は、ミルドラの年齢の貴婦人が選ぶ色としては、「下品」と思われる寸前の色合いだった。似たような赤はよくマグダレーナが選ぶもので、今日もマグダレーナは赤と黒の色合いのはっきりした夜会服姿だった。

 だが、ミルドラの夜会服は、色が派手な代わりに、ほとんど装飾のないもので、肩のあたりは露出していたが、首の周りの幅の広い赤と黒の布地に、びっしりと大粒の柘榴石グラナテ黒瑪瑙オニクスを縫い付けたチョーカーだけが唯一の装飾といってよかった。

 緑がかった黒い髪は、年齢相当に頭の真後ろでまとめていたが、そこにも柘榴石グラナテの飾り櫛が斜めに差し込まれており、なんというか、全体を通して、「この年齢の粋な女性にしかできない装い」としか形容できないものだった。

 ミルドラとエルネストは、手の握り方、手の回し方、共にダンスの教本に書かれた塩梅の通りに決めると、音楽に合わせて踊り始める。

 ミルドラはカイエンと同じくらいの小柄さだが、踵の高い靴を履いているようだ。それでも、かなり長身なエルネストと組むと、かなりの身長差があった。

 実のところ、玉座のオドザヤの周りに座っている人々は、内心では「早く終わってくれ」と思っている者が多かった。カイエンとエルネストとのシイナドラドでの事情を知っている者は数人だけだが、それでも、日頃からの態度で、ミルドラがエルネストにいい顔をしないことには、妾妃たちも、オドザヤも、とっくに気が付いていたのだ。

 事情を知っている、カイエン当人、宰相のサヴォナローラ、そしてザラ大将軍あたりは、本当なら目を覆いたいほどだった。

 ミルドラの二人の娘たち、バルバラとコンスエラは、エルネストのことはほとんど知らないが、今日の母の装いからして普通ではない、と感じていたから、訳がわからないながらに青ざめて見ていた。

 くるくると回りながら、玉座と国賓の前で舞っていた二人だったから、エルネストの唇が動いて何か言ったのに気が付いたのは、数人だけだっただろう。ミルドラは表情一つ変えなかった。

 だが、カイエンとサヴォナローラ、それにザラ大将軍のいる方向へ二人が向いた途端だった。ミルドラが思い切り、エルネストの足を、その踵の高い靴で踏みつけたのは。

(えっ!)

 その瞬間が見えたのは、正しくカイエンとサヴォナローラ、それにエミリオ・ザラの三人だけだっただろう。

 そういう瞬間を狙って、ミルドラはやってのけたのだ。


「お前、一体何を言ったんだ?」

 踊りが終わると、ミルドラは、澄ました顔で娘たちの立っている方へ下がって行った。

 恐らくは踏まれた足の痛みを我慢して戻って来たエルネストに、カイエンが小声で聞くと、エルネストは無表情のままに答えた。襟元を直しているらしい、手元だけがちょっと強張って見える。

 足を踏まれた時もそうだったが、表情を変えもしないのは、さすがに皇子様である。

「……今日は気合が入ってんな、伯母様、ご主人様がびっくりするぜ、って言った」

 カイエンは、自分がミルドラに足を踏まれたような気になった。短い台詞の中に、確実にミルドラを怒らせる言葉を三つは入れている。

「それは、足を踏まれて当然だ」

 カイエンは、ようよう、そう言うことが出来ただけだった。

 それからは、自由に相手を変えて踊る時間となった。広間の壁際には、休めるように椅子が配置され、花が飾られたテーブルには、手袋をした手でも食べやすいような軽食が置かれている。飲み物をささげ持った侍従も、人の間をぬって回っている。

(さて。踊り子王子はいつ、オドザヤの元にやってくるのか)

 カイエンはオドザヤのそばに座って見ていたが、トリスタンは一向にオドザヤの前にやって来ようとはしなかった。

 彼は驚いたことに、最初に三人の妾妃たちの元へ向かったのだ。

 それも第一妾妃のラーラから順番に巡り、それぞれと踊っていくつもりらしい。

 その様子を見ているカイエンとオドザヤは、さすがに身分がら表情を変えることはなかったが、すぐそばに座っているカイエンには、オドザヤのやや早い息遣いが聞き取れていた。

 どうやらトリスタンは、オドザヤのこの息遣いの限界まで、気を持たすつもりらしい、とはカイエンでさえも気が付いた。だが、トリスタンしか見ていない、オドザヤには何もわからないだろう。

 すぐに、玉座の後ろの緞帳の影にいた女官長のコンスタンサが、音もなく出てきて、オドザヤの玉座の後ろに隠れるようにして立った。

 だが、このまま、玉座の皇帝を「壁の花」状態にしておくことは出来ない。

 いまいましいことだが、オドザヤがトリスタンの歓迎のために、「舞踏会」を開く、と決めた時から、国賓のトリスタンが舞踏会の主催者であるオドザヤと踊ることは、決まっていたのだ。

 それなのに。

 カイエンはそっと目だけを動かして、ザラ大将軍と、ちょうど彼と壁際で話していた、前バンデラス公爵夫人のサンドラの方を見やった。ザラ大将軍は、カイエンの側から、サンドラの方へ話しに行っていたのだ。

 向こうもカイエンやオドザヤの方に、注意を向けていたのか、すぐにザラ大将軍の方が動いた。彼は、歩き出す前に、サンドラの横にくっついている、フランセスクにも何か囁いたようだ。

 ザラ大将軍は、そのまままっすぐに玉座のオドザヤの方へやってくる。その背中を見送る複数の視線の中には、宰相のサヴォナローラや、内閣大学士のパコ・ギジェンの目もあった。遠くの方から感じる視線を辿れば、そこにはザラ子爵ヴィクトルや、フィエロアルマの将軍、ジェネロ・コロンボと、ドラゴアルマの将軍である、女嫌いのブラス・トリセファロの目もあった。

 将軍たちは、こんな舞踏会などに呼ばれるのは初めてなのだろう。

 アイーシャの主催する舞踏会に彼らが呼ばれることなどなかったし、先帝サウルは舞踏会など開いたことはなかったから。ジェネロは商店主の妻を連れては来ておらず、二人は何人かのご令嬢に秋波を送られても、見えない振りを決め込んでいるようだった。

「陛下、よろしければ、このずうずうしい老骨と一曲、お願いいただけないでしょうか。皆、麗しの女神であられる陛下のお手を取る勇気が、にわかには出てこない者たちばかりのようでございますから」

 そう言って、オドザヤの前で跪かんばかりに頭を垂れた、エミリオ・ザラは、本来ならばこの舞踏会には出られない身分だ。兄のヴィクトルは子爵家の当主だが、彼は、先帝サウルの男爵の爵位を授ける、との言葉を断り倒してきたのである。

 だが、ジェネロたちと同じく、将軍位、それも元帥大将軍の位置を占める彼には、今や、こうして皇帝に話しかけることができる力があったのだ。

「陛下、元帥の言う通りでございます。このような舞踏会は本当に久々のこと。皆、どうしていいのやら困っておるのでございましょう」

 すかさず、後ろからオドザヤの耳元で囁いたのは、女官長のコンスタンサだ。

「陛下、私は踊れませんから、代わりに皆の前へ、華麗なお姿をお見せください」

 カイエンも、オドザヤを振り返るようにして、言葉を添えれば、もう、オドザヤは断れなかった。

 オドザヤは浮かぬ顔ではあったが、それを無意識に作ったらしい、柔らかな微笑みで覆い隠した。そのまま、ザラ大将軍に手を引かれて、広間の中央へ出ていく。

 途端に、周りの貴族たちから静かなどよめきが上がった。誰も彼も、オドザヤが最初に誰と踊るのか、注目していたのだろう。

 海の女神のような、華麗な青の装いのオドザヤが、ザラ大将軍と踊り始める。さすがは洒落者のザラ大将軍で、踊りの方はしっかりしたものだ。

 この時、トリスタンは第三妾妃のマグダレーナと踊っていた。

 曲が終わり、オドザヤはザラ大将軍に手を引かれ、玉座の方へと戻っていく。同じく、マグダレーナの手を引いたトリスタンも同じ方向へ歩いていた。

 人々の間を歩いているとはいえ、同じ方向へ向かっていくのである。

 誰もが、次は、今度こそトリスタンがオドザヤの前に立つ、と思って見ていただろう。

 だが。

 その次にトリスタンがつま先を向けたのは、なんと、ミルドラと玉座の近くの壁際の椅子で話し込んでいた、フランコ公爵夫人のデボラの元だったのだ。

 トリスタンはすでに、このハウヤ帝国の皇帝家の女たちだけでなく、上位貴族の夫人たちの顔までも調べ尽くしている。カイエンは、その様子を見て確信した。恋に疎いカイエンでも、こういう政治的な意味合いでの社交の駆け引きは理解できた。

 トリスタンは、オドザヤの淡い恋心を、さらに切なく燃え上がらようとしているのだろう。


 一瞬。

 広間の玉座に近いあたりでは、時間が止まったようだった。

 次の曲が始まると、フランコ公爵夫人のデボラは、不安そうな顔つきでミルドラを見、ついでカイエンたちを見てきたが、どうしようも出来ない。

 王子と踊るな、とは言えないのだ。 

 カイエンたちが、苦々しい思いで、考えを巡らせていた時だ。

「私、少し、お化粧が崩れてしまったみたいだわ。……コンスタンサ、直してくれないかしら」 

 オドザヤがそう言って、コンスタンサの返事を待たずに立ち上がったのは。

 やや慌てた様子のコンスタンサだったが、すぐにいつもの固い表情に戻ると、オドザヤのドレスの裳裾を抑えるようにして持ち、上段の脇の扉から出て行った。

 男のザラ大将軍も、宰相のサヴォナローラも、それを見送るしかない。

 だから、カイエンは銀の装飾された握りの黒檀の杖を突いて、立ち上がるしかなかった。

「陛下のご様子を見てくる」

 ここは、女のカイエンしか、オドザヤの後は追えなかった。ミルドラもうなずいたので、カイエンはオドザヤとは違う、広間の脇の扉から、広間の外へ出た。



 カイエンは扉を出て、ついて来ようとする侍従を断り、広い廊下を歩いて行った。だが、慌てていたのと、この海神宮を一人で歩いたことがなかったこと、それにランプがあるとは言え暗い廊下で、すぐに方向がわからなくなってしまった。

 落ち着いていたつもりでも、どこか焦る気持ちがあったのだろう。

 これでは、オドザヤの行き先を見失う。

 廊下にいるだろう侍従を探したが、こんな時に限って、誰にも行き合わない。

 もうしょうがない、広間に戻ろう、と踵を返した時には、もう先ほどの曲が終わっていた。音の方向へ行けばいいから、今度は大丈夫だろう。

 だが、カイエンの歩き方では、なかなか広間へ戻れない。

 自分の歩みの遅さにいらいらし始めた時、折れた廊下の向こう側から、足音が聞こえてきた。

 これはこの方向で大丈夫そうだ、とカイエンは無理に足を早くして、廊下の角を曲がった。

 曲がって、その途端に死ぬほどびっくりした。

「おや、これは大公殿下ではございませんか」

 声を聞かずとも、廊下のランプの光の下できらきらと煌めく、青みがかった金色の長い髪。

 夜会服の裳裾がもつれて、転びそうになり、勢い余って、たたらを踏んでしまったカイエンの肩に手を掛けて支えたのは、白い手袋に包まれた、ひんやりした手だった。

「皇帝陛下の出て行かれた後を、大公殿下まで出て行かれたので、これは失礼があったかと、心配になりまして……」

 そう言いながら。

 トリスタン、ああ、それはまさしく間違いなく、今宵の主賓のトリスタン王子だった。彼は、もうちゃんと転ばずに止まって彼を見上げているカイエンの顔を、しげしげと間近に見つめてくる。

 カイエンの灰色の目を覗き込む、ガラスのような人工的な輝きを持つ緑の瞳から、どうしたことか、目をそらせない。礼を言わねば、と思ってもとっさに声が出なかった。

「危ないではありませんか。そのようにお急ぎになって」

 前に、大公宮で話した時には、すぐそばにアキノもいたし、侍従たちもいた。だが、今ここでは、他に人の気配はなかった。二人きりなのだ。

 カイエンは心の中で、冷静な自分が「やばい。これじゃ、蛇に睨まれた蛙だわ」と呟くのを確かに聞いた。

「あの、もう大丈夫です。手を離して……」

 やっとカイエンがそう言うと、トリスタンは何を思ったのか、カイエンの肩に置いた手はそのままに、背の低いカイエンの方へ顔を近付けてきた。

「おやおや。荒くれ男たちを顎で使いまわしていると評判の、大公殿下が震えておられるのではないですか」

(何、言ってるんだ? こいつ……)

 カイエンは心の中で、首を傾げた。

「皇帝陛下もおかわいらしいですが、大公殿下もお一人におなりになれば、同じなのですね」

 そのまま。

 蛇は、蛙の唇の上に自分の唇を重ねてきた。

(へっ)

 カイエンはこの展開に驚きすぎたので、本当に殺されかけた蛙みたいな音が喉でした。 

 その瞬間。

「おーい。何やってんだぁ」

 とぼけた声が、トリスタンの後ろから聞こえてきた。

 カイエンは、その声で完全に我に返った。忌々しいが、それはよく知った者の声だったからだ。

 左手の杖に力を入れ、肩にのっかっていたトリスタンの手を引きちぎる勢いで、後ろに下がったカイエンは、トリスタンの後ろに立つ、黒い人影に向かって言っていた。 

「エルネスト、手を出すな!」

 すると、影は自分よりも背の低いトリスタンの両肩に、先ほどカイエンが掴まれていたのと同じように、どっかりと両手を載せた。

「おや、さすがにご主人様だ。俺の考えることなんざ、お見通しだね。じゃあ、このお綺麗な顔を殴るのはやめとこう」

 そして、見守るカイエンの目の前で、エルネストの、トリスタンを馬鹿にしていたような顔つきが、真っ黒な悪魔の微笑みで覆われた。 

「お返しだぜ、ザイオンの色男」

 エルネストはそう言うと、片方の手をトリスタンの肩から上げると、トリスタンの顎を後ろから掴み、自分の顔の方へ無理やり捻じ曲げた。

 トリスタンのエメラルド色の上着の襟元を捉え、頭半分ほど背の高いエルネストの顔が、トリスタンの上へのしかかる。

 カイエンが口を開けて見ることになったのは、男同士の濃厚なくちづけだった。

 どれくらいの時間が経ったのだろう。きっとそれは一分にも満たない時間だったのだろうが、そんなものは初めて見たカイエンには、かなり長い時間に思えた。 

「この頃、色街へもご無沙汰だからなぁ。あんたのきらきらしたお顔を見て、ずっとむらむら来てたのさ」

 すごいことを平気な顔で言いながら、緑色の目をこぼれるほどに見開いて呆然としているトリスタンを見る、エルネストの顔は、心底面白そうに笑っていた。

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