ザイオンの特使


 ……夢を

 あの朝、目覚めた時に失った夢を

 追いかけるのはもうやめろ

 永遠に失われた朝など捨ててしまえ

 あの失われた朝を飛び越えろ


 同じ肉体に宿り

 記憶を共有していても

 あの時のわたしはもはや失われ

 今のこのわたしとの間に

 繋がるものはただ、血族の証だけなのだ


 魂はもはや、時間が振り下ろす斧に細切こまぎれにされ

 古いわたしは散り散りに飛び去ったのだ

 流星雨の降る夜のように

 一点から天空の隅々にまで

 確実に散り散りになって

 飛び散っていってしまったのだ

 残ったのは記憶という不確かな過去

 簡単に捻じ曲げられる

 時計に巻きつく蔓草


 もういなくなった

 わたしだったというだけの

 たった一つだけの記憶


 死の扉を開けて

 わたしだったものが這い出てくることの無いように

 我が子よ立て

 わたしの名前を踏みつけて




     アル・アアシャー 「貝の地スライゴの侯爵」より、「死の扉プエルタ・デル・ムエルテ







「本当に、お父様が崩御なさってからというもの、こころ休まる時がございませんわね」

 オドザヤは皇宮の中心である海神宮の奥、皇帝の執務室の周りを囲む、皇帝専用の庭園の小道を歩きながら言う。

 オドザヤの父である、先帝サウルの執務室はそのまま、彼女に引き継がれた。そしてこの庭園の使い方もまた、恐らくは歴代の皇帝たちの時代と同じだっただろう。

 この日、大公カイエンは皇宮に朝から上がっていた。

 奇術団コンチャイテラを見た後、「黎明新聞」記者のウゴの身の上に起きたことと、奇術団コンチャイテラの魔女スネーフリンガを取り調べた結果を報告するためだった。

 オドザヤと宰相のサヴォナローラは、カイエンを皇帝の執務室で出迎えたが、彼らはその日の天気と気候が素晴らしかったこともあって、皇帝専用の庭園を話し合いの場所に選んだのだった。

 まだ、秋晴れというのには早いのかもしれないが、空は夏の激しい真っ青な色を失い、鱗のようなわずかな雲をまとわせて、涼しげだが寂しげな、褪せた青さに覆われていた。

 オドザヤには護衛のルビーが、カイエンには護衛騎士のシーヴが、宰相のサヴォナローラには弟弟子の武装神官リカルドが付き従っている。ルビーとリカルドは、ここでの話を隠れて聞くものがないよう、四方に気を配っていた。遠くに今は皇帝ではなく、皇宮の警備を担当している親衛隊の隊員の姿が見えるようだが、あそこまで声は届くまい。

「……そうですね。なんと言うか、伯父上という存在があって、なんとか押しとどめていたものが、一気に立ち上がり、正体を現してきた、という感じですね。いえ、陛下の能力がどうこうという話ではないのです」

 カイエンは、オドザヤの横を歩いていたが、あえて彼女の顔を見ず、小道の向こうを見渡した。

 季節は、九月の初めから中旬に入ろうとしていた。夏の名残の色鮮やかな花々が、小道の向こうへ、ずうっと続いている様子は見事なものだ。保安上の理由から、大きな樹木は植えられておらず、見渡すばかりに見えるのは、花々と、きれいに剪定された低木ばかりだ。

「あの、魔女スネーフリンガですが。私も所轄の署での聞き取りを、隠し窓からのぞいて見たんです。私が見たところでは、あれはニエベスで間違いなさそうです。まあ、『なさそうです』と言うのは、私は彼女の顔を二年前に二度しか見ていないからなんですが……」

 そう言うと、カイエンはやっとオドザヤの姿を視界に入れた。

 この日のオドザヤは、未だ先帝サウルの喪に服していることもあって、色の地味なドレス姿だ。装飾品の類も少ない。それでも、オドザヤはその化粧気がなくとも曇ることのない美貌と、黄金のきちんと結い上げられた髪だけで、十分に麗しく見えた。少なくとも、今、この皇帝の専用の庭の小道を歩く、六名の男女の中では格段に華やかに見えたということは間違いない。

 もっとも、カイエンの方は、いつもの大公軍団の黒い制服だったし、二人の後ろから来る、宰相のサヴォナローラ以下も、自分の職分で決められた服装であったから、そのせいもあったかもしれなかったが。

 そう、彼らは皆、未だにサウルの喪に服している期間の中にいるのだ。その上に、第三皇女アルタマキアを誘拐され、北方スキュラへ派兵中という時期である。

 そういった意味では、カイエンたちが捜査目的とはいえ奇術団コンチャイテラの興行に赴いた時の、あの下品で退廃的な様子などは、本来、もってのほかのものなのだ。

「殿下はその女には……?」

 カイエンとオドザヤの後ろから付いてきていた、宰相のサヴォナローラが、彼には似合わない遠慮がちな口調で聞いてくる。彼も、自分の言いたいことが最善なことだとは判断できていないのだろう。

「会ったよ。取調室に入って行って、彼女を問いただした」

 カイエンの声は、自然に苦々しいものになった。

「真っ白な髪は本物だった。あれは子供のアルットゥの銀髪とは明らかに違っていた。老人の白髪の色だ。目の色は緑がかった茶色だった。多分、あれが夜にランプで照らされると緑にも見えるんだろうな」

「白髪というのは、加齢だけでなく、精神的なものからも誘発されると言いますね。まあ、物語などでの、一晩で白髪になる、なんていうのは大げさな記述でしょうが、この場合は二年という月日が流れています。……ありえないことではありません」

 サヴォナローラはそう言うと、カイエンの後ろに付いてきていた、彼女の護衛騎士のシーヴが差し出す調書を取り上げた。

「殿下の問いにも、スネーフリンガは確たる返答はせず、ですか。二年前の事件で、実家のウェント伯爵家も、婚家のスライゴ侯爵家も取り潰されたので、肖像画などは処分されて存在せず。関係者もはっきりとした返答は避けた……。まさか、元スライゴ侯爵夫人ニエベスが死を賜った夫の代わりに出てくるとは、サウル様もさすがに予想できませんでしたね。ですから、彼女を幽閉で留めたのも、まだ十代の若い女と侮った、という事になりそうですね」 

 サヴォナローラの声は、後悔の苦い思いに塗りつぶされていた。

 オドザヤは黙って聞いているが、話は二年前までは彼女の取り巻きだった、元スライゴ侯爵夫人ニエベスのことだ。心の中では様々な思いが渦巻いていることだろう。

 カイエンは、小道の途中で立ち止まり、杖を突いたまま、ちょうど通りかかった脇に咲いている、夏の名残の極楽鳥花をぼんやりと眺めるようにした。

「お姉様、足が……」

 そう気遣ってオドザヤが杖のない右手を取ろうとしてきたが、カイエンはそれをその右手で押しとどめた。

「大丈夫ですよ。少しは歩かないと、すぐに衰えてしまいますから。……否定を続けるなら、皇帝陛下に面通しして頂くぞ、とまで言って脅かしたのですが、あの女は動じませんでしたね。怖がりもしないで、ただ、ゆるゆると首を振って。そんなことを言われても困ります、との一点張り。でも、黎明新聞のウゴが気がついた言葉遣いの件をただすと、さすがに少し慌てた様子は見せましたがね」

 オドザヤは琥珀色の目を、悩ましげにカイエンの顔に向けた。

「それについては、なんと?」

「自分はザイオン人ではなく、このハウヤ帝国の生まれだということは、渋々ながらも認めましたよ。仕方なくね。でも、言葉遣いについては、自分の母親が上位貴族の公妾だったからだと言うんですよ。その母親について追求すると、どこの貴族の世話になっていたかは知らない、自分は公妾をクビになった母親と一緒に、子供の頃に流れ流れてザイオンにたどり着いたんだ、って言うんです」

 そこまでカイエンが話すと、後ろを警戒しながらついてきていた三人の警備要員の中から、ルビーの声が聞こえてきた。皇帝と大公、それに宰相の会話に口を挟めるとは、ルビーらしいとは言えるが、他の大貴族の前でこの調子でやったら大変な事になるだろう。裏返して言えば、ルビーはオドザヤとカイエン、それにサヴォナローラならば許される、と踏んでいるのだ。

「拷問にかけちゃえばいいんじゃないですか。こう言う時こそ、なのでは」

 一見、過激な意見だが、この時代、容疑濃厚な容疑者への尋問での拷問は、当然のこととされていた。証拠が集められない場合には、容疑者本人を徹底的に尋問するしか、方法がなかったからだ。

「もちろんそれは、うちの『拷問専門家イリヤ』に相談したよ、ルビー」

 カイエンが、ちょっといたずらっぽい口調で答えると、ルビーはすぐに話がわかった。

「ああ……。団長が、しないほうがいいって判断したんですね」

「そうだ。……うちの団長のイリヤが言うには、今、大人気の奇術団コンチャイテラの花形を拷問した、なんていう事が明らかになれば、帝都の人心が、おかしな方向へ向きかねないって言うんです。むしろ、敵はそれを狙っているのかも、と」

 カイエンは後半は、オドザヤに向けて話したので、言葉遣いが変わった。ルビーの方もそれを察して引き下がる。

「なるほど。奇術団の後ろにいるのが、桔梗星団派でも、スキュラやザイオンでも、狙いはこのハーマポスタールの治安や人心の乱れを狙っているのだろうと、大公軍団長は判断しているわけですね」

 サヴォナローラはそう言うと、ちょっと立ち止まって空に目を向けた。イリヤもサヴォナローラも、元はアルウィンの子飼いだということでは共通している。

「外部からは北方のスキュラとザイオンが、内部からは恐らくはザイオンともなんらかの関係がある、あの方。……背後に螺旋帝国を潜めた前大公アルウィンの息のかかった桔梗星団派が。彼らの裏には、もっと他の国の名もあるのかもしれませんが……が、このハウヤ帝国を包囲していると言うわけですか」

「そうだな。今は、スネーフリンガは泳がせておくしかない。もちろん、見張りはつけるが。奴らが犯罪行為を起こしたわけではないのだからな」

 そこまでサヴォナローラの話を聞いて、カイエンが頭に思い描いていたのは、パナメリゴ大陸の国々の地図だった。

 実は、カイエンはもう一つ、あの、魔術師アルットゥの声。死んだはずのスライゴ侯爵アルトゥールそっくりな声、についてもサヴォナローラと話したかったのだが、一旦、彼女は頭を切り替えることにした。


「南の方はどうなんだ? バンデラス公爵は、お母上と長男を人質に置いて、そろそろ領地へ帰るのだろう。モンテネグロの向こうのラ・ウニオン共和国の動静はどうだ? それと、ベアトリアとその向こうの……カリスマ皇女の行ったネファールのあたりは大丈夫なのか」

 そう、サヴォナローラに問いながら、カイエンはネファールの向こうのシイナドラドのことも考えていた。あの国にも、火種はあった。ガラや影使い達が見た、内戦を恐れているような、トーチカ。そして、カイエンの婿として国外に出された、第二皇子のエルネスト。シイナドラドでは明らかに内戦を警戒していた。だから、皇王の息子の一人を、どうしても国外へ出しておきたかったのだろうから。

「……シイナドラドの方は、反皇王派が地方で決起する可能性がある、とエルネストが吐いている。その背後には螺旋帝国がいて、資金やら物資やらを貢いでいるらしいともな」

 カイエンはもう、このエルネストから聞き取ったことはサヴォナローラの宰相府や、ザラ大将軍の元帥府には話していた。

「大公殿下がシイナドラドへ行かれた時に作った、シイナドラドからこちらへの連絡網は、今もきちんと機能しております。ご安心ください。今のところは、変事の報告は来ていません。……ベアトリアとネファールに送っている外交官からの報告では、この二国でも大きな動きはありません。カリスマ皇女……いえ、カリスマ王太女殿下もご無事です。……そして、南の方ですが、これは人質を取るに当たって、バンデラス公爵様とかなり深いところまでの話を詰めておりましたね」

 カイエンとオドザヤは、サヴォナローラとバンデラス公爵との話し合いに同席していた。その時の話を思い出すと、彼女たちは二人一緒に、身震いするような恐ろしさを感じずにはいられなかった。


 その時一同は、庭園の中に唯一残された大木の下のあずまやの横に来ていた。この皇帝の庭園は、老いた皇帝のそぞろ歩きに対応するためか、ところどころに休む場所が設けられているのだ。彼らは、カイエンの足を気遣ったこともあって、自然にそこへ入って行った。

 あずまやの中に入って太陽の陽が遮られると、午前中の爽やかな空気が涼しく、花々の匂いとあいまって楽園にいるような心地よさにおそわれる。

「そうね。バンデラス公爵は思い切ったというか……すごいことをおっしゃったわ。……お姉様があの大議会の折に、公爵とご昵懇になられたおかげで、彼の方も話してくださったんでしょうけれど」

 カイエンはそれを聞くと、どういう表情をして良いやらわからなくなった。あの時、エルネストと不自然極まる夫婦漫才をやったことが、結果的にはバンデラス公爵を釣り上げることになった。今となっては、あれは怪我の功名としか言いようがない。

「最悪、バンデラス公爵領は、ラ・ウニオン共和国と組んで、ハウヤ帝国から『独立』するしかなくなるかもしれない、と言っていましたね。バンデラス公爵領は、モンテネグロ山脈を挟んで帝国の向こう側にありますから、ラ・ウニオン内海沿いのラ・ウニオン共和国から直接に圧力を受ければ、そういうことも起こり得ると……。ご自分の御生母がザイオン人であることも、今のような事態となってみれば、何者かの関与があるのかもしれぬ、とまで言っていましたね」

 カイエンが思い出しながら言うと、後ろの方から今度は遠慮がちな声が聞こえて来た。

「ええっ……。帝国の南の覇者とも言われるお方が、そんな弱気なこと、おっしゃってるんですか?」

 今度の声は、ルビーではなく男の声だ。サヴォナローラの弟弟子で、今は護衛の武装神官リカルドだった。

 サヴォナローラは苦笑したが、ルビーの場合のカイエンと同じく、部下の口出しを責めようとはしなかった。自分の部下の自然な反応を押しつぶすようでは、これから先、ハウヤ帝国の国民たちの声に耳を傾けることなど、到底できないだろう。

「国境を預かる方々の苦労というものは、歴史上の事例を見ても、なんとも計り知れないものなんだよ、リカルド。その時点で所属している国に殉じるか、自分の領地の領民を守り、強い方になびくか。これによって、国境線というものは動いて来たんだ。バンデラス公爵様ほどの方が、腹を割ってあそこまでおっしゃるということは、南方の、元は海賊軍団の集まりであるラ・ウニオン共和国の勢いはかなりのものなのだろう。ネグリア大陸や、その南端を超えて拓かれた航路による、東方の諸国や螺旋帝国との交易によって、急激に潤っているんだろうね」

 サヴォナローラはここで言葉を切り、端正な顔をやや歪ませて、後をやや言いにくそうに繋げた。それは、オドザヤやカイエンの方へ向けての言葉だった。

「恐らくは、最近の南方航路での交易で、螺旋帝国や東方諸国の影響がラ・ウニオン内海の沿岸の国々へも及んだのでしょう。シイナドラドへの影響も海からもたらされたのかもしれません。シイナドラドに関しては、北のザイオンからの影響も考えられます。鎖国しているとはいえ、国境を接しておりますから」

 サヴォナローラはそう話すと、ちょっとの間黙ったが、再びカイエンとオドザヤの方を見て話し始めた。だが、内心の心の動きを表すように、彼は、焦げ茶色のアストロナータ神官の僧衣の胸元に首から下がった、銀の五芒星の護符を掴んでいた。

「ですが、先にこちらからハウヤ帝国軍を動かすわけにはいきません……そんなことをすれば、敵を刺激しかねないのですから。それでも、モンテネグロの手前、ハウヤ帝国の真ん中を横切るパナメリゴ街道あたりまでは、北方での争いごとを理由に、街道警備の面目で軍を出す方がいいのかもしれません」

「だが、南のコンドルアルマの将軍は、あのマヌエル・カスティージョだぞ」

 カイエンは、大議会で、まだ嬰児のフロレンティーノ皇子を支持するモリーナ侯爵側に組し、反オドザヤ即位の演説を振るった、カスティージョ将軍の様子を思い出しながら言った。

「問題は、そこですね……。ですが、ジェネロ・コロンボ将軍のフィエロアルマはこの帝都ハーマポスタール近郊から帝国中部への守護に必要です。そして、ブラス・トリセファロ将軍のドラゴアルマは、ベアトリア方面で何かあった場合に東側へ動かさねばなりません」

「ザラ大将軍の近衛軍だけでは、フィエロアルマの代わりにはならないわね」 

 オドザヤも悩ましげだ。この頃の彼女の頭には、帝国軍の陣容や人員の数もしっかりと入っているのだろう。

「近衛と私の大公軍団の帝都防衛部隊で守れるのは、せいぜいこのハーマポスタールと近郊まででしょう。中部のサン・ヴィセンテあたりから先はもう、無理です」

 もちろん、国難に当たっては、帝国各地の領主たちも私軍を出すだろう。先年までのベアトリアとの国境紛争では、東の国境を領地とするクリストラ公爵を始めとする諸侯も戦ったのだ。 

「バンデラス公爵の出立は、来週あたりだったな」

 カイエンが聞くと、サヴォナローラは気を取り直したように顔を上げた。

「はい。バンデラス公爵家からいらした、ご母堂サンドラ様と、長男のフランセスク殿は、このハーマポスタールのバンデラス公爵家の館で、殿下のお貸しくださった帝都防衛部隊の隊員と、ザラ大将軍の差し向けてくださった近衛の警備と監督が付きます。これは、バンデラス公爵様もご承知です。そして、現在、ハーマポスタールから海沿いにモンテネグロまで、連絡員を配備しているところです。これで、帝国全土への連絡体制が図らずも整うこととなります」

 オドザヤとカイエンはうなずいた。

 こちらも押されているばかりではない。


「ところで、黎明新聞の記者を襲い、屋台の店主を幾人も殺害したという犯人の目星は……やはり?」

 昼間とはいえ、薄暗いあずまやの中、座っているのはオドザヤとカイエン、それにサヴォナローラの三人だけである。護衛の三人は、あずまやの周りをさりげない動きで回っている。

 そんな中で、しばしの沈黙の後に口を開いたのは、皇帝のオドザヤだった。

 木漏れ日が差し込み、涼しい微風が、オドザヤのひたいの生え際や、うなじの金色の髪を撫でていく。こんな国情の折でなければ、ここでお茶会でも開いたらいいような気候だ。 

「ええ。あれはトリニが言う通り、『青い天空の塔』修道院での虐殺の犯人……螺旋帝国の前の王朝の生き残りの姉弟の一人、天磊テンライの仕業と見ていいのでしょうね。後ろには桔梗星団の馬 子昂シゴウ一味がいるのでしょう」

 カイエンも、顎のあたりまで垂らしている前髪を掻き上げながら答える。顔の左側の髪を無意識に耳の後ろに挟むと、オドザヤの方からは左頬の傷がはっきりと見えた。

 オドザヤは、はっとして思わずにはいられなかった。こんな傷を受け、病み衰えて帰国することになったシイナドラドから婿を迎え、その因縁ある皇子さえも己の懐に飲み込んでいる、この姉であり従姉妹である存在の心の強さを。

 そして、自分は同じような場面に向き合った時に、どうするのだろうかと。

「奇術団と関係があるとお思いですか?」

 オドザヤの思いには気がつくこともなく、サヴォナローラがカイエンにそう聞くと、カイエンは灰色の目でサヴォナローラの、陽が当たらなくても真っ青な目をしっかりと見た。

「ウゴが奇術団を出て、大公宮へ向かう途中で襲われている。……関係がないとは言い難いな。だが、スネーフリンガや奇術団の親方への聴き取りでは、もちろん、なんの証拠も出てはいない。そうそう。奇術団の親方はザイオン人で間違いなさそうだ。話し方といい、色素の薄い見た目といい、な」

「そうですか」

「もちろん、奇術団には厳しい見張りをつけている。奇術団の見物帰りの記者が襲われた、そして巻き添えで何人も死んだことは黎明新聞だけじゃなくて、他の読売りにも出たから、市民も当然だと思っているはずだ」

 カイエンがそう言うと、オドザヤもサヴォナローラもひっそりとうなずいた。

 その時だった。


「あれ? 誰か来ますよ」

 最初に声をあげたのは、リカルドだっただろう。武装神官の衣装のフードを背中に落とした背中がふわりと振り返った。

「確かに、誰か来ますね」

 これはシーヴ。シーヴは髪や皮膚、目の色の酷似したリカルドと並んで、皇宮の建物の方を見ている。背中だけ見ていると、兄弟のように彼らは体型までも似ていた。

 カイエンたちが見ていると、確かに皇宮の海神宮から二人の人影が走るようにしてやってくるのが見えた。ルビーが音もなくオドザヤの背後に立つ。その様子を見て、カイエンは密かにルビーをオドザヤの警護に選んだことに満足した。

「あら、あれは……」

 オドザヤが言うまでもなく。

 それは、皇帝付きの女官長コンスタンサ・アンへレスと、皇帝の私的な秘書官である、アストロナータ神官で内閣大学士のパコ・ギジェンの、褐色の僧衣に包まれた小太りな姿だった。

 二人とも、皇宮に仕える者だから、息急き切って走ってくるのではない。だが、二人が礼儀を維持したままでの最高の速度でこちらに来ようとしてることはすぐにわかった。


「宰相様、大変です」

 先にあずまやの屋根の下に着いたのは、もう四十代のコンスタンサの方だった。糸杉のようにまっすぐな長身は、息も切らせていない。

「どうしたのですか」

 アストロナータ神官の褐色の長衣に、長い帽子姿のサヴォナローラが立ち上がり、座っているオドザヤやカイエンの前に立つと、やっと後からパコが追いついた。

 パコの方は太っているせいか、やや息が上がっている。アストロナータ神官の褐色の長い帽子が落ちそうだ。

「ザイオン女王国から特使が……ザイオン女王チューラ陛下からの特使が、ハーマポスタールに到着したとの知らせが参っております!」

 パコがもたらした知らせは、先ほどまで彼らが話していた話の方向からいえば、驚くべきものだったのか、それとも予想すべき事態だったのか。

 その時。

 もう、何代も前の皇帝の時代から、ハウヤ帝国とザイオン女王国との間には国交は成立していた。外交官の交換も行われている。だが、お互いにそれほど高位の貴族を外交官として送ってはいなかった。

 というわけで、交易はしていたが、それはパナメリゴ街道を通じ、ベアトリアを経由しての貿易を認める、という一点だけのものだった。両国の間にはオリュンポス山脈が長々とそびえ立ち、直接の交流を阻んでいたからだ。

 先帝サウルの代になって、ハウヤ帝国とベアトリアの間に国境紛争が起こっても、パナメリゴ街道の交通はなんとか維持されていたが、もう長いことザイオンからの特別な使者などが訪れることはなくなっていた。

 だから、この時期にザイオンから女王の特使が来るなど、誰も予想さえしていなかったのだ。

 もっとも、ハウヤ帝国北の自治領スキュラの第三皇女アルタマキアの拉致。そして、一方的な独立宣言。時期を同じくして現れた、ザイオンから来たという奇術団「コンチャイテラ」の事件が持ち上がってから、オドザヤやカイエンの周りでは、ザイオン女王国の動静に注意をはらう必要性を感じ始めていた。

 ことは、まさにそのタイミングで起きたのである。

「特使は今どこに?」

 オドザヤが聞くと、パコはオドザヤの前に崩れ落ちるように膝立ちになった。大げさだが、彼としてはそうした方が話しやすかったのだろう。

「陛下、ザイオンはこの街に一応は外交官公邸がございますから、そこに入っております。……いかがいたしましょう?」

 パコはかけている眼鏡がずり下がって来るのを、しきりに押し上げながら聞く。

「とりあえず、明日以降に、皇帝陛下のご予定をみて謁見を許すとお伝えしなさい。向こうも、到着したその日に陛下に御目通りできるとは思っておるまい。外交官公邸は親衛隊ではなく、治安維持部隊と近衛から派遣されて来ているものに見張らせよ。皇宮の者や貴族たちとの接触は許すな」

 サヴォナローラは抜かりなく指示する。現在、皇宮全体の警備は親衛隊が行なっているが、親衛隊の隊長モンドラゴン子爵はオドザヤ即位に異を唱えた勢力の一員だ。注意するに越したことはないだろう。

「わかりました。……女官長、あとは頼みます」

 そう言い残すと、パコは眼鏡と長い帽子を抑えながら、転がるようにして、もう海神宮の建物へと戻って行くのだった。






 翌日。

 ザイオン女王国の特使は、ハウヤ帝国皇帝オドザヤの謁見の間に立っていた。

 ザイオン女王国。それは、その名の通り、代々女王を立てて来た、女系相続の国である。現女王はチューラ。すでに齢は五十代に達していると聞こえていた。

 その王配が、バンデラス公爵の母、サンドラの兄なのだという。

 チューラ女王の子供は、男女合わせて四人。

 唯一の王女であるエレオノール王女以外の三人は王子である。

 謁見の前には大公のカイエンもいた。彼女はこの国の第一位の臣下として、オドザヤの座っている玉座のある最上段の次の中段に一人だけ座っていた。宰相や元帥よりも上の位置である。

 皇帝の冠を黄金の頭に戴いたオドザヤの座る、玉座の置かれた壇の一番下の左右に、宰相のサヴォナローラと、ザラ大将軍が立っていることからして、ハウヤ帝国側の警戒感はザイオンの特使へも伝わっていただろう。

 特使はザイオン人らしい、色素の薄い中年の男で、ザイオン女王国の侯爵を名乗った。ハーマポスタールに駐在している外交官は子爵だから、この度のザイオンからの用向きの重要さが伺えた。

 オドザヤの前に伺候すると、ザイオンの侯爵は立ったまま、長々と挨拶の言葉を述べたのち、ふわりと顔を上げた。

 その顔はなんだか誇らしげに見えた。そう思ったのはカイエンだけではないらしく、サヴォナローラやザラ大将軍もほんの僅かだが眉を動かしたようだった。

 彼らの前で、ザイオンの特使は皇帝のオドザヤに用向きを奏する許可を求めた。

 オドザヤが厳かに許可すると、特使はその顔に微笑みを浮かべ、とうとうと彼の命ぜられて来た言葉を語り始めた。

「我がザイオン女王国女王、チューラよりの申し出を、ハウヤ帝国皇帝オドザヤ陛下に申し上げます」

 そして。

 特使が続けて言った言葉には、オドザヤだけではなく、カイエンもサヴォナローラも、そしてエミリオ・ザラでさえも驚くことになる。


「ハウヤ帝国皇帝オドザヤ陛下には、未だ定まった婚約者のおられぬよし、遠いザイオンでも伺っております。今まで、我が国ザイオンと貴国との間にはあのオリュンポス山脈がそびえ立ち、交流も薄うございました。ですが、時代は変わっております。貴国でも歴史上初めての女帝陛下を戴かれました。女王国であるザイオンと致しましては、強い親近感をいだきましてございます」

 ここまで聞いた時、すでにオドザヤもカイエンも、嫌な予感がしてこなかったと言えば嘘になる。

「我が国の後継にはすでに第一王女エレオノールが定まっております。これに将来の王配たる者も決まり、すでに女王の孫も生まれましてございます。一方で、このハウヤ帝国女帝であられるオドザヤ陛下には、未だ配偶者をお決めになるご様子もないと伺いました」


 やめろ。


 カイエンは心の底で、ザイオンの特使の言葉を強引に押しとどめたい思いが渦巻くのを感じていた。

 私はともかく、オドザヤには、そんな思いはさせたくない。

 その時、カイエンが思ったのは、そういう気持ちだった。

 だが、特使の言葉は止まらなかった。


「我が主、チューラよりの申し出を申し上げます。我が国には、長子ジョスラン王子以下、リュシオン王子、トリスタン王子の三人の未婚の王子がございます。ハウヤ帝国、ザイオン女王国、両国の友好のため、オドザヤ皇帝陛下と我が国の王子との間の縁談をご提案致したく、お願い申し上げますものでございます」


 その一瞬、謁見の間には、しわぶき一つ、いや、呼吸の音さえも途絶えたようだった。

 北の自治領スキュラの造反。それに対するサウリオアルマの派遣。バンデラス公爵のもたらした、南方の情勢の不安。そして、友邦シイナドラドで起ころうとしている内乱の予感。

 帝都で繰り広げられようとしている、桔梗星団派の怪しい活動。

 そんな情勢の中で。

 ザイオンの特使は、なおも意気揚々と言ってのけたのである。

「この申し出は、両国にとりまして、必ず幸運をもたらすものと信じております」

 と。

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