刺青の男


 炎の女神ジャメアの仮面

 輝ける獅子レジェレオの仮面

 一つ眼の悪魔シクロペオの仮面

 荒野の狼ロボ・ソロの仮面

 雷の神レランパゴの仮面

 小狡い悪魔メフィストフェリコの仮面

 極めたる麗人ベジョスマスリンドの仮面

 静かなる勇者ディオサシレンシアの仮面

 忠実なる女サンタマグダレンの仮面

 狂信者ファナティコの仮面


 彼らがそこに現れた時、そこにあの日の熱狂が降りてきた

 それは、あの街の石畳に打ち付けられる

 数々の人々の足音

 流される血潮が歴史を作る時代へと

 この街が変貌していく

 その時のことだった




   アル・アアシャー 「聴け。あの足音を、喧騒の中で踏み砕かれる歌を」








 それはもう、九月に入ってからのことだった。

 ハウヤ帝国帝都ハーマポスタールから、北へ約千キロ。

 ハウヤ帝国と自治領スキュラとの国境を越え、スキュラの元首宮のあるドネゴリアからも、すでに二百キロほども北上した、夏でも涼しい寒冷な土地。

 その厳しい自然の中の、北海に面した入り組んだ入江の一つ。

 そこは急峻な崖に阻まれた場所で、この土地のものにしか知られていない場所だった。小さな漁港のような港には、旧式なガレー船が停泊している。帆を張ることもできる船で、ここのような複雑な地形の場所では今でもこんな船が使われていた。

 遠い北海の向こうには、マトゥランダ島が浮かんでいるはずだ。

 ここは、マトゥランダ島から来るのに、一番潮目のいい港の一つであった。そして、ドネゴリアから陸路で来るには厳しい山道を通らねばならないが、海路ならば数日の場所だ。

 小さな集落ではあったが、村を形成するだけの民家が軒を連ね、村長の家らしい、高台に石垣を連ねた塀に囲まれた木造の大きな家は、「屋敷」と言ってもいいくらいの威容を見せていた。

 その、村長の屋敷の奥。

 幾重にも囲まれた石垣の向こうからは、このところ、夏の長い長い夕暮れが始まる頃になると、若い女の叫び声が聞こえて来る。

 それは、そこに淡い金髪に雪白の肌をした、まだ十五、六にしか見えない少女が、船で連れてこられて押し込められた、その日から始まったことだった。しかし、その事はこの村落では皆が承知していることだったので、少女の声が聞こえたとしても、誰も気にする者はいなかっただろう。

 もっとも、その声が分厚い石垣の渦を越えて、港へと続く街並みにまで届くことはなかった。


「いや、いや、いやっ! 手を離しなさいっ! この慮外者がッ!」

 それは、この北方の土地ではなかなか終わることのない、夏の日の夕暮れのことだった。

 アルタマキアはここに連れてこられてから、腕に痣ができるのも恐れず、毎日この時刻になると始まる「忌まわしい儀式」に抵抗していた。腕や体に擦り傷が出来るほどに激しく抵抗したこともあったが、相手側から殴られたり積極的に痛めつけられたことはない。

 それでも、彼女はどうしても屈するわけにはいかなかったのだ。

 アルタマキアを連れて来た一行は、国境を越えた途端にスキュラ兵たちに囲まれた。そして、アルタマキアは一人、ハウヤ帝国側のお付きすべてから引き離されて拉致されたのだ。

 そしてそのまま、スキュラの元首の住まう元首宮のあるドネゴリアを通ることもなく、船に乗せられて、ここへ連れてこられた。それから毎日、ここで続けられているのは、まだ十五になったばかりの皇女にとっては無体極まる残酷な日々だった。

 それは、そこで待ち構えていた、二人のマトゥランダ島から呼び寄せられていた二人の男との、強制的な結婚に始まったのだ。

 一応、連れてこられた日に、これまたここで待ち構えていた老いた神官……それは北方で信仰を集めている世界樹の神殿の神官だった……が、アルタマキアと二人の男との「婚姻」の儀式を執り行いはした。アルタマキアはその場で結婚の承諾書にサインさせられ、同時にハウヤ帝国側へ送るという手紙をも書かされた。

 それは彼女の無事を知らせる文面で、書かねば、アルタマキアと共にスキュラ側に捕らわれたお付きのものたちを殺す、と脅された。

 だから、今、ここで行われていることは、アルタマキアが「同意していない」だけで、彼女以外のここにいいる人間たちにとっては結婚の儀式を済ませた夫婦の通常の姿として認知されているらしい。

 恐ろしいことに、このマトゥサレン一族の息のかかった場所では、家族は女系家族が普通であり、複数の夫を持つのは普通のことだと言うのである。

 アルタマキアはもちろん、大変に驚き、決して「結婚の誓いの言葉」を口にはしなかった。だが、老いて耳の遠くなった神官はそんなことは無視してことを執り行ったのだ。

 それにしても、夫が二人とはどういうことなのか。アルタマキアはこの地の住民ではない。ここの流儀に従う必要はないのだ。

 アルタマキアは唯一、その場に現れた、伯父のエサイアスの妻であるイローナに食い下がったが、その返事はそっけないものだった。

「あら。アルタマキア様はご存知ではありませんのね。我がマトゥサレン一族では、女が惣領として立つ時には複数の夫を持つのが普通ですのよ。夫が一人では、もしその者が不出来だった場合に世継ぎに恵まれないことになりますからね」

 と言い切ると、彼女はもうアルタマキアの質問に答えようともせず、そのままアルタマキアをここに置いて、ドネゴリアの元首宮へ戻って行ってしまったのだ。


 だが、今日も、最初の日にイローナがそう言って強要したことに未だ屈することなく、アルタマキアが叫び、暴れていると、いきなりノックもなく部屋の扉が開かれた。

 入ってきたのは、アルタマキアに勝るとも劣らない、雪白の肌に薄い白っぽい色の金髪、それに北海のように暗く青い瞳をした、そろそろ中年に差し掛かった女の姿だった。それでも、そのすらりとした肢体に深い青のドレスを纏った姿は上品で、やや大柄ながらも上品な貴婦人然として見えたのである。

「イローナ! ……この売女! 裏切り者の人殺し! わたくしをこのような目に合わせて、このまま済むと思っているの!?」

 扉が開かれたその時、アルタマキアは、着せられていた寝巻きの胸や裾のあたりを肌けられ、あるいは捲り上げられた、ひどい格好で二人の男に押さえつけられていた。

 普通の娘ならとっくに諦め、人形のようになされるがままになっていたことだろう。

 だが、この先帝サウルの第三皇女、そして現皇帝オドザヤの妹は、ここへ連れてこられてから半月以上が経ってもまだ、その薄い空色の目をぎらぎらと光らせ、このひどい運命に抗うことをやめてはいなかったのだ。

 アルタマキアは子供の頃から、太陽の強い光を浴びたら溶けてしまいそうな……と言われていた、儚い印象の皇女だった。しかし、先帝サウルの臨終の前に、姉のオドザヤと従姉妹のカイエンに向かって話した時の、きっぱりとして物事を割り切って考える、したたかな少女の方が、本当の彼女の姿であったようだ。

「あらあら、いいところをお邪魔してしまいましたわね。だからって、そんなに汚い言葉をお使いになって。それに、お嫌だなんて言うものではございませんわ。彼らは貴女様がこの新生スキュラ王国の主人あるじとなるために必要な『手助け』をするために、わざわざマトゥランダ島から呼び寄せた、貴女様の夫たちなんですから」

 言いながら。

 イローナは、この部屋でアルタマキアに食事をさせるために置かれたテーブルの周りに置かれた椅子の一つに、ゆったりと座り込む。その様子は、自分こそがここの主人だと、明確にアルタマキアに伝えて来た。

 イローナの言葉は、もうここへ連れてこられ、一方的に結婚させられた時に聞かされたものだったので、アルタマキアはもう反論はしなかった。言葉が通じる相手ではないことに、とっくに気が付いていたからだ。スキュラがハウヤ帝国に対して、一方的に独立を宣言したことも、あの時に、もう聞かされていた。

 今、イローナの言った言葉には身震いする思いだったが、彼女はそれに耐えた。この女の闖入で、この夜の苦行が中止されるならば、そっちの方がありがたかったからだ。

「伯父様が、エサイアス伯父様がおっしゃるんだったら、私だって従うわ。もっとも、伯父様はマトゥサレン一族の女惣領だの、二人の夫なんていう、穢らわしい、野蛮な風習なんか、私に押し付けたりなさらなかったでしょうけど! 前から言っているじゃないの、伯父様を出しなさいよ! そもそも、私はマトゥサレン一族の女惣領だとか、新生スキュラの女主人なんかになりに、わざわざこんな北まで来たんじゃないの! 伯父様があなたと同じことをおっしゃるって言うなら、直にお聞きしたいわ」

 だから、アルタマキアは正論のみを口に出した。彼女がやや早口で声は高かったものの、主張としては落ち着いた内容を言い、心底嫌そうにその細い腕を振りやると、そこで初めて「二人の夫たち」が彼女の体から手を離した。さすがにイローナの前でそれ以上を行うことは避けることにしたらしい。

 男たちが、イローナに黙礼して部屋を出ていくと、アルタマキアは乱された襟元と裾を、こればかりは彼女から奪えない上品な仕草で、落ち着いて直していく。顔つきはこの十日余りですっかりやつれていたが、まだ気力は失っていない。この点では、アルタマキアはシイナドラドで虜囚となったカイエンよりも、実はずっと肝の太い少女であったのかもしれない。

 アルタマキアは服……と言ってもそれは絹地の薄い寝巻きだったが、を整えると、イローナの座っている椅子の、テーブルを挟んだ向かい側の椅子へかけた。

 イローナも、アルタマキアの未だ諦めていない様子には驚いたらしい。

 それでも、彼女は口元にいやらしい微笑みを、殊更にはりつけて、アルタマキアを揶揄するような口調で言った。

「まあまあ。だから、何度も申し上げたではございませんか。エサイアスはアルタマキア様のおいでを心待ちにしておりましたが、ご到着の数日前に卒中を起こして……寝たきりになってしまったのですよ。それで妻の私が元首代理となりました。それにうるさいことを言うものもいたので、里から応援を呼んだまでですのよ。そうそう、エサイアスも、あなたの夫にはぜひ勇猛果敢なマトゥサレンの男を、と言っていましたのよ」

 もちろん、アルタマキアはこの話を、前にイローナがここへ来た時、それはアルタマキアがここへ連れてこられ、無理矢理に二人のマトゥサレン一族の男との婚姻を結ばされた日であったが……に聞かされていた。

 それでも、今度もまた同じことを問うしかなかったのだ。

 先ほどまでこの部屋にいた、二人のマトゥサレン一族の男たちは、アルタマキアのそうした質問には決して答えようとしなかったからだ。まるで聞こえぬ喋れぬとでもいった様子であったから、最初、アルタマキアはアンティグア語が通じない蛮人なのかと思ったほどだった。

 アルタマキアはこの部屋から一歩も外へは出られなかったが、着替えや風呂に入れられる時などには、潮風でしわくちゃになってしまったような、枯れた老婆が手伝ってくれた。この老婆も見事なまでに一言も喋らなかったが、アルタマキアは老婆が部屋を出ていった直後、一度ならず廊下で交わされる、男たちと老婆の会話を漏れ聞いたことがあった。

 だから、彼らは喋れないのではなく、念入りに何も喋らないように指示されているのだろう。

「聞き飽きたわ! 伯父様が卒中を起こされたと言うのなら、私をドネゴリアの元首宮へ連れていくのが普通でしょう。私はスキュラの後継者としてハウヤ帝国から遣わされてきたのよ。それは、エサイアス伯父様も重々ご承知のこと。私は伯父様の御返書も、お父様に見せられて読んでいるのよ!」

 アルタマキアは無駄とは分かりながらも、言わずにはいられなかった。

「イローナ、あなたが元首代理になったというのを、他の色々なことに目をつぶって認めたとしても、それが直ちにスキュラの独立に繋がるとは思えないわ。普通に考えれば、伯父様に一服盛ったかした後に、あなたのご実家の野蛮人どもをドネゴリアに入れて、賢明な人たちを黙らせたってところでしょう!」

 エサイアス伯父は、もう生きてはおるまい。

 アルタマキアはイローナの自信ありげな様子から、母キルケの兄であるエサイアスは謀殺されたと感じていた。まだ十五のアルタマキアには、国家間の事情などわからなかったが、彼女がスキュラの次期元首と決まれば、ハウヤ帝国との間の関係はより親密なものになるはずであった。先帝サウルもそれを狙ったのだから。

 となれば、今度のことはスキュラとハウヤ帝国との間を決定的に裂いてしまいたい、そういう勢力が起こしたことに違いなかった。

 だが。

 それならば、エサイアスと共に、アルタマキアをも消してしまうべきではないのか。

 アルタマキアの母はエサイアスの妹のキルケだ。だが、父親はハウヤ帝国先帝サウルなのだ。そのアルタマキアをわざわざ拉致して、こんな北の果てへ連れて来て。それだけではなく、マトゥサレン一族の一員だと言う「夫」をもたせた理由は。

 アルタマキアの糾弾に、イローナが答えることはなかった。

「今日は、面白いことをお伝えするために来ましたの」

 イローナはお茶一つ供されることのないテーブルの上へ、真っ白な手を載せると、テーブルの上に白い指先でアルタマキアにはわからない文様のようなものを描き始める。

「ハーマポスタールにいる『刺青いれずみの男』から、面白いことを伝えて来ましたのよ」

 そして、イローナの言った言葉は、囚われのアルタマキアには謎としか言えないものだった。

「いれずみ……?」

 刺青いれずみ

 だが、その言葉を聞くなり、アルタマキアは、心底、忌まわしそうに身を震わせていた。

 それは、彼女の「二人の夫」たちの上半身に、びっしりと真っ黒な不可思議で原始的な文様が彫り込まれていることを、すぐに思い出したからだ。

 ハウヤ帝国でも、もちろん刺青をいれている者はいる。それは下町の若者や、船乗りに多かったが、背中いっぱいにいれている者となると、そうそう多くはいなかっただろう。

 生まれてから皇宮を出たことのなかったアルタマキアはもちろん、そんなものを見たこともなかった。だから、マトゥサレン一族の男たちの背中の黒い文様は、アルタマキアにはまさに蛮族のそれとして認識されていたのだ。

「おほほ。ああ、アルタマキア様はあの夫たちのをご存知ですものねぇ。ええ、あの刺青はマトゥサレンの戦士の証。一人前の戦士、それも神々の試練を乗り越えた者にのみ許された印なのですよ」

 イローナは急に熱っぽくなった口調で、誇らしげに話したが、こんなことはアルタマキアにとっては、ただただ忌まわしいだけだった。イローナも、さすがにすぐにそんなことには気が付いたらしい。

「……ほほ、ハーマポスタールで動かしている者どもの営んでいる下賎な出し物に、あの大公殿下が引っかかったと言って来たのですよ。あの、真面目一方の大公殿下が! 自らお越しになったとか」

 大公殿下。

 アルタマキアはふと、違和感を感じてイローナの顔を見つめてしまった。

 自分のことは「アルタマキア様」と皇女に対する敬称をつけないで呼ぶ、この女が。カイエンのことは「大公殿下」と、なんだか熱っぽい声音で言ったからだ。

 アルタマキアの凝視に気が付いたのか、気が付かないのか。イローナは酒に酔ってでもいるように続けるのだ。

「あの方達の高貴なお姿を、おそば近くで見たなんて! まあ、あの方はなんて憎らしいんでしょう。上手く行っているのだわ、あちらでの工作は! あの方が本気になれば、当たり前ですけれど」 

 そう話すイローナの頬は、少女のような薔薇色に血が上り、声もまた少女のように恥じらうのだった。

 イローナは体も大柄で、その容貌も、アルタマキアや、その母のキルケのような、儚く美しい佳人、といった雰囲気ではない。だが、決して醜婦ではなく、きっかりとした目鼻立ちはきりりとしていて、まさに女丈夫、といった趣だ。男装が似合いそうな女である。

 そういう面では、イローナの容姿は夫に成り代わって権力を得ようという現在の役柄にはよく似合っていた。

 だからこそ。

 そうして、頰を染め、遠いハーマポスタールにいるという「あの方」という男の話をする様子は、まだ十五のアルタマキアをゾッとさせるような見世物だった。

「ああ。あの方がよもや我らに微笑んでくださるとは! あんなに素晴らしい方、麗しくも冷たい、凍れる雪の結晶スネーフリンガのような、あの方が!」








 九月の初め。 

 ハーマポスタールでは九月はまだ暑い季節だ。日は短くなり、朝晩は冷え込むこともあり、貴族たちの社交のシーズンも終わりに近づく季節ではあるが、まだ、日中は真夏のように暑い日も多い。

 それは「黎明新聞アウロラ」の記者のウゴが、とんでもない災難に襲われてからしばらくしてのことだった。

 あの事件の後、運河沿いに小屋をかけていた奇術団、「コンチャイテラ」は、一度は大公軍団の治安維持部隊の捜索を受けたが、興行を差し止められることもなく、一座は変わらず同じ場所で見世物を続けていた。

 その夜も、いつもと同じ時刻に、奇術団「コンチャイテラ」の夜の部の見世物が始まった。


 ハーマポスタールという街は、三百余年前にシイナドラドの皇子だった、ハウヤ帝国第一代皇帝サルヴァドールがラ・カイザ王国を滅ぼした時からある港町である。というよりも、サルヴァドールはラ・カイザ王国の王都をそのまま、自分の帝国の首都としたのだ。

 ラ・カイザ王国の頃から、このパナメリゴ大陸の西の端の港町は、変わらず海上交通の要所であり、また東側に広い肥沃な大地を擁し、栄えて来た。

 だが、港やそこから繋がる水運が整備されたのは、ずっと時代が下がってからのことだ。

 喫水の低いガレー船が主だった時代から、大きな帆を張った船の時代になってから、港には大きな桟橋が設けられた。そして、船の輸送力が増えるとともに、ハーマポスタール市内への物流の便宜を図るために造られたのが「運河」とそれに平行に走る、「曳舟道」である。

 だが、この運河は上流貴族たちの住むハーマポスタールの旧市街や、その高台にそびえる皇宮や大公宮の周りには存在しない。そこには、運河とは別に、もしもの場合に皇宮や大公宮を守るための「堀」が存在している。これは通常、物流に使われることはなかった。

 運河を引くには、大きく街並みを変える必要があったこともあるが、一番、大きな理由は商人たちのギルドが運河建設のために団結し、その建造費を捻出した、という歴史的な背景があったことによる。

 問屋や商人たちにとっては、自分たちの倉庫にものが届くまでの輸送費はいくらでも節約したいが、それから先、裕福な人々の手に商品が届くまでの経費は、いくらでも上乗せしたいものだったからだ。

 そういうわけで、ハーマポスタールの運河は港から下町を通り、商人たちの倉庫のあるあたりまでで止まっていた。

 川の岸辺もそうだが、運河のそばには曳舟道があるから、交通の便がいい。人々の往来も途切れないので、いつしかハーマポスタールでは、見世物小屋は川や、太い運河の周りに設けられるようになっていた。

 「コンチャイテラ」の小屋は最初はそういうハーマポスタールの運河の中でも、せせこましい曳舟道の向こうの空き地にあったのだが、客足が多くなるにつれて、場所を変えた。

 こういう見世物小屋には大抵、後ろ盾となる商人などがいるものだ。ハーマポスタール市民の噂では、人気を見たとある商人が破格の値で後見を買って出たということだった。

 だから、ウゴの事件があった頃、「コンチャイテラ」はハーマポスタールの商業地区のほぼ中程に位置を占めるまでになっていた。


 その夜、「コンチャイテラ」の夜の部には、とある裕福な皇宮の御用商人の名前で予約が入っていた。

 「コンチャイテラ」の小屋は、木造の、一部に大きな天幕を張ったもので、その広さはハーマポスタール市内の劇場などには遠く及ばない。

 だが、人気の上昇とともに、高く精緻に変わっていった梁で支えられた天井は、そのあたりの建物三階ぶんはゆうにあり、奥の舞台に向き合った客席も椅子の置かれた平土間だけではなく、やや上方に木の壁で不器用に区切られた「お大尽」向けの席も用意されるようになっていた。

 その「お大尽向け」の席が、この夜は昼間の興行の後に慌ただしく組み替えられ、板壁の周りに天鵞絨のカーテンが無理矢理に張り付けられた。そして、どこから運んできたのか、やや立派な布張りの椅子が入れられたのだ。

 そこへの出入りも、他の客席の前を通らずとも入れるよう、後ろの板壁の一部が切り取られて、簡単な扉が造られたというほどだった。

 だから。

 この夜、「コンチャイテラ」に偶然見物に来た市民たちは、自分たちの後ろのお大尽席の変わりように驚くこととなった。平土間に読売りの記者でも紛れていたら、「すわ、取材」となっただろうが、その頃にはもう「コンチャイテラ」は有名になり、記事にも上らなくなっていたし、実のところ、そんなことにはならないように密かな工作がなされていたのだ。

「あれぇ。見てみなよ、今夜はどっかのお大尽がご散財だぁ」

 席に着いた人々からは、そんな声も聞こえて来たが、まだ客席が明るいうちに、お大尽席がうまることはなかった。

 奇術団の興行だから、昼間でも薄暗く作っているが、夜はランプを加減してしまえば、舞台以外の客席は真っ暗にも出来るのである。

 だからだから。

 お客たちが、お大尽席にやって来たとんでもなく派手な一団の様子を見ることができたのは、座長の挨拶が終わり、舞台が明るく照らされた、その時になってからだった。

 その時。

 舞台では、最初の出し物である道化師の軽業が始まろうとしていたのだが、客席の人々は舞台よりもお大尽席の方に見とれてしまっていた。

「ああっ!」

 お客の大半は、お大尽席に座を占めた人々の派手な出で立ちに驚いた。

 自分たちも娯楽のために奇術団の小屋へ見物に来ているのではあったが、自分たちのことを棚に上げてしまえば、ハウヤ帝国は北の自治領スキュラの独立騒ぎで、サウリオアルマが出陣したばかりである。

 よき市民としての建前では、芝居見物だ、奇術見物だと、浮かれたことを堂々としていい時期ではなかった。

 それでも、元来陽気なハーマポスタール市民たちは、しっかりと個人個人の娯楽を楽しんでいたのではあったが。


 そんな風に、観客たちが「よき市民」という名の建前と、「それはそれでしょ、ねえ」という本音との間で心さ迷わせてしまうほとに、そのお大尽席の観客は本音の方だけでやって来たことが、一見しただけで見て取れたのだ。

 そこに座っていたのは、総勢十人ほどの男女だった。

 色とりどりの、派手な衣装に身を包んだ彼らだったが、全員が仮面をつけているのが、まず異様だった。

 中央に、真っ黒な髪を高々と結い上げ、金色の髪粉を散らした真紅のドレスの若い女が座っている。

 大きく開いた真っ白な胸元には、びっくりするような大きさの、見るものが見れば最上級のものと知れる、琅玕ろうかん翡翠の首飾り。顔には炎の女神であるジャメアの仮面。その下から覗くのは、これまた、真っ赤に毒々しく彩られた唇だけだ。この女が「奥様」とでもいった存在なのだろう。

 その女の腰を抱くようにしているのは、金色の獣の仮面の男。この派手な集団の中では、いっそ上品に見える緑の服をまとった大男だ。何か真ん中の女に話しかけているのが、口元の動きだけで見て取れた。これは「奥様」の隣にいるから「旦那様」とでもいった役割か。

 真紅の女を挟んで反対側には、一つ眼の悪鬼の仮面の、頭の先から指の先まで真っ黒な男。これは女に自堕落な仕草で寄りかかっている。では、この破廉恥な「奥様」には色男が二人ということなのだろう。

 一つ眼悪鬼の後ろには、狂った狂信者の灰色で歪んだ面をかぶった男が、酒瓶片手に控えている。

 一つ眼悪鬼の隣には、ひねこびた小悪魔の面をかぶった小男が、狼の仮面の大きな男の膝に載せられるようにして座り、大仰な身振りで何か喋り続けていた。恐らくはこの団体の幇間たいこもちなのだろう。

 金色の獣の仮面の男の隣には、この集団の中でも最も目立つ男。そいつは、葡萄酒色の派手な衣装に、見ている方が恥ずかしくなるような途轍もない美男子の仮面をかぶっている。男は、酒瓶から真っ赤なワインを、真ん中の女の手の中のグラスに注いでいた。

 その脇で、雷神の仮面をつけた銀色がかった青い衣装の男だけが、周りを警戒するようにねめ回していた。これは一行の警備係なのだろう。

 そして、真ん中の女の後ろには二人の大柄な女が、豊満な肢体を強調するような、これまた派手な緑と赤のドレスに身を包み、真ん中の女を守るように立ち、騒がしく話している。その仮面が、クソ真面目に整った勇ましい勇者と、泣き濡れたように歪んだ色っぽい女の顔なのが、いかにも馬鹿馬鹿しく見えた。

「なんだ? あいつら」

 観客の中でもまともな客は、呆れて目をそらしたくらい、このお大尽席の皆さんのいでたちは過激だった。

「見ちゃダメだ。まともじゃないよ。見たの見ないのって絡まれたら大変だよ」

 あまりの過激さに、一般市民の観客たちは、あっという間にお大尽席の皆を見なかったことにしたらしかった。


「バレてないか」

 そうして、善良な市民には、見ても見ないふりをされたのであったが、当のお大尽席の中では、周りからは想像できないような会話が交わされていた。

 真ん中の真紅のドレスの女が、正面の舞台の方へ顔を向けたまま気弱げに呟くと、隣の隣からワインの瓶を寄せて来た葡萄酒色の服の男が、低い声で答える。

「えー。バレたらバレただって言ったの、でん、じゃなかったあなたじゃないのぉ〜。もう、前から、赤鬼青鬼、それに小悪魔メフィストフェリコで変な噂は出来上がっちゃってるから、もう、自分は妹様の風除けでいいって言ったんじゃんー」

 そのとぼけた声は、一度聞いたものなら忘れない大公軍団の恐怖の伊達男のものだった。

 そして、今までにないほど、中に芯を詰めて高く結い上げた髪の重さに目を回しそうになっている、真紅のドレスの女は、この街の治安を預かるべき大公カイエンその人だ。

「ウゴの事件で奇術団の周囲を叩いてみたが、大した埃が出なかったからな。……馬 子昂シゴウたちとの関係も浮かんでは来なかった。だから、ほとぼりが冷めた頃を見計らって内偵に入ろうと言ったのはお前じゃないか」

 カイエンは、炎の女神ジャメアの仮面の向こうから睨んだが、イリヤは動じない。

「それはそうだけどぉ。……俺は女性隊員にちょっと助けてもらえばそれで良かったんですけどねー」

 イリヤはそこまで言うと、真っ赤なドレスのカイエンの胸元を意味ありげに凝視してきた。

「しかし、どうやって盛ったのか不思議ですよねぇ、その胸……」

 イリヤがそう言った途端に、カイエンの胸元を、真横に座った大男の緑の袖が伸びてイリヤの目線から隠した。

 今日のカイエンは生まれて初めて、こんな胸元の開いたドレスを着たのだ。その胸元は豊満と言うにはちょっと足りなかったが、必要十分にに盛り上がって見えたのだ。これは、今、カイエンの後ろに立っている、女中のルーサがそれ用の固いコルセットと、あれやこれやを駆使して作り上げた苦労作であった。

「……見るな」

「え〜。向こう側のヒトが、かなり近くまでしなだれかかって寄ってきて見てるけど、そっちには注意しないの?」

 カイエンの隣の金の獣の仮面の男は、もちろんヴァイロンだった。

 彼はイリヤの言葉を聞くと、直ちに、身長に比例した長い腕をカイエンの後ろから伸ばすと、カイエンを挟んで向こう側の、一つ眼の悪鬼……それはいつも通りの黒衣のエルネストだったが、を侍従のヘルマン、狂信者の仮面の男の方へ乱暴に押し返した。  

「まー、確かに、その魔女スネーフリンガってのが、いなくなった元、ナントカ侯爵夫人かどうか、ってのは、元侯爵夫人の顔を知ってる人に来てもらわないとわかんないんですけど……。カマラを連れて来て、帰ってから似顔を描かせればそれも必要ないでしょ?」

 治安維持部隊の秘密兵器である、“メモリア”カマラを使えば、確かに、カマラは記憶したものを後から克明に描けるのだから、それを見て判断することも出来るのだ。

 だが、カイエンは否定した。

「いや、そうでもない。ウゴの話では、スネーフリンガは真っ白な髪で、緑の目だったって言うじゃないか。だが……ニエベスは茶色っぽい色の髪だったし、目も緑がかってはいたが、褐色だったはずなんだよ。髪はかつらかもしれんが、目の方はなあ」

「それでも、いなくなった元侯爵夫人との共通点が気になるって言ったのは……あなたでしたっけね」

 イリヤもカイエンも、舞台の方を注目しながら、適当に自堕落な仕草で演技しながら話している。それはイリヤはともかく、カイエンにはなかなかに大変なことだった。

「そうだよ。赤ん坊のアルットゥの年格好もあっているし、女は化粧で化けるからな。本物をそばから見たことがある人間が確かめたほうがいいじゃないか」

 カイエンは言いながら、これまた黒い軸に真っ赤な鳥の羽の、派手な扇を取り出し、会場の熱気を扇ぎながらヴァイロンの膝の上へ寄りかかった。イリヤはヴァイロンの向こうだから、そのほうがよく聞こえるのだ。

「……確かにね。今日は化粧の上に仮面、それに胸まで盛っているから、これがまさか……だとは、気が付かれそうもないですもんね」

 イリヤはもう、ここまでやって来てしまっていることもあり、諦めたようにワインの瓶を傾けると、なんと、ラッパ呑みに呑み始める。その様子を見て、雷神の仮面をつけたシーヴが新しいワインのコルクを、手際よく何本も抜く。お大尽様の、豪勢な遊び方を演出するつもりなのだろう。

「カマラは顔が割れている可能性があるから、この頃は護衛を付けていると言ってたではないか」

 ここで、カイエンの隣のヴァイロンが口を挟んで来た。このお大尽団体の中心人物らしい赤いドレスの女ばかりが目立つのを避けようと考えたのだろう。

 当初は、今は後ろに立っている、体型の素晴らしい、女中頭のルーサと治安維持部隊のトリニの二人を中心に据え、カイエンはお付きの女風に作ろうとも考えたのだが、そうすると足の悪いカイエンを立たせておくことになるため、この案は却下されたのだ。

「へえへえ。あれでも秘密兵器ですからね。攫われたり、殺されたりしたら痛手ですからね。確かに」

 そこまで聞いて、カイエンは舞台の方へ集中することにした。

「……なあ、なんで私はガラ君の膝の上なんだい? 子供扱いか。信じられんな」

 エルネストの座っている側から、教授の元気のない声が聞こえてくる。

「顔が見えなければ、あんたの体の大きさなら、小男の幇間たいこもちがぴったりだ。面白おかしく、真ん中の奥様に説明しているように演技してくれ」

 ガラが小声で言うと、教授は嫌そうながらも自分の役割を思い出したらしい。     

「ええ〜奥様。今の出し物は道化師の軽業でしたね。まあ、こう言う場所ではああいう穏当な出し物から始まるのが普通でございますですよ。本当に面白い出しものは……」

 せいぜい、小男の幇間たいこもちらしく話し始めた教授だったが、その言葉は彼とカイエンの間に挟まった男によって邪魔された。

「おい」

 その時、カイエンの隣で、一つ眼怪人のエルネストが注意を促すように彼女の腕をつついてきた。

「なんだ?」

 見れば、舞台の上では道化師や軽業師の出し物が終わり、代わりに一人の真っ黒な男が登場したところだった。その男は顔だけは外に出していたが、そのほかの体の部分は長いマントの下に隠していた。

「え? あれは南方大陸人か?」

 カイエンが、思わずそう言ったのも無理はなかった。

 その男の顔の皮膚には、真っ黒に見えるほどに、多様多彩な文様が彫り込まれていたからだ。そのために、男は顎から脳天まで、注意して見なければ、真っ黒に見えた。

「さあさあ! 次の出し物は、“刺青の男オンブレ・イルストラシォン”だよ!」

 司会の馬鹿みたいに縦に長い帽子をかぶった男が、高々と手を振り上げた。ハリのある声が小屋中を揺らすようだ。

「こいつはただの刺青男じゃないよ! 刺青が体なのか? いやさ、体が刺青なのか!? さあ、お立ち会いだ!」

 そして。

 刺青男はマントを舞台の床に落とした。


 一瞬、小屋の中は静寂に包まれ。


 そして、次の瞬間、観衆はどよめいた。

 ああ、そこに彼らが見たものは。


 それは、一人の男の体を使って描かれた、「世界図」いや、「天空図」とでも言ったものだった!

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