花の皇子の宴

「ようこそいらっしゃってくださいました。大公殿下。……それにしても、大公殿下。今度のカスティージョ将ぐ……あらいけない、もう、ただのカスティージョ伯爵でしたわね、の親子のことでは、大変でございましたわねえ」


 十一月二十五日。午後。

 ところは海神宮の一隅。

 「睡蓮の間」と呼ばれる宴会場の隣の、控えの間。

 そこで、そう親しげに言いながら、今日、満一歳の誕生日を迎えた息子を抱えて、椅子から立ち上がった高貴な物腰の大柄な女。

 控えの間の正面で、ご機嫌で笑っているフロレンティーノ皇子を重そうに両腕で抱き上げた、先帝サウルの第三妾妃のマグダレーナは、余裕のある微笑みをその豊かな頰に浮かべた。

 白い顔の中のかっきりとした栗色の目。それは、気をつけてみようとしなくとも、じっとりとした含みを持たせた目つきだった。

 今年の初夏の元老院大議会で、フロレンティーノはオドザヤの「法定相続人」ではなく、「推定相続人」と決められた。つまりは、オドザヤに子ができた場合には、フロレンティーノではなく、オドザヤの子が次代の皇帝になるかもしれない、ということだ。

 その時には、恐らくかなりの危機感なり、不快感なりを感じただろうが、そんなことは今のマグダレーナの顔からは推し量れない。

「ああ、マグダレーナ様。そのことはここでは……。まあ、残念なことではございましたが、こうしてフロレンティーノ皇子殿下のお誕生日の宴に出られましたから、よしと致しましょう」

 カイエンとしては、そうとでも言うしかない。

 フロレンティーノ皇子の出産後も、マグダレーナのめりはりの効いた豊満な容姿に変化は無く、女盛りの華やかさが、やや金色がかった緋色と、深い緑の色合いの混ざり込んだ、鮮やかな薔薇文様のドレスからむせかえるようだ。

 この色と柄のドレスは、ここに集まった女たちの中でも、彼女くらいしか着こなせるものではないだろう。

 全盛の頃のアイーシャなら、十分に着こなしてみせただろうが、若くて清冽な印象の抜けないオドザヤにはまだ似合わない。

 その衣装はこのハーマポスタールで誂えたものに違いないが、その意匠は、あくまでも重々しい刺繍された布地と、要所の直線的な切り返しに特徴のある、彼女の故郷ベアトリア風のものだ。スカート部分も膨らんでいて、床の上で重たげなドレープを作っている。

 金糸で薔薇の模様が刺繍され、真四角に切り取られた襟元からは、真っ白で豊満な胸元がのぞき、そこに見事な緑玉エスメラルダと真珠の首飾りが光る。一月のサウルの最後の誕生日の宴の時も、緑玉エスメラルダの首飾りをしていたが、あれとは違う意匠のものだ。

 薔薇の意匠は、アイーシャが好んで選んでいたものだが、今、ここにアイーシャの姿はない。マグダレーナの選んだドレスの薔薇の文様は、今や、自分こそがアイーシャの居ない皇宮の女王なのだ、と言っているようにも見えた。

「そうですわねえ。私は、皇宮から出られぬ身の上ですから、よく存じませんが、現場に大公殿下がおられなかったら、とても収まりのつかない騒ぎだったそうではありませんか。恐ろしいことですわ」

「は、は。そうですね。あの場では私の身分が、少しは物を言ったようです。お国ベアトリアと同じように、この国では子爵以上の貴族には、不逮捕権があります。通常ならば、あのような騒ぎとなっても、伯爵であるカスティージョを大公軍団が引っ立ててくることなど、出来なかったのです。私が名ばかりでも、この街の治安を預かる大公だから、彼ら親子を拘束することが出来ました」

 そう、社交的な朗らかさを、表情にのせて答えるカイエンも、今宵は大公軍団の制服ではない。

 マグダレーナに勝るとも劣らぬ、豪奢な、だが、軽い絹地が花びらのように折り重なった意匠のドレスをまとい、黒っぽい紫の髪も緩やかな形を描いて結い上げられていた。右手には優雅な香木の扇。

 もう季節は冬だが、ハーマポスタールでは冬でも分厚い布地は「粋でない」と避けられるところがあった。そのぶん、細身のドレスの肩に、レースや、毛皮のショールを合わせたりすることもある。

 慶事の集まりへの出席だから、着ているドレスの色も明るい青紫色だ。

 マグダレーナのように自信を持って見せられるものではないから、胸元は淡雪のようなレースが幾重にも覆っているが、前面だけ白金色の絹地で切り替えられた部分には、大公宮に伝わる宝飾品である、大粒の最高級の琅玕ろうかん翡翠が幾つも、金細工で繋げられ、細かい翡翠の数珠と共に連なる、重くて長い首飾りが、腹の辺りまで下がっていた。

 この翡翠の首飾りは、一昨年、あの春の嵐の事件の時、皇后だったアイーシャの晩餐会に呼ばれた時にも身に付けている。カイエン自身は、あまり宝飾品に興味がなく、ヴァイロンの「鬼納めの石」を耳飾りと指輪にして貰ってからは、そればかりつけていた。

 緑色の琅玕ろうかん翡翠には、大粒のものも極々たまに現れるが、ヴァイロンの「鬼納めの石」のような紫翡翠は、存在自体が珍しい。

 この日も、首飾りはなんとも言えない深くも明るい色味の、琅玕ろうかん翡翠だったが、耳飾りと指輪はいつものままだった。

 実は、カイエンはこの会場に入り、マグダレーナの前に挨拶に立った瞬間に、マグダレーナの緑玉エスメラルダの首飾りを見て「これは色が被った」と思ったが、今更、どうしようもない。救いなのは、緑玉エスメラルダと翡翠では、同じ鮮烈な緑とは言っても、光の反射の仕方や深みが全然違うことだろう。

「それにしても、お手柄ですわ。こう言ってはなんですけれど、ああまで騒ぎになっては、いくら伯爵の将軍様でも、ね」

 マグダレーナの言葉の最後の方は、カイエンにしか聞こえないような小声になって、真っ赤な唇の中へ消えていく。

 それから、マグダレーナは急に話の舵を、極めて穏当な方向に切ってみせた。

「フロレンティーノは、この頃では、掴まり立ちや、伝い歩きが出来るようになりましたのよ。リリエンスール様はいかが?」

 今日の主人公は、もちろん、本日満一歳となったフロレンティーノ皇子だが、彼はこうしてたくさんの人々が自分の周りに集まっている理由は、未だ理解できないだろう。

 だが、今日のフロレンティーノはご機嫌で、泣き出すこともなく笑っている。

 よく知らない人間たちの挨拶を、笑ってご機嫌に聞いているだけでも、しっかりした赤子だ、と皆に思わせるものがあった。父である先帝サウルの葬儀や、姉のオドザヤの即位式では、ぐずったりしてマグダレーナを慌てさせていたが、今日は本当にご機嫌が良さそうだ。

 カイエンも、リリを引き取ってからは赤ん坊にも慣れているから、一応、この小さな従兄弟の顔を覗き込んで、ふっくりとした頬っぺたをつついてみたが、フロレンティーノは人見知りせず、母親にそっくりな栗色の目をくりくりさせて、無邪気に笑っている。

「リリですか。この子はその、まだ……」

 カイエンは言いながら、ちょうど彼女の顔の横あたりにある、リリの顔を見やった。

 リリには体内に蟲がある。カイエンのものほど大きなものではないそうだが、それでも立ったり歩いたりは、まだ出来ないままだった。カイエン自身は、二歳になるまで歩けなかったほどなのだ。

 リリは今日もご機嫌よく、灰色と琥珀色の色違いの目を、ちょろりとカイエンの目と合わせて来た。そして、瞳だけが左右に、意図してやっているかのようにふらふらと揺れる。

 その目つきは、まるで、

(気にしない気にしない。あたしも、もうすぐだよカイエン)

 とでも言っているように見えるのだ。

 カイエンはリリにもう慣れてしまって、どの子もこんなものだろうと思っているが、サグラチカなどに言わせれば、リリのこうした様子は、「ちょっと普通の赤ん坊とは違って見える」のだそうだ。

(こちらの会話がわかっているとしか、思えない時が多うございますからね)

 そこまで言われても、「サグラチカにとっては、リリは孫のようなものだから、評価が甘くなるのだろう」とカイエンは思い込んでいた。

 カイエンが言い淀んだのに、マグダレーナはすぐに気が付いた。

 そして、リリにはカイエンと同じく、体内に「蟲」という寄生器官が生まれつきあること。それが皇后アイーシャの決定的な狂乱を招いたことに思い至ったらしい。

「……まあ。気の利かぬことを申しました。……それにしても、リリエンスール様を、ご夫君が抱いてみえるのは初めてではありませんか?」

 そう言われて、カイエンはそれまでは気にしないように、目に入れないようにしていた、リリを抱いている腕の先に続いている顔に、視線だけでも上げないわけにはいかなくなった。

「ええ、まあ」


 その日、杖をついてるためにリリを抱いて来ることはできない、養い親のカイエンの代わりにリリを抱いて来たのは、なんと、あのエルネストだったのである。

 赤ん坊ではあるが、フロレンティーノとリリは、わずか二週間ばかりしか誕生日が違わない兄妹なのだ。リリはカイエンが申し出て、彼女の養女となってはいるが、この時点ではまだ皇女なのである。

 今日の朝、今日の宴のための支度をする段になって、急に、エルネストはリリは自分が抱いて行きたい、と申し出て来たのである。

 カイエンはもちろん、彼が言い出した直後、怒りとともに、この申し出を断り倒した。エルネストを夫として連れていくのは仕方がないが、リリを彼に任せるなど、考えるだに恐ろしいと思ったからだ。

 だが、カイエンが驚いたことに、彼女の乳母のサグラチカは首を傾げて、エルネストと彼の後ろにいつものように控えている、侍従のヘルマンの方を見て考え込む様子ではないか。

 そして、サグラチカの次の言葉に、カイエンは驚愕し、打ちのめされた。

「皇子殿下は、確かにこの頃、よくリリ様のお世話を手伝ってくださいますわね。侍従のヘルマンさんも、最初はお止めしていたけれど、この頃は皇子殿下にお任せしているようですわ。これは、ただの気まぐれではないようだ、ともおっしゃって。リリ様も皇子殿下のお顔を覚えられたようですし、大丈夫だと思いますよ。リリ様はお顔を覚えられた方になら、多少、お手元が危なくても、泣かずに抱かれておいでですから。もちろん、私も一緒に皇宮まで参りますし」

 カイエンは、エルネストが昼間、リリの部屋に顔を出していた、などということは、それまで、聞いてもいなかった。

 サグラチカたちは、カイエンとエルネストの間の事情も知っているから、遠慮していたのだろう。恐らくは、機会があったらカイエンの耳に入れようとは思っていただろうが、それが、この日まで無かったと言うことなのだろう。

 カイエンは、サグラチカはまだしも、こっちは大反対するだろう、とまだ仕事に行く前だった、ヴァイロンの方をうかがった。

 この頃、ヴァイロンとエルネストは、当人同士で何か割り切って接しているようで、最初の頃のような恐ろしげな雰囲気になることはなくなった。だが、ヴァイロンはリリが大公宮へ来てすぐから、本当の父親のように、見方によれば、彼の「唯一」であるはずのカイエンに対するよりも、愛しげに接していたのだ。

 だから、絶対反対すると思ったのに。

 なのに……ヴァイロンの返答はカイエンの思いを、すっぱりとぶった切るものだったのだ。

「……カイエン様。申し訳ございません。ですが、あえて申し上げさせていただきます。……リリ様を、私が自らお連れできないのは、痛恨の限りでございますが、社会通念上、これは致し方もどうしようもございません。ですが、これからもこのような場面はいくらでもございましょう。その時、リリ様が、皇子殿下にお慣れになっておられぬというわけには参りますまい。……殿下、ここはご辛抱なさって、リリ様に決めていただきましょう」

 はあッ?

 その時のカイエンの気持ちといったら、「裏切り者、お前もか!」とでも言うしかなかっただろう。

 「痛恨の限り」とか、「社会通念上」とか、際どい心情は吐露しているが、最終的にはカイエンよりも、赤ん坊のリリの意思を尊重したのだ。というか、そういう言い方を選んだのだ。

(大人ぶってるのか!? それとも皆の前でいい子ぶってんのか?)

 カイエンは、密かに後で見てろ、と心に誓った。リリだって、エルネストになんか、微笑むはすがない。

 なのに。

 サグラチカに抱かれて、エルネストの前に連れて行かれたリリは、上機嫌でエルネストの手に小さな手を伸ばしたのである。

「ほら。リリ様はちゃんと、ご自分でお決めになれますのよ、ね?」

 サグラチカは、ヴァイロンの方を見て、嬉しそうに続けたものだ。

「ヴァイロン、さすがね。あなたにはリリ様のお気持ちがわかるのねえ」

 と。


 カイエンは、マグダレーナの前で、不愉快極まる、今朝の光景を頭から無理やりに放り出した。

「え、ええ。私は昼間は仕事で、リリの世話など出来ないのですが、この頃、暇に任せてリリのご機嫌をうかがいに来るようになったそうで……今日は乳母の代わりに抱いて来る、と言って聞かなくて……はは」

 見事に主語を抜かして話す、カイエンの様子に気が付いたのか、つかなかったのか。

 マグダレーナは作り笑いとは思えない、暖かな微笑みを浮かべ、カイエンの横でリリを抱いて立っている男の方を振り仰いだ。

 大柄なマグダレーナから見ても、その男の顔はかなり上空に位置していたからだ。

 今宵の副主人公とも言えるマグダレーナはもう会話の対象を変えていた。大柄な彼女よりも、かなり高いところにある相手の顔を、遠慮もなく見上げ、赤ん坊を抱いたまま、優雅に腰を折る。

「サウル様のご葬儀でご挨拶致しましたが、お久しぶりでございます。エルネスト皇子殿下」

 そう。マグダレーナと、大公であるカイエンの「夫」であるエルネストは、サウルの葬儀で会ったのが最初で、その後、オドザヤの即位式でも顔は合わせているが、それはまさに挨拶だけだった。

 エルネストは、カイエンが嫌がりそうな余計な文言を極力排した、宮廷儀礼の教科書のような挨拶の言葉を、淀みなく話している。いつもの汚い言葉遣いなど、想像もできない上品さだ。粗野で傲慢な性格の方も、見事に猫をかぶって隠している。右目を覆う布だけが異様だが、ここに招かれている人々には、それももう、見慣れたものだ。

 今日は、いつも黒っぽい身なりに終始しているエルネストも、青みがかった銀鼠、とでも言うべき色合いの衣装を纏っている。

 カイエンの衣装も、このエルネストのものも、大公宮出入りの仕立て屋である、ノルマ・コントの作なのだが、彼のものはややシイナドラド風の直線的な型紙から起こされたものだった。

 百年も鎖国中のシイナドラドの風俗や流行など、ノルマ・コントは知りもしなかった。だが、彼女はエルネストの持ってきた衣装を一通り見聞すると、もう今のシイナドラドの流行を頭の中で再構築してしまったらしい。

「やはり、伝統は伝統ですわ。百年たっても、その間に外国の影響が無ければ、そのままの発展形には自ずと限界があります」

 そう言い切ったノルマ・コントの作り上げた衣装を、エルネストは嬉々として受け入れた。 

 嫁しても、婿入りしても、故郷の風俗を曲げない。

 そういう点では、マグダレーナもエルネストも、はたから見れば同類項に入れられたかもしれなかった。


 今日の誕生日の宴を、どこで行うかについては、もうかなり前から、表のオドザヤと、裏の後宮とで、話し合いが持たれていた。

 普段、フロレンティーノは皇宮の後宮で、第三妾妃マグダレーナの宮で養育されている。だが、皇子の誕生日を、後宮で祝うわけにはいかなかった。

 後宮では、招待できるのは女性に限られてしまう。二人目三人目の皇子なら、そういうこともあっただろうが、フロレンティーノは先帝サウルのただ一人の皇子なのだ。

 だが、父親である先帝サウルの崩御からは、未だ一年も経ってはいない。だから、喪に服す中の誕生日ではあった。マグダレーナの方は、殊勝に「父帝の喪中でもあり、控えめに行いたい」と申し入れてきたが、さすがにこれは、腹違いとはいえ姉である、皇帝のオドザヤには受け入れがたいことだった。

 このことが決まったのは、「死者の日」よりも前のことだったが、オドザヤは宰相のサヴォナローラにも図ったのち、海神宮の、歴代の皇帝の誕生日が祝われてきた、「青藍アスール・ウルトラマールの間」こそ避けたものの、海神宮の中にある謁見の宮の内、「睡蓮の間」での宴の開催を許したのである。

 奇しくも、この「睡蓮の間」は、一昨年、アイーシャがあの陰気な晩餐会を催した部屋であった。

 もっとも、あの時に招かれたのはカイエンたち、ほんの一部の者たちだけだった。だから、今回招かれた多くの人々には、あの恐ろしい一幕の記憶はない。

 現在、オドザヤの「推定相続人」はフロレンティーノ皇子である。

 彼女の即位に正面切って反対し、元老院の大議会を招集した、モリーナ侯爵や、親衛隊長のモンドラゴン子爵の一派は、今回のカスティージョ将軍親子の事件で、大きな痛手を受けている。

 それもあって、今日の宴に招待された貴族は、子爵以上の上位貴族の中でも、選りすぐりの家の当主とその夫人だけだった。だが、そこにモリーナ侯爵はもちろん、モンドラゴン子爵の姿もない。二人ともに、昨日、丁寧な文言の手紙をもって、出席を遠慮して来たのである。

 今や、彼らは、彼らの屋敷から外出するのさえ躊躇っているのだろう。

 例外として、マグダレーナの故郷、ベアトリアの外交官であるモンテサント伯爵は姿を見せているが、その他の国の外交官は呼ばれていなかった。これも、北のスキュラの、アルタマキア皇女の拉致事件と、一方的な独立宣言以降の情勢を思えば、当人たちからは当然のこと、一般の貴族から文句の出るはずもなかった。

 その場に、皇帝のオドザヤはもちろんおり、フロレンティーノやマグダレーナの後ろに設けられた、一段上がった場所に一つだけ据えられた椅子に座っていた。その脇には、宰相府の長である、褐色のアストロナータ神殿の神官服のサヴォナローラと、元帥府の長である大将軍エミリオ・ザラが控えている。

 招待客の挨拶が終わったら、一同、連なって睡蓮の間へ入っていく、というのが決められた手順だった。

 近くには、第一妾妃のラーラ、第二妾妃のキルケ、そしてクリストラ公爵夫人ミルドラ、その未婚の二人の娘たち。その横には、フランコ公爵夫人デボラ、それに、前バンデラス公爵夫人サンドラと、その孫のフランセスクが、皇宮で午後に行われる宴にふさわしい正装で立ち並ぶ。礼装の様式は、会合の趣旨や時間によって、厳しく決まっているのだ。

 だから、一月のサウルの誕生日には大公の正装で来たカイエンも、今日はドレス姿でやって来ている。

 三大公爵は三人ともに、このハーマポスタールに人質同様の妻子を残し、ハウヤ帝国の防衛のため、彼らの領地へ戻っている。

 第二妾妃のキルケは、元から溶けて消える雪のような儚い印象だったが、娘のアスタマキア皇女のことがあってから、げっそりとやつれ、気の毒なほどだった。

 それくらい、今のこの国は危ない均衡の中にある。その一方で、今夜のような宴が催されているのだ。

 それを疑問に感じるものも、いただろう。だが、それを表に出すような不調法な者は、ここにはいない。

 今日の宴での主人公への挨拶は、身分が下のものから会場に入って始められたので、フロレンティーノへの挨拶は、カイエンたち「大公ご夫妻」で終わりだった。

 この控えの間に集った人々は、カイエンたちの挨拶が終わるのを、立ったまま待っているのである。右足のきかないカイエンが普通の爵位の家の夫人だったら、結構、大変だったに違いない。

 そんな中で、自分の挨拶の終わったカイエンは、自分の横で、そつなく当たり障りのない言葉を並べているエルネストを見ながら、今日までの数日の出来事を回想していた。







「いやほんと、殿下が来てくれてよかったわー。俺、最初、殿下が出てくるのに反対しちゃったけど、この頃はこういう所の塩梅は、殿下の方がうまいねー」

 大公宮へ皆して戻ってくると、自分の行動は高い高い棚の上に上げて、軍団長のイリヤは感心して見せた。だが、その日の捕物はそんな簡単な言葉で言い切れるほど、簡単に終わったのではなかった。


 あの日。

 皇宮に近い、カスティージョ伯爵の屋敷へ、装飾細工師ギルドの数百人が押し寄せた事件。

 それは、最初と最後で、見事にその様相を異にする、異様な事件となった。

 当初は「死者の日ディア・デ・ムエルトス」の日に、皇宮前大広場プラサ・マジョールで、親衛隊員のホアキン・カスティージョに暴行された細工職人が亡くなった事。それに激昂した装飾細工師たちの暴挙、とされていた。

 それだけでも、大事件だ。だが、その途中で、彼らの蜂起には間違った情報による、巧妙な示唆があったことが判明した。

 そして、終わってみれば、細工職人たちの行動に憤激した、カスティージョ伯爵親子が、細工職人たちを邸内に捕縛して痛めつけようとし、それを大公軍団が突入して助け出した、という、近来稀に見る事件になっていたのだから。

 夕方近くになって、当該屋敷の当主、カスティージョ伯爵と息子のホアキンは身柄を抑えられた。

 普通なら、上位貴族の伯爵であるマヌエル・カスティージョには不逮捕権ががあるため、大公軍団では逮捕できない。

 だがその場には、より高位の貴族で、皇帝一家の一員でもある、大公のカイエンが出張っていた。それにより、カスティージョ親子は、帝都の治安を預かる大公の、その大公権限でもって身柄を抑えられたのである。

 カスティージョ伯爵親子は、とりあえず大公宮表の建物の地下にある、一見、金持ちの商人の応接間かなんかのように見える、だが密閉され、厳重な見張りの立てられた部屋へ収容された。それも、親子は別々の部屋に入れられたのである。

 もちろん、これは、彼らに口裏を合わせさせず、個別に事情を聞くためだ。

 そこは、稀に男爵以下の下位貴族や、金持ちの商人などが問題を起こした時に入れられる部屋だった。床には絨毯が敷かれ、寝台も、椅子やテーブルも用意された部屋で、窓のないことさえ我慢すれば、決して居心地の悪い部屋ではない。

 もっとも、伯爵などという階級の人物が、そこに押し込められるのは、初めてのことだったかもしれない。


「言ってろ! まあ、なんとか死人を出さずに抑えたが……。危なく、背後で糸を引いていた奴らに踊らされて、大惨事になるところだったんだぞ!」

 カイエンがそう喚くように返事をした時には、大公宮の表のカイエンの執務室で、カイエン以下、イリヤ、マリオ、それにヴァイロンやシーヴたちは、力尽きて、あちらこちらの椅子やらソファやらに伸びていた。 

 それは、去年の夏、皇宮の薔薇園で第四妾妃の星辰が、アイーシャの暗殺を試みた時の夜の様子と似ていた。

 違っていたのは、あれは大公宮の奥の居間だったが、今回は表の執務室だったという頃だ。そして、事件の起こった場所と規模。

 時刻はもう、真夜中を過ぎていただろう。だが、続報が入る可能性もあったので、彼らは表の執務室で待機せざるを得なかったのだ。

 大公宮の奥から、アキノをはじめ、サグラチカや侍従のモンタナ、女中のルーサ、それに、教授やガラ、それにヘルマンを連れたエルネストや、新しい住人のアルフォンシーナまでが駆けつけたが、この日ばかりはどうすることも出来なかった。

 結局、現場からの撤収一つとっても、途方もない時間がかかったのだ。

 カスティージョ親子の連行、国立医薬院への怪我人の搬送。そして、細工師ギルドの数百人をどこに収容し、どうするか、ということが決まった時には、もうとっくに日は暮れていたのだ。

 皇宮の宰相府との間を、内閣大学士のパコは、馬車で何往復もすることとなり、現場に近い署の署員たちは、皇宮に近い高台から、細工師ギルドの建物がある下町まで、馬車やら馬やらで往復することとなった。

 カスティージョ親子を引っ張り出した後の、荒れたカスティージョ伯爵邸の一階の部屋を臨時の司令所にして、カイエンはずっと報告を聞き、イリヤやマリオ、それにパコと相談しては指示を出し続けなければならなかった。

 そして。

 最終的に、殴り込みをかけた細工師ギルドの人々は、署員が細工師ギルドの事務室から持ち出してきた、ギルド構成員の名簿と、いちいち名前を照らし合わせられることとなった。そんなことになったのは、群衆の中に、「扇動者」として裏で糸を引く者の手下が混ざり込んでいないとも限らなかったからである。

 こんなことへの知恵も、戦術学の専門家、マテオ・ソーサを最高顧問に迎え入れてからの、大公軍団の知恵だった。

 連行途中に逃げられる心配もあり、名前と顔の照合は現場で行われた。

 怪我人として、数十人が医薬院へ送られ、残りは二百人あまりではあったが、女や若い職人なども混ざっていたから、これには大変な時間がかかった。姓名と身元の確認のできた者から、順に大公軍団の護送馬車で大公宮の表の留置所へと運ばれたが、これもまた大変だった。一度にこんな人数が逮捕される事件など、何十年もなかった事なのである。

 この事件は、さすがに翌日の読売りには間に合わなかったが、黎明新聞アウロラと、自由新聞リベルタ、それに例のカストリ新聞「奇譚画報」は翌日の昼前には号外を刷り上げた。

 その号外と、翌日の読売りには、少なくともカイエンが取材を許した三紙に関しては、真実を曲げた内容は一切、なかった。

 細工師ギルドも「被害者」である、という論調で、屋敷が打ち壊しに逢ったカスティージョ伯爵の方は、逆ギレして激昂し、怪我を負わせた細工師たちを人質に取り、屋敷に立て篭もったということになっていた。

 もちろん、扱いは一面記事の一番上、それも、どこからこんな大きな活字を探して来たのか、と呆れるような大文字の見出しだった。

 そして、事件解決に尽力した勇敢なる大公軍団、として大公軍団は面目躍如、ではあったのだが……。

「なんだこれ……」

 カイエンは最初、この記事を読んで、とっさに記者たちを中に入れたことは功を奏したようだ、と安堵した。

 だが、三紙全てが、記事の中でカイエンのことを、とんでもない文言で誉め上げているのには、呆れもしたし、ウンザリしもした。

 曰く。

「有能なる鉄壁の大公軍団! 中でも勇ましき大公の一喝に禿鷹将軍もたじたじ」

「いい加減に観念しろ! 立てこもる禿鷹将軍に女大公の啖呵」

「隊員増員の大公軍団の大活躍、女大公の冴え渡る指揮に悪党平伏ひれふす」

 カイエンはもう、どれがどの新聞か、見直す気力も出てこなかった。

 確かに、「いい加減に観念しろ」とは、叫んでしまっている。カスティージョはたじたじでも、ひれ伏してもいなかったが、大勢の見守る中で、啖呵を切ったことは間違いない。

「これはすごい。殿下ももう、この街の守護者として揺るぎないお方になりました」

 皇宮のサヴォナローラのところへ、新聞の出た日になってやっと報告に行けば、宰相様は、しっかりと読売り数紙を机上に乗せた上で、棒読みで褒めてくれたものだ。

「お姉様。こちらからは何も出来ず、申し訳ありませんでした」

「近衛を出さんと、上位貴族を嵩にきた、カスティージョめは収まらんかと思ったが、殿下も一人前になられましたな」

 実のある言葉をかけてくれたのは、オドザヤとザラ大将軍だったが、こちらもサヴォナローラの机上の読売りを見ると、思い出し笑いを隠せないようだった。

 こうして。

 カスティージョ邸の事件が読売りに出たのが、フロレンティーノ皇子の誕生日の、つい二日前のことなのである。

 さすがのカスティージョも、読売りの出る前の日の夕方には、コンドルアルマの副官を大公宮表の収容されていた部屋に呼び寄せ、自らコンドルアルマの将軍位を降りたい旨の「辞表」を書いた。もちろん、そんなものは書きたくなかったに違いない。

 だが、ことがここまで大きくなっては、罷免される前に自ら辞めるしか、最後の最後の自尊心を守る方法はないと観念したのだろう。

 これは後日のことだが、カスティージョがコンドルアルマの兵士採用に関して、自分の屋敷の郎党を推薦して採用させていたこと、それに郎党として召上げるに際し、高額の献金を要求していたことも新聞に載った。

 カスティージョはこれを予想し、その前に自ら辞職したのだとの見方も多かった。

 カスティージョの辞表は、即日、元帥府と皇帝オドザヤの元で受理された。だから今、コンドルアルマの将軍位は、空位となっている。

 細工師ギルドの人々の方は、未だ治安維持部隊の事情聴取の最中である。こちらはもう少し、時間がかかるだろう。







 カイエンは、そんな情勢の中、この誕生日の宴にやってきたわけだった。 

 表情は変えぬまま、頭の中では昨日、いや今日の昼までのことを、カイエンがつらつらと思い出すでもなく、頭の中で反芻していた時だ。

「おい。こら、ぼうっとしてるな。……まだ疲れてんのか」

 カイエンは、マグダレーナと話しているエルネストの横で、一瞬、棒立ちになっているように見えてしまったらしい。カイエンのような身分の貴婦人としては、有りうべからざることだ。カイエンは瞬時に覚醒した。

「いや、すまない。ちょっと……」

 ぼーっとしていました、とは言えないので、カイエンはエルネストの、それでも気を遣ってはみたらしい台詞に乗っかることにした。確かに、元からあまり丈夫でない彼女が、今日疲れていないと思う方がおかしいだろう。それに甘えることにしたのだ。

 エルネストの声はそれほど大きくはなかったが、それはマグダレーナには聞こえてしまったようだった。

「あら。大丈夫でございますの? そうだわ。大公殿下は一月の……あの、新年の宴の時も、お身体を壊しておられましたもの。早く、あちらでお座りになった方がいいですわ。ご気分は?」

 マグダレーナは、一月の先帝サウルの最後の誕生日の宴の時のことを思い出したらしい。だが、あの直後にサウルは病床についてしまった。だから、ややぼかした言い方をしたのだろう。

 マグダレーナは、あの時も、ああして宣戦布告のようなことを言ってのけたくせに、

(……大公殿下はご身分のわりに開けっぴろげで、なんだか子供のようなところがおありだから、思わず母親の目で見てしまいますわ。……忌々しい)

 とか言っていた。カイエンへのその印象は変わっていないらしい。

「いえ。大丈夫です。……そうですか、では」

 カイエンはマグダレーナの後ろに、心配そうな顔色でこっちを見ているオドザヤに気がつくと、一人だけ座っていた席から立ち上がったオドザヤの後について、隣の「睡蓮の間」へと入っていくことにした。エルネストはふん、と気に食わなそうな様子だが、リリを抱え、大人しくついてくる。

 一昨年、この睡蓮の間でアルトゥール・スライゴたちが、サウルによって断罪された。後日、彼らは毒薬で賜死させられている。

 カイエンが、この部屋に入るのは、もちろんあの時以来である。今、ここにいる中でそれを知っている者は、オドザヤとカイエン、それにミルドラと、ザラ大将軍、当時は内閣大学士だったサヴォナローラだ。

 サウルも、アイーシャも、もうここにはいない。アイーシャは生きてはいるが、もうこんな集まりに出てくることはないだろう。

 そう言えば、あの場所には、マグダレーナの弟の、ベアトリア王太子のフェリクスがいた。マグダレーナの輿入れは、あの時ここで決まったのだ。

 そういう意味では、この「睡蓮の間」には何か因縁めいたものも感じられた。

 観音開きの扉の向こうの、部屋の造作はあの日と同じ。

 部屋の中は幾つものランプで、明るく彩られており、天井にもガラスの中に灯火を灯した、巨大なシャンデリア。正面には睡蓮を描いた巨大な壁画。

 だが、あの時ここにあった、巨大で真っ黒な食卓と、真っ黒な黒檀の椅子はなくなっていた。それは、今日ここに招かれた人々の人数に合わせたものなのだろう。

 百人余りの選りすぐられた貴族たち。彼らを迎えたのは、正面に横に置かれた、おそらくは皇帝一族に連なる者たちのためのテーブルと、それに垂直に三列に並べられた、細長いテーブルだった。

 オドザヤはまっすぐに部屋に入って行き、正面のテーブルの真ん中の椅子の横で止まった。それから、オドザヤは自分の左側にカイエンを座らせてから、自らの席に腰を下ろした。その動きは、あまりに自然だったので、皇帝である彼女よりも先に大公のカイエンが座ったことを、誰も意識する間もないくらいだった。

 エルネストは大人しく、リリとともにカイエンの左側に座り、その向こうにはミルドラ、そしてバルバラとコンスエラの姉妹が座る。

 オドザヤの右手には、マグダレーナとフロレンティーノ。

「そろそろ、おねむなんですのよ。まあ、ご挨拶は済みましたから、よろしいわ」

 そう、言い訳のように言ったマグダレーナの向こうに、第一妾妃のラーラ、そして第二妾妃のキルケ。二人の母の娘たちはもう、この国にはいない。だから、皇帝の家族と言える人々は、もうこれで終わりだった。

 フランコ公爵夫人のデボラから先は、皇帝一家の血筋ではないので、縦に並べられた席に、順に座って行く。

 宴は、睡蓮の間の外が、にわかに慌ただしくなるまでは、至極、穏やかな雰囲気の中に進行して行った。


 




 和やかな雰囲気が、いきなり壊されたのは、午後も半ばにかかった頃で、すでに睡蓮の間では、そろそろ食後の果物や菓子が供されようとしていた時分だった。

 よほどのことがなければ、この日の宴をぶち壊しにするような声と態度で、この部屋に入ってくるものなどいないはずだった。

 それが、起こったのだ。 

「北のラ・フランカから、急使が参っております。……陛下に直接、お伝えせねばならぬ事態が勃発したとのことです」

 普通の所作で入って来た熟練の侍従ではあったが、それが皇帝のオドザヤの耳元でささやく言葉は、オドザヤの左右に座った、カイエンとマグダレーナには嫌でも聞こえて来た。

 カイエンはともかく、マグダレーナの方は顔色を変えてしまったので、目ざとい客ははっとしたようだ。

 その直後、隣のカイエンと、左前方の席に、ザラ大将軍と並んだサヴォナローラの方をさっと見たオドザヤが、優雅な手つきで、口元をナプキンで拭いた時だった。もう一人の侍従がオドザヤに耳打ちしたのは。

「ご歓談中、失礼致します。ザイオン女王国の大使が、危急のお願いがあると参っておりますが、いかがいたしましょう?」

 こちらの侍従が先に来ていたら、オドザヤは侍従に、「待たせておきなさい」と言って、何事もなかったように歓談に戻ったことだろう。

 だが、先に届けられた、スキュラとの国境に近い、フランコ公爵の領地、ラ・フランカからの知らせは無視できるものではなかった。アルタマキアの拉致以降、国境の川を挟んで、スキュラとハウヤ帝国軍は睨み合っているのだ。  

「……マグダレーナ様、火急の用件のようです。中座をお許しいただきます」

 そう言うと、もうオドザヤは立ち上がっていた。

 カイエンもまた、さっと宰相のサヴォナローラと、ザラ大将軍の方を見て合図してから、オドザヤに続いた。

「おまえはここに残って、貴婦人がたのお相手を、抜かりなくな。リリの面倒も頼んだぞ。リリは泣いたりしないとは思うが……困ったら裏にサグラチカが控えている」

 カイエンはやや嫌味っぽく、エルネストにそう命じたが、それは嫌味だけでもなかった。

 ここにいる女たちの中で、公爵以上の妻となれば、寡婦か、または夫を国防のために領地に送り出して、このハーマポスタールに残った女だけだったからだ。

 マグダレーナ、ラーラ、キルケ、そして前バンデラス公爵夫人のサンドラは寡婦。

 そして、ミルドラとデボラは夫を国境に接した、西と北の領地に送り出して、帝都に残った妻なのだ。ミルドラの二人の娘、バルバラとコンスエラも、父親のヘクトルを帝都で待つだけの娘たちだ。ちなみに、クリストラ公爵家の長女、アグスティナはクリスタレラ近郊の豪族である、ポンセ男爵家に嫁いでいる。

 はっきり言えば、名ばかりとは言え、夫のエルネストを連れて来た、カイエンだけが例外だったのである。

 特に、皇帝一家といえば、女ばかりの家族なのだった。

 フロレンティーノ皇子を除けば、それが、今のハウヤ帝国の皇帝一家の真実だ。

 エルネストも、このことばかりは目で見ただけでも、上座に大人の男は一人しかいないのだから、気が付いていただろう。

「はいはい。ああ、はい、は一つでしたね、ご主人様。抜かりなくお勤めさせていただきます。行ってらっしゃいませ」

 エルネストはいつもの、大公宮での調子でそう言ったのだが、これはミルドラ以外の周りの貴婦人たちには「えっ」と驚くことだったらしい。

 エルネストは「言った後で気が付いた」と言うつもりだろうが、おそらくはわざとだろう。

 これは、カイエンが中座した後で、貴婦人たちはちょっと面白い夫婦の話を聞くことができるかもしれない。それが、エルネストが適当に脚色したものであったとしても。宮や屋敷に閉じ込められている婦人たちには、普段にはない話の種だろう。

 カイエンも、カスティージョの事件での読売りの記事のこともあって、もう自分が面白おかしい話の種にされるのは、しょうがないと諦めるような気持ちだった。




「くそ。もう、後から後から、なんなんだあいつらは!」

 カイエンは、睡蓮の間を一歩出るなり、それまでの優雅な歩き方をやめ、ゴトゴトと音を立てながら、勢いよく杖をついて進み始めた。ドレスの裾が絡み付くので、空いている右手でくるくると巻き上げてしまう。扇は邪魔なのでドレスの隠れたポケットに押し込んだ。

 こんな際のことを考えたこともあって、カイエンの選ぶドレスの生地は、いつも軽いものばかりだ。マグダレーナのような重厚な生地のスカートなど、危なくて履けたものではない。転んだ時に裂けるくらいの生地でちょうどいいのだ。

「お姉様!」

 オドザヤが、その様子を驚きの目で見た。カイエンはドレスの下に大公軍団の細身のズボンを履いていたからだ。ズボンの先に履いている靴の方は、かかとが低く、くるぶしまでの編み上げになってはいるものの、優雅な貴婦人の靴だから、それは、とんでもなく奇妙な姿だった。 

「こんなドレスじゃあ、いつ転ぶかわからないですからね。……大事なリリを抱えたエルネストになんか、助けてもらいたくないし」

 オドザヤは、シイナドラドでカイエンにあったことは知らない。帰国してすぐに倒れた彼女を見舞ったが、まだ独身の彼女には、詳しい病状は知らされなかったからだ。だが、エルネストとの夫婦仲が普通ではないことには、気が付いていただろう。オドザヤはカイエンとヴァイロンの仲の方は、最初から知っているのだから。

「使者はどこに?」

 サヴォナローラの言葉に、侍従が答えている。

 ザラ大将軍の方は、無言だ。もしかしたら、軍の最高位にある彼の元には、すでになんらかの事態の転向の兆しが報告されていたのかもしれない。

「別々に、遠い部屋に通してございます。謁見の間でお会いになりますか」

 さすがに皇宮の侍従で、国内の使者と、国外からの使者とを接触させるような不手際はない。

 オドザヤがすぐに答えた。

「そうします。先に、北のラ・フランカからの急使を通しなさい!」

 確かに、ラ・フランカからの急使は、「事態の勃発」と言っていた。これは、スキュラとの間の睨み合いに、何か変化があったということに違いなかった。それに対して、ザイオンからの急使は、「危急のお願い」とは言っているが、所詮は「お願い」だ。

「アルタマキアに、何かあったのでなければいいけれど……」

 ひとり言のように呟くオドザヤを先頭に、カイエンたち、今のハウヤ帝国の中枢である四人は、案内する侍従の後を足早に進んでいくのだった。

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