夏の雪

「……どうやら、死人は一人二人ではなさそうだ。シーヴ、すまないが近くの治安維持部隊の署へ走ってくれ。ナシオは大公宮へ知らせろ」

 ナシオとシーヴに命じながら、カイエンは苦い思いで一杯だった。

 これは間違いなく、あいつらの仕業だ。それは、今のところ彼女の勘でしかなかったが、カイエンは近い間にその証拠が彼女の前に提出されて来ることを疑いもしなかった。

 カイエンは、この事件が、あのアルウィンに心を支配された者たち、恐らくは自殺した頼 國仁の弟子だった馬 子昂シゴウが今は動かしているのだろう一派によるものだと感じていた。証拠はまだない。だが、それでもだ。

 カイエンはその中の一人である、螺旋帝国旧王朝の皇子、天磊テンライが起こした、あの「青い天空の塔」修道院での惨劇の現場を見に行った時のことを、苦々しい想いとともに思い出していた。刃物で刺されて血だらけの死骸が、そこら中に転がっていた、あの情景。

 そして、一昨年の連続男娼殺人事件の現場。ただ殺しただけでは飽き足らない、とでもいうように損壊されていた被害者たちの体。

 おそらくは、今夜、怪人が待ち伏せしていた裏通りにも、あれと同じような光景が残されているのではないか。それは、カイエンの中ではもはや確信だった。

「急いでな」

 まだ震えているバルバラの肩を抱きながら、カイエンは黙って背を向けて去っていく二人の背中を見送っていた。


「カイエン様!」

「殿下!」

 大公宮からナシオが、ヴァイロンとマテオ・ソーサ、それに大公宮表の自分の執務室で残業中だった、軍団長のイリヤを連れて現場へ戻って来たのは、それから小一時間もたったころだっただろうか。

 近くの署へ走ったシーヴは、すぐにその夜の夜勤の隊員を引き連れて戻ってきていた。ここらは下町といえども、中流貴族の住む旧市街にも近いため、治安維持部隊の署も規模が大きい方だったのは幸いだった。シーヴは署に留守番を残した上でとりあえず数人の夜勤の署員を連れて戻ることが出来たからだ。

 だから、カイエンはトリニ以外の女性隊員たちに署員をつけた上で、バルバラと共に先に辻馬車に乗せて大公宮へ帰すことができた。今夜の「女子会」の後、バルバラは大公宮へ泊まることになっていたから、クリストラ公爵家や女性隊員の自宅への連絡は大公宮のアキノに任せておけばいいだろう。

 今宵の事件の当事者であるウゴの方は、トリニの足元で通りに直に座り込んで頭を抱えていた。天下の「黎明新聞アウロラ」の敏腕記者であるウゴをしても、今夜の恐怖は生半可なものではなかったのだろう。

 大公宮から馬で駆けつければ、ただでさえ政情不安な折、夜中に何事ぞ、と人目につく。だから、ヴァイロンたちは馬車で来るより他になかった。それも、レパルト・ロス・エロエスの裏通りは狭く、大公軍団の馬車を乗り付けることはできなかった。だから、彼らは表通りの署の前に馬車を止めて、後は歩いて来たのだった。

 もっとも、その頃にはあたりの家々には灯りがつき、近所の者たちはおっかなびっくりで窓に張り付いて、通りを見下ろしているところだった。

 ヴァイロンはカイエンの姿を見つけるなり、それまで手を引いていた教授の手をナシオに押し付けると、カイエンの元へすごい速さで駆けつけて来た。

「あっ。いや、急がんでいい! ……この通り、私はだいじょ……うわっ」

 カイエンはこの日はお忍びだったので、目立つ杖を持って来ていなかった。だから、気の利くシーヴがどっかからか持って来た、粗末な木の椅子に座って、それまでトリニと一緒に現場の通りの入り口を見張っていたのだ。

 その彼女を、ヴァイロンは椅子ごと持ち上げそうな勢いで抱き上げたから、周りの皆も驚いたし、カイエン自身も非常にバツの悪い思いをした。もうすでに近所の住民は起きていて、自分のうちの窓や通りの向こうから、ここの様子を見ているのだ。

 それまでのところ、大公のカイエンが平隊員の制服を着て、現場にいることはバレていなかっただろう。だが、黒い大公軍団の制服姿のヴァイロンとなればもう、体の大きさからその正体は明確だ。その元は帝国軍の将軍様で、今は帝都防衛部隊長が大公の愛人であることも、もはや市民には知れ渡ってしまっている。

 そんな男が心配そうに駆けつけて、来るなり若い女に抱きついたのだ。ちょっと考えればいかにそれが意外なことでも、そこにただ一人動かず、隊員に命令しながら座っていた女の正体など、自ずと想像されるというものではないか。

 だが、ヴァイロンというのは、そんなことを気にする男ではない。極端に言えば、カイエンのいない世界は、ヴァイロンにとっては意味のない世界だ。そんな彼にとって、何よりも優先されることはカイエンの無事だった。

「……よかった。ご無事で」

 恐ろしく長身なヴァイロンに、猫のように軽々と抱き上げられると、急に視界が高くなり、カイエンは目が回りそうになった。心配してくれたのはわかるが、どさくさに紛れて顔のあちこちに唇を落とされるのは困りものだ。周りで、集められた隊員たちが、目を白黒させているではないか。

「あらあら。大将は困ったちゃんだねぇ。……せんせー、足元大丈夫?」

 そんなカイエンとヴァイロンを冷やかすように見ながら、ナシオに手を取られた教授と並んでやって来たイリヤが、すでに現場保全のために縄の張られた裏通りの向こうを見渡す。

「大丈夫だよ。この辺りは私の塾があったところだから、よく知っているからね。暗くてもだいたいわかるよ」

 教授の声が聞こえると、それまでトリニの横で、石畳の道に座り込んでいたウゴがいきなり立ち上がった。

「先生ぇ!」

 怪人と直接、対峙したトリニの方は落ち着き払っていたが、ウゴの方は今の今まで、叫び出したい気持ちをやっとの事で抑えていたらしい。幼馴染みではあるが、年下で、しかも女のトリニには取り縋るわけにはいかなかったのだろう。

「おお、ウゴ。無事でよかったなあ」

 いつものように、粗末な杖を突いた教授がそう答えた時には、ウゴは自分よりもかなり小柄な教授に抱きついていた。

「先生、今日こそはヤバかったよ! トリニが来てくれなかったら、俺、殺されてた! 本当にそこまで来てたんだよ、あれが、あれが……」

 ウゴは教授に抱きついたまま、ずるずると石畳の上に崩れ落ちていく。その様子を後ろで見ていたトリニが、教授の方を見て、そっと首を振った。それへ、教授の方もうなずいて見せる。

「ああ、ああ。ウゴ、君はあれを見てしまったんだねぇ」

 カイエンはヴァイロンに抱き上げられた姿勢のまま、「あれって何だろう」と思って聞いていた。今夜、ウゴの経験したことから、何となくわかる気もするが、はっきりとはわからない。

「先生、俺は俺は、何にもわかっちゃいなかったよぅ。新聞記者がどんなに危険な仕事か! 先輩たちの用心深さを馬鹿にしてたわけじゃないけど……でも何にもわかっちゃあいなかった」 

 ウゴの声はもう泣き声に近かった。情けない姿と言葉だったが、そこにいた誰もウゴを馬鹿にする者はいなかった。そこにいた者たちは、ここの末端の署員も含めて、多くが一度は身に覚えがあることだったからだろう。その頃にはカイエンにもわかって来ていた。ああ、あれとはあれだと。

 まだ生きている生き物の背中を這い上って来る、冷たくて非情な刃。その刃から逃れる術がないわけではないが、それは往々にして目星をつけた者の、恐怖に慄く心を体から冷酷に切り離し、世界のすべてが凍れる場所へと強引に連れて行ってしまうのだ。

 死神がそばを通って行った、という者もいる。死神が体と心をその鎌で半分、切り離して行った、という者もいる。あれとは、そういうことだ。

「でもなあ、ウゴ。君が今日、あれを知ったことは、これからの時代を背負って立つ新聞記者としての君には悪いことじゃあ、ないんだろうよ」

 ウゴの褐色の癖っ毛の頭を胸に抱え込んだ、教授の声は冷静だった。

「もちろん、今夜ここであったことは、あってはならないことだ。だが、そんな『あってはならないこと』は、今までもこれからも、幾度でも繰り返されるのだよ。悲しいかな、人間は、その社会は、何度それを目にしても変わることはないんだ」

 教授の言葉は、確かにウゴに届いたようだった。

「う、うぅうううう」

 ウゴは呻くような声を上げていたが、教授の言葉は聞こえている様子だ。

「……私もね、偉そうなことは言えないよ。この歳まであれに連れ去られずに、幸運にも生きて来られたんだから。だが、君の仕事は私とは違う。軍人さんほどじゃないだろうが、君の仕事でも、あれは完全には避けられないんだろうね。君の仕事は『火中の栗を拾って』こそ、他に先駆けて皆に知らせることが出来るんだから。まあ、自分に降りかかるまでは実感できなかったのはしょうがない。それで普通なんだよ。だが、君はもう知った。だから、君はこれからは他の読売りの記者とは違った目線で取材ができるし、記事も書けるよ。……経験や体験よりも強く、消えることなく身につくものはないんだ」

 ここで、教授は言葉を切った。

 彼はしばらく黙っていたが、カイエンやトリニ、それにイリヤや隊員たちの顔を見るともなしに見た後に、言葉を繋げていた。

「教師なんて仕事は虚しいものだよ。教えられてわかることなんて、所詮は知識だけなんだ。……本当に体でも心でも理解して、人生の道しるべになることはね、体験したことだけなんだよ」

「……先生?」

「大丈夫だ。大丈夫なんて言葉は安易で無責任なもんだが、君はもう大丈夫だよ。次はもう、怖いだけじゃない。しっかりとその目と耳を見開いて、最後まで見聞きできるよ。その後にまだ息があったら、君は世間に伝えることができる。君は君の職分を全うできるだろう」

 ウゴはもう、答える言葉がなかった。彼は自分の師匠の白っぽい灰色の目を見上げて、荒い息を吐いているしかなかった。

「これから現場の捜査があるからね。ここの人たちには、君にもまだ聞きたいことがあるだろう。だが、終わったら黎明新聞へ戻るんだよ。今夜の事件は、君のものだ。……わかっているね?」

 教授はこんな時でも現金だった。そして、彼の弟子もまたその点では師匠を凌ぐほどに現金だった。

「あっ! そうか。この記事が一番に載るのはうちの新聞か! 独占記事にしなくっちゃあ……」

 ウゴの目はもう、恐怖にすくんではいなかった。ぎらぎらとした探究心が戻って来たその目は、もう生きている人間の世界に戻って来た人のものだった。

 ウゴは現場検証の様子を見たがったが、さすがにそれはイリヤも許可しなかった。時間もかかるし、何よりも未だ確定していない時点で、中途半端な記事が読売りに出ることを恐れたのだ。

 だから、ウゴは追い払われる前に、教授とカイエンに奇術団「コンチャイテラ」で気が付き、それを一刻も早く大公宮へ伝えるために飛んで出て来た理由について話すしかなかった。そして、彼がそこで覚えた「ある疑問」のことも。それに気が付いたから、今夜ここで怪人の待ち伏せを受けることになったのかも知れないことも話した。

 その話は、なかなかに驚くべきことだったが、ウゴがそれに気が付いたからと言って、直ちに口を塞がれるようなこととも思えず、その場ではカイエンも教授も曖昧な顔をすることしか出来なかった。

 だから、この時点では、カイエンたちはウゴは本人が気がつかないうちに、もっと重要な何かを……もしかしたら、それは奇術団とは関係のない事が由来だったのかも知れないが……を見聞きしているんじゃないか、と、そっちを疑っていたくらいだった。

「あー、そうですよね。考えすぎだと思いますよねえ。……確かに、俺も殺されるほどのことだとは思わなかったんだ。でも、なんか臭ったんですよ。それで、これはすぐに先生たちに伝えた方がいいって、ブン屋の勘が言ったんです」

 ウゴは熱っぽい調子でそう語り終わると、後から到着した治安維持部隊の隊員に付き添われて、黎明新聞の編集部へ急ぎ戻って行った。その様子は落ち着いていて、もう事件直後に教授にすがりついた時の、あの乱れた様子は微塵も感じ取れなかった。

「あっはあ。せんせーも、せんせーのお弟子さんも、もうよくわかったようですねぇ」

 そこまでいつもの彼にも似合わない様子で、辛抱強く見守っていたイリヤはそこまで見届けると、仕事に取り掛かることにしたようだった。  

「うんうん。現場保全は大丈夫ですね。シーヴ、カマラを呼びにやったよな?」

 イリヤはヴァイロンに抱かれたカイエンの横を通り、すでに縄を跨ぐようにして現場の通りに入ろうとしていた。

「はい。もう少しかかるでしょうけれど、朝までには到着するはずです。……まだ、この向こうへは事件以後、誰も入ってません」

 シーヴは落ち着いていた。彼は署員と共にすでにランプをいくつも用意してここでイリヤを待っていたのである。

 彼は現場を見てはいなかったが、ウゴから簡単な聞き取りを済ませていた。だから、この裏通りにはいつも、夜明けまで屋台の一杯飲み屋が並んでいるはずだということも聞いていた。

 そして、今、それらの屋台の光は一つも見えず、通りは真っ暗だということから、捜査は大公軍団長のイリヤか、治安維持部隊長の双子級の到着を待とうと判断したのだ。それにはカイエンも同意していた。

「ご苦労さん。……双子の方には、ハーマポスタール市街の他の場所でも何か起こっていないか、確認に走らせてます。……それはそうと、あの記者さんが今日、出て来たのは運河沿いの奇術団だったですよねえ?」 

 イリヤは、女子会に密かに張り付いていたナシオからも、もうその辺の事情までも聞き取っていたらしい。カイエンと教授に低い声で話す声からは、いつもの素っ頓狂で変な話し方など想像もできない。

「そっちへも双子の指揮で隊員を走らせてます。……殿下、じゃあ、こっちの現場、いただきますよ」

 まるで、これからご飯でも食べるようにイリヤは言うと、もう張られた縄の向こうへ足を踏み入れていた。







「……と、言うわけで、被害者は六人。被害者はみんな、あそこの裏通りに毎日屋台を出していた、一杯飲み屋のおやじたちです。あそこに黎明新聞の記者が通りかかった時にはもう、真っ暗だったっていうから、その時にはみんな殺されていたんでしょうねぇ。殺された順番は、恐らく通りの向こうからです。怪人とやらいうのが出て来た方向からですね。これは、屋台の店主たちの倒れていた様子からの推測です。かなりの早業だったみたいでね。……血しぶきの方向で犯行の順番がわかるほどだったんですよねぇ」

 イリヤはそこで言葉を切った。それは、聞いている皆の鳩尾のあたりが痛くなって来るような、恐ろしい報告だった。

 イリヤがメモを取って来た紙切れ片手に、事件の現場検証の結果を話しているのは、大公宮の裏のカイエンの食堂だった。時間はそろそろ夜明けになっていたが、そこに集まっていた者のほとんどは、一睡もしていなかった。

 最初は大公宮の表の、カイエンの執務室に集まろうとしたのだが、この時間となってはどうせ朝食の時間まで眠れないだろうと言うことで、ここに集まることになったのだった。

 カイエンたちは、夜中過ぎには現場検証を済ませ、現場のスケッチを、呼び出されてやって来た“メモリア”カマラに任せて引き上げて来た。

 大公宮へ戻ると、裏の玄関には執事のアキノやカイエンの乳母のサグラチカ、それに大公宮の警護に残っていたガラや、後宮のエルネストとヘルマンの主従までもが、出て来て待っていた。

 先に帰した、バルバラや女性隊員たちはさすがにもう、客間で寝ていると聞かされたが、他の元からのここの住人たちは眠るに眠れずにいたらしい。

「……双子からは?」

 食堂の一番上座に座ったカイエンが、真横に座ったヴァイロンが気遣わしげに見守る中、あくびを噛み殺しながら聞くと、イリヤもそのすぐ側で、メモを手にしたまま、長大な大公家の食卓に突っ伏すようにしながら答える。行儀が良いとはとても言えないが、責める者はいない。

 皆の前には、執事のアキノが運んできたお茶や珈琲のカップが置かれていたが、それはほとんど手をつけられることがないままに冷えていこうとしていた。

 イリヤの横では、こっちはちょっとは寝る時間があったらしいエルネストと、その後ろに控えたヘルマンが興味深げな眼差しを向けている。一緒に出て来たガラの方は、黙って下座の方に座っている。なぜだか知らないが、カイエンの飼い猫のミモがその膝に長々と乗っかっていた。

「市内に他に異常はないそうです。……そうそう人殺しなんてあっちゃあ、たまらないですよ。……って言っても、犯人があの修道院のあいつだったら、どこで何が起きても不思議じゃないですがねえ」

 イリヤもカイエンと同じように、頭の中で、怪人の正体を特定していたらしい。今夜の現場の様子には、明らかにあの連続男娼殺人事件と、「青い天空の塔」修道院の殺戮の現場との共通点があったのだろう。

「でも、今夜はトリニがあいつの利き腕を折っている」

 カイエンが長い食卓の真ん中あたりに、教授と一緒に座っているトリニの方を見ながら言うと、トリニも背中の高い椅子に長身を預けた姿勢から、まっすぐに座り直した。気のせいか、表情が固くなったようだ。

「……それですが、利き腕だったかどうかはわかりません。あの男は、もう一本、刃物を懐に隠すようにして持っていたので」

「ええ!?」

 トリニと怪人の対峙を至近距離から見ていた、ナシオとシーヴが思わず、と言った様子で驚きの声をあげた。二人は食卓の一番末席に並んで座っていたのだが、飛び上がるような勢いで椅子から腰を浮かせていた。

 二人は、トリニの言ったことに気がつかなかったのだろう。ナシオはザラ大将軍の「影使い」で、シーヴはカイエンの護衛としてその腕を見込まれて働いている。その二人が、気がつかなかったとしたら……。

「……そう、だったのか」

 カイエンは至近距離で見ていたわけではない。だが、聞いてみれば戦慄せずにはいられなかった。

「はい。ですから私は、はっきりと見えていた、あの肉斬り包丁のような刃物を落とさせた後に、もう一方の手の握っているだろう刃物を抑える必要がありました。あいつは隠している刃物のことを知られまいとして、蹴りを繰り出して来ましたが、体の重心からして、もっと重たい得物が隠している方の手にもあるはずだったのです。……でも、あいつは腕の骨を折られても刃物を落としませんでした。だから、折った腕を掴んで刃物を落とさせ、もう一方の手の得物を取り上げようとしたのですが……」

 カイエンは、トリニの説明を引き取った。

「そこに、十時弓クロスボウの矢が飛んで来たと言うわけだな」

 カイエンがそう言うと、食堂全体をしん、とした沈黙が多い尽くした。

 カイエンと教授以外、ただ一人の女性のトリニを含め、他のすべての男たちが腕に覚えがあった。そんな彼らでも、今のトリニの話には恐怖する部分があったと言うことだ。

 沈黙の中、トリニは冷静な声で続けていた。

「これは、今更ですが。……私は最初から、あいつを殺してでも捕らえるつもりでかかる必要があったのだと思います。……殺さずに生け捕りにしようとしたのは、私のおごりでした。私は敵を捕らえる速さよりも、剣を抜くことを優先するべきでした」

 確かに、あの時トリニは腰の剣にも短剣にも手をかけようとはせず、体ごと突っ込んで行ったように見えた。

「えっ。しかし、あの場面では……」

 いくら数人を殺しているかも知れない男でも、治安維持部隊の隊員としては第一に、捕縛を考えるのは正しいことではないか。カイエンはそう言おうとした。

 だが、それは続いてトリニが話し始めた言葉の衝撃によって、カイエンの喉の奥へと戻され、消えてしまった。

「そもそも、私はあいつの声を聞いた時に、あいつの正体を推定していました。でも、いくらあの連続殺人事件や、修道院での事件の犯人であったとしても、あれは相手が素人だったから出来たこと。人殺しの快楽に狂った殺人者が、迷いのない手で行ったから出来たことで、犯人自体の技量は大したことがないはずだ、と思い込んでしまっていたんです」

 そして、トリニの確信のこもった言葉は、カイエンや、そしてイリヤたちもすでに持っていた疑惑へと、まっすぐに切り込むものだった。

 ここへ来て、今夜の事件は急激に引き絞られ、放たれた矢のように一点へと凝縮していくように見えた。

「確かに、殺しに慣れたやつは素人でも手さばきが達者なもんだよね。俺もそう思ってた。……じゃあ、あいつは、あのひょろひょろしたお坊ちゃんは、殺人快楽者ってだけじゃなくて、腕にも覚えがあるやつだったってことね?」

 イリヤが口を挟んで来て、話をまとめると、食堂にはなんとも言えないどんよりした空気が落ちかかって来た。

 あいつ。

 トリニやイリヤがそう呼ぶ人間。その正体に、もはや疑いはなかった。

「そうです。シーヴさんたちも見たと思いますが、あいつの刃物の扱いは、突いた後の引きが早くて、連続した突きを繰り出して来ました。まるで、刺突専用の細身の剣を使い慣れた者のように。腕を折った時の感触ではそんなに筋肉が付いていたようではありませんでしたから、ああした軽い刃物の訓練を受けたことがあるのでしょう」

 トリニは、元は螺旋帝国の将軍だったという彼女の父親から、最高の戦闘術を受け継いでいる。その彼女が言うことを疑う者はいなかった。 

「なんてこった」

 カイエンたちは頭を抱えた。

 カイエンにも、イリヤにも、確かにもう今夜の犯人の目星がついていた。だが、そいつがそれほどの「技量」と「経験」を持っているとは考えていなかったからだ。

「さっきも申しましたが、あいつの気配と、それに話し方から私には一人、思い当たる者がおります。大公殿下も、軍団長様ももう、お心当たりがあられるようですが、ここで正体を明らかにしておくべきかと存じます」

 本来なら、平隊員のトリニがそこまで言うのは僭越というものだっただろう。だが、その場に集った皆は彼女の技量をもう、知っていた。だから、彼女の言うことには自ずと重みが生じていた。

「それは……やはり……?」

 カイエンはそれを聞く前に、落ち着こうと無意識のうちに彼女の前に置かれていた紅茶のカップを取り上げていた。一口、飲み込めば、生ぬるくなったものの、濃くてやや渋い紅茶の味が、疲れた体に喝を入れてくれるようだった。執事のアキノのさりげない仕事は、こんな時だからこそ確かなものだった。

「トリニ」

 カイエンはカップを置いた。

「はっきり言ってくれ。あいつは誰だ?」

 トリニは、まっすぐに黒い目をカイエンの灰色の目に合わせてきた。

「……あの時。あの連続殺人事件のあった後、大公殿下や先生について、アストロナータ神殿へ頼 國仁先生たちに会いに出かけた日にお会いした方の中の一人です」

 トリニはさすがに名前を直接に言うのを避けた。

 だが、カイエンは今、まざまざと思い出していた。それは、あの日同行した、イリヤやヴァイロン、それに教授にも共通する思いだっただろう。

 あの日。

 螺旋帝国の革命により、国を追われて逃げてきた旧王朝の二人の遺児。それをハウヤ帝国まで連れてきたと言う、カイエンの元家庭教師の頼 國仁。

 今思えば、あれはとんだ茶番だった。

 自分の死を偽装し、頼 國仁を案内人に螺旋帝国へと去った、カイエンの父アルウィン。その後に巻き起こった、螺旋帝国の「易姓革命」。旧王朝である「冬」は倒され、新王朝「青」が台頭した。そこから逃れてきたのだと主張する彼らに、カイエンたちはわざわざ面会に行ったのだった。そして、それは、頼 國仁が、宰相のサヴォナローラに、カイエンになら会って話すと言ったからだ。

 今思えば、あの場にカイエンがトリニを連れて行ったのもすべては運命だったのかもしれなかった。

「それは、螺旋帝国、旧王朝『冬』の生き残りの片割れ、皇子の天磊テンライだな?」

 カイエンが、沈黙を破り、苦渋を飲み込むようにして言った名前は、そこにいた皆が知っている名前だった。そして、今やトリニの言ったことを疑う者はいなかった。皆が皆、あの一昨年に起きた、あの未解決のままの凄惨な連続男娼殺人事件を知っていたし、そして、「青い天空の塔」修道院の事件の現場の凄まじさを見聞きしていたからだ。

 トリニはそれでも、しばらくの間、決定的な言葉を言うのをためらっていた。彼女にとっても、三つの大量殺人事件の犯人を特定する言葉を言うのには苦痛を伴ったのだろう。

「そうです。あの声、あの気配、あの体つき。……間違いはありません。あれは、天磊皇子でした」

 カイエンはすっと息を吸い込むと、自分の声が別人のような冷淡さで言うのを聞いていた。

「イリヤ。すぐに、馬 子昂と、天磊の手配書を用意しろ。あのとき、アストロナータ神殿にカマラを連れて行ったのが見事に嵌ったな。あの時描かせていた似顔絵をすぐに街中に回せ! 逃すんじゃないぞ」

 イリヤはすぐに、シーヴを遣いに出したが、心配になったのか、自分もあとを追って行った。そして、二人ともに食堂に朝食の支度が整う前に戻ってきた。

「今日は、寝ないで働くんだもん。朝ごはんくらいはちゃんとした場所で、ちゃんとあったかいのを食べさせてもらいますよぉ」

 二人が戻ってくる頃には、とっくに朝になっていたから、客室で休んでいた女子隊員とバルバラも起きてきていた。だが、彼女たちもあまり眠れなかったらしく、皆が元気なく、赤い目をしていた。

 その日、大公の食堂の食卓は、珍しくほとんどの席が埋まることとなった。

「さあさあ、しっかり召し上がってね。お酒はさすがにダメだけど、他のものならなんでも料理長ハイメが料理するって言ってますよ」

 だが。

 カイエンの乳母のサグラチカが言うまでもなく、カイエン以下、全員が血走った目をしてはいたが、皆が皆、もう眠っている場合ではないことを理解していた。それには、体力だけが勝負だと言うこともわかりきっていた。あんな現場を見てきて、食欲があるなんて……と非難されても仕方がなかった。しかし、そもそも彼らの多くはもう、こんなことにも耐性が出来てしまっていたのだ。

「じゃあ、じゃあ、牛肉! 分厚いの焼いて持ってきてぇ。こんなんじゃ、貧血になりそうだもん」

「ええっ! そんなこと言うんですか? じゃ、じゃあ……どうしよう? 俺もそれでいいや。肉汁煮詰めたソースがかかってたらもっといいですねっ」

「……分厚いベーコンのカリカリになったのが喰いたい」

「じゃ、じゃあ、ふわっふわのオムレツお願いします。中身は豚か鶏のひき肉でぇ!」

「ああ、それじゃあ、トウモロコシと生クリームのスープかな。今日も暑くなるだろうから、出来れば冷製で」

「トマトと玉ねぎに落とし卵したの頼みます!」

「チーズ、チーズと黒豆の煮たの持ってきてください! あれ食べないと一日が始まらないの!」

「あ、それに香草シラントロのせてきてぇ」

 最初は遠慮していた、女子隊員たちが好みの料理をねだる頃には、皆の目つきが生き返ってきていた。


  




 その同じ日、新たにカイエンの元まで上がって来た情報が、二つあった。

 一つは、運河沿いに小屋を開いていた、奇術団「コンチャイテラ」へと向かわせた隊員からの報告だった。

「腹話術ぅ?」

 カイエンは朝食の後、慌ただしく風呂に入り、着替えてから大公宮表の自分の執務室へ出て行ったのだが、すぐに治安維持部隊の双子の差し向けた隊員たちから、調査結果が上がってきた。

 本当にザイオンから来たと主張する、奇術団の団長が言うには、魔女スネーフリンガは魔術師アルットゥの実の母親で、腹話術を使った見世物をしているだけだ、と言っているらしい。客に抱かせた幼児のアルットゥが喋るのも、近くに他の腹話術師をさくらとして潜ませて行っていることだと主張したと言う。

「それはもう、ウゴから聞いているが……」

 カイエンはそのことはすでに、昨晩のうちにウゴから聞いていた。ウゴは出し物を見ているうち、すぐに出し物の「仕掛け」には気が付いたらしい。

 だが、黎明新聞のウゴが嗅ぎつけ、大公宮の教授のところへ報告へ来ようとしたのは別の理由からだった。ウゴが気になったのは、そのことではなかったのだ。

「先生、確かに、あの奇術団の連中は色の白い、髪や目の色も淡い奴が多くて、ザイオンから来たんだってのもうなずけたんです。言葉も、俺はザイオンなんか行ったことはないから知らないが、ちょっとこのハーマポスタールとは違う訛りがあってね。……でもねえ、誓って言いますが、あの魔女のスネーフリンガと魔術師のアルットゥの二人だけは、この土地の人間ですよ。それも上の方のご階級のね」

 ウゴが教授やカイエンに、あの現場からの去り際に言っていった言葉は、確信に満ちていた。

「まあ、普通の市民じゃ、あれっと思っても気にしないでしょうがね。俺は大いに気になったんですよ。間違いないです。先生や俺の話し方や発音とは、ちょっと違うんです。なんでか知らないですが、大公殿下は両方を使い分けられてますよね。……殿下はたまに伝法な言葉遣いをなさるでしょう? あれじゃなくて、普通に話しておられる時の話し方、あれと一緒なんです。あれは、お貴族様の言葉遣いと発音ですよ。間違いありません」

 確かに、カイエンの言葉遣いは二種類あるのである。

 そのうちの一つは褒められたものではないが、若い頃に下町で遊び尽くした父のアルウィンの口調がそのまま移ってしまった、下町の阿仁さんのような乱暴な言葉遣いだ。

 だが、改まった話し方をすれば、カイエンの本来の言葉遣いは、それとは大いに違ってくる。それは上流階級の、この帝都ハーマポスタールの貴族階級の言葉遣いに他ならない。

 この時、ウゴが言った言葉は、次にやって来た別方面からの報告を、薄気味悪い形で裏付けてしまうこととなった。


 その、もう一つの報告は、先の報告の直後にやってきた。

 こっちは数日前にオドザヤのあの奇妙な「お茶会」で、カイエンが約束して来たことの調査結果だった。

(元スライゴ侯爵夫人ニエベスの幽閉先に問い合わせて見ましょう。いや、直に誰か行かせた方がいい。そんなことはあるまいが、こんな事態の中ではなんでも起こりうると思わなくては)

 こちらは、帝都ハーマポスタールの近郊とは言え、外のことだったから、治安維持部隊から数名が該当する貴族の屋敷に派遣されて調べて来たことだった。

 そっちの報告は、昨夜の惨劇を目にしたカイエンをも、十分に驚かせるものだった。

 あのスライゴ侯爵アルトゥールの妻だったニエベスは、元はあの、ウェント伯爵家の出身である。あの「春の嵐」の事件で夫のアルトゥールと、兄が処断された後、ニエベスは母方のこれも伯爵家の郊外の館に幽閉されているはずだった。

 だが。

「いない?」

 カイエンが聞くと、調査に行った隊員はそれがまるで自分の責任であるかのように身を竦ませた。

「は。なんとも無責任なことでございます。当初はしっかりと見張りも立て、部屋からも出さず、窓も目張りしていたほどだったそうですが……」

 カイエンとても、隊員を責めてもしょうがないことはわかっていた。

「それが……どうして?」

「半年もせぬうちに、元スライゴ侯爵夫人が身重であることが判明したそうで……」

 その時。カイエンの頭のなかで、どうしてだかはわからないが、ウゴの言った言葉がこだましていた。

(……でもねえ、誓って言いますが、あの魔女のスネーフリンガと魔術師のアルットゥの二人だけは、この土地の人間ですよ。それも上の方のご階級のね)

 ウゴは、魔術師アルットゥと呼ばれている幼児は、二歳か三歳くらいに見えたと言っていた。計算は合う。 

「ニエベスに子供が……?」

 カイエンの前で、調査してきた隊員は、さらに縮こまった。

「はい。それで屋敷の者が同情したそうで……。それで次第に見張りが緩んでいったようです。出産の後はもう、屋敷の庭を散歩させることもあったそうで……」

「ああ、そうか」

 カイエンはもう、調査の結果は知っていたから、調査員のこんな話も、もう諦めて聞くしかなかった。


 ニエベスは生まれた赤子を抱いて消えた。

 それはもう、半年以上も前のことだったのだと言う。

 今は八月。

 半年前といえば、先帝サウルが病に倒れ、世情が騒いだ頃のことだ。

「ご苦労」

 カイエンはそう言って、調査員を下がらせるしかなかった。

 サヴォナローラに知らせなくてはならない。

 そして、カイエンの頭の中で、幽閉先から消えたニエベスが、魔女のスネーフリンガと魔術師のアルットゥに重なるのに、そう長い時間はかからなかった。

 奇術団「コンチャイテラ」。

 カイエンは確かめなくてはならなかった。

 それはまさに、「夏のニエベス」の謎とでも言うべきものだった。 

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