サウルの心臓

 長いこと会うこともなかった

 あなたのいない世界で

 わたしはもう昔を振り返ることはない

 あの時、あなたに出会ったということの

 刻み付けられた記憶から

 もう逃れて逃げることはない

 わたしはここにいて

 あなたが去った後も、この世界で待っている

 もう一度、あなたに出会える日まで

 あなたの葬送の涙に濡れながら

 それでもあなたが失われたことを信じないまま

 わたしだけがまだ生きている


 あなたがわたしのことを覚えてくれていたのかと

 そのことだけが気になっている


 たぶん

 わたしは年老いて石になるまでを生きる

 生きた石が血潮を流し

 河を下り、海へ流れる日になって

 その時やっと手が届く

 だから

 だから

 もう、あなたを忘れることのないわたし

 それでも

 石になってもただ一つ

 たった一つの気がかりがある

 あなたがあなたの死の床で

 わたしのことを覚えてくれていたのかと

 そのことだけが気になっている




     アル・アアシャー 「春と修羅」より「君去りてたった一つのあの石が流す血潮に還る日を待つ」


 






 大議会の開催された、二日後。

 六月も半ばに差し掛かったその日は、死せる第十八代皇帝サウルの葬儀と、埋葬の日であった。

 帝都ハーマポスタールは皇帝サウルの喪の色に沈んでいた。商店はみな店を開くことなく、街中を歩く人影さえも少なかった。人々は家族や親類とともに静かな祈りの中に身を置き、皇帝サウルの政策を熱烈に支持して来た市民たちは皇宮のある丘の下、皇宮へと続く石畳の上へ額ずいたり、市内の広場の大理石の噴水の周りに集まったりしていた。

 皇帝一家の守護神である海神オセアニアと、アストロナータ神の神殿の前にも、人々は集まっていた。

 皇帝サウルの遺骸は防腐処理がなされた後、この一ヶ月、皇宮の地下にある歴代の皇帝と皇后、それに皇族の眠る地下墓地に隣接した「葬祭殿」に安置されている。

 今日はその葬祭殿で葬儀と、それに埋葬の儀式が行われることになっていた。

 だから、昼前の「その時刻」になると、皇宮地下の葬祭殿には、皇帝の一家、皇后のアイーシャは寝たきりだったので、それは妾妃と皇子皇女達だったが……や大公カイエン夫婦、皇帝の妹である、クリストラ公爵夫人ミルドラとヘクトルの夫婦を始めとする、子爵以上の上位貴族夫妻が一堂に会していた。

 葬祭殿は地下にあるとは思えないほどに広い。

 あの、シイナドラドの百代を超える皇王たちと星教皇の眠る地下神殿を知っている、カイエンとエルネスト以外の人々には、そこもまた「偉大なるハウヤ帝国」を意識させるものだったことは間違いない。

 歴代の皇帝達の葬儀と同じく、サウルの葬儀も二人の大神官の元に行われることになる。

 それはもちろん、この海の街ハーマポスタールの氏神である海神オセアニアと、第一第皇帝サルヴァドールの故郷、シイナドラドゆかりのアストロナータ神の神殿の大神官達である。


 サウルの棺の左右には、摂政皇太女のオドザヤ第一皇女、そして即位後のオドザヤの推定相続人であるフロレンティーノ皇子を抱いた第三妾妃のマグダレーナが並んでいる。

 オドザヤの次は第三皇女のアルタマキア。第二皇女のカリスマはネファール王国の王太女となり、ネファールにいるためにここには列席していない。

 マグダレーナの次には、皇女しか上げられなかった第一妾妃のラーラと、第二妾妃のキルケが並んでいる。

 ハーマポスタール大公カイエンは、彼女達の居並ぶサウルの棺の足元の方に、夫のエルネストとともに立っていた。公式にはカイエンはサウルの末妹の元皇女であり、その上に大公として立ったために、ハウヤ帝国の臣下の中では第一位に位置するのだ。

 大公宮で預かっている皇女のリリは、杖をついているカイエンが抱いているわけにはいかなかったので、叔母であるクリストラ公爵夫人のミルドラが抱いていた。

 その、カイエンの隣に立っている、クリストラ公爵夫妻までが、今日葬られる死者であるサウルの家族だった。

 それ以下の、フランコ公爵夫妻と、バンデラス公爵はその祖先はハウヤ帝国の皇子であるとはいえ、もう、死せる皇帝サウルの近しい家族や親類ではなかったから、彼らは祭壇の下に居並んでいる。同じように宰相のサヴォナローラと元帥大将軍のエミリオ・ザラも祭壇の下に並んでいた。この二人は子爵以上の貴族ではないが、帝国の重鎮としてそこに並ぶことを許されたのである。

 同じように、ハウヤ帝国帝国軍の将軍たちもまた、貴族たちとは違う側にまとまって並んでいた。これも爵位のあるものは少ないが、帝国の守護神としてそこにいるのである。

「あれぇ。バンデラス公爵は一人で立ってるのかよ」

 カイエンの隣で、顔だけは神妙に整えていながら遠慮のない物言いで呟いたのは、彼女の忌々しいことこの上ない「夫」である、エルネストだ。

「それは、一昨日、聞いただろう」

 カイエンはちょっとイラついた声を出してしまった。もっとも、ごくごく小さな声だったから、エルネストの向こうに並んだヘクトルとミルドラのクリストラ公爵夫妻には聞こえなかっただろう。

 カイエンはこの日も、左手に銀の彫刻された持ち手に黒檀の杖をついていた。もっとも服の方は、サウルの死の後の一ヶ月の間に新しく誂えた、襟や袖口の精緻な刺繍までもが真っ黒な立て襟の大公の格式に則った喪服に身を包んでいる。

 カイエン以外の貴婦人たちは黒くて重々しい、裾を引く長いドレスを身につけ、小さな黒い帽子に黒いベールで顔を隠しているが、彼女だけは大公軍団の制服を思わせる固い服装だ。ベールもつけていない。喪服の裾は膝と足首の間、足首にやや近い長さで、そこからは真っ黒な編み上げの長靴が見えた。それは、居並ぶクリストラ公爵やバンデラス公爵の装いに近しいものだった。

「妾は多々いて、子供もいるけど、正妻はいないってやつだろ? 嘘くせえな。ま、公式には連れてこれないような出自の女が正妻なんだろうよ」

 毒舌全開で言うエルネストはシイナドラドから持って来た、シイナドラド風の糊の効いた厚地の絹の直線的な意匠の喪服姿だ。頭に丸みのある箱型の帽子を被っているのが、居並ぶハウヤ帝国貴族達とは違っていて目立っている。

「……そうかもな」

 カイエンは一応は返事をしてやったが、その頭の中では、一昨日、大議会が終わった後にバンデラス公爵に呼び止められてからの会話が反芻されていた。まだ、海神オセアニアとアストロナータ神殿の大神官は入って来ていない。しばらくはぼうっとしていても問題はなさそうだった。





 一昨日。

 大議会がお開きになった後、カイエンとエルネストは、バンデラス公爵に呼び止められた。

「少々、お時間をいただけますかな? 大公殿下」

 それへ、カイエンは、

「何でしょうか」

 と、鷹揚な態度で応じたのだった。

 そこで、バンデラス公爵が聞いて来たのは、どうして立太子されたオドザヤではなく、カイエンがシイナドラド皇子であるエルネストの相手に選ばれたのか、という話だった。

「……オドザヤ摂政皇太女殿下がお相手では、よく似たお顔立ちのご夫婦が出来上がらない。今度のことはそれゆえでありましょう?」

 カイエンとエルネストの顔を交互に見ながら、バンデラス公爵はもう自分の中では確定した事実として、そのことをただして来たのだ。彼は用心深く黙ったままのカイエンとエルネストを、鋼鉄色の目でじろじろと、不躾なほど強い視線で突き刺した。

「驚かせてしまいましたかな? これくらいのことで驚かれるお二方ではないと思いますが。……午前中にわざわざ私にあのようなご挨拶をくださったお二人ですからね」

 ここまで言われても、カイエンは沈黙を貫いた。隣で、エルネストの体がちょっと身動ぐのを感じたが、彼女はそれを無視した。バンデラス公爵は、カイエンが何も答える気が無いのを見ても困った様子はない。

「シイナドラドから皇女の御輿入れが最後にございましたのは、サウル皇帝陛下の父君、レンアドロ皇帝の時にファナ皇后が嫁いでいらしたのが最後ですね。私は直接、御目通りしたことはないが、二十年前に見た海神宮の回廊には、レアンドロ皇帝ご夫妻の肖像画もありました。大公殿下ご夫妻ほどではございませんでしたが、同じ系統の御顔立ちで、十代の子供心にも不思議に思いましたものです」

「そうですか」 

 カイエンはそれは認めても問題ないことだったので、静かにそれは認めた。エルネストはカイエンの父であるアルウィンの従兄弟にあたるのだ。だから、レアンドロとファナよりも似ていてもおかしくはない。

「そして、公爵の継承のために伺候し、御目にかかったサウル皇帝陛下、それに弟君のアルウィン大公殿下、それにクリストラ公爵夫人ミルドラ様の御三人のご兄弟のお顔。……これは殿下方に申し上げるまでもございますまい」

 そこまで言うと、バンデラス公爵はカイエンの顔の方だけを、じいっと見つめて来た。

「二十年ほど前に一回お会いしたきりですので、確たる記憶ではないかもしれませんが、その中では大公殿下、あなた様のお顔はアルウィン大公によく似ておられるようだ。まあ、これは実は親子でいらっしゃるそうですから当然ですな」

 ここまで聞いて、カイエンは一応、聞いておくことにした。二十年前といえば、カイエンが生まれ、アルウィンがアイーシャと別れ、桔梗館に怪しい人材を集め始めていた頃だ。まさか、このバンデラス公爵までが……と思ったのである。

「前の大公と、何か繋がりがおありですか?」

 カイエンは用心深く、バンデラス公爵の表情に注視した。だが、バンデラス公爵は一瞬の逡巡さえなく、答えていた。

「いいえ。サウル皇帝陛下はあの頃、皇后様とご成婚なさってすぐの頃でした。あの時は晩餐を共にしていただき、お話しする時間がございましたが、前の大公殿下はそのお席にはいらっしゃいませんでした。あとで聞きましたが、サウル皇帝陛下とアルウィン大公は不仲であられたそうですな。私はハーマポスタールには長くおらず、すぐに領地へ戻りましたから、あの方とはまったくお話ししたことはございません」

 本当かな。

 カイエンはそう思ったが、この味方か敵かわからない南方の覇者にこれ以上食い下がっても無駄なことはわかっていた。

「ああ。話がそれてしまったようですね。私がお聞きしたかったのは、サウル皇帝陛下のお決めになったことについてです。ハウヤ帝国の皇女でありながら、シイナドラド所縁のお姿をお持ちでないオドザヤ摂政皇太女殿下に、エルネスト皇子殿下を娶せることもなく、次代の皇帝位をお譲りになったことをいささか奇妙に思いましたからです。聞けば、フロレンティーノ皇子もまた、お母上のベアトリア王女マグダレーナ様に似ておられ、サウル皇帝陛下には似ておられないそうですな。そして、皇帝陛下のお子の中でただ一人、陛下に似たお姿で生まれて来られたというリリエンスール皇女は、ご誕生とほぼ同時に大公殿下が引き取られて育てておられる」

「よく、ご存知ですね。昨日今日、二十年振りにこのハーマポスタールに来られた方とは思えない情報量だ」

 カイエンがやや嫌味っぽくそう言ったが、バンデラス公爵は涼しい顔だった。

「私がこの帝都へなかなか来られない代わりに、ここには確実な耳と目を置いておるだけです。……ここから先は、私の想像です。ですが、先ほどの大議会でのやり取りから、私はこれこそサウル皇帝陛下の『確たるご遺志』と確信しております」


「……サウル陛下の『確たるご遺志』?」

 カイエンはだんだん、バンデラス公爵の言いたいことが見えて来た。

「ええ。そうです。先ほど、皇帝陛下の『星と太陽の指輪』を、オドザヤ摂政皇太女殿下と大公殿下が受け継がれたとお聞きし、私は納得できたのです。サウル皇帝陛下は、このハウヤ帝国を、新しい時代の皇帝を戴く国とするお覚悟をなさったのだと。しかし、ご自分まで十八代の皇帝陛下に共通する『シイナドラド所縁の歴史』を完全に捨て去ることもまた、恐れておられたのだと」

 それは、まさにカイエンとオドザヤが、サウルから託された未来の姿そのものだった。カイエンはサウルが彼女宛の遺言状でこの南方の覇者を恐れていた理由が、今、はっきりとわかった気がしていた。

(我が帝国の中にも、私にもアルウィンにもその意志を左右できなかった存在がいる。その名は、ナポレオン・バンデラス公爵。ハウヤ帝国の南方を支配する男の名だ。……あいつは見にくる。オドザヤとお前と、そしてそれに対峙する勢力の者共の顔を見物しに来るはずだ。あいつはこのハーマポスタールや、他の土地など欲しいとは思っていまい。おそらくはな。あいつに関しては、私は何もお前たちに伝えることが出来ない。それは、あいつとはほとんど会ったこともなく、あいつの求める物もわからなかったからだ。あいつは、ハウヤ帝国皇帝の私には手を出さなかった。だが、これからは、わからない……)

 サウルは、一度しか会っていないこのナポレオン・バンデラスという男のことを、かなり正確に理解していたのだ。そして、それはバンデラス公爵の側も同じだったらしい。 

 ここまで聞いて、初めてエルネストが口を開いた。今まではカイエンに合わせていたのだろう。

「へぇ。じゃあ、最初に言ってた『先ほどは仲の良いご夫婦を見事に演じておられたが、私には何だか不自然に思われまして』とかいうのは、話をこっちに振るための方便だったってわけだな」

 大議会での、おっとりした皇子様っぷりを完全に捨て去ったエルネストは、斜め横に座っているバンデラス公爵の方へ長い足を突き出すようにして足を組んだ。本性を見せた方が話が早いと言うのだろう。

「確かに、俺たちは政略結婚した。あんたが知ってるかどうかわからんが、結婚前に色々あってな。だから『仲のいいご夫婦』を演じているのも本当だよ。でも、そんなんで揺さぶられてボロを出すほど単純でもない。……こんなことだって出来るんだぜ」

 言うなり。

 エルネストは黒い猛獣のように素早く、カイエンの腰を自分の方へ引き寄せると、彼女の顎に手をかけた。

 だが、カイエンの方も、もう用意ができていた。エルネストが口を挟んで来て喋り始めた内容から、嫌な予感がしていたのだ。

「この阿呆めが! 場所柄をわきまえろクズ!」

 その瞬間に、カイエンは左手の掌で、近付いてくるエルネストの唇を、顔面ごと阻止し、右の拳を遠慮なく横っ面にお見舞いしていた。

 貴婦人みたいな平手などでは生ぬるい。そもそもカイエンはエルネストと二人きりになったと同時に、臨戦態勢に入っていたのだ。

「少しは懲りたのかと思っていたが、人間、根っこの腐ったのはすぐには治らないと言うことだな!」

 カイエンは昼にクリストラ公爵の控え屋敷で、しおらしい態度でエルネストが話していたことを反芻しながら、忌々しい気持ちを抑えられなかった。ありがとうなんて、言うのではなかった、と心の底から思わずにはいられない。

 だが、そんなカイエンも、エルネストには彼なりの考えがあって、バンデラス公爵の眼前でこのような行為を仕掛けて来たことは理解していた。その上で、真正面から受けて立ったのだ。

 バンデラス公爵はしばらくの間、その厳しい珈琲色の顔にわずかな困惑の色を浮かべて沈黙していた。それはそうだろう。それは、仮にも大公とその夫の異国の皇子が、公爵の眼前で披露するような場面では、絶対に、なかった。

「くっ。く……くく……ふ、ふ……ふふ」

 バンデラス公爵の格好の良い髭に囲まれた、薄い唇が歪み、最初に出て来たのは、奇妙な息遣いのような乾いた音だった。だがそれはあっという間に哄笑に変わって行った。

「……あはッ、あははは……ふは、あははははは」

 それまで、厳しく硬い顔つきであっただけに、その笑い声はこれを仕掛けたエルネストをも、やや呆然とさせるような効果を持っていた。

「これは可笑しい。は、ははは。大公殿下には一昨年、フィエロアルマの将軍が男妾として下げ渡されたとか、それ以降、大公宮の後宮には奇妙な男どもが蒐集されているとか聞いておりましたが、政略結婚のお相手にも容赦なさらぬのですな」

「……引っ叩かれるとは思ってたけど、拳で来るとは思ってなかったな。練習でもしてたのか? 脇が締まってていい一撃だったぜ。……だが、明後日は皇帝の葬式だろ。手加減しろよ」

 エルネストは殴られた左側の頰を抑えて、大げさに痛がっている。

「帰ったら、せいぜい冷やしておくのだな。もっとも、葬儀で外国人のお前の顔など注意して見るものもあるまい。……ひどいものをお見せ致しました。申し訳ありません」

 それでも、カイエンはバンデラス公爵に一応は、謝った。まあ、エルネストの策とも言えない策で、バンデラスはずっと崩すことのなかったよそよそしい表情を脱ぎ去ったのだ。その点では謝るくらいのことはどうといったものではない。

「くくく。……こちらこそ、こんなに豪放でしたたかなご夫婦とは存ぜず、余計な口をきいてしまったようです。申し訳ございません」

 バンデラス公爵の答えも、なかなかに強かなもので、カイエンはその頃にはもう気持ちを取り直していた。

「先ほどのお話。皇帝陛下のご遺志については、肯定しておきましょう。さすがはモンテネグロ以南を制覇なさっている方だ。あのモリーナ侯爵たちとは、ものの見方からして違っておられるようだ」

 カイエンはそう言うと、そそくさと杖を左手に掴み上げ、立ち上がりにかかった。これ以上、ここで話すことはないと思ったのだ。だが、エルネストがそれを押しとどめた。

「ちょっと待てよ。せっかくだから、もうちょっとこの公爵さんのことを聞いていこうぜ。……なあ、バンデラスさん。あんたの方はどうなんだい? 奥さんとはうまくいってるのかな。あんたの奥さんならきっと南方貴族出身の情熱的な美人だろう。なあ、今回は連れて来ているのかい」

 エルネストの聞いたことは、どうでもいいようなことだったが、女であるカイエンには聞きづらい種類の質問だった。それだけに、そんなことをわざわざ聞いたエルネストの真意を測りかねて、カイエンは浮かしかけた腰を下ろした。

 エルネストの図々しい質問に、バンデラス公爵は一瞬だけ戸惑った。明らかに、この質問は彼にとって意外なものだったのだ。

「妻ですか」 

 バンデラス公爵は、先ほどの哄笑とは違う種類の、やや皮肉な笑みを浮かべた。

「私には正妻はおりません。……まあ、この歳ですから妾の類はおりますし、それに子も幾人か出来ましたが、嫡子も未だ決めておりません」

 カイエンもエルネストも、バンデラス公爵がここまではっきりと言いにくいことまで答えるとは思わなかったので、ちょっとびっくりした。

 子はいるのに、嫡子を決めていない。それは、齢三十八と聞く年齢からすると、あまり例を見ないことだった。

「……そうですか」

 カイエンは曖昧にうなずくしかなかった。

 だが、バンデラス公爵の方は、この問答をしているうちに、何か思い出したことがあったらしい。

 後になって思えば、話を切り上げて立ち去ろうとしたカイエンを、エルネストが引き止めたのは怪我の功名とでも言うべきものだった。

「そうそう、これもお聞きしておきたかったのでした」

 バンデラス公爵は今、それを思い出したような体で聞いて来たが、その内容は驚きべきものだった。

「大公殿下には、ラ・パルマ号という帆船をご存知ですかな? 一昨年、このハーマポスタールを出航した船だそうですが」

 カイエンは驚いた。だが、それをすぐに顔に出さないくらいには彼女も「大公殿下」が板について来ていた。

 もちろん、彼女はその名前を知っていた。

 一昨年。あの春の嵐の騒動の最後に、五年前に死んだふりをして消えた後、各地で暗躍していたアルウィンが、「これで今度こそハウヤ帝国からはおさらばする」と演じるために乗り込んだはずの船の名だ。

 当時はまだ「盾」の頭としてアルウィンの手下にあったイリヤを使い、自分も死を偽ったグスマンの遺書にあった船の名でもある。カイエンは確信していたが、執事のアキノはあの時、出航するラ・パルマ号へ赴き、アルウィンに会ったはずである。

「遠く南方のネグリア大陸南端を越え、可能ならば西側の未知の海へ乗り出そう、という冒険船団の中の一隻であったと聞いていますが」

 カイエンが淀みなくそう答えると、隣でエルネストが込み上げて来た笑いを抑えるような咳払いをした。

 彼も、アルウィンが佯死を遂げて去った五年の後に、新天地へ旅立つなどと言い繕って乗り込んだ船であるということは聞かされていたのだろう。

「一昨年でしたか。サウル皇帝陛下は、この船団の経費を負担する代わりに、西の大海を超えて未知の陸地、その他を発見した場合にはその所有権をハウヤ帝国に帰す、という秘密の盟約を結んでいたはずです」

 バンデラス公爵は説明する。これも、カイエンはもう知っていたので、これにははっきりとうなずいた。

「そう、聞いています」

 彼女がそう言うと、バンデラス公爵は眉間に皺を寄せて、しばし黙ってしまった。言いにくいことなのか、それとも、話しづらいことなのか。それにしてはこの話題を振って来たのは彼の方なのである。

「……その船ですが、私がこのハーマポスタールへ上ってくる少し前に、突然、我がモンテネグロの港に姿を現したのです」

「えっ?」

 カイエンはバンデラス公爵の話す内容の中にある違和感に、思わず声を上げていた。

「一昨年、ハーマポスタールを出航したこの船ですが、確かに西の陸地伝いに南下し、モンテネグロではありませんが、同じ年のうちに我が領地の西側の港を経由し、ラ・ウニオン海に入ることなく、ネグリア大陸の西側を伝ってなおも南下していったはずなのです。そこまでは港の記録にも残っております」

「はあ」

「ですが、その同じ船が今年の春、モンテネグロの沖合に姿を現しました。ネグリア大陸の南端で東に行ったとすれば螺旋帝国への航路に乗ったはずです。西に向かったとすれば、その先は未知の海原。ですから、私どもはラ・パルマ号と船団は西へ向かい、そして西の大海で遭難したかして、旗艦のラ・パルマ号のみが戻って来たのだと思いました」

 カイエンは、聞いているうちに嫌な汗が出てくるのを感じていた。アルウィンはおそらくネグリア大陸に入る以前に船を降り、ハーマポスタールから逃亡したグスマンの率いる、桔梗星団と合流したのだろう。

 だが、その後に船団は遭難したらしいのだ。これは偶然だろうか。

「……ラ・パルマ号は、曳航もされないのに、モンテネグロの港湾に入って来ました。ですが、船の上には人影もなく、艀が降ろされる様子もないまま、港をまっすぐに陸へと進んでくるので、危険と判断し、こちらから艀を出して中に乗り込んだのです」

 カイエンには、もう嫌な予感しかしなかった。

「そこは……そこには、奇妙な情景がありました。安全が確認されてから、私も自ら乗り込んだのですが、船の中には一人の船員の姿もなく、ただ、夥しい血の跡だけが残っていたのです」

「あっ」

 夥しい血の跡。

 その言葉からカイエンが連想したのは、つい先だって見た、「青い天空の塔」修道院での虐殺事件の現場だった。

 カイエンの様子を見ながらも、バンデラス公爵は話を続ける。彼は「青い天空の塔」修道院での事件を知っているのだろうか。

「船上で争いごとがあり、船員は殺されるか、生きていても全員が船を降ろされたのでしょう。それにしてもわざわざ死骸を片付けたことは奇妙です。そして、無人の船が、どこからかは存じませんがモンテネグロの港までたどり着いたことも異常なことです」

「……わかります」

 カイエンだけでなく、隣のエルネストもなにやらどす黒い渦に飲まれるような心地がして、多くを語ることは出来そうになかった。

「乗組員は消えていましたが、航海日誌は残されていました」

 カイエンはちょっと驚いた。船団を襲い、乗組員をすべて降ろした奴ら……恐らくは凶暴な海賊の類だろうが、が航海日誌には手をつけなかった。つまりは航海日誌には自分たちとの争いの記述はまだなかったと言うことなのだろう。だが、航海日誌があったとなれば、襲撃と遭難の直前までの航海の様子はわかるに違いない。

「ラ・パルマ号の船団は、ネグリア大陸に差し掛かる前に、幾人かの乗組員を下船させています。これは乗組員というよりも、客人のような者だったようです。そして、ネグリア大陸の南端まで到達し、そこで補給した上、西側の大海へ繰り出すことを決定したようです。そのために、いい風の吹く季節を待ち、出航したと書いてありました」

「では、船団は東の航路へは行かず、未知の西側へ向かったのですね」

 カイエンが確認すると、バンデラス公爵は静かにうなずいた。

「はい。大陸沿いに進んで来られたそれまでとは違い、補給もままならぬ西の大海への航海です。いくつかの小さな島々の場所は海図にありますので、まずはそれを伝うようにして進んで行ったようです。……そして、いくつ目かの名もない島を通過した後に事件が起こった」

「そこからは記録がないというわけですね」

 カイエンは聞くと、バンデラス公爵は暗い顔つきで、カイエンとエルネストの顔を見た。 

「それなのですが、この航海日誌が残されていたということが引っかかるのです。……日誌は後から書き足せますからね。ですから、私はここへくる前に、ネグリア大陸の西側の港へ確認の船を出して来ました」 

 カイエンはバンデラス公爵の周到さに息を飲んだ。

「では、まさか……」

「はい。いずれ報告が来るでしょうが、嫌な事件です。ラ・パルマ号と船団の経費はサウル皇帝陛下がお許しになり、国庫から負担しているのですから、それが一隻残らす遭難したとあれば、新皇帝陛下にご報告せねばなりません」

 カイエンはこの話を、公式な報告の前に、この帝都ハーマポスタールの大公である自分にして来たバンデラス公爵の意図をすべて推し量ることは出来なかった。だが、バンデラス公爵がこの事件をハウヤ帝国への脅威ではないかと思っていることは理解できた。

「わかりました。話してくださってありがとうございます。追って、確認の船からの報告がありましたら、お知らせくださいますね?」

 カイエンが聞くと、バンデラス公爵は重々しくうなずいた。

 もしかしたら、彼がカイエンとエルネストを呼び止めて言いたかったことの、一番大切なことはこのことだったのかもしれなかった。そう言う意味で、エルネストは偶然ながらもいい仕事をしたのかもしれない。 


「新時代か……。さても血なまぐさい時代を呼び込んでしまったものよな」

 馬車止まりへ向かって歩いていく、カイエンとエルネストの後ろ姿を見送って、ナポレオン・バンデラスは、誰にともないままに言葉を唇にのせた。

 その時、カイエンとエルネストが歩いて行った馬車止まりの方から、彼の従者のやって来るのが見えた。

 それへ手を上げて合図して、たった一人、議事堂の回廊に残されたバンデラス公爵の口から、短い言葉が紡がれて、そして六月の夕のやや冷たくなった風の中に紛れて消えていく。

「……サウル様。あなたの末期の心臓の音が聞こえるようです。次代を託さねばならない、未だ若い娘たちが放り込まれるであろう、残酷な未来を知りながら、もうすぐ止まるであろう心臓の音に怯える男の、心臓の音が……」

 だが、その言葉を聞いた者は一人もいなかった。






 海神オセアニアの大神官と、アストロナータ神殿の大神官が葬祭殿に入場すると、そこに集まった人々は居住まいを正した。

 今日ここでの葬儀と埋葬が済めば、皇帝サウルの名前は、「ハウヤ帝国第十八代皇帝サウル・プレニルニオ・マグニフィコ・デ・ハウヤテラ」として死者の名簿に連ねられ、即日、オドザヤの即位が宣言されるはずであった。

 外では六月の強い日差しが降り注ぐ日に、皇宮の地下深くで、一つの時代が終わろうとしていた。

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